『彼』の面影
————ぐしゃぐしゃになって、折れてしまいそうだ。
いまにも倒れそうな満身創痍を、こなくそと呑み込んでどうにか両脚に力を込める。口に入り込んだ砂とともに、血反吐をヤケクソで吐き出した。
「武器を手に取る機会を差し上げます。さぁ、どうぞ」
そう言って彼は、それこそかのイエス様のごとき輝かしい、慈悲の笑みを浮かべる。
相手はいまだ、一覇の血で拳を汚しているものの、小さなかすり傷のひとつも付いていない。
黒く長い修道着は、埃ひとつない綺麗なままだ。
この場において冷静なのは、おそらく彼ひとりであろう。
————いや、あいつが一番……狂っているかもしれない……。
一覇をボコボコに殴り倒し、あまつさえ笑顔を浮かべている。
普通一般的に考えれば、人を傷つけることにどこかで抵抗感が生まれるはずだ。
そんなヒトらしい躊躇いを、六条保泉という男は一切見せない。
「……っ!」
呼吸をするだけで肺が痛い。
脚はガクガク震えていて、手は拳を構える力すら湧かない。
痛みを歯ぎしりでごまかして、歯茎から血が滲む。血のほろ苦い味が、口中にじわりと広がる。
————武器……。
ところどころほつれや破れがあり、数十分前の面影を感じられないくらい、すっかりぼろ切れになった制服の黒いスラックス。その脇にあるポケットに手を伸ばす。
全身の痛みに震える指で、長方形の冷たい感触を確認した。
たったひとつだけの、切り札。
だけどこの身体で振るえるのだろうか。
戦えるの?戦うの?
オレはヒトを傷つけられるの?
————……怖い。
これまでの戦いで、一覇は自分で積極的に相手を傷つけたつもりはない。
明らかに、自分に対して殺意をもつ相手だから……殺されると思ったから、武器を手にとった。
でもいま、たぶん保泉は、一覇を本気で殺そうとは思っていないだろう。
少なくとも、止めをさすことはないはずだ。
これはあくまで資格試験であり、一覇は受験者、保泉は試験官。
その域を超えた行為は、許されないはずだ。
「おやおや。武器を手にする間もなく、このまま黙って死ぬおつもりですか?」
一覇の指が止まった辺りに、保泉の視線が向かっている。
いかにも聖人君子ぶった、気味の悪い薄笑みを貼り付けている保泉が、嘆き悲しみの文句を漏らしながら、倒れかけている一覇に近づいてくる。
「悲しいですね。さもしいですね。君はもしや生に執着がないのでしょうか?それでは仕方ありません。では————」
黒い十字架の切っ先が、保泉と同じように意地悪く、仄暗く、穏やかに嗤っている。
青い炎は静かに燃えて、まるで保泉の意志に呼応しているようだ。
「せめて痛みを感じる間もないよう、最大限の慈悲をもって殺して差し上げましょう」
背筋がぞくりと冷えるほど、明らかな————強い殺意。
殺される。
このまま指一本動かさず、棒のように立っていれば、この男は無駄な枝を刈る庭師のように、一覇の命を刈り取るだろう。
このままじゃ殺される。殺される。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
あの日と同じ、紅色の瞳に映る自分。
怯える様はあまりにも情けなく、必死に母親を呼ぶ赤子よりも遥かに劣る意志。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
死にたくないのなら……
右の手のひらに吸いつく、ニュークロムの冷たさを感じた。
冷たい金属なのに、なぜか鼓動を感じる。
「『具現せ、“かぐや”』っっ‼︎」
燃えたぎるは、あの日と同じ深い翡翠の炎。ところどころに橙色がキラキラと煌めいている、不思議な炎だ。
もう一度生きようと決めた、あの雪の日みたいな優しい温もりに包まれているよう。
いったいオレは、なにに怯えていたのか。
最初から決めていたじゃないか、彼女と約束したんだ。
胸のなかに、彼女の言葉と笑顔が蘇る。
『「傷つくこと、傷つけられることを恐れないで。それがきっと、君の力になる」』
ひとは傷つくもの。
どんなに傷つき、折れて、泥だらけになり、汚れてしまっても。
たとえこの脚が折れて砕けてしまっても、それでもオレたちは進むのだと。
前でも後ろでも、横道でも。
自分が正しいと感じるその道をさがして、どこまでも突き進むんだ。
菜奈が、その命を賭けて教えてくれたこと。
一覇の右手に、透明の刀身が美しい曲刀の姿が湧き上がる。
纏わりつく炎の光を受けて、翡翠色にも橙色にも輝く。その姿は、オパールのように妖しい。
一覇の青い瞳も同じように、炎の光を吸いこんで翡翠色に燃えている。
明滅する橙色は、さながら大空に広がる星のごとく、強く美しく瞬く。
それでいて温かくて優しさがこみ上げるそれは……月の裏側みたいに強靭な意志のこもった、その眼は。
保泉の口角が、ふと緩んだ。
嬉しい、というよりは、おそらく確信ではないかと、保泉自身は思う。
「その眼、その意気ですよ。やはりこうでなくては」
————やはり君は、『あの人』の生き写しですね。
『あの人』の背中を追っていた。
決して広くはないし、時折悲しさと情けなさを負っているその背中は、それでもワタシの憧れだった。
いつかは『あの人』みたいになりたいと、ただそばにいたいと……共に戦いたいと、叫ぶように激しく祈り、願っていた。
かつてのワタシは、いまの『君』のように真っ直ぐだけれど、でも違う。
頑ななその意志は、道は、瞳は、色は。
間違いなく『君』でしかないのだから。
翡翠色の炎を纏った曲刀が不器用に、だが愚直とも言えるほど真っ直ぐに軌道を描き、保泉に向かって来る。
保泉の“黒耀”と激しくぶつかり合い、周囲に鮮やかな青緑の火花を散らした。
保泉が弾き返すと、たぶん勘だろう。一覇は身をよじり、跳ねるように後ろへ退がった。
決して視線は外さず、一心に保泉の手を読もうと巡らせている。
「ふーむ……やはり面白いですね、君は」
見れば“黒耀”にも“かぐや”にも、傷はひとつも付いていない。
一覇はすでにあちこち怪我を負っているが、保泉はまるきり戦闘前。
だが武器を伝って、びりびりと響くこの力は。
体重があるわけではない。むしろ軽いだろう。
保泉の“黒耀”のように特殊型の武器ではないようだし、筋力も抜きん出たものはない。
知識は……事前に調べたところでは、一般的な十五歳の少年にしては充分すぎるほどある方だろう。勘もいい。
ただそれだけの、普通の少年のはずだ。
なのになぜ、こんなにも。
六条保泉は震えているのだろうか。
畏れ?
怒り?
嫉妬?
六条保泉の魂レベルに刻まれた本能が、打ち震えている。
————やはり、鷹乃様の予言が正しい……?
まだ『あの人』の面影で、惑っているのだろうか。
我ながら随分と、日和ったものだ。
あんなちっぽけな記憶ひとつで戸惑い嘆く四季様とは違うと、自分を強く信じていたのだが。
やはり『あの人』はどこまでも、ワタシを狂わせるお方のようだ。
運命に抵抗するのが、楽しくなってしまうではないか。
心が弾む。いよいよ我慢できなくなって、くすりと片頬で微笑んだ。
「予想以上で、おつかいをすっかり忘れて楽しめそうです」
保泉は独り言のつもりだったのだが、どうやら一覇の耳にもしっかり届いたようだ。
きょとんとした表情で、しかしやや緊張した様子で慎重に尋ねる。
「おつかいって……皇槻鷹乃、さんの……?」
おや、と予想外の展開に驚いた。
「四季様から伺ったのですか?」
弱虫な彼なら「一覇を余計なことに巻き込みたくない!」とかほざいて隠し通すかと、鷹乃ですら予想していたことだというのに。
案外、彼も成長したということか。などと不出来な弟子の内面の成長を感じて、満足げに口中で笑った。
「…………」
一覇は難しい顔をして、なにも答えない。
おそらく四季からアレコレ吹聴されて、鷹乃ないし保泉に警戒心を持っているのだろうと、保泉は想像した。
四季は沈黙ではなく、警告を選んだか。
————まぁ、一番賢明ですかね。賢くて敏感な一覇少年には、少々余計なことかもしれませんが。
なにか考え事に寄りすぎて、手が止まっている一覇に向けて、悪戯にひとつ拳をぶつけてみた。
だが一覇ももう学習してきた、まさに間一髪といったところで避けてみせる。
それでもわずかながら頬に掠ったようで、一筋だけ内出血が起きた。地が白いから、青紫の傷が目立っている。
他にもいくつもの擦過傷や挫傷、打撲痕で、整った顔や長い手足のあちこちに傷が見受けられるが、痛みを感じる余裕はいまの一覇にはないのだろう。
だがさすがに一覇も反撃に出る余裕はまだ持ち合わせていないのか、保泉の攻撃に防戦一方だ。
“黒耀”が大型だから小回りが利かないことを鑑みて、曲刀の“かぐや”で攻撃しようと果敢にも挑戦しているみたいだ。
だがそのチャンスは、保泉の華麗とも言える足技でことごとく奪われる。
保泉の伸びた足を避けるために意識を持っていかれて、攻撃に転じるタイミングが失われる。その繰り返しだ。
はたから見たら、呑気な組手でもやっているようだろう。
実際、保泉の感覚としても、四季の修行に付き合っていたときを思い出す。
繰り出された技にも満たない突きを斬撃を、ときには腕で、ときには“黒耀”でいなし、受け流す。
しかしこれらを繰り返すうちに、なんとなく様になってきている、わずかな手応えを感じ始めた。
手前勝手の自分に師匠など向いていないと思いこんでいたが、なるほど。
これを面白いと感じるということは存外、立派な師匠だったのかもしれない。
右に左に、横っ腹に。
急所を狙って突き刺さんと鬼気迫る翡翠色の曲刀は、だんだんと研ぎ澄まされていく。
切っ先から溢れる凄まじい風圧が、橙色の美しい雪をほのかに纏って迫り来る。
美しい。
映画のワンシーンのような幻想的な光景に、保泉は息を呑んだ。
どんな死神の鎌でも、姫巫女の舞踊でも、これほどまでにひとの魂を魅了することはないだろう。
聞けばまだまともに戦闘に参加していない、訓練すら受けていないというではないか。
これでまだ初心者だというのだから、これからの伸び代に期待せざるを得ない。
ひとつの力強くも美しい剣舞として完成する、いつかのそのときを。
保泉は師匠という立場を得て、また一個人としても、見てみたいと思うようになる。
ここまで『育ててみたい』と強く思うような子供は、なかなかいないことと予言し断言できる。
だからこそ、鷹乃の苛烈な計画に組み込んでいいものか個人的には迷うのだが、入れることで成長することもあるかもしれない。そう思い直すことにした。
「あのお方のお考えは、ワタシにもすべてはわかりません。それでもひとつ、君には是非とも理解してもらいたい」
横薙ぎに一閃、一覇の“かぐや”が煌めいた。
保泉はそれを“黒耀”の腹で受け止める。
だんだんと、一覇の攻撃と攻撃の間が狭まっている。それに初めは防戦一方の彼が、いまでは攻める側に回っているのだ。
気がつけば保泉の修道着にはほつれが、“黒耀”には細かい傷が生まれている。
おそるべき成長率。ますます期待値は高まる。
だが。
————彼は少し、調子に乗っているようですね。
一覇の顔を見ればわかる。
剣を振るうことで気分が高揚し、戦いに溺れている。そんな顔だ。
自分の攻撃が通用してきていることに、彼もまた気づいているのだろう。
このまま保泉が黙っていれば、試験の終了時刻を待たずして、一覇に致命的な傷を負わせられるかもしれない。
黒い十字架を握り直し、保泉は思考を切り替えた。
たぶん偶然だと思われるが、一覇は綺麗な正眼の構えをとって突撃してくる。
しかし。
保泉の前に飛び込んでくる一覇の右脇腹を、黒い十字架の鋭利な切っ先が、音速で通過した。
やや遅れて制服の黒いブレザーが裂けて、布地がだらんと垂れ下がった。
持ち主にその気がなかったのが幸いだ、一覇の身体に黒い十字架は貫通していない。
だがそのたった一撃で、盛り上がっていた一覇の気持ちが、多少なりとも冷静となったらしい。
暴れまわったせいで荒くなった息を弾ませ、曲刀を握った右手はだらんと力なく垂れ下がっている。
自分でもなにを考えていたのか、と疑問に思うような表情だ。
一覇の落ち着きを確認して、保泉は誰にも聴こえないように彼の耳元でそっと囁いた。
「皇槻鷹乃に逆らえるヒトは、君くらいです」
「……?それって、どういう……」
それ以上は答える気がないと、そう言いたいのだろうか。
一覇は保泉の強烈な足払いを受けて、地面に背中を激突。そのまま簡単に組み伏せられてしまった。
頬に触れた保泉の真っ白な髪は少しかさついていて、これまでの苦労のほどがわずかながら窺い知れる。
にこ、と保泉が邪気のない笑みを向けたと思いきや、一覇の腹に鈍痛が襲いかかった。
恐る恐る視線を移すと黒い大きな十字架が、外国映画でよくみる墓石のように深々と突き刺さっている。
びりびりと、痺れるような痛み。
刃物が刺さるとこんなに痛いなんて、初めて知った。
あまりの痛みに耐えきれず、一覇の意識が飛んだ。
「いまは理解できなくて結構です。いずれ……すべてが明るみになる日がくれば」
そのまま気絶した一覇が、保泉の最後の言葉を聴くことはなかった。
倒れた一覇を心配した医療班の数名がコロシアムの中央部に駆けつけるなか、保泉は邪気のない晴れやかな笑みで試合を締めくくる。
「今日はとても楽しかったですよ。ありがとうございました」
遅れて、会場内のいたるところに設置されたスピーカーから、審判の男性の戸惑いが含まれた声が響いた。
「じゅ、受験者の戦闘不能により、試合終了!よって受験番号444番は不合格とする!」




