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あの日の思い出に栞を

作者: さなぎ

 暖かい日差しが降り注ぐ丘に、一軒のログハウスは建っていた。風が駆け抜けるたびに、丘の草花と、風見鶏が錆びた音を立てながら揺れる。


 ログハウスの主は椅子に腰掛けながら、丘を眺めている。机の上には、ティーセットと、一冊の本。それに挿まれている、少し色褪せた紙の栞。ベゴニアという、濃いピンク色の花が押し花にされている栞だ。


 唯一の住人である老婆は、砂糖壺から角砂糖を一つ摘まみ、紅茶に落とす。ぽちゃん、という音を立てて角砂糖は、水面に映る老婆の顔を揺らし、底に沈む。老婆はその光景を見て、ふと過去に思いを馳せる。シワなんてものはなく、若々しかったころの思い出を。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 彼女は昔、今とは違う大陸に住んでいた。彼女が今の土地にたどり着いたのは、五十年前、まだ二十歳すぎの頃だった。


 元の大陸で彼女は、駆け出しの新聞記者だった。大きなニュースを取り扱ったことがなく、いつも端っこの方に、小さく記事が載せられているだけであった。社内での評価もイマイチで、実力はあるがパッとしない、というのが彼女に下されたものだ。


 そんな彼女に、転機が訪れる。いつもと同じように、新聞記者として奔走し、編集部へと帰ってきたある日のことだった。


「シンディ、新大陸に興味はないか?」


 編集長に呼ばれ、言われたのがそれだった。曰く、新大陸の方で記者に欠員が出たらしい。その欠員というのがベテラン記者の一人で、空いた穴をふさぐためにはある程度経験を積んでいる記者が好ましい。だから、本国から一人送って欲しい、という要請が来たのだ。


 そこで白羽の矢が立ったのが彼女、シンディであった。経験の方は一人でどうにかできるほど積んでいて、文章構成も申し分ないという賛成意見が多数出たからだ。


 最初は困惑していたシンディではあったが、編集長の一言が背中を押した。


「これはチャンスだ。掴むかどうかは、君が決めればいい」


 シンディは新天地での、新たなチャンスを掴むことを選んだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 出発までの一週間は、目まぐるしく過ぎていった。両親に今回のことを報告し、友人たちに別れの挨拶をし、部屋と家具を引き払い、出立の準備を終えた。


 朝、シンディは必要最低限の荷物だけを持って、部屋を出た。向かう先は、彼女が住んでいた町からほど近い港だ。そこから船に乗り、三日ほど航海をすることになる。


 編集長の話では、船内には娯楽施設もあり、三日なんてものはあっという間だという話だ。一応、パンパンに膨らんだカバンの中に何冊もの本を入れているので、航海に飽きるということはないだろう。


 港に着くと、見送りをする数多くの人々と、それを見下ろすように巨大な船体が海に浮かんでいた。アイビス、という名前が付けられた蒸気船の両側面は黒く塗られていて、どことなく威圧感を振りまいているように思えた。


 搭乗口で、あらかじめ渡されていた乗船券を見せると、シンディはあっさりと乗船することができた。


 重たい荷物を引き摺るかのように持ち運び、指定された客室を目指して歩く。客室はランクによって、三つに分かれいる。彼女に用意されたのは、真ん中のランクだった。豪華客船にも引けを取らないアイビス号の客室は、中位のランクであっても広く感じられた。


 白いベッドシーツがかけられたシングルベッド、足元のには汚れひとつ見えない赤い絨毯。部屋の調度品の一つ一つはシンプルで、部屋全体がまとまって見える。


 シンディは荷物を下ろすと、船内の散策へと向かった。出港までまだしばらく時間があるからか、乗客は疎らにしかいない。案内板はそこかしこに設置されていたので、広い船内で迷うということはなかった。


 船の中の施設、特に利用するであろう食堂やシャワー室を中心に見て回った。食堂は広く、いくつもの丸いテーブルが置かれていた。形式はバイキングだそうで、メニューもなかなか期待できるものだった。


 一通り見て回り自室に帰ったところで、船が一度長い汽笛を鳴らしてから、ゆっくりと前進し始めた。次第に船は速度を上げていき、最初の方にあった揺れは収まっていった。


 シンディが外に出て景色を見ると、もうそこは大海原であった。空を見上げると、雲一つない快晴で、晴れ渡った青空と太陽しかなかった。


 こんな日に船内で過ごすのはもったいない、そう考えたシンディはハードカバーの本を一冊持ち、甲板へと上がる。


 甲板には景色を眺めている客や、お茶をしている貴婦人らの姿があった。談笑するために、甲板にはベンチとイスがあらかじめ置かれている。シンディもその内の一つに腰を下ろし、本を開く。


 燦然と輝く太陽の下で嗜む読書は、とても開放的なものだとシンディには感じられた。潮風が勝手にページをめくるのを手で押さえながら、彼女は航海中はここで読書に勤しもうと思った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一日目の夕食は予定されていた通り、バイキングであった。格段に豪華というわけではなかったが、シンディにとっては満足のいく食事だった。


 食事を食べるとすぐに、彼女は着替えを持ってシャワー室へと向かった。早い時間に来たのが功を奏してか、シャワーをすんなりと済ますことができた。


 少し早い時間ではあるが、シンディは寝床に着くことにした。


 そして、二日目。シンディは、朝早くに目が覚めた。部屋から出てみると、冷たい風が頬を撫でる。水平線から次第に、暁が登ってくる。水が光を反射させて、爛々と輝き出す。爽やかな朝の訪れだった。


 シンディは着替えると、少しの時間を自室で潰した。しばらくすると朝食の時間となり、彼女も他の乗客と同じく食堂へと足を運ぶ。朝食は軽めの物を中心に取り、彼女はいそいそと自室へと戻る。そして、昨日と同じように甲板へと上がった。


 昨日と同じ場所を確保して、途中からまた読み進める。地下迷宮を探索する、冒険者たちの話だ。知らないことを追い求める、という点に共感を得たのが理由で、彼女はこの本を読んでいる。


 元はといえば、知ろうとするという探究心から、彼女は新聞記者になったのだ。今回、新大陸へと向かったのも知らないことを知りたい、というモノから来ていた。


「あっ……」


 悪戯な風が、彼女の元から一枚の栞を巻き上げた。それはふわりふわりと宙を舞って、静かに水面へと落ちていった。


 波にさらわれて、だんだん遠ざかっていく栞を見ていたシンディのもとに、影が落ちた。不思議に思って顔を上げると、近くに彼女と同年代くらいの青年が立っていた。


「これ、使いますか?」


 青年は一枚の栞を差し出して、笑顔を向ける。おずおずとそれを受け取ってから、


「ありがとう……?」


「どうぞお気になさらず!」


 満天の笑みでそう言う青年から視線を逸らして、シンディは差し出された栞のデザインを見る。濃いピンク色をした花が、押し花にされてるものだ。綺麗だとは思うもののの、何ていう名前の花か彼女は知らなかった。


「ベゴニアっていう、暖かい気候のところに咲く花なんですよ。他にも、オレンジや白色のものもあるんですよ!」


「そうなんですか……」


 シンディは職業柄、社交的な方ではあったが、青年のようなグイグイとくるタイプの人間は苦手だった。


 困惑の色が濃く出ていたのか、青年は少し申し訳なさそうにしながら一歩下がって、


「俺、ヒューバートって言います。一応、植物学者の卵です!」


「私は、シンディです。新聞記者をしてます」


 勢いに押されて、自己紹介をしてしまう。


「あの、少しだけお話しませんか?」


「えっと……別に構いませんが」


 本音を言えば、早く読書に戻りたかったが、無下に扱うわけにもいかず、シンディはヒューバートの話に付き合った。


 熱帯雨林に高く高くそびえる樹木、高地に咲乱れる花たち、砂漠で強く生きている草花、暖かい時にだけ咲く花。植物の話しかされなかったが、シンディにとってはその全てが新鮮に聞こえた。そして、ヒューバートが話し終える頃に、自然と言葉が出てきた。


「もっと、教えてくれませんか、色々なことを」


「もちろんですよ!」


 ヒューバートは嬉しそうにそう言い、


「そうだ、新大陸についたら一緒にお茶でもしましょう! その時、僕の栞コレクションを見せてあげますよ」


「へぇ、それはこんなのですか?」


 シンディはベゴニアの栞を見せた。そうすると彼は大きく頷く。


「色んなところで採取した物を、栞にしてコレクションにしているんですよ! 次に会うときは……バラの栞をお渡しします!」


「それは、楽しみですね」


 シンディが微笑みと、ヒューバートもまた笑う。彼女にとって楽しい時間が、過ぎていく。太陽が水平線の彼方へと消える頃、彼らは別れた。ヒューバートには待ち人がいる、ということでだ。


 シンディは一日目と同じように、二日目の夜を過ごした。三日目の朝には港に着くとのことで、荷物の整理も済ませておく。


 新大陸での楽しみが増えた、彼女は嬉しさに頬を緩ませながら、眠りについた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 三日目、朝。シンディは揺れで目が覚めた。船全体が揺れているようだった。部屋から出ようとすると、彼女の体を雨粒が叩いてきた。空を見てみると、昨日の快晴とは打って変わって、黒い雲が空を覆い尽くしていた。


 天候なんてものはどうしようもないので、彼女は自室へと戻る。それから、昨日の一件で全く読み進められていない本を読む始めた。その時、栞が目に入り、ヒューバートの顔が浮かんできた。


 彼は何をしているんだろう、そんなことに思いを馳せていると、揺れが止まった。突然のことで、思わず倒れそうになる。


 再び何事かと外に出ようとすると、船員たちが慌てて走り回っていた。話を聞こうにも、全く取り合ってくれなさそうである。


 疑問を抱えたまま部屋に戻り、数刻。ドアが激しく叩かれた。誰が来たのかと思い、ドアを開けると船員の一人が立っていた。


「必要最低限の荷物を持って外に出てください!!」


 必死の形相に何も言えず、その言葉に従って、カバンを手に外へと出る。雨が強く降りつけるが、そんなものお構いなしに船員はつき進む。


 何とか船員についていくと、そこにはシンディと同じように困惑している人々の姿があった。ヒューバートの姿を探そうとしたが、全く見当たらない。


 そうこうしているうちに、船長らしき人物が前に進み出て説明を始めた。


「皆さん、落ち着いて聞いて欲しい。この船は早朝、座礁した」


 その説明に、群衆がざわめき始める。シンディもそのうちの一人だった。そんなのはお構いなしに、船長は話を続けた。


「だから、この船は廃棄して、ボートで陸地を目指そうと思う!」


 こんな大時化の海で? そう彼女も思い、他の人々も同じような疑問を口にした。そんな時だった、船が静かに傾き始めた。


 そんな状況ではあったが、船長は落ち着き払った様子で話を続けた。


「この船は、もうすぐ沈んでいくだろう。船底に大穴があいたようでな。さぁ、このままこの船と一緒に沈むのか、ボートに乗って僅かな希望にかけるか、さぁ、どっちだ!」


 もはや自棄になっているようにしか聞こえない船長の声に、人々は一縷の希望にかけることにした。

 ボートに人が殺到し、船員がそれをなんとか押さえながらボートに乗せていく。そこには恥も外聞もなく、必死の形相だけがあった。徐々に何度も船は傾いていき、その度に悲鳴が上がる。


 シンディは人の波に流され、自分でも知らぬ間にボートに乗ることができた。ボートには船員が一人乗っていて、舵を取っていた。


 七十人ほどが乗っているボートの中は、暗い雰囲気で満ちていた。何も言わずに顔を埋めているもの、神への祈りを捧げるもの、船をじっと見ているもの。


 シンディは彼らの姿と、静かに傾いていく船を目に焼き付けていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 老婆――シンディはゆっくりと目を覚ました。懐かしい夢を見たものだ、と思いながらすっかり冷めてしまった紅茶を口にした。


 彼女は事故の後、なんとか陸地、目的地へとたどり着いた。金目になるものは持っていたので、新大陸での生活はあっさりと始めることができた。人生で初となる海難事故にあったにも関わらず、拍子抜けするほどに。


 彼女は新聞社についたあとすぐに、今回の事故についての記事を書き始めた。この記事は事故後何度も紙面を賑わせたが、一、二週間ほど経つと忘れ去られたかのように取り上げられる事はなくなっていた。


 次に彼女は、船で会ったヒューバートのことを調べ始めた。彼の会話に出てきた行き先で聞き込みをしてみたが、望んだ結果は得られず、約束は果たされないままとなっていた。


 それからのシンディの人生は、順風満帆と言えた。彼女のことを好きになった男性と結婚し、子宝に恵まれ、孫にも囲まれる生活。確かな幸せを、彼女は噛み締めていた。


「おばあちゃーん!」


 玄関先で、すっかり馴染んでしまった呼び方が聴こえてくる。シンディはすっかり硬くなってしまった体を労わりながら、元気な訪問者を迎えた。


「よく来たねぇ」


「うん! おばあちゃんは元気してた?」


「もちろんさ」


 シンディが笑うと、彼女の孫も満天の笑みで答えてくる。


「後ろの子はどちら様?」


 孫の後ろに、恥ずかしそうに隠れている人影がいた。シンディが声をかけると、少年は孫の前に並び立った。


「ボーイフレンドかい?」


「ちがいますー! 近所に住んでるアレン君だよ!」


「そうかい、そうかい」


 自分の娘に似てリアクションが面白い、そんな事をしみじみと思っていると、少年が何かを突き出してきた。


「くれるのかい?」


「……うん」


 差し出された手から、一枚の栞を受け取った。そこには、バラが押し花にされていて。


 どことなく、彼と風貌が似ている少年の顔を見ながら、やっと約束が果たせる、とシンディは胸を躍らせた。次会った時は、どんな話をしてくれるのか楽しみだ、と。

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