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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
東雲基
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東雲基

もう十三話目ですね……ひじきたんです。

亡霊(ポルターガイスト)×少年少女、お楽しみください!

亡霊×少年少女 第十三話『東雲基』


神様、どこにいるんですか。

わたしは神様のいない子でした。でも……

あなたに出会えて、わたしはとても幸せでした。わたしはようやく、幸せになれたんです。

できるならもう一度……たった一度でいい、会いたい。神様に会えなくても、わたしは満たされる。

月夜にわたしは夜空を見る。だから、ねぇ、あなたも同じときを見て。

わたしたちは、そうして会うんだ。


二〇〇九年六月二十六日、神奈川県横浜市保土ヶ谷区。矢倉邸。

「坊ちゃん……時雨(しう)様が……!」

自室で宿題を片付けていたところに、割烹着姿のばあやが来た。ばあやの慌てように、ただ事ではないと思った矢倉四季は、いつものように化粧や着替えをすることを忘れて飛び出した。

母のいる離れに飛び込むと、その一室で母が頭を抱えて暴れていた。灰色に退色した長い髪を振り乱し、錯乱している。

「はじめ……基……!!!」

「母さん、わかりますか!?僕です……四季です!!」

「し……き……?」

息子の名を呼ぶ。涙を浮かべた黒い瞳で、四季の姿を捉える。

「!母さ」

「っしらないっ……わたくしは……しらない!!!」

目を逸らし、再び頭を抱えて畳に転がる母を見て、四季はあぁやっぱり、と思った。母には息子がいるという感覚以前に、「矢倉四季」という存在そのものを知らないのだ。以前、それとなく尋ねたことがあった。

『一月って、誰か生まれなかった?』

母の答えは純粋に『しらない』。少しだけ期待していた。ばあやから、《四季》という名は母がつけてくれたと訊いていたから。もしかしたら、自分は愛情を持って、祝福されて生まれてきたんだと……そう思いたかったから。

でも無駄だった。きっと、母は死んでも四季のことを知らないままなのだろう。

自分の部屋に戻り、押し入れから布団を出して寝転がった。そのまま意識を失い、気づいたときには……

見知らぬ路地で、倒れていた。

「なんだ……?なにがあったのだ?」

なにもわからない。時間が夜だということと、屋外だということだけはわかった。どこかの、住宅街だろう。周囲を見渡し、人がいるかどうか探った。すると、路地の奥で男が倒れていた。

「おい、大丈夫か!?」

助け起こそうとして、気づいた。男は誰かに胸を斬られ、失血死していた。誰がこんなことを……。

ぬるり、と手が滑った。カシャン、となにかが落ちる音。四季の霊障武具《朧》だった。《朧》は青い刀身を血で濡らしている。霊障武具基盤は通常、使用者の霊子以外には反応しない構造になっている。いったい誰がどうやって、《朧》を起動させたのだろうか。

いや……《朧》は確かに、『使用者』の霊子で起動していた。四季の、霊子で。

「……僕が……?」

自分がやったのか、この惨状は。信じられなかった。だって、四季は確かに家で寝ていたはずだ。

だが、だったらなんで今、ここにいる?なんで、《朧》を手に殺された男のそばにいる?なんでこんなに、血にまみれた姿でいるのだろう。

「っ!!」

人の気配を感じた。四季は足早に、この場を後にした。裸足でコンクリートの地面を走る。夜の街を、人を避けて駆けた。不気味な赤い月が、四季の姿を照らしている。


二〇〇九年七月二日、神奈川県横浜市中区。

私立久木学園高等部第一校舎の三階、霊子科学科霊障士専攻二年F組教室。

「連続猟奇殺人事件?」

河本一覇は、いちごミルクのパック飲料を手に、きょとんとしていた。

「そう、最近市内で、刀傷のついた死体が多く発見されているらしいんだよ!しかも、犯人は霊子を残しているから、鬼魔の仕業だって話だ!」

新聞部員の普通科二年生、東京二が遊びに来たと思ったら突然、そんな話をし始めた。

「ふーん……鬼魔がねぇ」

ずずーっと飲み終わったパックを丁寧にたたみ始める。

「あれ、一覇、京二の話興味ないの?」

しょうゆ味のスナック菓子を貪るクラスメイトの結城海に問われて、一覇はううん、と唸った。

「興味なくもないけどさ、仕事が回ってこない以上、関係ない話だろ?」

「ま、ねー。でも大地兄から訊いたんだけどさ、この事件、霊障士が犯人だとも言われてるらしいよ」

「マジで!?」

大声で反応した京二に、海は人差し指を唇に当てるゼスチャーを返した。慌てて口を噤む京二。海がにやにやして言った。

「日向家十二代目の招集も近い……って噂ですよ」

その日向家十二代目当主は今、色ボケしている。三年間片想いしていた義妹の河本宝と結ばれて、ハッピーバンザイな一覇にとって、仕事の話は実に苦い。

確かに、一覇は自他共に認める若き実力者の一人だ、期待するなという方が難しい。だが、プライベートが充実している今を邪魔しないでくれ、とも言いたい。せっかく……せっかく両想いになれたのだ、幸せを噛み締めたい。

「と、ところでさ……最近四季の様子がおかしくない?」

話題をすり替えた。すり替えられたと思いつつ、京二と海は自分の席に座っている四季を見た。かれこれ一時間、昼休みに入ったというのに前の授業の教科書とノートを広げている。そして視線はどこへ向かっているのか、ぼんやりと空を見ている。

必要ないけれど、ヒソヒソ声で話し始めた一覇たち。

「一覇、なにかしたの?」

「なんでオレなの?別になにもした覚えないよ?」

「いーや、あれは失恋だな!京二調べはダテじゃないぜ?」

「だから一覇に訊いてんじゃん」

「だからなんでオレ!?」

「そりゃあ一覇と四季といえば、久木の有名カップルですから」

「誤解だからそれ!アレはオレのお遊びでした!」

「とにかく一覇が訊いてきなよ」

「そーだそーだ!訊いてこい!」

「えー……?わかったよ……」

椅子から立ち上がって、一覇は右隣の四季にぎこちなく話しかける。

「えー……グッドイブニング、四季!ハウアーユー?」

なんで英語なんだという質問はやめていただきたい。いっぱいいっぱいだったのだ。しかし、四季は答えない。ぴくりとも動かない。

ちらり、と一覇は見守る海たちに視線を送った。頑張れ、とガッツポーズを送られた。もう少し頑張ってみる。

「四季ちゃーん、どーしたのかにゃー?なにか悩み事?あ、便秘ー?」

しーん。

ちらり。

がんばっ!

「ヘイ兄ちゃん、可愛いね!オレと一緒に、アツイ夏休みを過ごさないかい!?」

しーん……。

チラチラ。

……ふぁいと。

「四季たん四季たん、オレと駅裏の怪しげな本屋にトゥゲザーしない!?よさげなエロ本があるらしいのですよ!」

がた。

四季が立ち上がった。え、これで釣れたの?四季くん案外どスケベだねー!このムッツリ大王!なんておちょくろうとしたのに、四季はすたすたと教室を出ていった。その背中を切なく見つめる一覇。

「シキティー……」

「さっきから若の呼び名はなんなんですか?」

黙って見ていた四季の従者でクラスメイトの三島椋汰と七海沙頼の恋人、二本松璃衣がたまらずツッコミを入れた。

「一覇、基本はおちょくり役だから、相手にされないと弱いんだよ」

五年の付き合いである一覇の親友(自称)、椋汰が一覇の気持ちを解説した。

四季は屋上のベンチに、寝転がっていた。授業に身が入らない。いつものことだけれど。

今騒がれている連続猟奇殺人事件とは、間違いなく四季が起こした事件だ。最近はほぼ毎晩、気がついたら血まみれで霊障武具を手にしている。

『約束してね……基……』

鮮明な記憶が思い出される。月夜の屋敷、暗がりの部屋でスーツ姿の黒髪の女性と、着物姿の金髪の男性。矢倉遥佳と東雲基。

まさか遥佳と同じ道を辿るというのか。そんなこと……あってはならない。もうあんな思いはしまいと、誓ったではないか。

一覇を巻き込みたくない。これは自分の問題だから。でも

「…………っ!!」

空を見て、ぐっと歯ぎしりする。

一覇が欲しい。

これは自分の想いなのか、遥佳の怨念なのか……わからない。もしかしたら、矢倉四季なんて存在はなくて、遥佳という存在が自分の全部だったりするのでは……。

「矢倉四季!!授業が始まるぞ!!」

婚約者の男装少女、磯村怜だ。三年生の教室は二階にあるというのに、いったいなにをしているのだろうか。

「さぁ矢倉四季、授業がはじ……」

ん?なにを言っているのかわからない。頭がぐるぐるする。

「…………!…………?」

聴こえない。なにを言っている?空が、視界が歪む。意識が途絶えた。

「…………!!!」

気づいたときには、周囲に人がたくさんいた。息が荒い。

いったいなにを騒いでいるんだ?

また、いつの間にか《朧》を起動していた。血にまみれている。自分の手にも、血がついている。どうして?

「…………」

手をかざしたその奥で、人が倒れていた。小柄で細身の、普通科男子生徒の制服を着た人。優しい栗色のショートヘア。

「……れ……い……?」

「国家第三種霊障士、矢倉家所属の矢倉四季」

ふいに、厳しい声が自分の名を呼んだ。

「横浜市連続猟奇殺人事件の重要参考人として連行する」

伸ばした手に手錠がはめられた。右手の《朧》は取り上げられる。

これでは連行ではなく、逮捕だ。そう思う間もなく、四季は校舎に入って廊下、廊下から階段、階段から廊下、そして昇降口からパトカーに乗せられた。

それから間もなく、四季の扱いは「連行」から「逮捕」に変わり、各種マスコミで犯人として報道された。


七月九日。矢倉邸。

四季が逮捕されてから一週間が経った。一覇たちお馴染みいつものメンバーは、璃衣の連絡で矢倉家に呼ばれた。

「突然お呼びだてして、申し訳ありません」

「やめようぜ。それより、四季はどうなんだ?」

一覇は璃衣に頭を上げさせて、彼の状況を問うた。璃衣は努めて冷静に状況を説明した。

「霊子痕と現場の状況証拠だけで、若だと断定されただけです。ですが……時繁様があっさりと身柄を引き渡したことから、若は実質『矢倉家』から追放されました」

「時繁様はどうして……」

璃衣はものすごく言いづらそうに、喉になにか引っかかったような顔をした。

「…………それは」

「————《鬼化》したんでしょ、四季は」

璃衣の言葉を引き受けて、沙頼が説明を始めた。

「きか……?」

「矢倉家が鬼の血を引いている、唯一の家系だということは覚えているでしょ?」

沙頼の言葉に、全員が頷いた。一覇と千歳だけが、その出自を知っている。

酒呑童子『出雲』の妹である、茨木童子《霜月》が人間の男と結婚し、生まれたのが矢倉家の初代に当たる人物だ。

「鬼の血が濃ければ濃いほど、力は強い……長寿、高い治癒能力、強い力、高い霊子能力。でもその代償として存在するのが、鬼化。鬼化は人間の部分を蝕み、鬼の体へと作り変えることよ」

「鬼の、体……」

「その変化に耐えきれなくて、死んでしまうこともあるの」

「で、でもその鬼化と猟奇殺人、どう関係あるんだよ!?」

椋汰の質問に、こればかりは、とばかりに口をつぐみ、やがて沙頼は答えてくれた。

「鬼化が進んだ人間は、鬼と同じ業を背負う……人殺しの本能に目覚めるのよ」

「……待て。オレの知ってる鬼には、その本能がないような奴もいたぞ?」

一覇がもっとも知っている鬼……八瀬童子の刹那は、最初こそ殺しにかかってきたが、千歳と会ったあの日はまるで普通の人間のようだった。

「童子レベルの高位の鬼は、その本能を抑える術を持っているのよ。人間から鬼化した存在は、鬼の中でも低位に値するから、勝てっこないの」

全員が押し黙った。なにも言えない。四季を救う術はないのか……考えてもわからない。

「……そこのヒトは、なにか知っているんじゃないかしら?」

沙頼は視線で、一覇の隣にいる逸覇を示した。しかし逸覇は笑って肩をすくめた。

「ボクになにを求めてるんですか?七海サン」

「とぼけるつもり?こうなった以上、吐いてもらうわよ!アンタ、なにしにノコノコ出て」

「大変ですお嬢様!!」

矢倉の屋敷でも顔が利く千歳の元に、四季のばあやが慌てて飛んできた。その顔は真っ青だった。

「どうしたの、ばあや?」

「四季坊ちゃんが……四季坊ちゃんが、逃走したと……!」

『!!!!!』

タンッ。

「一覇!?」

一覇は走り出した。部屋を出て、門をくぐって、屋敷の外へ。

街まで行って、はたと気づいた。どこへ行こうというのか。四季がどこにいるか、どこに行こうとしているか、見当もつかない。そう

オレは、四季のことをなにも知らない……。


神奈川県横浜市中区、旧矢倉邸。

その焼け落ちた廃墟を乗り越えて、中庭であるものを手で掘り起こす四季。泥だらけになった爪に、がちんと金属の音が当たる音がした。あった。

土で汚れた十五センチ×五センチ四方、厚み一センチのクロム製霊障武具基盤。

あの日、遥佳が埋めた霊障武具《霞》。《霞》を抱きしめて、四季は呟いた。

「もう……終わりにするんだ……雪片……基」

あの日に戻って、やり直せたらよかったのに。

変わらぬ金の鋭い瞳で、現世の街を眺める。

そう、あの日からすべてが始まり、終わった。

一九七二年二月二日、横浜市中区の矢倉邸。『僕』が『あたし』だった頃。

「兄さん!基兄さん!!」

矢倉遥佳、十五歳。

長い黒髪に鋭い金の瞳その右目下には、泣きほくろ。目に見えないほどの剣さばきからついた通り名は『神速』。第三種霊障士である。

遥佳はお屋敷の廊下から、広い中庭に設えられた長椅子に寝転がる義兄を見つけて、呼びつけた。

「遥佳様……ぼくを兄などとお呼びにならないでください。時繁様に叱られます」

東雲基、二十三歳。

本名は矢倉基。矢倉家の養子だが、諸事情で認められていない孤児。持って生まれた金髪碧眼の甘いルックスで、女に困ったことはない。

飄々とした見た目とは裏腹に、史上最年少で第一種霊障士となった日本国最強の霊障士だ。

「なによ、兄さんは兄さんでしょ?ねぇ兄さん、どれがいい!?」

遥佳は頬をふくらませ、雑誌の一ページを開いて、基に読ませる。

「バレンタインデー特集?」

記事には色とりどりの箱と、茶色い綺麗な細工がされたチョコレートが載っていた。

「そ!新宿の伊勢丹でやってるんだって。買ってきてあげる!兄さん、甘いもの好きでしょ?」

「お返しは三倍返しーとか言うんじゃないの?」

「残念、十倍返し!」

「なお悪い!……と。遥佳様、お戯れが過ぎますよ?」

遥佳は盛大なため息をこぼした。

「兄さーん……いい加減に素直になったら?兄さんだって誰もが認める立派な第一種だよ?矢倉家の人間だっていうなら、それを信じるよ」

「孤児だったぼくを拾ってくださった先代……草介様には、感謝しても足りないくらいだ。ぼくにはそれで十分」

基の言葉に、遥佳は不満だった。基には不自由ない、いつも笑顔の生活をして欲しかった。堂々と生きて欲しかった。それを与えたかった。

「遥佳」

ふいに背後から呼ばれた。振り返ると、そこには

「ね、姉さん!」

矢倉時雨、二十五歳。

長い黒髪に黒く鋭い瞳、厳格な雰囲気の女性。遥佳の実姉である。

「稽古はどうしたのですか、遥佳。貴女にそんなことをしている余裕があるのですか」

「ちょっとした息抜きよ!姉さんこそ、お花のお稽古終わったの?」

「わたくしはとっくに済ませました。遥佳……このような男と一緒にいては、如何な噂がたてられても文句は言えませんよ」

このような男、のところで、時雨は基のことを睨みつけた。

基は肩をすくめて、立ち上がる。

「申し訳ありません、時雨様。ぼくはすぐに立ち去るので」

「ちょっと兄さん!」

「遥佳、その『兄さん』というのはやめなさい。矢倉家の恥です」

その時雨の言葉にカチンときた遥佳は、大声で怒鳴り散らす。

「なによ、基はあたしの兄さんなのよ!?死んだ父さんだって言ってたわ!きっとあたしたちが仲良くすることを望んでいる!」

「彼は矢倉家の人間ではありません。遥佳、貴女も矢倉家の人間であるという自覚を持ちなさ」

「家柄なんて関係ない!本当に必要なのは、その人自身の力よ!!」

パンッ。

時雨は遥佳の頬を、思い切りはたいた。

「いい加減に聞き分けなさい。いいですか、今後一切、そのようなことを口にすることを許しません」

時雨は有無をいわさず、その場を立ち去った。その細い背中を基は見つめていた。

「ごめんね……基兄さん……」

隣で俯く黒い頭がそう言った。その頭を、基は優しく撫でた。

「遥佳が謝ることじゃないよ。ぼくが……ぼくが悪いんです」

「そんなこと……っ!!」

基は青く澄んだ瞳で、優しく義妹を見つめる。その瞳は、やはりどこか淋しそうに光っていた。

家族を殺されて、ようやく手に入れた家族からは疎ましがられて。自分に居場所はないのではないか、そう思うときも少なくない。ぼくは……ひとりなんだって、そう感じる。でも

「遥佳様が家族だと言ってくださるから、ぼくは生きていられるんです。遥佳様は、ぼくの生きる道しるべだ」

ある日できた妹は、こうしてぼくに生きる意味を与えてくれた。それを糧に、ぼくは頑張る。

だけど

「うん……生きてね、兄さん」

微笑む遥佳。

だけどぼくらは、ある日を境に道を違えた。それがぼくらの運命だったんだ。

二月十五日、午後一時三十分過ぎ。

横浜市瀬谷区、森林公園。

「雪!雪片はいるか?」

基は飲み物と食料を大量に詰めた袋を抱え、公園の奥にある防空壕まで来た。しばらく呼んでいると、防空壕の奥から人影が見えた。

「……あ、あのっ……」

大きな眼鏡と、ブカブカでシンプルなセーターとジーンズを身につけた、栗色の長い髪を三つ編みに束ねた少女。

「こんにちは、リンちゃん」

基は少女ににこりと微笑んだ。

松野リン、十五歳。この防空壕に住んでいる孤児だ。年の割に幼い印象の栗色の瞳をうるうるさせて、リンは顔を赤らめた。

「あ、あのっ……お兄ちゃん今、出かけてて……」

「そうか……あぁ、リンちゃん」

基は袋を漁って、小さな装飾された小箱をリンに差し出した。

「チョコレート。リンちゃん、前に食べたいって言ってたろ?」

「えっ……あのっ、でも……」

すっと箱を開けて、チョコレートを一掴みして、基はにこにこと笑ってリンを追いかけ回した。

「はははははははは」

「いっ……いただきますいただきますいただきますぅ!!!」

お茶を飲んで落ち着いて。

「美味しい?」

ひとしきりリンで遊んで、満足した基は、リンがチョコレートを食べる姿を眺める。

「お、美味しいです……」

遊ばれていることをわかっていても、逃れられない自分の弱さに絶望しつつ、チョコレートの美味しさに感動してしょっぱい涙が出るリン。

「まだまだあるから、どうぞお食べ」

「……こんなにたくさん、どうしたんですか?」

まさかわたしのために買ってきてくれたんじゃあ……と若干嬉しく思っていたのも束の間。基は笑顔で下衆な発言をした。

「女の子たちにたくさんもらっちゃった。いやぁ、オレの本性知らないからって、ずいぶんたくさん釣れたもんだよ!ちょろいね!」

「…………」

兄の友人でなければ、こんな男と絶対に付き合ったりしないと感じた。

しかしまぁ、基は基でなにか複雑な想いを抱えているようで、アンニュイな笑みで呟いた。

「欲しいのは……叶わないたった一個なんだけどね」

「基さん……」

それは好きな人のことですか、などとは野暮な質問だろうか。でも……

「ただいま」

白髪を長く伸ばした、赤い瞳の青年が小さな紙袋を胸に抱えて防空壕に入ってきた。

「お兄ちゃん!」

「雪!お邪魔ー!」

ひらひらと振る基の右手を見て、青年はため息をついた。

「なんだ、基か……」

松野雪片、二十三歳。リンの異父兄で、基の親友である。

雪片は明らかに不機嫌な顔をして、基を睨みつける。それにいち早く気づいた基は、意地の悪い顔で雪片をいじり始めた。

「なーに雪ちゃん?オレとリンちゃんが仲良くてイヤ?むかっとする?」

「雪ちゃんはやめろ、下衆男」

「きゃー雪ちゃんこわーい!拳握り締めちゃって」

「お前……!!」

「もうお兄ちゃんっ!基さんも……!」

二人は幼い頃から、顔を合わせるといつも喧嘩腰だ。

そう、三人が出会ってから、もう十一年目の春だ。

雪片は鬼の父と人間の母のあいだに生まれた鬼魔で、かの《最上の巫女》の予見で《災厄の悪魔》と恐れられ、蔑まれてきた。父は殺され、母は別の男と結婚して、妹のリンを生んでからは、雪片に対する扱いがひどくなった。雪片が八歳になる頃には、両親は子供たちに暴力しか与えなくなった。

雪片十二歳、リン四歳の一月、雪片はリンを連れて家を出た。親戚も、頼れる大人は誰もいない中でさまよい、この防空壕を見つけて二人で暮らしはじめた。そのひと月後、基がやって来た。

基も雪片も、信用できる人がいないということで馬が合うのだろう。なんだかんだ言いつつも、十一年もうまくやってきた。

リンは基が持ってきた食料品で、遅い昼食を作り始めた。男ふたりは食卓がわりの岩を挟んで座る。

「相変わらず、景気の悪い家だな。別のとこ探さないのか?」

「あったらとっくに移動している。……しかし、おれはともかく、リンがな」

リンは食事の支度をしながら、こんこんと咳き込んでいた。ただの風邪ではない。もう半年も、ずっと咳をしていた。

「医者にみせないのか?」

「おれたちの身分を知っているだろう、みせる医者がいない」

「信用できる医者を紹介しようか?オレがリンちゃんを連れていく」

「……リンにとって、それは幸せなのだろうか」

もし、治らない病気だったら、それを知ったリンはどうすればいい。自分はどうすればいい。たった二人の兄妹で、その真実はただの残酷な現実だ。だが基は

「みせない方が、リンちゃんを不幸にする。怖いけど真実を知って、どうするかはリンちゃん次第だ。そうだろ?」

「……そうだな……」

しかし自分から言い出すのは、怖い。その気持ちを敏感に察知した基が、雪片の骨ばった肩を叩いた。

「オレが言うよ。いいな?」

雪片は親友に任せることにした。

「わたしをお医者さんに?」

リンが作った昼食を三人で囲んで、彼女に医者に行こうと切り出した基。しかしリンはなかなか首を縦に振らない。

「だってそんなことをしてもし、わたしたちの居場所が知られたら……」

「その心配はわかる。でも、オレが信用している医者にみせる。しばらくはオレが警護もする。どうかな?」

「そ、そこまでしてもらわなくてもいいです……!基さん、忙しいでしょうし!」

「じゃあ、行ってくれる?じゃないとオレ、雪ちゃんに殺されるんだ」

「おい、おれを巻き込むな」

「お兄ちゃん……心配症なんだから。わかりました、行きます!」

食卓を片付けて、当日の手はずを相談した。

「横浜駅近くにいる、普段は霊子工学技師なんだけど、趣味で医師免許を持ってるからタダでみてくれる」

「腕は確かなんだろうな」

「オレもよくみてもらってるよ、大丈夫」

「頭はみてくれないのか、不安だな」

「おーいどういう意味かな、雪ちゃん?」

「で、名前はなんていうんだ?」

「無視したな?……まぁいい。一ノ瀬ミルカ。ミルカちゃんもワケありだから、信用できるお客しか相手にしない」

「お前は女しか知り合いがいないのか?」

「偶然だよ偶然!ほら、オレってモテるから」

「…………」

「おーい黙るな!本当のことだしね?はじめん、嘘つかない」

「…………」

「ねぇ、その顔やめてくれない?その、明らかに蔑んでいる顔」

というわけで、基は一ノ瀬ミルカに会いに行き、当日のことをある程度説明した。そして一週間後、基の万全の警護で、松野兄妹は中区にあるミルカの店を訪れた。

『霊障武具 とぐろ』と書かれた不気味な看板を掲げた、小さく薄汚れた店。基がドアを引くと、もももも……という謎の効果音がした。五人でいっぱいになる店内の奥に、小さなカウンター。カウンターに椅子を持ってきて寝ている、ピンク色の小さな頭。

「ミルカちゃん、オレ。基だよ。例の二人を連れてきた」

「はっじめちゃーん!ぐっもーにん、抱いてー!」

がばぁっと立ち上がり、神速もかくやという速度で基に抱きつくピンク頭。ピンクのワンレングスショートヘアに、緑の瞳、背はそんなに高くないが、細い。今の時期にペラペラのTシャツ短パンという出で立ちの少女。

「雪、リンちゃん、こちらが一ノ瀬ミルカちゃん」

「やんやんっ東雲ミルカって言ってー!」

ミルカは基に抱きついて、離れる気配がない。基も引き離す気がないのか、むしろミルカの頭を撫でている。

「ミルカちゃん、この子が患者さんの松野リンちゃん。こっちがその兄貴の雪片」

二人を紹介したとたん、ミルカはリンをじっとりと睨みつけた。基の腹に両手を回して、じっと見つめる。

「基ちゃんはあたしの旦那だかんね!」

「あははははミルカちゃん、ずびし!」

基のツッコミが入ったところで、診察が始まった。男ふたりは閉められた店内で待ちぼうけ。その間、雪片はずっとそわそわしていた。二十分くらい経ったところで、二人が出てきた。

「ごめん基ちゃん。精密検査したから、また連れてきて」

「いつ来ればいいかな?」

「早くて一週間かな」

「オレは平気だよ。二人もいい?」

「問題ない」

「お手間取らせますっ、みなさん」

「でも基ちゃん、本当に平気?最近仕事多いってきいてるよ?それにおうちのこと……」

基は努めて笑顔で答える。

「問題ないよ!いざとなったら、さぼっちゃえ!」

「いや、そらいかんでしょ」

松野兄妹を瀬谷区の防空壕まで送り届けて、基は中区の矢倉邸まで戻った。

「兄さん」

「!!は、遥佳様……っ!」

基の自室に、遥佳が侵入していた。遥佳は半眼で基を睨みつけ、詰問する。

「どこに行ってたの?こんな遅くまで」

「あ、あはは。そんなに知りたいですか?うーんそうですね……お昼には行けないところ、ですかね?」

「まーたいつものようにごまかす気でしょ!?」

ぎくり。

というのは表に出さず、心の内に留めてさて、どうごまかそうかと考えていると

「兄さんって、秘密が多いわよね……毎日どっかに消えるんだもん」

ぎくり。

それは毎日、松野兄妹のところへ憂さ晴らし……いえいえ、様子見に行っているからですよ。とは言わない。絶対に。

「あは、あははー……」

「じぃー……」

腰に手を当てて、じっと睨みつける遥佳。

行くの控えようかな。でも、猫かぶりも結構疲れるんだよな。酒も煙草もやらないし。

なんて考えているうちに、遥佳は諦めたのか、ため息をひとつついて腰から手を離した。

「まぁいいわ。兄さんにもいろいろあるんだろうし。そのかわり!」

ほっとしたのも束の間。遥佳はずびし、と人差し指を突き立てて、ウィンクをひとつかました。

「姉さんの誕生日パーティを一緒に企画してもらいますっ!」

「た……誕生日、パーティ……?」

「そっ!」

「ってあの大々的にやるやつですか?」

矢倉家の人間の誕生日パーティは、世界各国日本全国の要人やら有名人やら、とにかくビップを呼んでお祭り騒ぎ……で有名だ。そのパーティを、よもや自分たちで企画する、とおっしゃるのかこのお嬢様は。

「馬鹿ね、あたしたち個人でやるのよ!あんなクソつまらない《面会》と一緒にしないで」

「お嬢様の発言とは思えませんよ、遥佳様」

クソとかクソとか、クソとか。

遥佳は咳払いをひとつして、クソ発言をごまかしてから話を続けた。

「とにかく!企画、あたしと兄さん。参加者、あたしと兄さん!本当の誕生日パーティをするのよ!」

「はぁ……。でも、時雨様はぼくなんかに祝われても、虫酸が走るだけでは?」

「あ、大丈夫。あたしのカンでは、姉さん照れてるだけだから」

「照れ……なにに?」

遥佳はがっくりと肩を落として呟いた。

「なんで馬鹿みたいにモテるのに、そこは鈍いのかな……」

「?どーゆこと?」

「まーいいや。とりあえず、企画会議だ!!」

「い、今!?」

「あたぼーよ!姉さんは絶対に兄さんの部屋には来ない!これを利用しない手はない!」

それから二時間ほど、遥佳は基の部屋に居座った。

「じゃ、一週間後、よろしくね!」

ようやく企画会議が終わり、遥佳は引き上げることにしたらしい。

「うへーい……ってん?一週間後?」

一週間後って……二月二十八日?時雨の誕生日は三月一日ではなかったか?

遥佳は忘れてた!と言って付け加えた。

「当日は例のクソパーティだから、前日にやろうと思って」

「いや……遥佳……一週間後はちょっと……」

リンの検査結果が出る日だから、基は参加できない。ということは説明できないので、基はしどろもどろしたり、目を泳がせたり、あわあわしたりと忙しくした。

当然、そんな基を遥佳は不審に思い、ぐんぐん追及する。

「なーに、なんかあるの?一週間後」

「あのー……えと、あるといえばあるんだけど……」

「なによ、言えないような用事なの?」

「あぁ……うん……そういうことかな……?」

「デート?」

助け舟が来た気分だ。ありがとう!

「う、うん!二十六番目の彼女とデートなのですよ!」

「彼女多っ!!ていうか、そんなのいつでもできるでしょ?断ってよ」

「だーめ。彼女、すっごい楽しみにしてるから、ぼくが断ったら泣きますよ」

「知るかぁそんなの!!アンタ、彼女と姉、どっちをとるのよ!?」

基は真面目なかっこいい顔をして即答した。

「彼女を取らなきゃ男じゃない!」

バキッボカッドスッ。

頬を利き手のぐーで殴られて、腹を利き手のぐーで殴られて、急所を利き足で踏み潰された。殺生な。

「勝手にしろ、バカ兄!!」

襖を思いっきり強く閉めて、遥佳はぷりぷりして出ていった。そのシルエットを眺めて、基は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

「時雨様にはきっと……僕の手なんて届かないんだ……」

どんなに手を伸ばしても、翼がなくては届かない。彼女はそういう存在で、自分はいくらロウの翼を生やしても焼かれて地に落ちる存在だ。一生手に入らない。だから、近づこうとしない。無駄だとわかっている。

「そんなの……わからないじゃない……」

襖越しの遥佳の声は、基には届かなかった。

二月二十八日、横浜市中区。『霊障武具 とぐろ』。

店内を見て回っているリン、ミルカから検査の結果を訊いている基と雪片。

「なんだって……!?」

驚愕する基、思考停止する雪片。

「だから基ちゃん……リンちゃんは、結核よ」

結核とはごく少量の結核菌が気道深く侵入し、肺胞内に達し、『肺胞マクロファージ』中で増殖を始める。マクロファージは細胞内寄生菌に対しては自然抵抗性を持っているが、結核菌のような強毒菌の場合は細胞の抗菌作用は破壊され、菌は増殖してその細胞は死滅し、他のマクロファージによって貪食される経過をとる。

さらに菌は増殖を続け、肺に定着し、初感染病巣を形成する。さらに一部の菌は所属リンパ節に運ばれ、リンパ節病巣をつくる。

現代医学ではここまでわかっていたが、当時の医学では死の病だった。

「ここでの治療は不可能ね。ちゃんとした病院でみてもらって……ていうのは無理なのよね?」

「雪」

なにも考えられないほど混乱と絶望に陥った親友の肩を、基は乱暴に掴んだ。その顔は、悲愴に満ちている。

「リンちゃんに……伝えよう」

基の言葉に、雪片は基の胸ぐらを両手で掴んで、喚きちらした。

「どうして……どうしてそんなに冷静でいられる!!リンは、もう……」

「リンちゃんが残りの人生でなにがしたいか、オレはリンちゃん自身が決めるべきだと思う」

基は雪片に振り回されるまま、掴まれるままにしていた。それでも、自分の意見として、きちんと雪片に伝わるように心がけた。

「人生の残量を、リンちゃんが知って、どう生きるかを決めるんだ。そこにオレたちが介入するべきじゃないことも、わかるよな?」

「…………」

雪片は基のシャツから手を離して、代わりに彼の肩に頭を預けた。我慢していた涙が、堰をきって溢れ出す。滝のように流れ、留まることを知らぬ涙は、基のシャツを濡らし、シミを作る。

「ミルカちゃん、どこか……この兄妹でも安心してかかれる病院はないかな?」

雪片の涙が落ちついたところで、基はミルカに兄妹の今後を相談した。生きるにしろ死ぬにしろ、病院は必要だ。

ミルカは難しそうに唸って、

「市内はまずいよね?となると、秦野にある国立病院が、結核患者を受け入れている一番近場なんだけど……」

「そうか。なにはともあれ、リンちゃんに話そう。ミルカちゃん、説明お願いしてもいい?」

「もっちろん!でも……雪片くんが……」

憔悴しきった雪片に、基が了承をとる。

「雪、今からリンちゃんに話すからな?」

雪片はこく、と小さく頷いた。それを確認してから、基は店内を回っているリンを診察室に招いた。

ミルカから一通りの説明を受けたリンは、泣き喚くでも呆然とするでもなく、ただ静かに自分の運命を受け容れるかのようにこくりこくりと頷いた。そして、なにごともなかったかのように、ぽつりと呟いた。

「わたし……もうすぐ死ぬんだ……」

ミルカは慌てて付け加えた。

「すぐには死なないよ。ちゃんとした治療を受ければ延命確率は、今の段階で三十パーセントくらいかな?ただ、治療は身体的にも精神的にもキツいよ」

基がリンに優しく話しかける。

「どの道を選ぶかは、リンちゃんに任せるって、雪とも相談済みだ。リンちゃんは、どうしたい……?」

リンは決めていた。症状が出てきて、自分がなにか大きな病気を患っていると気づいたとから、ずっと決めていた。

「治療は受けません」

その言葉に、これまでずっと項垂れていた雪片の肩が、ぴくりと動いた。リンは続ける。

「命を諦めたわけじゃありません。ただわたしは……わたしの残りの人生に賭けてみたい。わたしの……幸せを」

延命治療を受けたところで、いずれ死ぬことは目に見えている。だったら、幸せに生きたい。兄たちの元で、最後の瞬間まで生きたい。

「……わかった」

雪片は言った。

「リンのしたいようにしろ……おれは……最後まで見届ける」

「ありがとう、お兄ちゃん」

リンはふわりと笑った。それに釣られて、雪片も、基もミルカも笑った。

最後まで幸せを諦めない。そんなリンの強い気持ちが、みんなに伝染したようだった。

ある程度の治療薬を投与するとして、松野兄妹は瀬谷区のあの防空壕に留まることになった。

防空壕に二人を送り届けて、基は電車で中区の矢倉家に帰ろうとしたが……

左手に巻かれた腕時計を見て、少し考えた。時刻は、午後七時を回っている。

「ちょっと寄り道」

横浜駅のダイヤモンド地下街へと向かった。

午後八時三十分過ぎ、中区の矢倉邸。

遥佳の部屋では、ケーキに鳥の唐揚げなど、ごちそうを用意して遥佳と時雨が待っていた。

「遥佳、なんなんですか、こんな時間まで待たせて」

「うー……もうちょっと、あとちょっとだけ待って!姉さん!」

「ずいぶん待ちました、もう部屋に戻りますよ。明日はパーティで忙しいのですから。遥佳も早く休みなさい」

そう言って時雨は部屋を引き払った。十分後、襖を開ける音に、片付けをしていた遥佳は苛立ちを隠さなかった。

「兄さーん……?」

息を切らせた基が、そこにいた。

「ご、ごめん……なさい……遥佳……」

「なにしてたのよ!?デート!?デートで乳繰りあってたのか!?こんのクソ兄……!!」

「すいませんすいませんすいません!!!」

遥佳は必死に謝る基の手元を見て、盛大なため息をついた。

「一日中、それ探してたの?」

遥佳が指すそれ。基の手には、綺麗にラッピングされた小さなプレゼント。

「いや……用事が終わって、急いで買ったんですけど……」

「そこは正直に言うなよ……まぁいいわ、明日中に渡しなさいよ?」

「え、えぇ!?明日は無理ですよ!時雨様もお忙しいですし、ぼくも警護の仕事が……」

「うるっさい!いいから渡すの!男なら黙っていけ!」

基はぶつぶつと文句を言っていたが、遥佳は拳で黙らせた。自室に戻ろうとする基に

「喜んでもらえるといいわね!」

と投げかける。すると基は、気恥ずかしそうにぽりぽりと頬をかいて

「うん……」

と微笑んだ。

このときはまだ、遥佳は自分の気持ちに気づいていなかった。兄に対する、仄かな気持ち。知らない方がよかった、恋心。

三月一日、午後七時。山手区の洋館。

そのパーティ会場内で、正装をした基は矢倉家に所属する霊障士として警護に当たっていた。

普通はせいぜい第二種の仕事だが、基はこの世にたった一人の国家第一種霊障士。その『最強を従えている家』としての宣伝目的なのだろう、基に仕事が回ってきた。正直、この手の仕事は多いから慣れている。

若い基の実力を恐れてか、老害どもは基に重要なポストにつけさせようとしない。それももう、慣れている。堂々とあくびをかましていたら、自分よりずっと地位の低い年上の霊障士に睨みつけられた。

「どーもー」

ひらひらと手を振って笑顔を返すと、霊障士は一瞬変な顔をしてから元のようにそれらしい居すまいにただした。基は会場の中央にいる時雨を見て、それから懐のプレゼントに手を伸ばした。パーティ終了まで、あと二時間半。

「はぁ……」

パーティ終了まで、あと二時間。ブルーのドレスを着た時雨はこっそり、テラスで休んでいた。挨拶回りは終わったし、苦手なダンスが始まったし、居場所がない。

このパーティの目的は、つまるところ時雨の誕生祝いなんかじゃなくて、各関係者のご挨拶だ。いち矢倉家ご令嬢の誕生祝いなんて、名目に過ぎない。だから、能力もない娘はいらない。

そう、時雨には霊障士として能力が備わっていない。鬼の血どころか、霊障士の血がはいっているかどうかすら怪しい。将来は跡継ぎを生むための道具になることだけ。妹の遥佳みたいに戦えたら、どんなによかったことか。

わたくしは落ちこぼれ。でも、そんなことは口にしない。惨めだもの。だけど……

「わたくしは……所詮道具です……」

「そんなわけないじゃないですか」

突然、空から声が降ってきた。慌てて周囲を見渡すと、ガサガサと葉擦れの音がして、となりの手すりにストンとなにかが降ってきた。

「し、東雲基……!?どうして貴方がここに!?」

基はひらひらと手を振って、にこやかに手すりを降りた。

「いやぁ、トイレに行くって嘘ついて三階に回って、ちょうど時雨様がいるテラスの真上まで来たからこの木に飛び移って、今ここです」

「そんな説明はいりません!!」

「はい時雨様」

プレゼントをすっと差し出した。時雨は怪訝な顔をして、プレゼントと基を交互に見て尋ねる。

「一応ききます……これはなんですか?」

基はにっこりと笑って、答えた。

「お誕生日プレゼントですよ。ハッピーバースディ時雨様」

「いりません」

「なんで!?」

基は素直にショックを顔に表した。時雨はストールを巻き直しながら、なおも冷徹に答えた。

「どうせ貴方のことですから、このような贈り物はたくさんの女性にしているのでしょう?わたくしもそのひとりなのでしょう?」

「うぅ……ぼくってそんなに信用ないですか?」

「全然ありません」

まぁ当然だろうな、女の子と噂になることなんて、よくあることだし。それは矢倉家全体どころか、どこまで広まっているのかわからないくらいだし。とその場にしゃがんで自省していると、時雨はため息をついて手を伸ばした。

「もらってくれるんですか!?」

「くだらないものだったら捨てますよ」

時雨は受け取り、リボンを解いた。箱を開けると、小さな装飾された小箱が入っていた。

「なんです……これは」

「まぁまぁ開けてみてください」

取り出して開けると、小さな妻弾くような音でメロディが奏でられた。オルゴールだ。

「……ヴィヴァルディの《四季》」

「お好きでしょう、時雨様」

幼い頃、一度だけ父に連れていってもらった、オペラミュージカルに使われていた曲だ。時雨は中でもこの『春』が一番気に入っている。

「よく……覚えていらしたわね……」

幼い頃は父と時雨、遥佳と基の四人でよく出かけていて、今ほど仲は悪くなかった。時雨も基のことは悪く思っていなかったし。いつから、こんなになってしまったのだろう。

わたくしは、どうしてこんなにかたくなに、彼を拒んでいたのだろう……。

基は満足そうに微笑んで、

「お誕生日おめでとうございます、時雨様」

その表情は、幼い頃となにも変わらない純粋な微笑み。

あぁ、彼はどうしてこんなにも、変わらずにいてくれるのだろう。

「あ…………」

「?」

「ありがとう、と言っておきます。一応……」

途端に基の表情はぱぁっと明るくなって、

「へへへ!じゃあ時雨様、ぼくと踊っていただけますか?」

キザな仕草で時雨の手を取った。

「は、はぁ!?どうしてわたくしが……っ」

時雨は自分の顔が真っ赤に染まるのを感じて、一生懸命そっぽを向いてごまかそうとした。基は時雨の手にキスを落として、真剣な眼差しを向ける。

「オレが踊りたいから」

その青い瞳は、月明かりに照らされて不思議な色をしている。

「~~~~っ!貴方、これが本性でしょう!?」

「えへへーバレたー!オレと踊ろう、時雨様!」

明るく気負いのない誘いに、なんで乗ろうと思ったのだろう。

「す、少しだけなら、よろしいわよ……っ」

「わーい!今日の時雨様、素直ー!」

「いつものわたくしが素直じゃないと!?」

楽団の奏でる音楽に合わせて、基と時雨はワルツを踊った。月明かりの下、二人っきりの誕生日パーティ。騎士は姫の魔法で、王子になった。

それが、二人の『きっかけ』だった。

翌日、三月二日。中区矢倉邸の廊下。

「なにをしているのです、基」

基は中庭の長椅子で、寝転がっていた。

「あはは、やだなー時雨様。お昼寝ですよ、お昼寝!時雨様もどうであぎゃぱーっ!」

時雨はその辺に転がっていた石を、基の顔面に叩きつけた。

「昼間からゴロゴロしている暇があったら、訓練でもしなさい!」

「あーきーたー。ねぇ時雨様、オレとデートしない?」

「しません!!」

そんな二人を見て、噂好きの使用人たちのあいだでは、そのうち噂が広まった。

「ねぇねぇ、最近時雨様と基様、やけに仲がよろしくない?」

「そうね……もしかして!」

「お二人はお付き合いされているのかしら!?」

「っていう噂が流れてるけど、姉さん?」

四月七日。時雨の部屋へ突撃して、噂の真相を明らかにしようとした遥佳に、時雨は真っ向から立ち向かった。

「ありえません!!絶対に、ありませんっっ!!!」

「えー、結構な目撃証言もあるんだけど?」

二人はお茶とお茶菓子に舌鼓を打ちながら、そんな話をしていた。

「あの基ですよ?わたくしが相手にするとでも?」

「あーやしい!『基』って呼んでるし」

「こっこれは別に……っ!!」

「あはぁん?姉さんも素直になっちゃいなよぅ!」

「なにを言うのっ!遥佳!?」

「わかってるよー!姉さんと基のあいだにはなにもない!だって基、相変わらずどっかに出かけるし」

「えっそうなの!?」

ガタンっ。

ちゃぶ台が揺れた。

「うん、どこに出かけてるのか、いまだに教えてくれないんだー。ありゃあ相当いけない彼女作ってるね、うん!」

「というわけで、彼女はいるのかしら?」

「時雨様……唐突になんですか?」

いつもの中庭で、『夕方のお昼寝』をしている基に突撃した時雨。基はきょとんとして時雨を見つめていた。

「いいから、彼女はいるの?いないの?」

「時雨様はどっちだと思いますー?」

質問を質問で返された。迷った挙句にそうだったらいいなー、という方を選ぶ。

「い、いない……?」

「じゃあこれから百人の女の子を泣かせてきますね!」

「百人いるのね!?そうなのね!?」

「オレの悪名が広まっちゃうなぁ。彼女できなくなるねっ!時雨様、責任とって付き合ってください!」

「どっどうしてわたくしがそんなこと!?」

あわあわしていると基が立ち上がって、時雨の手を取り、手の甲にキスをした。

「時雨様かっわいー」

「っ!!!!」

にこりと微笑む顔に、一発入れてやりたかった。

「オレの心は、昔からたった一人のものですよ」

一転、真剣な眼差しを向ける基。

胸が押しつぶされそうなほど、ドキドキする。まるで自分のことを言われているような、そんな感覚。そんなこと、ありえないのに。

「で、では……彼女は……」

「んー、時雨様がやめろって言ったら、全員切る」

「あ、遊びでお付き合いしているの、貴方は!?」

「だから、時雨様がやめろっていったら」

「やめなさい!!不誠実よ!」

「はい」

基はにっこりと微笑んで、時雨の頭を撫でる。

それから基と女性の噂はパタリとなくなったが、毎日のようにどこかへ出かけることだけはやめなかった。

四月三十日、午後一時過ぎ。いつものように出かける基を、遥佳が尾行した。時雨も誘ったのだが、『悪趣味』という理由で断られた。

「もう、瀬谷なんか来てなにしてんのよ!?というか、見失ったんだけど!!」

林の中でひとり、迷子になった。どこだかわからないまま進んでいると、防空壕の跡があった。そこからシチューのいい匂いがして……

「誰ですか……!?」

子リスのような印象の少女がいた。大きめの丸い眼鏡をして、ざっくり編んだ三つ編み、ダボっとしたセーターにジーンズを着た少女。年齢は遥佳と同じくらいか、少し下だろう。

少女はおたまを持っている。どうやらこの少女が、シチューを作っていたようだった。

遥佳のスーツを見て、身分がわかったのだろう。少女はおたまを構えて、

「わっわたしたちを捕まえに来たんですか!?」

「はぁ!?違うわよ!あたしは基を追って……」

「基さんの……お知り合いですか……?」

少女にお茶を入れてもらって、飲みながら話しているうちに、少女……松野リンとすっかり打ち解けあった。

「遥佳ちゃんって、基さんの妹さんだったんだー……」

「うん、妹っていっても義理のね。リンこそ、兄さんの友達だったとはねー」

「ゴホゴホっ……ご、ごめんね!あの、遥佳ちゃん、わたしたちがここに住んでることは……」

「わかってる、誰にも言わない!その代わりさ、ちょいちょい遊びに来てもいい?」

「え……でも……」

「同年代の女の子の友達、あんまりいないんだ!お願い!」

手を合わせて真剣に頭を下げる遥佳の願いを、断れないリンは受け入れた。

こうして、遥佳とリンの交流がはじまった。

今思えば、これがすべてのはじまりだったのかもしれない。

第十三話 完


過去編突入の第十三話です。

登場人物の読み仮名がややこしいので、徐々に入れていこうと思っております。

手始めに、過去編主人公の彼は「東雲基(しののめはじめ)」です。ダブルヒロインのひとりは「矢倉遥佳(やくらはるか)」、もうひとりは「矢倉時雨(やくらしう)」です。わかりにくくてすみません。

この過去編は大きく分けて二部構成で、辛い話ばかりになります。でも楽しい話もありますよ!?

彼らの駆け抜けた人生を、どうかお楽しみください。

2015.8.27 ひじきたん

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