銀色の月が微笑む、その刹那に
分割しております(՞ټ՞☝
菜奈と分かれてから、何分経っただろうか。
一覇は公園のなかを走り回りながら、このまま街へ行こうかどうしようか迷っていた。
公園の敷地内に公衆電話があればいいが、携帯電話が普及し始めた昨今ではその保証はない。探し回って徒労に終わることが一番怖い。
しかし街まで出て、もし菜奈が失敗して悪魔を取り逃がし、その悪魔が一覇を追ってきたら。
鬼魔という生き物はたいていの場合、より強大で強力な霊子の持ち主を喰うという統計データがある。
霊子体である彼らは、自分の存在を維持し続けるために霊子を補給しようとするからだ。
原子体である人間の霊子は、鬼魔から見ると存外上質である。
単に人殺しが好きな血の気の多い者もいるので、すべての鬼魔に当てはまるものではないが、一覇を襲ったあいつも強い霊子の持ち主に惹かれると仮定しよう。
一覇の霊子は、とびきり上質だと思われる。いままで霊子体に追いかけられた経験から、たぶんそうだ。
だとしたら、あいつが追ってくる可能性はありえること。
————……街へ行こう。その方が派出所があって確実だ。
街の知っている限りでもっとも近い派出所を目指して、一覇は迷った足をふたたび走らせる。
と。
「ちょっと君ィ、待ちなさい!」
急に呼び止められて、一覇の足が止まる。
煩わしそうに振り返って見ると声の主は、懐中電灯を持って紺の上下とぶ厚いベストを着込んだ壮年の男性だった。帽子と胸元に輝く金の紀章から、彼は警官のようだとわかる。
警官は一覇の顔、髪、服装を胡散臭そうに順番にじろじろ見てから、帽子のつばと腰に手を当てて唇をひん曲げた。
「君、小学……中学生だよねェ?だめじゃないかァ、こんな時間に一人で出歩いてェ。お家はどこ?家族の人は家にいるの?」
なんとなく鼻にかかった口調の警官だ。
口は最初よりひん曲がっていて、現職の警官にしてはやや痩せているように見える。髭が丁寧に剃られているので清潔感はあるが、口調のせいでべっとりとした印象を持った。
しかしこれは最初で最後のチャンスだと確信した。
この警官に言えば、きっとすぐに肩口の無線機で警察本部経由で霊障士を呼んでくれる。
霊障士を呼べば、菜奈がこれ以上の危険を冒してまで戦わなくていい。
ちらりと目だけを動かして背後を向くと、遠くに剣戟らしき橙色の光が見える。
一覇は急いで状況を手短に説明した。
「あのっ……今、悪魔がいて……女の子がひとりで戦っているんですっ」
しかしまったく絶望的なことに、一覇の希望とは真逆の答えが出された。
警官は曲がった口をさらに歪めて、あからさまに信じていない、むしろ非難するような顔をした。
「なにを馬鹿なこと言っているんだね。さァ、早く帰りなさい。最近ここら辺は物騒だから……」
「っああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「!!!!」
大晦日の割に人が少ない夜の山下公園に、鼓膜をつんざくような絶叫がこだました。
菜奈の声だ。
そのあまりにも痛々しい悲鳴に、思考がホワイトアウトしそうになる。
「っくそっ……!」
「ちょ、ちょっと君ィ!どこに行くんだい!」
だが一覇は一秒も考えず、自然と毒づいて走り出した。
警官が慌てて止める声も無視して、一覇はひたすら走った。
光のあった方向へ。
「菜奈っ!!」
菜奈のうずくまる姿を見た途端、一覇は思わず息をのんだ。
見たことがない恐ろしい光景だった。
菜奈の左腕は肩から斬り落とされ、おどろおどろしい黒い血がぼたぼたと止めどなく流れている。
悪魔も同じように左腕を失っているが、菜奈と違ってなんでもないように平然としている。
むしろ一覇の姿を見つけた瞬間、血走った目を歪ませて歓喜のような声を上げた。
「しゅで、ん……どうじ、さま……おぉ……おもどりに、なられ、た……」
一覇は狂喜乱舞する悪魔を無視してしゃがみ込み、菜奈のすぐ側に落ちている銀盤を手にした。
菜奈の霊障武具基盤だ。
菜奈が霊子を枯渇させたために、今はただの鉄塊と化している。
しかしほんの先ほどまでちゃんと駆動していた証拠に、そのものが熱を帯びている。
「……『具現せ』……」
一覇は基本中の基本である、基盤の起動音声コマンドを知っている。
父は霊子科学者だし、母は霊障士だった。
一覇も双子の弟も、幼い頃から霊障術に触れていて、一般人の割には深い知識がある。
だが、その基盤の固有名を知らない。固有名を知らなければ、基盤は起動しない。
固有名こそが、本物の起動コマンドなのだ。
「…………“かぐや”」
振り向くと、菜奈が重傷の左側を押さえて、無理矢理微笑んでいた。
だがその笑みは、どこか無限の力を与えてくれるように力強かった。
「ごめんね、一覇……わたし……」
「オレも、ごめん。遅くなった……」
「「……一緒に」」
声が重なり、思わず見合わせて笑った。
同時に頷く。
————……「一緒に戦おう」。
人はひとりでは生きていけない。
ひとりでは戦えない、歩けない。
ひとが戦うとき、そのとき必ず、誰かも一緒に戦っている。たとえその場にいなくても……。
一覇の基盤を握った左手に、菜奈の右手がそっと添えられる。
ふたり同時に、口を開いた。
「「『具現せ、“かぐや”』っっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」
無言を貫いていた銀盤————“かぐや”は一覇たちの激情に呼応したように、鮮やかなライムグリーンの輝きを放ち、その姿を再び刹那に美しい曲刀へと変化させる。
霊子には、霊障術の前進である陰陽術における、陰陽五行思想に基づいた五つの性質がある。
火、水、土、木、そして————金。
霊子の性質の数だけそれぞれに色と特徴があり、火はオレンジ、金はライムグリーンだ。
菜奈の持つ火の霊子と違う色ということは、いま“かぐや”を起動させた霊子は、金の霊子。一覇の持つ霊子だ。
ライムグリーンの温かくて力強い光に全身を包まれて、二人は場違いなほど穏やかに微笑んだ。
そして
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ふたりの雄叫びが同時に空へ高く響き、同時に
「しゅでん……どうじ、さま……?どうし、て……」
悪魔の深い悲しみと絶望に満ちた断末魔が、公園中にこだました。
「……ちは、いちは……っ」
声が、聴こえた。
大切な『彼女』の声が。
どこかとても遠くで響いているような気がする。
『大丈夫だ』って言って手を伸ばしたいけれど、体が動かない。
視界も、なんだかぼやけている。
冬の空気で透き通っているはずの夜の星空が、ひどく滲んでいる。
雲に隠れていたはずの下弦の月は、銀色の光を放ってぽっかり浮かんでいる。
まるで見守っている————あるいはことの顛末をじっと観察しているように感じた。
そういえば眼鏡はどこに行ったのだろう。
いつの間にか無くしていたことに気がついたが、すぐにどうでもよくなった。
胸にはかすかな温かさと重みを感じるが、なにが載っているのか確認することができない。
すぐに視界が反転する。最後にもうひと目だけ見えた月が、ふっと微笑んだように感じた。
まだ続くよ!!




