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後編

その日の学校の三時限目。科目は日本史。

生天目裕子の右隣に座っている海江田魚々子は子猫のように震えていた。

魚々子はとても地味な女の子だった。特徴的なのはサイドテールにしたミディアムヘアだけで、それ以外これと言って特徴が無く、黒くつぶらな瞳も、周りの喧騒にかき消される程度の存在感しかなかった。所属する生物部ではプラナリアの再生能力について研究していた。

その日の朝、かほりが惨死したことを知り、それ以降震えが止まらなかった。

(ああ……どうしよう……この前山の辺さんに詰め寄ってたのは私と生上院瑠璃香さんと島田かほりさん。そのうち瑠璃香さんは殺され、かほりさんは今朝事故死……次は私なのかな……どうしようどうしよう……死にたくない死にたくない死にたくない……怖い! ……どうすれば死ななくて済むんだろう? ……やっぱり山の辺さんが呪いをかけてるのかしら? ……山の辺さんに謝れば死なずに済むのかしら? ……でも今更どうしようっていうの? ……今更謝って済む問題なの? …………そもそも私悪いことなんてしたのかしら? ……どうしようどうしよう……)

キーンコーンカーンコーン

「この時河村瑞賢が東回り航路と西回り航路を作り、米の流通が……もう時間ですね。それでは次回はそのあたりから。ではさようなら。」

学校のチャイムが鳴るか鳴らないかのタイミングで佐藤繁子(三十四歳独身)が授業を終える。

次の化学の授業は理科室で実験をやるので教室移動がある。

山の辺深雪は化学の教科書とノートと筆記用具をまとめて胸に抱いて、席を立ち廊下に出る。長い黒髪を風に揺らしながら。

その後ろから海江田魚々子が駆け寄ってくる。

「山の辺さん! 山の辺さん待って!」

「……」

深雪は立ち止まらず歩いて行く。

魚々子は深雪に追いつき、並んで話しかける。

「あ、あのね、この前のことだけどね。」

「……」

「あのね、すごく申し訳ないなって思ってるの。」

「……」

「だからね、もし……恨んでたりしたら、ごめんね……」

「……」

深雪は魚々子をちらりとも見ず、歩いて行く。

「あのね、山の辺さん。もしかして……呪い……かけたり……とかってしてないよね?」

「……」

「どうなの? やってるの? やってないの?」

「……」

魚々子は体からぞわわわっと嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。呼吸も荒くなってきた。彼女は意を決したように深雪の目の前に立ちはだかる。そして彼女に向かって土下座した。冷たくて汚い廊下の床に額を擦り付けた。

「山の辺さん、お願い! お願いだから私を殺さないで!!! まだ死にたくないの!! お願い!! 私を生上院さんや島田さんみたいにしないで!!」

深雪はようやく立ち止まった。そして虚空を見つめていた目線を、土下座している魚々子に落とした。廊下で土下座する魚々子を見て、何事か? と立ち止まる生徒達の視線が痛い。魚々子は既に泣いていた。人目もはばからず、泣きながら命乞いをしていた。それに対し、深雪は困った顔をしていた。まるで私が何をしたの? と言わんばかりだった。なぜ自分が土下座されているかわからないといった具合だ。

やがて深雪は土下座している魚々子を無視して、避けるように歩いて行った。

魚々子は泣きながらなおも命乞いをしていた。

「お願い……お願い……お願い……お願いだから……」

そこに生天目裕子が近づいてくる。

「ちょっと、魚々子、何やってるの?!」

そう言って泣きながら土下座している魚々子の手を掴んで、立ち上がらせる。

魚々子は立ち上がると裕子の大きな胸に跳びかかるように頭を埋めた。

「怖いよーーー!! 死にたくないよーーー!! 助けて!!!」

「なんで魚々子が死ななきゃならないのよ?」

「うわあああああん!!」

魚々子は問いに答えなかったが、おもいっきり泣いた。それに対し、裕子は問いたださず、ただただ魚々子の頭を撫でてあげてなだめてあげた。

依然として廊下では奇異の視線が彼女たちに向けられていた。



***



その日の昼休み。

闇夜はある人物と体育館裏で話をしていた。

背は低いが、髪は膝くらいまであり、燃えるように赤く、真上に向けて髪を縛った変形ポニーテール。目はブラウン。青いチュニックにベージュのカーディガンというかっこうだ。アンディだった。

アンディは頬を少し紅潮させ、目を潤ませ、闇夜を見上げた。

「ご、ごめんなさい。僕のせいで……」

闇夜は少し困った顔をして言った。

「アンディ、いったいどういう状況だったんだ?」

「かほりがゴミ収集車に飛び込んだ後、緊急停止ボタンを押してもエンジンを切っても、プレス機が止まらなかったんです。それで僕は法力を使おうとマントラを唱えたんです。そうしたらマントラを唱え終わる前に邪魔されたんです。」

「邪魔?」

「そうです。自分の声が鏡のようなものに跳ね返されたと思ったら、地面と空が逆さまになって、僕は地面に落ちたんです。そうしたらものすごい重力で押しつぶされそうになって息が苦しくなって、マントラが唱えられない状態になって……それが解放されたのが、かほりが完全に潰された後だったんです。」

闇夜は顎をさすりながら言った。

「ふーむ……どういうことなのかな……」


昼休み時間というのもあってか、体育館裏でもがやがやと生徒たちの声が聞こえる。

生天目裕子は茶道部の部室に行こうと渡り廊下を歩いていた。その時ちょうど体育館裏で話をしている闇夜とアンディの姿を見てしまった。

(月島くんだ! もう一人はだれ? 月島くんがだれかと一緒にいるの見たことないけど……それに相手は制服着てない……先生かな? でもあんな小さい先生見たことないし……うちの学校の人じゃない? 誰だろう? う~ん話し声が聞こえないから気になるなぁ……)


闇夜は落ち込んでいるアンディをなだめた。

「アンディ、そういうことだったら仕方ない。お前のせいじゃないよ。相手は多分もっと強力な存在。一人じゃ無理だったんだ。あとでみんなで相談しよう。気にすんな。」

アンディはしばらく考えこんでコクンと頷いた。そして一閃の光りを放ち、たちまち小さな人型の半紙に姿を変えた。闇夜はそれを拾って懐にしまい、何事もなかったように歩いて行った。


(消えた!)

裕子は渡り廊下の柱の影に隠れながらその一部始終を見ていた。

(なんだったんだろう? あれ……人が消えちゃった! 月島くん……いったいどんな人なんだろう? ますます気になる……)

ちょうどいい頃合いに始業のチャイムが鳴り、廊下では人の流れが慌ただしくなった。



**+



東高円寺一帯は古くからの住人が多いせいか、古い作りの家が多い。

しかしご多分に漏れず、この辺りにも新興住宅地化の波は押し寄せていた。

そんな東高円寺の南側に三年前にできた新しい西洋風邸宅。それが海江田魚々子の家だった。大きな二階建ての洋館。魚々子と姉の也哉子の部屋は二階、父と母の寝室とリヴィングとダイニングとシャワールームは一階にあった。

その家では今ちょっとした問題が浮上していた。

魚々子の母親が家の門のところで隣の家の奥さんと話をしていた。

「あら? あんなところにあんな大きな蜂の巣が……」

「そうなんですよ、奥さん。シャワールームの軒下に大きなスズメバチの巣がができてしまって困ってるんですよ。」

魚々子の母親がそう答えた。

シャワールームの窓の真上に直径四〇センチほどの縞模様の蜂の巣があった。時々巣穴から、オオスズメバチがブンブン音を立てながら出入りしている。

「保健所には届けたんですか?」

「もちろん届けましたわ。……でもね、お役所仕事っていうか、なかなか駆除してもらえませんの。」

「そうなんですか。でもちゃんとした人に早く駆除してもらったほうがいいですよ。お役所がだめなら民間の駆除会社にでも。でないと蜂の巣泥棒に狙われますよ。」

「蜂の巣泥棒?」

「そうですの。蜂の巣って、害虫みたいな扱いですけど、愛好家とかいるんですって。蜂の成虫や幼虫は食用にして、巣は美術品や縁起物として飾る人もいれば、漢方薬の原料にしたりするんですって。だから高値で取引されるから、蜂の巣を専門に狙った泥棒もいるらしいですよ。そういう泥棒の中にはちゃんとした駆除方法を知らずに取ろうとする輩もいるので被害が出たりするらしいですよ。だからちゃんとした保健所や業者に安全に駆除してもらったほうがいいですよ。」

「まあ恐ろしい。」

隣の奥さんは、魚々子の母親に親切そうに助言していたが、隣家としては、自分の家にも被害が出ることを恐れての助言であった。

その二人が話している数メーター離れた所で、灰色のつなぎの作業服を着て帽子を目深に被った男が二人、蜂の巣を見ていた。

「おい、あれなら三万はカタイな。」

「そうだな。駆除会社に先を越される前に取っちまおう。」

二人はコソコソ話し合いながら、直ぐにその場を立ち去った。

しばらくしてから魚々子が帰ってきた。目は赤く泣き腫らしていて虚ろだった。登校時とは全く違う表情に母親は直ぐ気づき、声をかけた。

「おかえりなさい。どうしたの?」

「……なんでもない。」

玄関先に母親と一緒にいた隣の奥さんに挨拶するわけでもなく、魚々子はそそくさと家に入っていった。

魚々子は家に入り、リヴィングの冷蔵庫から麦茶の入った大きい瓶を取り出し、コップに注がず、ラッパ飲みして三分の一ほどゴクゴクと飲み干すと、瓶を冷蔵庫に戻し、階段で二階に上がった。自分の部屋のドアを開けると、とるものもとりあえずベッドに飛び込んだ。

うつ伏せのまま魚々子は思う。

(私も生上院さんや島田さんみたいに酷い死に方するのかしら? ……そんなの絶対やだ!……なんとしても生きてやる! ……意地でも生きてやる! ……)


「あなたも同じよ!」


不意に声がした。魚々子ガバっとベッドから起き上がる。辺りを見回してみるが誰もいない。


「あなたも私達と同じように死ぬのよ!」


魚々子は耳をふさぐ。

「あなたも私達の仲間よ!」

魚々子がふと窓を見ると、血まみれの生上院瑠璃香と島田かほりがベターっと張り付いていて、目を見開いてこちらを見ている。

「いやああああああああ!!!!!!」

魚々子は叫び、カーテンを閉める。しかしカーテンを閉めても隙間からこちらを覗いてくる。カーテンの隙間からこちらをギョロっと睨む二人の目玉が見える。魚々子は、一階に走り降り、新聞紙の束を手に取ると、自分の部屋へ戻り、新聞紙を窓に隙間なくびっしりと貼り付けた。そして掛ふとんを頭から被りブルブルと震えている。しかし耳をふさいでも声が聞こえる。

「あなたは死ぬのよ!」

「どういう酷い死に方をするんでしょうね?」

「あなたもあたしたちの仲間なの。」

「いつ死ぬのかな?」

「どうやって死ぬのかな?」

魚々子は耳をふさぎながら叫ぶ。

「いやああああああああ!!!!!! やめてやめてやめてやめて!!!!!!!」

なおも声は続く。

「これは既に決定事項なの。」

「私達が死んであなたが死なないはずないわ。」

「あなたも死ぬのよ!!!」

魚々子は震えるしかなかった。


魚々子は結局家から出ることもできなくなり、学校も休むことになった。彼女は精神科に行くことになり、その幻聴や妄想、睡眠障害などから、統合失調症と診断され、副作用の強くて精神的にしずめるような薬を多く処方された。



***



闇夜の家ではちょっとした集会が行われていた。そこには闇夜、スケキヨの他に、アンディ、スチュワート、ゴードンの全部で五人いた。

闇夜がまず口火を切った。

「島田かほりが死んでしまった今、もう一刻も猶予がなくなっている。スチュワート、最後に残ってる、海江田菜々子についてはどうだ?」

スチュワートはくちゃくちゃとチューインガムを噛みながら答えた。

「そうだな。怯えに怯えまくってるようだな。どうも、この前死んだ島田かほりと生上院瑠璃香の声や姿が見えるらしい。これは明らかな呪術だ。一刻も早く呪いの発生源と思われる、山の辺深雪をヤる、ってのが俺の意見だぜ。」

アンディも続ける。

「島田かほりが死ぬ時も、何か強い力が働いて、僕に法力を使わせてもらえなかった。何らかの呪いが働いているのは間違いないです。」

それに対して冷静沈着なゴードンが口を挟む。

「いや、それは時期尚早かと思われる。現に私は山の辺深雪を二十四時間監視しているが、呪術的行為は一切していない。」

闇夜は少し考えこんで言った。

「スケキヨ。瑞歩はどうだ?」

スケキヨが答える。

「昼間は相変わらず、毎日布教活動か、『灯台の光』の集会にって感じだね。でも日毎に深雪に対するプレッシャーが強くなっている感じがするよ。そうだよね? ゴードン。」

ゴードンは少し答えづらそうだった。

「……ふーむ……確かにそうかもしれない……」

闇夜はまた思案してから言った。

「そうだな。じゃあ決まりだ。今夜、山の辺深雪を対象として、怨霊調伏の儀式を行おう。しかしアンディの話を聞くと、相手は手強そうだ。そして山の辺深雪が呪術行為をおこなっていないというのも腑に落ちない点だ。だからもう一人くらい識神がいると助かるのだが……」

と、闇夜はゴードンの方を見る。

「ヘンリーはどうだろう?」

ゴードンはスチュワートを見ながら言う。

するとアンディがゴードンに聞いた。

「ヘンリーって誰ですか?」

「私とスチュワートがあなたと組む前に組んでいたストリングス使いです。しばらく三人で組んでいたのですが、ちょっとした行き違いがあって、彼が抜け、あなたが入ってきたわけです。少し見知った識神の方が一緒にやりやすいと思うので……」

闇夜はアンディ、スチュワート、ゴードン、スケキヨの顔を見回してから、パチンと手を叩いて言った。

「よし。じゃあ決まりだな。識神はその五人で行こう。」

その場にいる者達は全員頷いた。


スケキヨはその晩、みんなに麻辣火鍋を振舞った。

「人が多いから鍋がいいよね。それに火鍋は体力つくし。ニシシ。」

スケキヨがいろいろ美味しいものを作って食べているのに慣れているとはいえ、「識神が美味しいご飯とか健康に良いもの食べたりして変化とかあるのだろうか? まあ気分の問題なんだろうな」と闇夜は思った。

闇夜は予めヘンリーも召喚しておいた。闇夜より背が高く、無精髭を生やした男だった。髪の毛は真っ白で眠そうな目をしている寡黙な男だった。

「火鍋は鍋を二つにしきって、辛い鍋底と白湯スープの鍋底を入れておくんだ。辛いスープは豆板醤ベースで、食べるラー油、にんにく、ネギ、草果、八角、中国山椒等を入れて煮込むんだ。白湯スープは鶏ガラスープベースで、牛乳、ゼラチン、にんにく、ネギ、クコの実、草果、ナツメ等を入れて煮込む。」

一同はスケキヨのうんちくを聞きながら、既に臨戦態勢は整っていた。みんな口に唾液を溜め、箸を手に鍋に飛びつかんばかりだった。

「具材はラム肉、エビ、イカ、春菊、白菜、焼き豆腐、豆苗、シャンツァイ等等。さあ召し上がれ!」

一同

「いっただっきまーす!」

都合六人分の箸が鍋の上に舞った。大人数で食べるには鍋が良いとはいえ、六人も人がいると、この鍋は少々小さいように感じられた。

「ゴードン、それ俺のイカじゃねーか! よこせ!」

スチュワートがゴードンに噛み付く。

「こういうものは早い者勝ちと相場が決まっているのじゃないのかね? そんなに言うならプリンのように名前でも書いて冷蔵庫にしまっておいてくれ。」

ゴードンが目をつぶりながら冷静にイカを口に運ぶ。

「クソ。ってヘンリー! 言ってる隙にエビとってんじゃねー!」

スチュワートは他の人に文句を言ってるだけなので全然食べられない。ヘンリーは我関せずと言った具合で黙ってエビを食べる。

闇夜はそんな熾烈な鍋争奪戦でかろうじて勝ち取ったラム肉を、辛いスープの方に入れてみる。しゃぶしゃぶ用に薄く切ってあるので、すこしくぐらせるだけで火が通る。口に運ぶと、唐辛子の熱い辛さと、山椒の痺れるような辛さ口に広がったあと、八角の清々しい香りとともにラム肉独特の旨味を感じた。今度はシャンツァイを白湯スープに泳がせてみた。タイではパクチーと呼ばれ、苦手な人も多いらしいが、闇夜はこの独特の清涼感が好きでたまらなかった。

スチュワートも何とか食べることができて余裕ができたのか、アンディに余計なことを言っている。

「あれ? お前、白湯スープしか使ってないじゃないか?」

アンディはもじもじしながら答えた。

「……えっと、僕……辛いのだめなんです……炭酸も飲めないし……」

「へへ。お前、見た目通り味覚もおこちゃまなんだな。」

スチュワートはからかうように言った。それに対してアンディはむっとした。

「おこちゃまなんて言われたくありません! そういうスチュワートだって辛い方しか食べてないじゃありませんか? 味覚が死んでる証拠ですわ。」

アンディは鼻でせせら笑った。

「なんだと?!」

ゴードンが割って入る。

「お前たち、それくらいにしとけ。これから仕事があるっていうのにそんなんじゃいかんだろ?」

「そうだよ。みんななかよく食べようよ。まだまだ具はいっぱいあるからね。あ、スープが減ってきたから足そう。」

スケキヨがコンロにおいてある二つの鍋を持ってきてスープを注ぎ足す。


なんだかんだ言って具もスープもみんな残らず平らげてしまった。唐辛子やにんにくのおかげかお腹の中から全身まで温まっている。

これから迎える死闘を前にした、つかの間の晩餐だった。



***



午前二時。

高円寺天祖神社。

ここは青梅街道から大久保通りに続く坂道を下ったところにある小さな神社だ。

大通りから外れているので、普段から人があまり来ないところだが、この時間ともなると、さらに物悲しい雰囲気がある。

『天祖神社』という名称の神社は全国各地にあるが、どれも、天照大神(あまてらすおおみかみ)を主祭神とする、伊勢神宮を総本山とする神社で、天照大神の御分霊が祀られていて、高円寺天祖神社も例外ではなかった。日本最強の太陽神、天照大神を味方につけることができるこの場所は怨霊調伏にはうってつけだった。

闇夜は神社に入る前に拝殿の方に一礼してから鳥居をくぐった。そして手水舎(ちょうずや)で口と両手を清めた。なるべく神社の端っこを歩いて拝殿に向かう。そして二拝二拍手一拝で祈念する。

闇夜は神社の敷地に五芒星を描くような場所に、赤い五芒星の描かれた護符を五ヶ所に貼りつけた。これで結界ができた。神社敷地内から発せられる音は外に漏れることもないし、人払いの効果もある。結界を作ったおかげで空が赤黒くなった。

闇夜は神社の入り口近くまで行くと、懐から赤い五芒星の描かれた人型の半紙を五枚取り出し、息をフッと吹きかけて、ばら撒いた。半紙が地面に落ちると、五つの直径三メーターほどの円が青白く浮かび上がり、五人の識神が現れた。スケキヨ、アンディ、スチュワート、ゴードン、ヘンリーの五人だ。皆蝶ネクタイにタキシードを着ている。スケキヨはヴァイオリン、アンディはヴァイオリン、スチュワートはヴィオラ、ゴードンはチェロ、ヘンリーはコントラバスをそれぞれ手にしている。

闇夜は識神五重奏を背にして、祝詞を唱える。

「掛けまくる(かしこ)伊邪那(いざな)(ぎの)大神(おおかみ)筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)()()()(はら)()(そぎ)祓え給いし時に()()せる(はらえ)()大神等(たち)(もろもろ)禍事(まがごと)罪穢(けがれ)有らむをば祓え給い清め給えと(もう)す事を(きこ)(しめ)せと(かしこ)(かしこ)みを(もう)す。」

すると闇夜の十メーターほど前に制服姿の山の辺深雪のヴィジョンが現れた。白黒で、昔のブラウン管テレビのように横線のノイズがしばしば入った。深雪はどこを見るともなく虚ろな表情をしながらゆらゆら揺れている。腰まで伸ばした黒髪。前髪は切りそろえてある。不気味ながらも美しい日本人形のような姿。病弱なまでに白い肌は、映しだされた霊のヴィジョンのせいか、一層白く感じられる。こちら側はどうも見えている様子がない。

闇夜は識神五重奏を背にタクトを振り上げた。そして振り下ろすと、識神たちが弦楽器を奏ではじめた。その曲は、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』だった。

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は四つの楽章から成るセレナーデで、モーツァルトの書いたセレナーデとしては十三番目に当たる。日本語では『小夜曲』と訳される。弦楽合奏、または弦楽四重奏にコントラバスを加えた弦楽五重奏で演奏される。

アイネ・クライネ・ナハトムジーク ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト

第一楽章

まるで花が咲くような明るく朗らかな旋律が流れる。高音部が明るい旋律を奏でつつ、低音部はリズムを刻み彩りを加える。

五つの弦楽器から奏でられる音楽はオレンジ色の光となって闇夜を包み込み、パワーフィールドを作りだす。闇夜は杖を捨てる。そして両手にそれぞれ一本ずつ刃わたりニメーターほどの日本刀を握る。

パワーフィールドが発生したおかげで、左足の不具を克服した闇夜は、日本刀を逆手に握りながら、深雪のヴィジョンに向かって走りだす。そして深雪の頭めがけて二段蹴りを食らわせようとした。深雪の目の前で飛び上がり、左足で一段目の蹴りを放ち、右足で頭を蹴りあげて後方に一回転する。そして逆手に持った日本刀でXの字を描くように二閃切りつける。そして横に二回転して日本刀で乱れ切る。

しかし、深雪に何か攻撃が当たると、カキンという音を立てて弾き返される。日本刀で切りつけても深雪から血が吹き出す、というようなこともない。

(おかしい。手応えがない。)

メロディーが緩やかになる。リズムに合わせて一、二、三、四、右、左、右、左と切りつける。再び細かい刻みになると同時に飛び上がり深雪を踏み台にして背中側に回る。そのまま後ろを向かずグサグサグサっと右手左手の日本刀を交互に突き立てる。そして振り向きざまに回し蹴りを入れると共に左、右と切りつける。

(やっぱり手応えがないな。効いてないのか?)

そのまま飛び上がり前に三回転すると共に刀で斬りつけつつ深雪を飛び越える。

その時虚ろだった深雪の瞳がこちらをギロッと向く。それを察した闇夜はバッと後ろに飛び退く。ゆらゆらしている深雪が右腕を上げ、手のひらを開くと同時に赤黒い閃光がこちらに飛んでくる。閃光は二発放たれた。咄嗟に闇夜は左手をかざす。すると丸い魔法陣が現れ、閃光をさえぎった。一つ目の閃光は魔法陣に阻まれ止まる。もう一つは右に大きく反れ、手水舎の隣にある樫の木に当たった。まるで雷が当たったかのような衝撃音が起こると共に、樫の木を真っ二つに破壊した。当たったところからはシューっと煙が上がっている。

「あっぶね~!」

闇夜は識神たちを振り返ったが、誰にも被害は出ていなかった。彼らは演奏に集中していた。識神たちの奏でる音楽によって、闇夜の力は跳ね上がるが、一方で彼らに被害が出ないように、彼らを守ることも考えないと戦えないのだ。

深雪は無抵抗かと思っていたが、予想と反して高い攻撃力を持っていたので、闇夜は少し焦っていた。

続いて深雪の目が光を放った。闇夜は刀をバッテンに構える。すると更に大きな魔法陣が現れた。深雪の目から放たれた閃光は右から左へとレーザー光線のように物体を薙ぎ払った。闇夜の放った魔法陣の影になるところ、つまり識神達のいるところを除いてカッと光り、炎が線状に上がった。

(く、押されてる!)

闇夜はバッテンに構えた刀の先から光を放った。その光は一直線に深雪の方向へ向かった。しかしその光が深雪に当たると、カキンと上に反れてしまった。

(一方向からの攻撃では効かないのか?)

そう考えているうちに第一楽章が終わった。


第二楽章 

第二楽章はゆったりとしてなめらかな曲調だった。このようにゆっくり流れるメロディーの続く緩徐楽章では闇夜は時間をも支配できる。そして豊かなハーモニーが攻撃力を多層構造にする。

闇夜はこのゆったりとした楽章の中で、両手の日本刀を空中に放り投げた。放り投げた日本刀は空中で拳銃に姿を変えて、天に向かって伸ばした両手に収まった。ベレッタPx4自動拳銃だ。

闇夜は深雪に向かって走りながら二挺拳銃を右、左と交互に撃ちまくった。弾丸が放たれると、その速度は非常にゆっくりとなった。そして走っている闇夜がその弾丸を追い越す。そして深雪を飛び越え今度は反対側から銃弾を撃ちまくる。ゆらゆらしていた深雪の動きもスローモーションになっていた。深雪は前後から弾丸に挟まれている。弾丸はゆっくりと深雪に近づきつつあった。

しかし、もう少しで着弾、というところで、スローモーションだった深雪の動きがいきなり早送りになり、迫っていた弾丸をヒュンヒュンと正確な動きで避けてしまった。

今度は闇夜は深雪の目の前で弾丸を放ち、直ぐに後ろにまわり、弾丸を発射し、次に深雪の右側に回りこみ撃ちまくり、そのまま深雪を飛び越し、両手のトリガーを引いた。つまり深雪は四方向から撃たれていることになる。

しかしこれもまた着弾直前にスローモーションから早送りになり、紙一重の隙間をひらひらと移動し避けてしまった。

闇夜は埒があかないと思い、両手に持っていたベレッタを空中に放り投げた。ベレッタは空中で∪ZI短機関銃に変化した。

次に二挺のUZIで連射しながら深雪の回りをグルグル回った。深雪を中心にして、弾丸の束が二重、三重と取り囲んだ。ゆっくりと動く弾丸の雨あられ。闇夜は飛び退き後ろに下がった。そして手を上にかざした。するとゆっくりだった時間が実時間に戻り、深雪を取り囲んでいた銃弾が一気に降り注いだ。しかし、深雪は全ての銃弾を見切り、残像を残しながら、ものすごいスピードで動いて避け切った。

(くそ! どうなってるんだ?!)

ここまで来ると闇夜も焦りを隠し得ない。次にどういう行動に出ようかと思案していると、ゆっくりと流れていた時間に割り込んで、深雪が手のひらから赤い衝撃波を放ってきた。

闇夜は腕をクロスさせ、防御の魔法陣を発生させる。魔法陣はかろうじて衝撃波を受け止めたが、空気の振動が闇夜の頬を撫でた。衝撃波を受け止めた闇夜が攻勢に転じようとすると、深雪は再び赤い衝撃波を放った。闇夜は攻勢に転じることができない。

深雪は右、左と、衝撃波を交互に放ってくる。やがてそのスパンはどんどん短くなってくる。そしてその衝撃は段々大きくなってくる。

闇夜はかろうじて魔法陣で衝撃波を防いでいた。しかし、次第に衝撃波の空気圧で後ろに押されてきた。魔法陣より大きくなった衝撃波は、魔法陣で防ぎきれない部分が後ろに届き、端っこでコントラバスを奏でていたヘンリーの頬を切った。

やがてパリンという音とともに魔法陣にヒビが入ってきた。もう防ぎ切れそうにない。

闇夜は最後の手段に出た。手印を結びマントラを唱えた。

「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」

神社に呼び出していた深雪の霊を元の状態に戻し、深雪のヴィジョンはかき消えた。

闇夜は識神たちに演奏をやめさせた。

「調伏は……失敗だ!」

辺りは赤黒い静寂に包まれた。



***



家に戻った闇夜はスケキヨと話をしていた。

「なぜ識神五人も使って倒せないんだ?!」

闇夜が唇を噛んだ。

「もしかしたら……」

「なんだ? スケキヨ。」

「もしかしたら、さっきの深雪は自動的に動いてたのかもしれない。」

「どういうことだ?」

「本体は別にいて、自己防衛用のプログラムだけが動いていたんじゃないのかな?」

「バカな。俺はちゃんと深雪の霊を呼び出したはずだぞ?」

闇夜がテーブルを叩いた。スケキヨは冷静に反論する。

「でも、さっきの戦いを思い出してみてよ。あんやが攻撃するまでは深雪はあんやを認識していなかった感じだったよ?」

闇夜は振り返る。

(確かにそうだった。それにこちらの攻撃は全く通用していなかった。)

スケキヨは続ける。

「あんやが攻撃して、それではじめて深雪はあんやを認識して、攻撃元であるあんやを自動的に追尾していたように思うんだ。」

闇夜は首をかしげる。

「要するに本体は別にいて、さっき俺たちが戦っていたのはダミーロボットだったというわけなのか?」

「多分そうだと思う。さっきのダミーロボットはただ自動的に反撃するだけで、それ自体にダメージを与えても本体にはそのダメージは届かないんだ。」

闇夜は頭をかきむしった。

「くわー、そうするとそのあたりのメカニズムも解明しないと調伏出来ないということか。頭痛いわ。」

「だからもう少し深雪周辺を調べないとだめなのかもしれない。」

闇夜はひとつ思い出した。

「そういえば、深雪は瑞歩に『友だちをつくるな』って言われてたんだよな?」

「そうだよ。」

「そのあたりのことが深雪の心を抑圧しているってことはないかな?」

「それはあるかもしれないね。瑞歩の著しく偏った教育が深雪の心を大きくねじ曲げていて、あんなとんでもない自己防衛システムを作り出してるっていう可能性はあるよ。」

闇夜は顎をさすりながら言った。

「なるほど。深雪に友だちを作ってあげれば、深雪が抱えている心の歪みも解消され、あの自己防衛システムも消せるかもしれないな。」

「そうだね。あんやが友だちになってあげればいいんじゃないかな?」

「馬鹿言え。それは無理だろ? 俺達は友だちは作っちゃいけないんだって前に言ったろ? どうせ問題が解決すれば転校して別れる間柄なんだから……」

闇夜はうつむいた。しかし気を取り直して言った。

「要は深雪に俺以外の友だちを作れば良いってことだろ?」

「そんなことできるの?」

「難しいな。もともと『鳥居』なんてアダ名付けられるくらいだから、深雪に近づこうとするやつなんていないだろうな。それに加えて今回の事件だ。ますます回りからハブられているだろうな。」

「なんとか深雪に友だちを作らせることが出来れば随分楽になるんだけどね。」

「……」



***



 それから一週間が経った。

 海江田魚々子はずっと学校を休んでいた。

 魚々子は、精神科に安定剤と睡眠薬を処方されていたものの、悪夢と幻聴に苦しめられていた。

 魚々子は自分の部屋で布団をかぶって震えていた。窓にびっしりと貼り付けられた新聞紙。原子爆弾の光さえ、彼女の部屋には差し込まないだろう。電気もつけていないので、部屋は真っ暗だ。

 彼女は寝るのが怖かった。眠れば『ヤツら』がやってくるからだ。しかし三日も寝ていないとさすがに気を張っていることができなくなっていた。彼女はうとうとと眠りはじめた。

 

 「ねえ、魚々子。」

 不意に魚々子を起こす声がする。魚々子が目を覚ますとそこには生上院瑠璃香と島田かほりがいた。

 「あなたも私達の仲間よね?」

 瑠璃香が笑顔で話しかける。

 「一緒に色々やったわよね?」

 かほりも笑顔だ。


 しかし二人とも急に表情が変わった。

 「じゃあ、私達と一緒に死んでくれないかな?」

 「そうよ。あなただけ生きているなんておかしいわ。」

 瑠璃香は魚々子の右腕を掴み言った。

 「私なんてこんなになっちゃったのよ?」

 瑠璃香は口を開けて魚々子に見せる。口の中には歯がほとんどなく、血とよだれがだらだら垂れてきた。魚々子は口の中を正視できない。瑠璃香が口を閉じると、瑠璃香の体や顔の不自然な場所に切れ目が入り、血を噴き出しながらボロボロと積み木が崩れるように、瑠璃香の破片がこぼれ落ちた。

 「私だってこんなよ。」

 かほりは魚々子の左腕を掴んだ。しかし、掴んだ腕はバキバキっと折れてひしゃげていった。ひしゃげていったのは腕だけではなく、足、腹、胸、肩、首とひしゃげていき、やがて顎が取れ、鼻が折れ、目玉が飛び出し、頭が潰れ脳漿が噴きだした。

 

 「いやああああああああ!!!!!!」

 魚々子は叫んだ。自分が自分の部屋にいることがわかった。腕をみてみると強く掴まれた跡が残っている。

 なにやらヒソヒソと声がする。声が沢山集まっているので何を言ってるかわからないが、非常に不快な響きだ。魚々子は耳を塞ぐ。

そのヒソヒソ声から不意に一際大きな声が聞こえる。

「あなたも早く死ぬといいわ!」

瑠璃香の声だった。

「あなただけ生きてるなんてズルいわ。」

かほりの声もする。

「死ぬのよ!」

魚々子は叫ぶ。

「やめて!」

「あなたも死ぬのよ!」

魚々子がどんなに耳を塞いでも声は消えない。

「やめてええ!!」

「死ぬのよ!」

「死ね!」

「死んでよ!」

魚々子は机にあった耳かきを咄嗟に掴んだ。

「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」

魚々子は耳かきを左耳におもいっきり突き立てた。

ザク!ザク!

魚々子の耳には、耳かきをダイレクトに突き立てる音がしたが、やがて何も聞こえなくなった。

次に魚々子は右耳にも耳かきを突き立てた。

グサ!グサ!

魚々子は無我夢中で鼓膜を突き破り、自傷行為の痛みも忘れていた。魚々子の耳からはだらだらと赤黒い血が垂れていた。

魚々子を苦しめていた声は止まった。

「はあはあ……止ま……った。」

魚々子は両耳の鼓膜を耳かきで突き破り、耳が聞こえなくなった。しかし、無我夢中で突き刺したので、三半規管も傷つけてしまった。魚々子の頭はぐるんぐるんと回っている感じがした。そのままベッドに倒れ込んだ。机の上にある時計を見ると夜中の三時だった。

魚々子は久々におとずれた静寂を噛み締めていた。

(シャワーでも浴びてこようかな……)


魚々子の家の外では灰色のつなぎの作業服で目深に帽子をかぶった男が二人、なにやら作業していた。一人は三メーターくらいはあるアルミ製の棒の先にのこぎりの歯を取り付けていた。もう一人も三メーターほどのアルミ製の棒を持っていた。その先に、直径五十センチほどの鉄製の輪っかを取り付け、その輪っかにビニール袋をかぶせていた。

二人は魚々子の家のシャワールームの軒下にあるスズメバチの巣の前にいた。二人組のうち一人が対スズメバチ用防護服を着ながら言った。

「おい、殺虫剤は余り使うなよ。成虫も大事な商品だからな。」

もう一人が答える。

「わかってるって。はやくやっちまってさっさとずらかろうぜ。」

のこぎりがついている棒を持った男がスズメバチの巣の軒下にくっついている部分をギコギコと切り始め、その巣の下で、ビニール袋を取り付けた棒を持った男が受け止めようと棒を支えている。


魚々子はぐるんぐるん回る世界の中でふらふらしながら一階のシャワールームに向かった。パジャマと下着を脱ぐと魚々子はシャワールームに入った。

 魚々子の家の風呂場は西洋式の長細いバスタブがあって、壁にシャワーを固定する金具がついていた。シャワーの横には洗面台があり、洗面所とバスタブの間には半透明のビニール製のカーテンがあった。

 魚々子はシャワーのカーテンを開け、蛇口を捻った。シャワールームの窓は換気のため開いている。この時、外で蜂の巣を取り外そうとしている男たちが作業していたが、耳が聴こえない魚々子は気が付かなかった。

 魚々子は頭からシャワーを浴びた。耳の痛みはおさまっていたが、耳の所で固まっていた血が水に溶かされ、赤い水が、白いうなじを伝って、やがて排水口へ吸い込まれていった。久々の静寂の中、魚々子はシャワーで全てをリフレッシュさせていた。

 不意に後ろに気配を感じた。魚々子はバッと振り返る。しかし誰もいない。夜中にシャワーを浴びていると、なにもないのに正体不明の気配に怯えたりするものだと、魚々子は気持ちを落ち着かせた。

 

 その頃外では二人の男が蜂の巣をのこぎりで切り取っていた。

 九割ほど、蜂の巣が軒下から切り取られた頃、ビニール袋で受け取ろうとしていた男が思わずくしゃみをしてしまった。その時、棒で蜂の巣を叩いてしまった。その蜂の巣はボロっととれ、棒に当たり、シャワールームの窓から家の中に入ってしまった。

 「おい!何やってんだよ!」

 「やばい!逃げろ!」

 二人組は持ち物を残さず、塀を乗り越えて一目散に魚々子の家から逃げ出した。

 

 シャワーを浴びていた魚々子は、窓から直径四十センチほどの蜂の巣がゴロンと入ってきたことにすぐには気が付かなかった。シャワーを顔で受け止めていた魚々子は不意に足元に硬いものが当たるのを感じた。

 最初、魚々子は、足元に転がる茶色い縞模様の球状の物体が何なのかわからなかった。しかし、やがてその物体に数箇所ある穴から、体長四センチほどの、黄色と黒の縞模様のオオスズメバチが次々と出てきて、ブンブンと轟音をとどろかせた。シャワールームはあっという間にオオスズメバチが四十匹ほど飛び回る状態になった。魚々子はパニックに陥った。

 「きゃあああああ!!!!」

 魚々子はシャワーを振り回し、オオスズメバチを追い払おうとした。しかし、こういった虫は敵意を向ければ向けるだけ反攻してくるものである。

 オオスズメバチは一斉に魚々子に向かって行った。魚々子の体に取り付くと、その凶悪な毒針を次々と刺していった。

 「痛い!!! 痛い痛い!!」

 オオスズメバチはミツバチなどと違って、毒針が使い捨てでなく、何度も刺すことができる。また、オオスズメバチの攻撃方法は毒針だけではない。強力な顎で肉をえぐり、肉団子を作る事ができるのである。

 魚々子は蜂に刺されるだけではなく、噛み付かれて肉をえぐられたりした。魚々子の美しい白い肌はたちまち赤く腫れ上がったり、血がしたたり落ちたりして、陵辱が重ねられた。

 一匹のオオスズメバチが魚々子の顔に取り付いた。その蜂は魚々子の左の眼球に極悪な毒針を突き立てた。魚々子は激痛で思わず目をつぶった。

 「目が!!! 目がーーーー!!!」

 すっかりパニックに陥った魚々子はバタバタとシャワーを振り回して暴れた。水を振り回したおかげで羽を濡らされた蜂は飛ぶことができずにバスタブに溜まっていった。

 魚々子が暴れ続けたことはひとつ良い方向に向かった。それはシャワーを振り回すことによって蜂の猛攻をおさめさせたことである。しかし、ひとつ悪い方向に向かってしまった。暴れ続けたおかげで、洗面台の上に乗っかっていたドライヤーがバスタブの中に落ちてきたことである。

 運悪くドライヤーは洗面台のコンセントに差さっていた。ドライヤーが落下するときに、バスタブの縁で偶然スイッチが入った。

 ブホーっという音を立てて、ドライヤーはそのまま水の溜まったバスタブへと落下した。その刹那、青白い電撃がバチバチっと、まるでわたあめを作る機械の中のように、バスタブ内に走った。

 魚々子はビリビリっと頭の先からつま先まで激しく痙攣した。体中の蜂に付けられた傷跡から血が噴きだした。魚々子自身が穴を開けた耳からも血が噴水のように噴きだした。眼球は飛び出し、弾け飛び、黒い液体が顔を伝った。魚々子の体温は五十度まで上昇した。足元には黒い電流斑ができ、肉が壊死した。

 電撃はドライヤーが弾け飛んで壊れるまで続いた。電撃が止むと、魚々子の頭からは白い煙がシューシュー立ち上った。

 魚々子は首をうなだれて、立ったまま絶命した。シャワーの流れる音だけが虚しく流れていた。



***



 闇夜は部屋にいた。闇夜は部屋では小さいデスクライトしか点けないことにしていた。まわりが暗いほうが考えがまとまるからだ。これが中二病なら、『夜の眷属』だから、とかいうんだろうな、と自嘲気味に思った。

 闇夜は机においてあるスマートフォンを手に取り、電話をかけた。

 「もしもし? おやっさん?」

 闇夜の声は暗かった。

 「『おやっさん』じゃない!『室長』だ!」

 電話の向こうからは怒った後藤の声がする。

 「おやっさん……俺ドジっちまった……人が……人が三人も死んじまった。」

 「……そうか。」

 「……俺やっぱダメだ。こんな大仕事できないよ……」

 「……大丈夫だ。お前ならできる。お前にはそれだけの力がある。」

 「……でも……」

 「お前は一人じゃない。お前にはスケキヨがいるだろ?」

 「でも俺とスケキヨだけじゃ……」

 「大丈夫だ。ちゃんとスケキヨと力を合わせれば。お前は一人で抱え込まなくていい。困ったことがあったら俺でもいい。ちゃんと吐き出せ! スケキヨもちゃんと話せば力になってくれるはずだ。あれにはそれだけの力がある。」

 「……わかった。」

 「俺はお前を信じている。ずっとお前を見てきた俺ならわかる。お前ならできる。自信を持て。」

 闇夜は電話を切った。そしてデスクライトも消した。

 闇夜はベッドに寝転んだ。そして頭を抱え寝返りをうちそのまま寝てしまった。全ての悩みを明日に持ち越すように。



***



 海江田魚々子が死んだ次の日、学校では悶々としている一人の女生徒がいた。二時間目の数学では複素数平面における、複素数の掛け算のやり方について解説している。そんなことなどそっちのけで生天目裕子は考え込んでいた。

 (魚々子まで死んでしまった……瑠璃香、かほりに続いて三人目だ……どうなっているんだろう? ……みんなこの前、山の辺さんに詰め寄っていた人たちだ……やはり山の辺さんの呪いなのだろうか? ……山の辺さんに関わるのは怖い……それにしても月島くんは何か知ってるみたいだ……この前月島くんが会ってた人も気になるし……『これ以上関わるな』って言ってたけど、どういう意味だろう? ……やっぱり気になる……こうなったら月島くんをつけてみよう……)

 「よし!」

 裕子はまた思考がダダ漏れになっていた。そして気合を入れたせいか、何故か立ち上がってしまった。

 「なんだ? 生天目。この問題わかるのか?」

 数学教師が、いきなり立ち上がった女生徒に向かって問いを投げつける。

 「い、いや、なんでもないです……」

 裕子はこれ以上ないくらい赤面し席に着いた。闇夜は窓の外の、体育をやっている女子たちを眺めていたが、空気が変わった教室で、何事かと思い教室を見回した。

 六月だというのに既に梅雨はあけ、夏が始まろうとしていた。



***



 その日の放課後、生天目裕子は思い切って闇夜の後をつけて、真実に迫ろうとしていた。

 都立蚕糸の森高等学校は、青梅街道まで出れば開けているのだが、青梅街道まで出るまでは道が入り組んでいて人気がない細道しかなかった。

 部活に入っていない闇夜は、授業が終わるとまっすぐ家路についた。その後をつける女生徒の影一つ。

 闇夜は常に神経が張り詰めているので、尾行なんてちゃちな芸当は直ぐに見破ってしまう。というか、裕子の尾行が余りにも子供だましだったのもあった。

 (つけられているか……誰だ?)

 道の門にあるあるミラーをちらりと見ると、電信柱のかげから覗き込んでいる生天目裕子がいるのが見えた。

 (どうしたものかな? ……早めにバレてるってことを伝えるか……)

 闇夜は四ツ辻の所で右に入り、物陰に隠れた。闇夜のシナリオとしては、物陰に隠れ、裕子が四ツ辻を右に曲がった所で登場し、『尾行バレてますよ』と言ってやるはずだった。

 ところがいつになっても裕子は四ツ辻に現れなかった。やがて裕子の「きゃあ! やめて!」という悲鳴が聞こえた。何事か? と思って闇夜が四ツ辻から顔をのぞかせると、この暑い中、素肌に茶色のトレンチコートを羽織った男が、裕子の体をまさぐっていた。これは痴漢だ! と合点した闇夜は杖をつきつつ裕子の元へ向かった。

 闇夜は、カフグリップ付きの杖に電撃(スタン)(スティック)を仕込んでいたので、それで痴漢を殴りつけた。青白い閃光が走り、痴漢が電撃で体を反らせながら痙攣し、倒れこんだ。

 痴漢から解放された裕子は闇夜に抱きついてきた。

 「ふええん! こわかったよう!」

 裕子の大きな胸が闇夜の体に押し付けられる。

 (ううう……胸が!)

 闇夜のスキンシップの弱さは今に始まったものではないが、特にこの状況下では、彼を一層どぎまぎさせた。

 「だ、大丈夫ですか? 生天目さん……」

 「ふううん。ありがとう。ヒック。月島くん……」

 「ち、ちょっと、は、離れてもらえないかな?」

 「ダメ! もう少し……もう少しこのままでいさせて……」

 「……」

 闇夜は大きな胸を顔に押し当てられて、顔を真赤にしていたが、スケキヨにいつもしてあげているように頭を撫でてやった。

 一体どれくらい時間がたっただろう。三分? 三十分? 三時間? いや、実際には一分もかからなかった。ようやく落ち着きを取り戻した裕子が、闇夜の顔を胸に埋めたまま言った。

 「ごめんね。こんなことになっちゃって。」

 「……いや……いい……」

 闇夜の声は明らかに上ずっていた。すると裕子が上目遣いで言った。


 「お礼といってはあれだけど、その……あの……わたしと……『いいこと』しない?」

 「『いいこと』?」

 「そう。『いいこと』」

 闇夜の頬を冷や汗が伝った。

 「……『いいこと』って……何?」

 「『いいこと』は『いいこと』よ。」

 裕子が笑顔で答える。闇夜の鼓動は高まっていった。

 「ねぇ。『いいこと』しよ?」

 裕子は頬を少し紅潮させて、少し潤んだ目で上目遣いで聞いてきた。

 闇夜はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 (『いいこと』ってまさか……)

 闇夜の鼓動は更に高まる。

 (そんなこといいのか? ……)

 裕子が「早く答えを聞かせて」と言っているかのような目で見つめてくる。

 闇夜はこんなこといいのかなぁ? という気もしたが、好奇心と若い欲望の方が勝ってしまい、静かにコクリと頷いた。すると裕子も笑顔で頷いた。



***



 「……」

 「……」

 「『いいこと』って………………これ?」

 「そう。『いいこと』よ。」

 二人は今、店のテーブル席に向かい合って座っている。

 その店というのは『麺屋えん寺』という中華そば屋だった。東高円寺駅の北側の東高円寺商店街ニコニコロードの入り口にあるこじんまりとした店だ。

 「あたしラーメンとかつけ麺が大好きなの。だから月島くんにはお礼として一杯おごっちゃおうかなって思って。ほら、月島くん転校してきた時の自己紹介で、『趣味は食べ歩き』って言ってたでしょ? だから月島くんも喜ぶんじゃないかと思って、ってどうしたの?」

 闇夜は顔を手で覆っていた。闇夜は自分の胸の高なりを後悔してた。あんなところであんなこと考える自分を激しく嫌悪していた。若干肩透かしを食らった感は否めないが、これはこれでなんとなく安心した。

 「いや、大したことではござりませぬ。」

 若干苦笑いしている闇夜を心配そうに見ていた裕子はなんとか納得したようで、自分の言いたいことを喋り始めた。

 「ここのおすすめはつけ麺ね。」

 「しかし生天目殿、拙者ラーメンは食べ慣れているのですが、つけ麺というのは食べたことがございませぬ。」

 「あんまり難しく考えないで。ほら、素麺とか日本そばとか食べる時、おつゆに付けて食べるでしょ? それの中華そばヴァージョンって感じ。つけ麺の場合、たれにこだわりがあって店によって違うし、麺も日本そばや素麺とかと比べ物にならないくらい太いのが多いわね。でも基本的に食べ方は一緒だよ。ここのお店は美味しいよ。都内のラーメンやつけ麺のお店は二百箇所くらい食べ歩いたけど、ここのはわたしの中でトップファイヴに入るくらいよ。」

 裕子はひとしきりまくし立て、水を一口飲んだ。

 「ここはね、中盛りまでが無料なの。あと、味付け玉子のトッピングは外せないわね。あと、タレが冷めないように熱盛りにしてもらうのがおすすめ。それから、麺は胚芽麺ともちもち麺が選べるけど、あたしは断然胚芽麺を推すわ。」

 この手の話が好きな人は、止めるまで延々と話し続ける。しかし、闇夜はそういう話を聞くことに苦痛を覚えるどころか、むしろそういう話をすすんで聞きたいと思っているので、裕子の話を遮ることはせず、頬杖をつきながら裕子を見つめ、静かに聞いていた。

 闇夜は裕子に、味玉入りつけ麺の中盛りの食券を券売機で買ってもらった。そして再びテーブル席に向かい合わせに座った。

 しばらくして店員が食券を回収しに来て、麺は胚芽麺で熱盛りと注文した。

 つけ麺が出てくる間、「それにしても」、と裕子が切り出した。

 「月島くんて強いのね。あんな痴漢一発で倒しちゃうなんて。」

 「ああ、それはですね、この杖はスタンガンが仕込まれているんですよ。」

 「うそー!! なんで?!」

 「まあ、なんというか、護身用というか……」

 闇夜は少しうつむきつつ、頬をポリポリと掻いた。

 「あたし前から思ってたんだけど、月島くんて、普通の高校生じゃないカンジがするのよね。なにか秘密を抱えてるというか、ミステリアスというか……」

 と話が核心にたどり着く前に、闇夜にとって都合のいいように、話を遮るようにつけ麺がテーブルにのせられた。

 「来た来た!」

 裕子は目を輝かせていた。どんぶりに山盛りの湯気を立てた茶色い太麺と、大きめのお茶碗くらいの器に入れられたタレが運ばれてきた。

 「食べるときのコツはね、タレにあまり麺をくぐらせないことね。この麺、結構タレが絡むからじゃぶじゃぶつけちゃうと最後の方でタレが足りなくなっちゃうの。」

 闇夜は裕子の食べ方を見よう見まねでやってみた。少し麺を箸で掴んで、さらりとタレにくぐらせる。そして一気にすすった。真っ先に口の中に広がったのは強烈な小麦の香りだった。

 「胚芽麺は、普通の小麦粉と違って、胚芽も含めた全粒粉からできてるの。だから茶色いのだけど、その分小麦のクセが強まって、どっしりとした味わいになるの。」

 闇夜は、へー、と相槌を打ち、もう一口食べる。今度はタレをしっかり味わった。魚介やとんこつの旨味とともにゆずの香りが絶妙にマッチする。そしてほのかで自然な甘みがある。

 「このタレの味の秘密はベジポタなのよ。ベジタブルポタージュ。つまり、いろんな野菜のペーストが入っているわけ。だから軽くて自然な甘みが生まれるの。」

 一口ごとにいろいろな味の要素が楽しめるので飽きることなく食べることが出来た。麺を半分くらい食べた頃合いに、タレの中に浮かんでいる柔らかい味付け玉子に箸をつけた。

 「あ、それ、すごいでしょ? 味付け玉子なのに半熟なのよね。まあ最近はそういう味付け玉子も増えてきたけど。それでもちゃんと味が染み込んでるからすごいのよね。」

 淡白で柔らかな白身と、濃厚で味の染みたトロトロの黄身が口の中で美味しいハーモニーを奏でる。

 そうこうしているうちに、どんぶりいっぱいに盛られた麺をあっという間に平らげてしてしまった。闇夜は裕子の忠告通りに食べたので、タレが足りなくなるということはなかった。むしろタレは余った。

 「ここで、残ったタレに、ポットに入ったスープを入れて飲むの。まあ日本そばで言うところの、そば湯でタレを薄めて飲むのと似てるかな? やってみてよ。」

 テーブルにはポットがおいてある。それにスープが入ってるらしい。ポットは保温機能がついているので、タレに混ぜると湯気が立った。程よく温まったスープをゴクゴクと飲み干す。闇夜はとんこつや魚介の旨味と野菜の甘味をおもいっきり堪能した。

 裕子は心配そうに闇夜を見つめた。

 「月島くん……ど、どうだった? ここのつけ麺。」

 すると闇夜は満面の笑みで答えた。

 「うむ。大変おいしゅうございました!」

 裕子の顔がぱあーっと明るくなった。



 つけ麺の余韻に浸りながら二人は水を飲んでいた。

 裕子はなぜかもじもじしている。何か言いたげである。

 すると裕子は意を決したように言い出した。

 「あの! 月島くん! ……お願いがあるんだけど?」

 闇夜は笑顔で答えた。

 「なんでございますか?」

 「あたしと……あたしと……お、お友だちになってくれませんか!?」

 闇夜はまさかそんなお願いが出てくるとは思いもよらず、しばらく考え込んだ。そして顔を上げてこう答えた。

 「生天目殿、それはできませぬ。残念ながら。」

 裕子は一気にしゅんとなってしまった。

 「どうして? ……どうして友だちになってもらえないの?」

 闇夜は裕子の目をまっすぐ見た。

 「生天目殿、友だちというのは、お願いしてなるものではないと思うのでございます。それに……自分の見えている世界というのは、世の中ではほんの少しだったりします。自分が納得の行かない事もたくさんあるのです。世界ではいろいろな力が働いております。自分の力だけではどうにもならないことだってあるのでございます。わかりにくい話で申し訳無いのですが……」

 「…………どうにもならない力が働いてるから友だちにはなれないと?」

 「……そう受け取ってもらって構いませぬ。」

 闇夜はせっかくつけ麺をごちそうになったのに、この仕打はさすがにかわいそうだと思った。しかし、闇夜は蚕糸の森高等学校での事件が解決すれば転校していく身。心の何処かで孤独を感じつつも、友だちは作れないというジレンマに毎回苦しめられる。友だちを作ってもすぐ転校で、別れなければならない。別れは辛い。だから最初から友だちは作らない。でもここではウソでもいいから、目の前にいる、がっかりしている少女を元気づけなければ、月島闇夜の男がすたるとも思った。

 「わかりました。条件をつけましょう。ってすごく上から目線で申し訳ないのですが……こちらからもお願いがございます。生天目殿、山の辺深雪殿の友だちになってはくれまいか? そうすれば拙者もあなたと友だちになる努力をいたしましょう。」

 裕子は少し考えこんで、何か合点がいったのか寂しげに話しだした。

 「そっか。やっぱり月島くん、山の辺さんのこと好きなんだ。」

 「……そういうわけではござりませぬ。ただ、クラスのことを考えた時、彼女があのままでいるのは不健康だと感じているのでございます。生天目殿のような明るい方なら彼女の力になってあげる事ができ、且つ、良いクラスにすることができると思うのでございます。これは拙者のような者ではできないことなのでございます。」

 「そっか。でも、山の辺さんって、関わると呪いがあるって話が……」

 闇夜は懐をゴソゴソと探り、人型の半紙を取り出した。その半紙には何やら不可思議な文様と難しい漢字が書いてあった。

 「これを持っていてくだされ。もし、呪いなどといったものがあるなら、これがその呪いからあなたを守ってくれるでしょう。」

 裕子はいきなり目の前に見せられた不可思議な物体に目を奪われ、思わず言った。

 「月島くん。あなた一体、何者なの?」

 「どこにでもいる普通の男子高校生でございますよ。」

 二人は少しの間見つめ合った。

 「生上院さんや、島田さん、そして魚々子が死んだのって、山の辺さんが関係しているの?」

 「それは現段階でお答えすることができません。拙者はただ一つのことを願います。クラスに、山の辺さんのような味噌っかすを作ってはいけないということです。どうか拙者のお願いを聞いていただけますか?」

 裕子はしばらくうつむいてから答えた。

 「わかった。わたしやるよ!」

 闇夜は笑顔で頷いた。そして二人は麺屋えん寺から出た。

 闇夜と裕子の家は反対方向にあった。

 「それでは拙者はこちらですので。道中を気をつけください。今日は美味しいものをごちそうしてくれてありがとうございます。」

 「こっちこそ、痴漢から助けてくれてありがとう。それじゃ、またね。」

 ふたりは別々の方向へ歩みを進めた。二十メーターほどお互いの距離が離れてから、裕子は闇夜の方へ振り返った。

 「月島くん! また一緒に食べ歩きしてくれないかな!?」

 闇夜は手を振って答えた。

 「いいですよ、それくらいなら。」

 闇夜も裕子も何故か心がホクホクしていた。



***



 闇夜が帰宅すると、スケキヨがリヴィングでロッシーニの序曲集をかけながらウーピーのぬいぐるみとじゃれていた。ウーピーというのは、八十年代にカップ焼きそばのCMで話題になったウーパールーパー(正式名称メキシコサラマンダー)という両生類をデフォルメ化したキャラクターである。スケキヨはウーピーが大好きなのである。

 「ただいま。」

 闇夜が帰宅の挨拶をするとダダダッといつものようにスケキヨが飛びついてくる。

 「おかえり~あんや!」

 相変わらず顔が近い。これには闇夜も毎度のことながら慣れることができない。するとスケキヨがなにか感じたようだ。

 「あれ? クンクン。クンクン。」

 スケキヨは闇夜の口元の臭いを嗅いでいる。そしてジト目になって詰め寄った。

 「……あんや、どこかでなんか食べたでしょ?」

 闇夜はギクリとした。別にやましい訳ではないのだが、スケキヨにこうやって詰め寄られると、何かいけないことをしているかのような気分にさせられる。闇夜はスケキヨを体から引き離しながら開き直った。

 「……ああ、ちょっと近くでつけ麺をね。いけないか?」

 スケキヨは服の端っこを噛んで地団駄を踏みながら悔しがる。

 「キー―ッ!! なんで僕も誘ってくれないんだよ!」

 「今日はちょっと色々あったんだよ。……なんというか、行きがかり上、つけ麺を食べることになっちまって……」

 「その『行きがかり上』ってのを説明して貰いたいものだね。」

 「……面倒くさいから説明しない!」

 「……女の子でしょ?」

 こういう時、スケキヨは鋭い。闇夜は面倒くさいのでやはり開き直ることにした。

 「ああ、そうさ。それが何か?」

 「僕という彼氏がいながら女の子と食事行くなんて……」

 スケキヨはいじけた。しゅんとしたスケキヨがいたたまれなくなって、闇夜は結局顛末を話すことにした。

 「……あー、もうわーったよ。今日学校からの帰りに痴漢に襲われている娘がいたんだ。それを助けたら、なんだかわけがわからないけどお礼につけ麺をごちそうになったんだ。それだけだ。」

 「それだけ?」

 闇夜は、裕子に抱きつかれて動けなくなって、半ば強引に連れて行かれたわけだが、それを話すと話がややこしくなるので伏せておいた。

 「……それだけ。」

 「ほんとにそれだけ?」

 「ほんとにそれだけ。」

 「絶対の絶対?」

 「絶対の絶対。」

 「……じゃあいいよ……」

 闇夜は胸をなでおろした。

 「ところで、つけ麺……美味しかった?」

 「……ああ、旨かったよ。今度連れてってやるから。だから機嫌直せ。」

 「ほんと?」

 「嘘はつかん。」

 さっきまで泣きそうだったスケキヨに笑顔が戻る。

 「やったーー!!」

 スケキヨはウーピーのぬいぐるみをむぎゅーっと抱きしめる。

 単純な奴、と闇夜は、ニコニコしているスケキヨを見て思った。こんなことなら最初から正直に話せば七面倒臭いやり取りはなかった、と後悔した。しかし、こんなことが毎回あってはたまらない、とも思っていた。スケキヨがいる限り、闇夜の周囲には女の子が近づけないという状況をいずれは何とかしないといけない、と、闇夜はその問題を将来の自分に託した。



***



 次の日の朝、登校中、生天目裕子は山の辺深雪を探していた。校門へ続く坂道の途中で裕子は深雪を見つけた。

 「おはよう!」

 裕子は深雪のもとへ小走りしながら声をかける。

 「……」

 「今日も暑いね。」

 「……」

 「……ひょっとして私のこと知らない?」

 「……」

 「私、同じ二年四組の生天目裕子。よろしくね。」

 「……」

 「山の辺さん部活とか入ってないの? 私は茶道部に入ってるの。」

 「……」

 暖簾に腕押し、糠に釘状態だが、なぜ裕子が執拗に深雪に話しかけているかというと、闇夜と昨日約束したように、深雪と友だちになるためだった。しかしいくら裕子が深雪に話しかけても、深雪は裕子の方を見ることもなく、虚ろな表情を浮かべて、ふらふら歩いているだけだった。

 教室に入ってからも、裕子は深雪に話しかけていた。しかし、その様子を見ている他の生徒は気が気ではなかった。まるで裕子が気でも違ったかのように思われている視線が痛かったが、裕子はそれをやめようとはしなかった。闇夜に頼まれたということ、そしてお守りをもらったことで、裕子はなんとかその責務を果たそうとしていた。


 昼休み、裕子はめげずに深雪の元へ行った。

 「山の辺さん、一緒にお弁当食べない?」

 「……」

今まで無反応だった深雪は、その言葉に一瞬動きを止めた。普段の深雪に、動きなどは殆ど無いに等しいので、その微妙な変化に気づく人間など居なかった。

裕子は、深雪の無反応など想定していたことだったので構わず続けた。

「じゃあ、お弁当机に置かせてもらうね。」

「……」

一瞬動きを止めた深雪だったが、裕子を受け入れつつ、自分の弁当箱を机においた。裕子は終始にこやかにしつつ、自分の弁当箱を深雪の机に置き、蓋を開けた。弁当箱には、ミートボール、卵焼き、ゴーヤチャンプルーが入っており、ご飯には梅干しが一つ乗っかっていた。

深雪は思わず裕子の弁当箱を覗きこんだ。そしてまた動きが止まってしまった。自分の弁当箱の蓋を掴んだまま開けられずにいた。さすがにこのように不自然に止まった深雪の様子に裕子は気がついた。

「どうしたの? 食べないの?」

「……」

数秒固まっていた深雪であったがなんとか気を取り直して、弁当箱を開けた。そこには人工着色料まみれのピンク色の魚肉ソーセージがぞんざいにぶつ切りにされたものと白いご飯しかなかった。裕子はその弁当箱を見て思わず言葉を失った。自分の弁当を晒した深雪はうつむいた。しかし裕子はその粗末な弁当に奇異の目を向けること無く、優しく深雪に語りかけた。

「山の辺さん、この卵焼き食べてみない?」

裕子は三切れある玉子焼きのうちの一つを箸でつかみ、深雪の弁当箱においた。

「このお弁当、私が作ったんだけど、この卵焼きは自信があるんだよね~へへ。これね、烏骨鶏の卵使ってるんだ。知ってる? 烏骨鶏って羽毛は真っ白なのに、地肌が黒いんだよ。変な鳥だよね? でも烏骨鶏の卵は普通の鶏の卵と比べて栄養価が高くって、味も濃いんだよ。卵自体の味を活かしたいから、お砂糖もあまり入れてないの。食べてみてよ。」

深雪は裕子の方は見ず、自分の弁当箱にのせられた、自然で鮮やかな黄色の卵焼きをしばらく見つめていた。そして恐る恐る、箸を震わせながら卵焼きをつまんだ。それをゆっくりと、その薄紅色の唇の、小さめの口に運んでいった。ひとかみすると、ジューシーな半熟卵が溢れ出てくる。ほのかな甘味の後に来る、その濃厚な卵本来の味わいに、深雪は閉じ気味だったまなこを思わず見張った。

「……しい……」

「え?」

「……おい……しい……」

深雪は思わず感嘆の声を漏らしていた。裕子は初めて深雪の声を聞いた。その声を聞くことができて裕子は嬉しかった。そして、その声を引き出したのが、自分の作った卵焼きだった、ということが誇らしかった。

「そ、そう。おいしかった?」

深雪は、今度は裕子の目を見て言った。

「おいしい……」

裕子の顔からは笑みがこぼれる。自分の産んだ赤ちゃんが初めて言葉を発したかのようなうれしさを感じた。

「そう! じゃ、じゃあ、この卵焼き、もう、ぜ、全部食べてもいいよ!」

深雪もつられて微笑んだ。深雪が家族以外に心を開いた初めての瞬間だった。

二人は心を通い合わせ、弁当をつつきあった。裕子にとっても、深雪にとっても、至福の時間が流れていった。深雪は「おいしい」以外に言葉を発することはなかったが、裕子は根気よく言葉をかけてあげた。


昼休みが終わり、五時限目の生物の授業中、不意に、「ビリッ」という、何か破れるような音を裕子は聞いた。

(ゲッ!制服破れたかな? やだな~また胸が大きくなったのかな? ブラも変えないと……)

そんなことを考えていた裕子だったが、思わず内ポケットを探ってみると、闇夜にもらった、人型の半紙でできた、身代わりのお守りがあった。しかし、それを取り出してみると、半分に破れていた。裕子は思わずゾッとした。



***



すべての授業が終わり、多くの生徒が下校中だった。

この学校の校門手前には広場があって、噴水のある丸い池がある。闇夜はその池を左回りによけながら、杖をコツコツつきつつ校門に向かっていた。

すると池を右回りに走ってくる女生徒がいた。その少女は大きくてやわらかい胸を跳ねさせながら走ってくる。

「月島くーん!」

生天目裕子は闇夜を呼び止めた。裕子は息を整えながら、闇夜の歩みのスピードに合わせて、隣を校門へと歩いた。

「いかが致しました? 生天目殿。」

「ちょっと……ちょっと話があるの。」

二人は顔を見合わせる。

「今日ね、月島くんに言われたように、山の辺さんと友だちになれるようにがんばったの。朝からしつこく話しかけたりして。それでね、お弁当を一緒に食べたの。その時、あたしの卵焼きを食べてくれたの。でね、あの子、『おいしい』って言ってくれたの。あたし山の辺さんが喋ったの初めて聞いたわ。それでね、にこって笑ってくれたの。あたしあの人があんな表情するの初めて見たわ。それで、山の辺さんとは友だちになれそうな気がしたの。でもね……そしたらね……そしたらね……」

裕子は半分泣きそうになりながら、ポケットから、半分に破れた紙のお守りを取り出し、闇夜に見せた。

「!」

「気づいたら破れてたの。あたし山の辺さんに嫌われてるようには見えなかったのに……どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」

「そうでございましたか……なぜこんなことになったかはまだわかりませんが、よくやってくださいました。生天目殿は十分やってくださいましたよ。その破れたお守りをいただけますかな?」

裕子は破れたお守りを闇夜に渡した。代わりに闇夜は新しいお守りを懐から取り出し裕子に渡した。

「一応新しいお守りをお渡ししておきます。もしお気持ちが変わらなければ、引き続き、山の辺殿と友だちになっていただきたいのですが……もちろんまたお守りが破壊された時は直ぐに言ってくだされば新しいのを差し上げますので……いかがでしょうか?」

「……うん……あたし最初は不純な動機で山の辺さんと仲良くなろうと思ってた……山の辺さんと友だちになれば、月島くんとも友だちになれるって。……でもね、今日山の辺さんと触れ合ってみて、わかったの。あの子は友だちを必要としてるって。何か色々と抱え込んでいるみたい、あの子。あたし、あの子の力になってあげたい。」

「そうでございますか。ありがとうございます。」

裕子は少しうつむき、小声で言った。

「……も、もちろん、つ、月島くんとも友だちになりたいけど……」

闇夜は一抹の罪悪感を抱えつつ、それを表に出さずに笑顔を見せた。

二人は立ち止まり、しばらくの間、日が西に傾きつつある校門手前で見つめ合い、無言の会話をした。

すると校門の方から聞き慣れた声がする。

「あんやーーー!」

二人が校門の方を見ると、スケキヨが手を振って呼んでいた。

「あのバカ!」

闇夜は杖をついて校門の方へ急いで向かった。

 「おまえ! ここには来るなってあれほど言っただろ!?」

闇夜は出来る限り小声で、出来る限り声を荒げてスケキヨに抗議した。

すると後ろから裕子がついてきた。

「月島くん……こちらはどちら様?」

「ええと、つまり、その……」

「彼氏です!!」

(即答しやがった!?)

裕子は目を丸めて驚愕し、眼鏡がずり落ちた。しかし何を思いついたのか、赤いフレームの眼鏡を整えてから、にっこりして言った。

「ええと……どっちが受けでどっちが攻め?」

「はぁ!?」

闇夜は想定外の問いかけに耳を疑った。

するとスケキヨはなんの迷いもなく答えた。

「ええと、それはやっぱり、あんやはこういうキャラだから、あんやがツンデレ受けがテッパンでしょ!で、僕が……わっぷ。」

闇夜はこれ以上自体を悪化させないために、スケキヨの首の後から腕を回し口を塞いだ。

「い、いや、こいつは、その、ただの弟でございます! 弟の月島スケキヨです!」

闇夜は裕子の中での腐った妄想の連鎖を断ち切ろうと努力した。スケキヨは闇夜の腕の中でしばらくジタバタしていたが、なんとか落ち着き、闇夜の拘束から逃れることができた。そして改まって裕子に聞いた。

「それであなたはどちら様?」

急に振られた裕子はあたふたしながら答えた。

「は、はひ! 月島くんのクラスメイトの生天目裕子と申します! お、お兄さんとは友だちを前提にお付き合いさせていただいております!」

(この娘はこの娘でややこしいことを言ってるな……いろんな過程がめちゃくちゃだ!)

闇夜はもうこのちぐはぐなやり取りに耐えられなくなって、早めにこの場を切り上げようとした。

「生天目殿。拙者たちはちょっと用事があって急いでおります。それではまた学校で。ごきげんよう。」

闇夜はスケキヨの首根っこと猫でもつかむかのように引きずりながら、杖をつきつつ足早にその場を去った。


闇夜とスケキヨはなんとか校門から離脱し、学校へ続く坂道を降りていた。闇夜はスケキヨに改めて聞いた。

「で、なんでお前はあんなところにいたんだ?」

「いやー、あんやは学校ではどんな感じなのかな―? って。ニシシ。」

「はあ……それだけかよ……やれやれだぜ。」

「でもね、新しいことがわかったんだよ。それで早くあんやに伝えようと思って。」

「なんだ?」

「山の辺深雪の父親の行方がわかったんだよ。」

「何!?」

「彼女の父親の名前は、立壁(たてかべ)十三(じゅうぞう)。深雪が小学六年生の時に、母親と別れている。でも未だに深雪と瑞穂に生活費を送っているみたい。ルポライターをやってるんだけど、例の、瑞歩がハマってるキリスト教系新興宗教、『灯台の光』の被害者の会の会長もやってる。これから深雪を取り戻そうと動き始めてるみたい。住んでるのは丸ノ内線で一駅隣りの新中野の鍋屋横丁。」

「そうか。それじゃあ近いうちに深雪と父親が接触する可能性もあるわけか。こっちも少しわかったことがあるんだ。深雪はどうやら自分の意図で呪いをかけているわけではないみたいだ。」

「どういうこと?」

「ほら、さっき会った、生天目裕子に、深雪と友達になって欲しいと頼んだのだよ。安全のためお守りを持たせてね。深雪が友だちを作ってはいけないと母親に強要されてるって話があっただろ? そこが呪いのカギになっている気がしてね。それで裕子と深雪は友だちになりかけたらしいのだけど、お守りが破壊されてしまったんだよ。深雪自身は友だちを作りたいと思っているのだけど、それを邪魔している力が働いているみたいだ。これはどういうことなのだろうか?」

スケキヨは少し考えこんで答えた。

「ふーむ、これはひょっとして無意識が関係しているんじゃないのかな?」

「無意識?」

「ほら、ジークムント・フロイトが精神分析学で提唱したやつさ。人間の心のなかで、意識として表面上にあらわれているものは氷山の一角で、ほとんどを無意識が占めている。瑞歩による偏った教育が深雪の表意識の中で消化されきれず、嫌なことは無意識に抑圧されていったんじゃないかな? そして抑圧された衝動が呪いとなって表面に現れているっていう……」

「なるほど。深雪の呪いのメカニズムが何となくわかってきたぞ。」

「あんや、()心通(しんつう)で深雪の心を読んでみたら?」

「そうか、一応俺も密教は学んだからその手が使えるか。そうすればこの訳の分からない呪いへの対抗策がわかるかもしれないな。」

闇夜はスケキヨの頭を撫でてやった。スケキヨは猫のように喉を鳴らして喜んだ。しかしそれで調子に乗ったのか、また余計なことを言い出した。

「それで、あんやはあの娘のことどう思ってるの?」

「な、何言ってるんだよ?おまえは。」

「ちゃんと答えてよ!」

「べ、別に……なんでもいいじゃねぇか。」

「この前つけ麺食べに行ったのあの娘でしょ~?」

「(チッ、鋭いやつだな……)そ、そうだよ。それが何か? あ、そうだ、これからそのつけ麺食べに行かねぇか?」

「ほんと? わーいわーい!」

スケキヨは子供のようにくるくるとまわって喜んだ。

(よかった……単純なやつで……段々コイツの扱い方がわかってきた気がする……)



***



山の辺深雪は、本当はせっかく近づくことができた生天目裕子と一緒に帰りたかったが、気がつくと裕子は学校から消えていた。仕方なくいつもどおり一人で家路についた。蚕糸の森公園を通りぬけ、青梅街道を渡り、大久保通りへと続く坂道を下りていた。この道もここ十年くらいでかなり変わった。変わってないのは高円寺東児童館と、通りの向かい側にある、野武士という居酒屋くらいなものだった。児童館の裏手には深雪の家があった。児童館の横を通るとキャッキャと子供たちが騒ぐ声が聞こえる。すると児童館の前にある電信柱の影から見覚えのある人物が現れた。身長は190センチはあるくらいの大男ではあるが極度に痩せており、威圧感はなかった。黒々とした髪は七三分けになっており、クシャっとひしゃげたタバコをくわえていた。

「深雪……」

深雪は思わず立ち止まった。

「……………………………………おとう……さん…………」

深雪が五年ぶりに再会した父、立壁十三は、五年の歳月の割にはあまり変化がなかった。だから深雪は容易に十三を父と認識した。

「深雪……大きくなったな。」

「……おとうさん。……会いたかった……」

深雪はカバンを投げ捨て十三の元へと駆け寄り、涙を流しながら抱きついた。

「深雪……ごめんな……放っておいて……」

「……待ってた! ……ずっと待ってた! どこにいたの? 何してたの?」

十三は深雪を抱きしめながら語りかけた。

「深雪を取り戻す準備をしていたんだ。そしてお母さんも。お母さんはあんな風になっちゃったから、家族が同じような事になってしまった人たちを集めていたんだ。いいかい? お母さんは病気なんだ。お母さんのお父さん、つまりおじいちゃんのしつけがすごく厳しくて、お母さんはすごく真面目なキリスト教徒に育ったんだよ。でもおじいちゃんが死んでしまってからお母さんは変わってしまった。お母さんの中で何かが壊れてしまった。お母さんはおじいちゃんを信じていた。お母さんの中でおじいちゃんは絶対的なものだった。それがなくなってしまって、お母さんはすがるものを私や深雪に求めず、信仰に求めてしまったんだ。それであんなことになってしまって……お前には辛い思いをさせてしまったね。」

「……お父さん。」

「私と深雪がお母さんを救ってあげなきゃならないんだ。」

「……うん……うん……」

二人はしばし無言で抱き合っていた。しかしそんなひとときを壊す声がした。

「ちょっと!」

山の辺瑞歩だった。彼女はスキットルを片手に握りしめ、紙袋に入っていた大量の冊子をぶちまけ、ツカツカと二人の元へ歩みを進めた。そして深雪の襟首を掴み、強引に十三から引き剥がした。

「二度と来るなと言っただろ!?」

瑞歩は十三を睨みつけながら言った。

「瑞歩、お前は疲れているんだ。一緒に……」

瑞歩はスキットルを投げ捨て、こぶしで十三を殴りつけた。投げ出されたスキットルから、ドライジンがどくどくとアスファルトにこぼれ落ちる。十三は唇を切り、血を流した。

「もうあんたの話は聞きたくないって言っただろ!? さっさと私の目の前から消えな!」

「お母さん! もうやめようよ! 三人で仲良く暮らそうよ!」

瑞歩は久々に口答えした深雪の髪の毛を掴み、引っ張っていった。

「痛い! 痛い!」

深雪は必死に抵抗した。勢い余って髪の毛の束がぶちっと抜けた。深雪の頭皮から血がにじむ。瑞歩は手に残った髪の毛をしばし見つめたあと、深雪の襟首を掴み、ものすごい力で深雪の背中側から引っ張った。深雪はバランスを崩し、瑞歩の思い通りに動いた。

「離して! 離して!」

瑞歩は深雪の言葉に耳を貸さず、そのまま家へと引っ張っていった。深雪の様子を黙ってみていることしかできない十三と、深雪との距離がどんどん広がっていく。

「深雪! また必ず迎えに来るからな!」

「お父さん! お父さん!」

深雪の声も虚しく、瑞歩は家の玄関の扉を乱暴にガラガラっと開き、深雪とともに入り、扉はピシャッと閉まった。辺りには静けさが戻った。

家に入った瑞歩は、深雪を家の内側へ引っ張り投げた。

「深雪……あんた……あんなのと喋っちゃダメだって言ったでしょ!?」

「……でも……あの人は……わたしの……おとう……さ……」

「うるさい! あれは悪魔よ! 深雪を地獄へ引きずり込もうとする悪魔よ! あんなのは地獄の業火で永遠に焼かれるのがふさわしいのよ!」

「もうやめようよ! こんなのおかしいよ!?」

瑞歩は深雪をおもいっきり平手打ちした。

「あんた……まさか、今日、学校で誰かと喋ったりしたんじゃないでしょうね?」

「……」

「喋ったの? 喋ったのね? 喋ったんだ!」

「だって……良い人もいるのよ? ……そんな人と友だちになるのがなぜいけないの?」

瑞歩は深雪をもう一度殴った。

「わからない子だね! そんなの私が認めない!」

瑞歩は深雪の襟首を掴み顔を近づけた。

「わかったわ……あなたはもう世間に毒されているのよ! ……お祈りをしなさい。そして自分のどこが悪いか反省しなさい!」

瑞歩はそのまま深雪を引きずり、階段の下にある物置部屋に放り込んだ。物置部屋には読まなくなった本や使い物にならなくなった電気機器が雑多においてあった。その一角にみかん箱がおいてあり、聖書とキリスト像が置いてあった。そしてその上に小さな裸電球が吊るしてあった。瑞歩は深雪を物置部屋に放り込むと、ドアをバタンと閉め、外側からカギをかけた。暗い部屋に閉じ込められた深雪は、発狂したかのごとく泣きわめいた。

「出して! ここから出して!!」

「いいや出さないよ! 深雪がちゃんとお祈りをして、ちゃんと反省するまでここから出さないわ!」

「助けて! お父さん助けて! 生天目さん助けて! だれでもいいから助けて! ここを開けて!」

深雪はドアを叩きまくった。そして大声を上げて泣いた。しかし分厚い扉はびくともしない。そしてその扉に深雪の泣き声は緩衝され、家の外には届かない。三十分ほど泣きわめいたあと、深雪は扉を叩くのをやめ、すすり泣いた。

「う……ううう……みんな……みんな……嫌いだ……みんな……」


「キライだ!!!!!」


深雪はその暗く狭い部屋で、夕ご飯も食べずすすり泣き、一晩を明かした。



***



明くる日、深雪は廊下側の一番前の自分の席に座っていた。休み時間に生天目裕子が話しかけるが、昨日のような反応が見られない。

「山の辺さん、どうしたの? 今日は様子がおかしいよ?」

「……」

「昨日何かあったの?」

「……」

(山の辺さん、顔にあざがあるし、目は泣き腫らしているし、くまがあるし、何があったんだろうか? 今日は少し距離をおいたほうがいいのかな?)

裕子は心配そうに深雪を見つめた。しかし、深雪は全く反応がなかった。


一方廊下のドアのそばには背の高い男の影が一つ。

闇夜は昨日のスケキヨの助言通り、他心通を試みることにした。他心通というのは仏教における神通力、つまり超人的な能力の一つで、他人の心を知る力のことである。

闇夜は暗い廊下のドア付近で目をつぶり、手印を結び、マントラを唱えた。

「オム・カアルムクベ・ヴィドゥジ・ハイ・オム・ハチェシュカアクジャプ・スワルー」


闇夜がカッと目を見開くと、赤や青や緑といったいろいろな色の光の洪水の中を流されている情景が写った。その中でいろいろな声がノイズとなって右耳と左耳を行ったり来たりした。その声は母親、瑞歩からの叱責であったり、クラスメイトからの蔑みの言葉だったりした。闇夜が悪夢のような声のなだれに苦しんでいると、一つ芯の通った深雪の声がした。闇夜は深雪の声に集中して耳をそばだてた。

「私を望む人なんて誰もいない。世の中は悪い人ばかりだとお母さんは言う。お父さんに会いたい。なぜ誰も私のことをいたわってくれないの? 私の居場所はどこにもないの? 友だちを作っちゃいけないの? 信じることが出来る人なんて誰もいない。ならば私はこの世の全てを呪ってやる。私に近づく人は全て呪ってやる。私から離れていく人は全て呪ってやる。キライ! キライ! 大っ嫌い! キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ!!!!!!!!!」


深雪の声だけで埋め尽くされた世界。

深雪の苦悩だけで埋め尽くされた世界。

深雪の煩悩だけで埋め尽くされた世界。

闇夜はその苦しいだけの世界を次々と通り抜けていった。深雪の心のなかにダイブしただけだというのに、体中に痛みさえ生じる。自分に浴びせられる言葉が体のあちこちに突き刺さる。自分の抱いた憎しみで体ががんじがらめになる。深雪は常にそのような心の状態であることがわかる。

光の洪水と声のなだれの中で、闇夜はそのヴィジョンの中にサブリミナルフィルムのように、ところどころにはめ込まれているコマがあることがわかった。そのコマが差し込まれる頻度が徐々に増えてゆく。そしてしまいにはそのコマだけで埋め尽くされる。そのコマは……


山の辺瑞歩!!


瑞歩の、憎しみで顔を歪めた表情。血が噴出さんばかりに噛み締めた唇。親の仇でも握っているかのように強く握りしめたスキットル。痛いくらいに突き刺さるような眼光を放つ目。

深雪の心の深いところは瑞歩で埋め尽くされていた。どこに行っても瑞歩の行き止まり。憎しみの伝染。

闇夜はもう耐えられなくなっていた。悪い夢を見た時に、早く目が覚めろ、目が覚めろと願うように、闇夜は念じ、早急にここから立ち去りたかった。それなのに瑞歩がどんどん近づいてくる。どんどん近づいてくる。耐えられない。早く。早く。やめろ。やめてくれ。闇夜はひたすら念じた。不意に強い光が飛び込んでくる。光はどんどん強くなり、ホワイトアウトした瞬間、闇夜は現実世界に戻ってくることができた。

「はあ、はあ、はあ……」

闇夜は汗だくになって立ち尽くしていた。

「そ、そうか。みず……ほ……」

闇夜はそのまま気を失い、廊下に倒れ込んだ。

遠くの方で「月島くん!? 月島くん!?」という裕子の声がする。その声はそのままフェードアウトした。



***



闇夜は気がつくとベッドに寝かされていた。保健室の白い天井が見える。蒼白になった闇夜の顔を生天目裕子が心配そうにのぞき込んでいる。

「月島くん? 気がついた?」

闇夜はしばらく自分がどういう状態なのか把握するために時間を費やした。そしてこの保健室に来る前に何をやっていたかを思い出した。

「瑞歩だ!」

「え? 何言ってるの? 月島くん?」

「瑞歩を何とかしないと!」

闇夜は心配する裕子をよそに、ガバっと起き上がった。そして杖を探した。ベッド脇に置いてあったカフグリップ付きの杖を見つけるとグワシっと掴み、立ち上がった。立ち上がりはしたのだが、頭がまだふらついていて、バランスを崩しかけ、裕子に支えてもらった。

「生天目殿。ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございまする。」

「大丈夫なの? まだ寝てたほうがいいんじゃないの?」

「いや、拙者、やらなければならないことがございます。一刻も早く目的地に向かわなければ……」

闇夜は杖をつき、おぼつかない足取りで保健室の扉へと向かう。闇夜が扉を開け、外に出ようとしたその時、裕子が声をかけた。

「月島くん!」

闇夜はしばし立ち止まる。

「月島くん……また……戻ってくるわよね?」

「……」

闇夜は答えなかった。

「月島くん。また戻ってきて、食べ歩き一緒にできるよね?」

裕子はなぜか闇夜がもう戻ってこないのではないかと心配した。闇夜は振り返り、にっこりとして答えた。

「生天目殿。大丈夫でございます。今度、またおいしいラーメン屋を教えてくだされ。」

闇夜はしばらく裕子を見つめた。そして意を決して保健室を出て行った。最後の戦いにむけて。

裕子は一人保健室に残され、どうしてそうなるか自分でもわからなかったが、なんとなく闇夜の無事を祈った。



***



 午前二時。

再び高円寺天祖神社。

闇夜は勢いで学校の保健室を飛び出したものの、夜にならないと手を出せないことを思い出し、イライラしたまま仮眠を取り、夜になるのを待った。そしてシャワーを浴び禊ぎを行った。午前二時頃、いわゆる『丑三つ時』はこの世と霊界の境が曖昧になる時間帯で、最も効率よく識神たちを働かせ、怨霊調伏をしやすくなる時間帯なのだ。

闇夜は杖をつきつつ神社まで歩き、調伏の準備をはじめた。神社で身を清めたあと、結界の護符を貼る。懐から護符の束を取り出し、息を吹きかけ、後ろに放った。紙は舞いながら地面に落ちると、次々と識神たちが現れ、各々が手にフルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、トランペット、ティンパニ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、といった楽器を手にしていた。そこには識神たちで構成されるオーケストラが現れた。彼らタキシードやドレスを身にまとっていた。その中にはアンディ、スチュワート、ゴードン、ヘンリーもいた。そして、そのオーケストラの一歩前に、スケキヨがヴァイオリンを持って立っていた。いつも、識神でオーケストラを編成する場合は、スケキヨはコンサートマスターになるのだが、今回はソリストの位置にいた。

闇夜は目を閉じ、手を合わせて経を誦文(ずもん)した。

南無(なむ)久遠(くおん)(じつ)(じょう)(ぼん)()釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)南無(なむ)霊山(りょうぜん)会上(えじょう)来集(らいじゅう)分身(ふんしん)諸仏。南無(なむ)(しょ)大菩薩(だいぼさつ)。五番の善神。諸天等。特に鬼子母(きしも)大善(だいぜん)(しん)。惣じては(ぶつ)(げん)(しょ)(しょう)一切(いっさい)三宝(さんぽう)来臨(らいりん)影光(ようこう)妙法(みょうほう)経力(きょうりき)(そく)(とく)自在(じざい)諸仏(しょぶつ)守護(しゅご)増益(ぞうやく)寿命(じゅみょう)心中(しんちゅう)所願(しょがん)決定(けつじょう)成就(じょうじゅ)。」

闇夜が目を見開き、九字を切ると、十メーターほど前に、山の辺瑞歩の生霊が現れた。憤怒の形相で、頭には鉢巻がしてあり、二本のろうそくが火を灯して差さっていた。左手にはドライジンの入ったスキットルを握っていた。ゆらゆらと揺れながら、視線はどこを向いているのかよくわからない。しかし、しばらく虚ろだった視線は、こちらを認識し、鋭い眼光となって突き刺さしてきた。

闇夜は『弾き振り』をするため、右手を上げた。そしてゆっくりと下げ、また上げると、識神たちのオーケストラは演奏をはじめた。

闇夜がこの日のために選んだ曲は、ピョートル・チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』である。この曲は、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と合わせて、『四大ヴァイオリン協奏曲』と称される。この曲は闇夜が特別好きというのもあったが、非常に完成度が高く、怨霊調伏にふさわしい曲だったのである。闇夜の調伏方法でポイントになるのが、使う識神の数と、曲の完成度である。識神の数が多ければ多いほど力は強くなるし、曲の完成度が高ければ高いほどまた然りなのである。


ヴァイオリン協奏曲ニ長調 ピョートル・チャイコフスキー


第一楽章

弦楽の調べが静かにはじまる。そして徐々に楽器が重ねられ盛り上がっていく。その音の群れは、暖かな光となって、闇夜を中心に神社全体を覆い、パワーフィールドが発生させる。闇夜の左足の不具は回復し、彼はゆっくりと杖を手放す。

闇夜の右手には金具でチェーンソーが装着され、左手には銃身を切り詰めたウィンチェスター1887ショットガンを持っている。闇夜は左手でチェーンソーのリコイルスタータの紐を勢い良く引っ張り、チェーンソーのエンジンに火を入れる。ブルルン、ドッドッドと2ストロークエンジンのバイクのような音を立て、チェーンソーの刃は回りだし、本体からは白い煙を出しながら、グロテスクな咆哮をあげた。この装備は非常に攻撃力が高いのだが、近接戦闘型なので、瑞歩に近づかなければならなかった。闇夜はゆっくりと瑞歩の元へ歩みを進めた。

徐々に近づくにつれ、瑞歩も地面に踏ん張り、足をジリジリと押し付けた。瑞歩はスキットルのドライジンをぐびっと一口やると、辺り一面に紅蓮の炎を吐き出した。

闇夜は右手に装着されたチェーンソーに取り付けられたナックルガードで炎を防いだ。瑞歩から吐き出された炎は闇夜に防がれ、彼を中心に炎が球状に広がった。爆風が闇夜を後ろへと押し戻す。炎の勢いは非常に強く、身に着けていた外套に火が燃え移った。闇夜は直ぐに外套を脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てた外套はあっという間に炎に飲み込まれ、消し炭と化した。まずはあのドライジンの入ったスキットルを無力化させないと勝ち目はない。

スケキヨの独奏ヴァイオリンが甘美で雄大な主題(テーマ)を奏で、曲は盛り上がっていく。そしてそれの周りを取り囲むように管弦が沸き立ち、お互いに掛け合いを行う。曲が盛り上がるに連れて闇夜のパワーフィールドの勢いは強まり、強力な炎を吹き消した。

ひとたび炎が止むと、闇夜は勢い良く蹴り出し、一気に瑞歩との距離を詰める。そして右手のチェーンソーの柄にショットガンを押し当てて二発ショットシェルを放った。小さな散弾がたくさんばらまかれ、瑞歩を取り囲んだ。

しかし、瑞歩は身にまとったストールを大きくひるがえし強烈な風を起こした。すると勢い良く飛び出した散弾が風に押されて空中で固定されたように止まり、その後すぐバラバラと地面に落ちた。

闇夜は直ぐにショットガンをクルッと回し次弾を装填し、もう一発お見舞いした。その後直ぐに距離を詰め右手のチェーンソーで切りつけた。しかし瑞歩は予想外の跳躍で闇夜を飛び越し後ろに回り込んだ。闇夜の放った散弾は空を切り、チェーンソーはツバキの木を一瞬にしてなぎ倒した。闇夜は切り込んだチェーンソーの勢いのまま後ろを振り向き、右腕を一直線にして、チェーンソーで突いた。瑞歩は紙一重の間合いでチェーンソーを避けた。しかし、ひらひらとしたストールに穴を開けることができた。これで散弾をはねつける風を巻き起こすストールの力をある程度弱めることができただろう。

演奏はスケキヨの独奏ヴァイオリンのカデンツァに移行した。オーケストラは演奏を止め、スケキヨのヴァイオリンだけになった。スケキヨは複数弦を多用した技巧的な演奏で圧倒し、パワーフィールドをシャープにした。

闇夜はショットガンで牽制し、チェーンソーで決定打を与えるべく斬りかかった。瑞歩は、防御のカーテンであるストールをあまり使えなくなり、体躯をこれまで以上に素早く動かし、攻撃を避けた。ショットガンの爆音と、チェーンソーの轟音と、瑞歩が避けるときに発する衣擦れにも似た音が神社に響き渡った。

スケキヨのカデンツァが終わり、独奏ヴァイオリンを管弦が静かに絡めとる時間になった。

瑞歩は闇夜の猛攻から逃れ、距離を取ると、再びスキットルのドライジンを口に含み、赤黒い炎を吐き出した。闇夜はそれにぶつけるようにショットガンを放った。銃身を切り詰めたショットガンは、至近距離で爆風を発生させ、炎を切り裂いた。散弾は炎に溶かされ蒸発したが、爆風は炎への反作用として十分な効果があった。炎の切れ目から、闇夜は左手を右手に添え、チェーンソーを突撃させた。咄嗟の攻撃に身の危険を感じた瑞歩は、そのまま左に体をスライドさせたが、スキットルを引っ張る早さは一足遅く、スキットルはチェーンソーに直撃した。金属と金属が激しくこすれる、耳を覆いたくなるノイズが発生し、火花が散った。チェーンソーはしばらくスキットルをこすっていたがやがてそれを貫いた。二つに割れたスキットルが地面に落ち、中に入っていたドライジンが辺り一面にキラキラと弾け、地面に落下すると同時に土に吸い込まれた。

オーケストラは独奏ヴァイオリンと溶け込み、ティンパニが轟き、リズミカルに頂点へとのぼりつめた。


第二楽章 

フルートを除く木管が暗く重々しい旋律を奏でた。演奏はゆったりで、時間もゆっくりと流れた。このようなゆったりとゆっくりとした緩徐楽章の時、闇夜は時間を操ることができるようになる。

闇夜の次の目標は、瑞歩の防御のカーテンであるストールを完全に奪い去ることだった。闇夜は瑞歩に向けてショットガンを一発放った。そこで時間を止めた。空中に散弾の粒が散らばり、そのまま凍りついた。寒天のように固定された散弾の粒を見ながら闇夜は瑞歩の左側に回り込んだ。そしてまた一発ショットガンを発砲した。再びショットシェルの粒は空中に散らばり固定された。続いて闇夜は瑞歩の後ろ側に回りこみ、三度(みたび)ショットガンを発した。空中に固定された散弾の粒を見据えつつ、闇夜は瑞歩の右側に回り、ショット。散弾の粒に四方を取り囲まれた瑞歩。闇夜は右腕のチェーンソーのナックルガードを正面にして防御の体勢を取りながら、時を動かした。

四方から散弾の雨が降り注ぐ瑞歩。しかし瑞歩がストールを振り乱し高速回転すると、散弾が全て弾き飛ばされた。ストールの防御力はあまり下がっていなかった。

瑞歩は、こちらが攻撃していないのにストールを振り回した。すると大気のなかに真空の隙間が生まれ、かまいたちが発生した。かまいたちの無数の刃が闇夜を襲う。闇夜は飛翔してかまいたちをやり過ごすが、一太刀だけ左頬をかすった。かまいたちが当たった左頬から、たらっと血が一筋流れ出す。闇夜は左手で血を拭い、その血を舐めて気合を入れ直した。鉄の味がした。

闇夜は再びショットガンを一発放つと、そのまま距離を詰めていき、右腕のチェーンソーで突攻した。今度は散弾の粒が弾着する直前で時間を止めた。距離を詰めていき、チェーンソーの射程距離内まで到達すると、闇夜はチェーンソーをメッタメタに振り回した。瑞歩のストールに一筋、また一筋と切れ目が生まれる。一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が百二十八枚……ひたすらストールを切り裂いていった。もうこれ以上ないというくらいに切り裂いてから時を動かした。細切れになったストールに無数の散弾が弾着し、瑞歩の鋼鉄のストールは、シャボン玉がパチっと消えるように、綺麗サッパリ消滅した。


第三楽章

第二楽章が静寂に消えていくと同時に、突然管弦が踊りだす。そしてヴァイオリンが上下に暴れるように主題(テーマ)を奏で出す。

瑞歩の攻撃手段であるスキットルからの炎は破壊され、防御手段であるストールは消滅した今、瑞歩は丸裸も同然である。さあ、タコ殴りタイムの始まりだ。瑞歩の取る行動は、その素早い体捌きのみである。

スケキヨは独奏ヴァイオリンの役目も務めながら、前に出てきた。闇夜は右腕に装着しているチェーンソーを外し、ゴロッと地面に置き、左手に持ってるショットガンも投げ捨て、身軽な状態になった。二人は瑞歩を中心に対極的な位置を取り、瑞歩の衛星となって半径三メーターほどの円を描き出した。ふたりとも狩りをする目つきになっていた。血に飢えたライオンの目つきに。

スケキヨはヴァイオリンを弾きながら、リズムにのって踊っているようだった。闇夜もリズムに合わせてフットワークを使い出した。二人はぐるぐる瑞歩の回りを回り、次第にその円の半径を狭めていった。瑞歩はどちらを見て良いかわからず、キョロキョロとあたりを見廻している。曲が新しいパートになった瞬間、二人は、「やあーー!」という掛け声とともに瑞歩のもとへと駆け出し、挟み込んだ。

先に瑞歩のところに到達したのは闇夜だった。闇夜は中段突きの形で突っ込んでいった。瑞歩はそれをひょいと避ける。しかし避けた先にはスケキヨの回し蹴りが待っていた。スケキヨの回し蹴りをまともに顔面で受け止めた瑞歩はきりもみ状態になり、よろよろと倒れそうになった。そこに待っていたのは闇夜の右ショベルフックだった。ショベルフックをもろにみぞおちに受けた瑞歩は体躯を縮ませて動けなくなり、血反吐を吐き出した。そこに新たに闇夜の左アッパーが炸裂する。瑞歩は二十メーターばかり上空にふっ飛ばされた。しかし更に上空にスケキヨが空中で待機していた。瑞歩がふっ飛ばされる速度が減速する直前に、スケキヨはサマーソルトキックを頭頂部に食らわせた。ものすごい勢いで、まるでやぶ蚊をピシャリと叩き潰すかのように、瑞歩はビタンと地面に叩きつけられた。

ここからまた二人の猛攻は続く。地面に叩きつけられた瑞歩のもとに二人が近づく。瑞歩が立ち上がるのを確認すると、闇夜は右から足払い、スケキヨは左から頭を蹴り飛ばした。瑞歩に向けられた右回りの力は倍加され、クルッと地面に叩きつけられた。

曲は速度がどんどん上がっていき、刻むように駆け上るスケキヨの独奏ヴァイオリンの隙間を管弦が塗りつぶしていく。ヴァイオリンはきしむように奏でられる。終わりへのカウントダウンがはじまった。

ボロ雑巾のようになった瑞歩の生霊が立ち上がると、二人は今度は瑞歩の前に立ち、個々の部位を潰していくことにした。まず二人は瑞歩の右足を両側から蹴りつけた。ミシッボキッという鈍い音がして、瑞歩の右足のスネは折られた。瑞歩がバランスを崩し、倒れる寸前に、今度は二人で左足のスネを折った。瑞歩は膝をつき、動けなくなった。二人は少し後ろに下がって助走をつけ、正面を三回同時に蹴りつけたあと、瑞歩の頭を両側から蹴り飛ばした。瑞歩の頭は潰れ、脳漿が噴きだした。そして再び二人は両側から回し蹴りを入れる。二人の蹴りは瑞歩の首に食い込みそのまま蹴り抜け、瑞歩の首はちぎれて上空に飛び上がった。二人は蹴り抜けながら交差した。頭を失った瑞歩の首からはどす黒い血が噴水のように噴きだした。瑞歩はそのまま後ろに倒れた。そしてそのまま動かなくなった。

すると瑞歩の生霊の体は光に包まれ、やがてその体は光の粒に分解され、その全ての粒は上空に上がっていった。星の見えない東京で、星の夜空を見上げることができた。

曲もいよいよフィナーレでティンパニと管弦と独奏ヴァイオリンが掛け合い、どんどん上がっていき、頂点へとたどり着き、ヴァイオリン協奏曲の演奏は終わった。

これで瑞歩が抱えていた毒々しい執着や憎しみや心の歪は綺麗になった。

「調伏成功!」

これで山の辺深雪の関わってきた呪術的殺人事件は解決するはずだ。


しかし、その神社の裏門から忍び寄る一つの影があった。


山の辺深雪!


白いネグリジェを着た深雪が夢遊病状態でふらふらとこの神社まで入り込んでしまった。

山の辺深雪の抱えた黒い心の問題はまだ解決したわけではなかった。調伏は終わったわけではなかった。

闇夜は考えた。深雪自身の心の問題を解決させなければ、本当に調伏出来たとはいえない。しかし、今回は死霊でも生霊でもなく生身の人間である。下手をすれば深雪自身を傷つけてしまう。その辺りの加減が難しい。

「スケキヨ!お前はオケに戻ってコンマスやってくれ!」

スケキヨはうなずくと、オーケストラの方に戻り、第一ヴァイオリンの一番先端である、コンサートマスターの席に座った。

深雪はだんだんと近づいてくる。闇夜は懐から再び紙の束を取り出し、息を吹きかけ、ばら撒いた。するとオーケストラの後ろに合唱隊が現れ、オーケストラの一歩前に、ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの四人の歌手が現れた。

闇夜が次に選んだ曲は、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『交響曲第九番ニ短調合唱付き』だった。ベートーヴェン最後の交響曲にして最高傑作。

闇夜はオーケストラの前まで戻り、手を挙げた。そしてその手をおろし、再び手を挙げるとオーケストラは演奏をはじめた。深雪はこちらを認識し、目を見開いた。


交響曲第九番ニ短調合唱付き ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン

第一楽章

管楽器が通奏音を鳴らしながら静かにはじまり、そこにやまびこのように弦楽器が覆いかぶさる。次第に音が大きくなってくるとティンパニが轟きを上げ、爆発するように主題(テーマ)がはじまる。

闇夜は深雪のもとに走る。とりあえず深雪を気絶させることを考え、武器は持たずに体のみで対抗しようとした。闇夜は手刀を瑞歩の後頭部に叩きこみ気絶させようとした。しかし、ふらふらしていた深雪は、闇夜の殺気を感じると目でキッと光を放ち、足を踏ん張り、闇夜の手刀を腕でガードした。闇夜はもう片方の手で手刀を繰り出すと、それもガッと防がれた。すかさず真正面にキックすると、深雪はスッと体を左にずらし避け、カウンターの左フックを放った。闇夜は前のめりに蹴り出したことで、深雪の左フックがよけきれず、そのまま顔面にカウンターを食らい、三メーター程後方に吹っ飛んだ。

闇夜は起き上がると、口の中で折れた歯をフッと吐き出した。接近戦では難しいと判断した。

闇夜はジリジリと少し後ろに下がり、右腕に精神を集中させ、手のひらから青い衝撃波を放った。衝撃波はまっすぐ深雪の方へ土煙を上げながら飛んでいった。直撃したように見えたが、深雪は微動だにしておらず、深雪の周りに現れたドーム状の透明なバリアが衝撃波を阻んでいた。闇夜は再び衝撃波を放ったが、またもバリアに阻まれた。闇夜はめげずに右手と左手を交互に出して衝撃波を連発した。舞い上がった土煙で辺りが全くわからなくなった。そこに一陣の風が吹いてきて、土煙を洗い流した。流された土煙は深雪のドーム状のバリアの輪郭を綺麗に示した。バリアは壊れてない。

ストリングスが駆け上がり、優しい木管楽器が包み込むようにかぶさってくる。うごめく低音部に管楽器がかぶさり、やがて高音部も重なり、主題へと戻った。

闇夜は右手を横に差し出すと、上からモロトフカクテルが落ちてきて、それを掴んだ。闇夜はモロトフカクテルの瓶の先に挿してある紙の部分に火をつけ、深雪に投げつけた。深雪は素早く右に体を跳躍させた。モロトフカクテルは地面に落ち、瓶が割れ、炎がぶわっと燃え上がった。闇夜は連続してモロトフカクテルに火を付けては投げつけた。連続モロトフカクテル攻撃に深雪の動きは追いつけなくなってきた。いよいよ深雪は追い込まれ、モロトフカクテルが当たったかに見えた。しかし、これも深雪のドーム状の透明バリアに阻まれた。瓶がバリアにぶつかり割れると綺麗な球状の線を中の液体が描き出し、炎が燃え広がった。闇夜は考えた。この深雪のバリアを破るには強烈な物理攻撃が必要だと。

闇夜は指を鳴らした。すると空中からRPG―7対戦車携行用ロケットランチャーが落ちてきた。闇夜はRPG―7を構え、深雪に向けて発射した。闇夜の後方に白い煙を上げて勢い良く弾頭が飛んでいく。深雪はあまりの早さに動けず、足を踏ん張り腕をクロスさせ防御の姿勢をとる。深雪に弾頭が弾着すると赤い炎を上げて大爆発した。爆風で闇夜の髪が乱れる。しばらく煙で辺りが見えなくなる。炎があたりの木々に燃え移る。木々がメラメラと燃えるなか、煙が引けてくる。深雪は無傷で防御姿勢を取ったまま立っている。深雪の前にあるドーム状のバリアは健在だ。だが、その刹那、バリアの小さな破片がポロッと落ちる。バリアにごく小さな穴ができた。闇夜は、これならいける、と思った。

闇夜の上からRPG―7が二つ落ちてくる。闇夜はRPG―7を二つ両肩に構えると、同時に二発射出した。発射された二発の弾頭は深雪を逃さなかった。神社の敷地内で二回の爆発が起こった。爆風は辺りの塵や芥を、深雪を爆心地にして放射状に吹き飛ばした。闇夜は弾頭を射出して、用済みとなったRPG―7の発射管を脇に放り出すとまた二本空中からRPG―7が落ちてきてそれをキャッチした。続けざまに二発発射する。そして弾頭を発射したあとのRPG―7の発射管を脇に捨ててはまた上から落ちてきてそれを掴んで発射する事を繰り返した。爆発の輪はどんどん大きくなり、闇夜の目の前まで迫っていた。限界になるまで闇夜は撃ち続けた。爆風と煙で闇夜は咳き込んだ。闇夜の両サイドにはRPG―7の発射管の山がうず高くつまれていた。闇夜の目の前の地面は削れ、深雪を中心としたクレーターのようになっていた。闇夜はちょっとやりすぎたかな?と反省した。煙は風でかき消さた。目の前には無傷の深雪が立っていた。しかし、ドーム状のバリアは徐々にパリ、パリっと崩れていき、ついにはバリアは粉々になりかき消えた。


第二楽章

突然弦楽器がアクセントの強いフレーズを弾くと、ティンパニがそれにこたえる。そして弦楽器が美しい三拍子の旋律を紡ぎだす。それは踊るのに最適な音楽だった。闇夜は深雪と踊ることで、内面に抱えたどす黒い執着を取り除こうと思った。

闇夜はゆっくりと深雪の方へ歩みを進めた。そして彼女の右手を取り、闇夜の右手で深雪の腰の後ろに手を添えた。闇夜は深雪と軽快で早い、ウィンナーワルツを踊った。

右回りにナチュラルターンしながら、それほど広くない神社の敷地を左回りにグルっと回り踊った。第九の第二楽章は、早いテンポのワルツであるウィンナーワルツでも、早すぎてて難しい曲だが、闇夜と深雪はなんとかついていっていた。

戦いのさなかとはいえ、体を密着させ、三拍子のリズムにのって優雅に踊る感覚に、闇夜はロマンティックな気持ちになった。先ほどドンパチとやっていたのと同じ場所とは思えないような、ゆったりとした趣のある神社の雰囲気となった。木々はかすかに揺れ、オーケストラと風の音が耳に心地よい。

右回りのナチュラルターンを止め、左回りのリバースターンになると、まわりにピンク色の花のイメージが生まれた。二人が通る道の木々には、既に散ってしまったはずの花が咲きこぼれていた。二人のダンスが生命力にあふれている証拠だ。二人はステップを止め花が開くように決めポーズを取ると、真夜中に、二人にしか見えない大輪の花火が上がった。花火の光に二人は赤々と照らされた。

一旦ナチュラルターンになってからリバースターンになると、二人は右回りに神社の敷地を回りだした。スキップのような早足のステップ。闇夜は左手を離し、右手の下で深雪を回した。するとどこからともなく歓声が沸き起こる。

第二楽章は静かに終わり、二人のダンスも終わり、再び二人は戦いの距離になった。


第三楽章

管楽器と弦楽器が厳かにゆっくりと静かにはじまる。この楽章は緩徐楽章なので闇夜は時間操作ができる。

闇夜はとりあえず、深雪の素早い動きを止めようと思った。止めるには足に攻撃をしなければならない。闇夜は深雪の元へ走って行き、射程範囲内に入った所で時間を止めた。はずだった。普段時間を止めた場合、時間を止めてもオーケストラの演奏と闇夜は動けて、その他のものは止まった状態になる。それが、今回時間を止めたら、力が不完全に働き、闇夜の動きがスローモーションになってしまった。さらに深雪もスローモーションだが動ける状態だった。ゆったりとした演奏の中で闇夜と深雪はスローな動きでの戦いとなった。

闇夜はまず足払いをして深雪を転ばせようとした。ゆっくりとした前掃腿。深雪の左足に当たる直前に、深雪はゆっくりと地面を蹴り、飛び上がった。動作がゆっくりとしているので深雪がどれくらいの高さまで飛ぶのかわからなかった。だから次にどういう行動を取ればいいか闇夜にはわからなかった。

その場に闇夜がとどまっていると、飛び上がった深雪の足が動き始め、ゆっくりと闇夜の顔の横を蹴りつけようとした。蹴りが放たれて、それが『蹴り』だと認識するのに時間がかかったため、闇夜はその蹴りを避けるタイミングを逸した。徐々に顔に近づいてくる深雪の細い足。闇夜はこれから直撃を喰らうという恐怖を感じながら、その飛び蹴りを待っていた。蹴りが闇夜の顔にぶち当たる。その振動がゆっくりと闇夜の頭蓋骨の中心へと伝わっていく。当たった顔の筋肉がゆっくりと波を立てて(ゆが)む。普通に殴られたり蹴られたりした場合、痛みは一瞬なのだが、このスローモーションの世界では一瞬がものすごく長い時間に感じられる。蹴りを顔面で受け止めて、その痛みが長い間続く。一瞬が永遠に続くように思われる。異常な痛覚が信じられない時間継続されて、闇夜は気も狂わんばかりだった。

やがて深雪の回し蹴りは、闇夜の顔を蹴り抜いた。すると闇夜はゆっくりと後ろにふっ飛ばされる。ゆっくりと空中に投げ出される闇夜。滞空時間が長く、そのまま永久に宙に浮いたままである錯覚さえ感じた。実時間でどれくらいの時間がかかったかどうか分からなかったが、ようやく闇夜の背中は地面に投げ出された。そして様々な痛覚の波に晒された闇夜はなんとか立ち上がることが出来るようになった。闇夜は接近戦は不利だと感じ、違う方法で足止めをすることを考えた。

両手からベレッタPx4自動拳銃を二丁取り出すと、深雪の足を狙って二発発射した。ゆっくりと射出された二つの弾丸は、銃口から火花を発し、空間を裂く白い弾道が二つの直線を描いた。すると深雪は信じられない身体能力で、地面すれすれまで体を後ろに倒し、二発の弾丸の白い弾道をやり過ごした。弾丸をやり過ごした深雪はそのまま手を地面に押し当て、後ろにとんぼ返りをして立ち上がった。

闇夜は二つのベレッタPx4を持ち、両手を広げ、一発は深雪の上半身、二発目は深雪の下半身を狙い撃った。弾丸の残像が白い弾道となって目に見える。これに合わせて深雪は一発目の上半身を狙った弾丸を避けようと体を後ろへそらした。しかし深雪は下半身に向けられた二発目の存在を忘れていた。一発目の弾丸は紙一重で避けることができたが、不自然な体勢からは二発目の弾丸は避けられなかった。二発目の弾丸は見事深雪の右腿に弾着した。弾着して、その弾丸は皮膚を破り、肉に穴を開け、骨をかすり、再び肉を破り、皮膚を破り、反対側に貫通していった。この行程は本来ならば一瞬だったのだが、この、全てのものがゆっくりと進んでいく世界では、皮膚を突き破る痛覚から、再び反対側の皮膚を突き破るまでの間が永遠と感じられるくらい長い時間がかかり、深雪には、今弾丸が自分の中のどの部分にあるか感じ取れるほどであり、弾丸が貫通するまでの長い間痛覚を感じ続けていた。右腿を撃ちぬかれたことと、長い間続く痛覚のショックで、深雪は右膝を地面についた。そこで第三楽章が終わった。


第四楽章

突然辺りには雷雲が立ち込めた。管楽器や弦楽器、そして打楽器が地面が揺れるほどのフレーズを叩きつけた。それとともに土砂降りの雨が降り始め、雷鳴が轟いた。

そして第一楽章と第二楽章の主題が再現された。するとチェロとコントラバスが第四楽章の主題とも言える「歓喜の歌」を奏ではじめた。

闇夜は考えた。この雷鳴を利用する事はできないかと。精神病の治療には電気けいれん療法というものがある。頭部に電極を取り付けて通電することで、強制的にてんかん発作を起こし、統合失調症、うつ病、躁うつ病などの精神疾患を治すというものだ。少々荒療治だが、効果が無いとはいえない。

闇夜は雷雲を呼び寄せると、避雷針のように右手を挙げた。雷撃が闇夜の右手に落ちると、そのまま右手から雷撃の方向を変えさせ、深雪に向かって放った。雷撃を受けた手からそのまま反射させて雷撃を放つので、闇夜は感電しなかった。雷撃を受けた深雪は、手で雷撃をパーンと殴り、右に方向を反らせた。闇夜は第三楽章で、深雪の足止めには成功したが、雷撃をも跳ねとばす深雪の力に戦慄を覚えた。闇夜はめげずに雷撃を深雪に向けて反射させた。またもや深雪は飛んでくる雷撃を、あたかも蚊を追い払うかのように、軽く手を振って雷撃を今度は左に逸らした。

闇夜は連続して雷撃を反射させた。ガシャーンという雷鳴の音と、ビリビリっという電撃の音が交互に絶え間なく鳴り響いた。無数の稲妻が深雪を襲う。しかし、どんなに雷撃の間隔を狭めても、深雪はその雷撃を次々とはねのける。

ここで闇夜は一つ重大なミスを犯していた。雷撃を連続して跳ね返し、その間隔を出来るだけ狭めればいずれ深雪に当たると確信し、防御のことを忘れ、攻撃に徹していたことだ。連続した攻撃がどんどん短い間隔で繰り返される。そしてこれなら深雪に当たるだろうという一撃が放たれた。雷撃はジグザグと曲がりながら深雪に迫っていく。しかし、その一撃は深雪の真正面に出された手のひらで闇夜の方に跳ね返された。闇夜はまさかこちらに跳ね返してくると思っていなかったので防御姿勢をとろうにも、それが間に合わなかった。雷撃をまともに体で受ければ感電してしまう。迫る雷撃。闇夜の髪を濡らす土砂降りの雨。ぬかるんだ地面。もはや絶望的だ。闇夜は目をつぶった。


バシッ!!!!


雷撃が直撃する音がした。しかし闇夜は無傷で立っていた。闇夜はゆっくりと目を開ける。すると、目の前で仁王立ちになって雷撃を受け止めている人物がいた。スケキヨだった。スケキヨの体からはシューシュー白い煙が上がっていた。スケキヨのうめき声が聞こえる。そのままスケキヨは崩れ落ちた。倒れる直前で闇夜がスケキヨの体を支えた。

「スケキヨ!」


突然バリトンが歌い始める。

 

 「スケキヨ! しっかりしろ! なんで演奏を止めてこっち来たんだ!?」

 「あんや……あんやは僕が……守る!」

 「スケキヨ!」

 スケキヨは闇夜の腕の中で気を失ってうなだれた。闇夜はスケキヨの体を静かに横たえた。闇夜はゆっくりと立ち上がり、深雪の方を睨みつけた。深雪に敵意を向けても意味が無い。そんなことは闇夜もわかっていたが、自分にとってかけがえのない存在、スケキヨを犠牲にした深雪に敵意を向けざるを得なかったし、ミスを犯した自分にもがっかりした。

 闇夜は懐から四枚の鏡を取り出した。それを空中に放り投げると、鏡は宙に浮かび深雪のまわりをヒュンヒュンと、まるで各々の鏡が意思を持っているかのように動きまわり、取り囲んだ。闇夜は右手を天に掲げた。闇夜の手に雷撃が落ちる。

 合唱隊とバリトン、テノール、アルト、ソプラノの歌手が『歓喜の歌』を歌い出した。


 闇夜に落ちた雷撃は手のひらで跳ね返され、深雪の方へ雷撃が飛んでいく。しかしその雷撃は深雪には届かず、違う方向へ向かっていた。深雪の回りでふわふわ浮いていた鏡の一つに雷撃が当たると、それは跳ね返され、また別の鏡に当たった。もう一度雷撃が鏡に当たるとそれは深雪の方に飛んでいった。雷撃は深雪をかすめ、深雪の足元に落ちた。ガンっという音とともに地面に穴ができた。闇夜はもう一度雷撃を受け跳ね返すと、それはまた鏡に当たった。四枚の鏡にピンボールのように跳ね返されると深雪の後方から雷撃が襲う。しかし深雪は運良く後ろに手を掲げて雷撃を跳ね返してしまった。

 闇夜はもう四枚鏡を取り出して空中に放り投げた。深雪は八枚の鏡に取り囲まれた。闇夜はまた雷撃を受けるとそれを地面に向かって跳ね返した。地面に跳ね返された雷撃は、地面に力を加えて波打たせた。その波が深雪のところに到達すると、深雪は体が宙に浮き、空中に放り投げられた。闇夜は両手を宙に掲げた。すると二本の雷が闇夜の両手に落ちた。両手に落ちた雷はそのまま跳ね返された。跳ね返された雷撃二本はそれぞれ八本ずつに枝分かれした。十六本の雷撃は深雪の周りに浮かんでいる鏡に当たった。鏡に当たった雷撃が一斉に深雪を襲う。オールレンジからの雷撃に、空中に浮かんでいる深雪は逃げ場を失い、十六本の雷撃が一斉に深雪に直撃する。深雪はものすごい破裂音とともに体を反らせて痙攣した。そして地面に崩れ落ちた。倒れた深雪からは白い煙が立ち上り、体にはミミズ腫れのような電流斑ができた。

 オーケストラはコンサートマスターを欠いた状態で演奏をしていた。合唱隊とともに曲は最高潮に達し、シンバルやトライアングルも混じえ第四楽章はフィナーレを迎え、演奏は終了した。するとなぜか、辺りに立ち込めていた雷雲が消え去り、土砂降りの雨もすっかりとやんで、辺りに静寂が戻った。

 闇夜はハアハアと息を切らしていた。目の前には深雪が横たわっていた。そこら中に穴や爆風の跡があり、戦いの激しさを物語っていた。闇夜は深雪の元へ歩いて行った。深雪の体からはまだ煙が立ち上っていたが、鼓動を感じることができ、息もしていた。

 闇夜は識神たちが見守る中、深雪に再び他心通を試みることにした。深雪のもとで手印を結び、他心通のマントラを唱えた。

 「オム・カアルムクベ・ヴィドゥジ・ハイ・オム・ハチェシュカアクジャプ・スワルー」


 闇夜は深雪の心のなかにダイブした。押し寄せる意識の波の中、闇夜は深雪の黒い感情を探した。深雪の心のなかは、以前ダイブしたような憎しみにあふれた苦しい場所ではなく、温かい色の重なる居心地の良い空間だった。深雪を取り巻く蔑みの声や敵意のノイズは消え失せていた。深雪の心のなかにいる瑞歩を探してみると、以前のような憤怒の形相の瑞歩ではなく、やわらかな笑顔をたたえている彼女がそこにはいた。

 闇夜は深雪の心の中から帰ってきた。以前の時のように、悪夢から必死になって抜け出す必要はなく、自分を意識しただけで簡単に他心通から戻ってくることができた。闇夜は調伏がうまくいったことを確信した。

 「……調伏……完了!」

 これで一連の呪殺事件は解決したわけだが、まだ全てが終わったわけではなかった。傷ついた深雪とスケキヨを助けなければならない。闇夜は呪術による治癒方法も習得していた。無論それも音楽によるものだった。

 闇夜はオーケストラと合唱隊から、アンディ、スチュワート、ゴードンを残し、他の識神は帰した。楽器類も消え失せた。代わりにエレクトリック・ギターとギターアンプ、エレクトリック・ベースとベースアンプ、ドラムセット、そしてスピーカー付きの、ローズ・スーツケースエレクトリック・ピアノが現れた。ギターにはアンディが、ベースにはゴードンが、ドラムセットにはスチュワートが、そしてエレクトリック・ピアノには闇夜がついた。この四人で回復の呪術の歌を歌おうとした。リード・ヴォーカルは闇夜で、あとの三人はコーラスである。トッド・ラングレンの“Hello It’s Me”に、闇夜が独自に歌詞をつけた『ともだち』という歌を歌おうとした。

 アウフタクトで一拍早くゴードンのグルーヴィなベースが入ると、趣きのあるエイトビートの曲がはじまる。このようないなたいエイトビートの曲はスチュワートが最も得意としているリズムだ。闇夜のエレクトリック・ピアノが正確にリズムを紡ぎだすと、アンディのギターが裏拍を意識したリズムで刻む。




ともだち

 

 ともだち 病めるときも健やかな時も

 一緒だよって言ってくれたよね

 枯れない花のように

 見つけ出して隠してね


 夕暮れの中で見つけ出した金星は

 饒舌な口をふさぐ

 負けない心強い心

 どこかで落とした忘れ物


 大事な言葉は ここにあるはずさ

 泣き虫な君でもわかるはずさ


 甘えてた 僕の弱い心には

 いつも君がいてくれた

 君はいつも僕を支えてくれたよね

でもね無理はしないでよね

 

やるべきことは わかってるけれど

どうしても勇気がでてこない


 はしゃいでる ララララ はしゃいでる君は好きだよと

言っても君は信じないだろう

僕の言葉じゃ足りないよ

かけがえのないともだち


ともだち

ともだち

ともだち

 ともだち……


 闇夜達が歌っていると、深雪とスケキヨは暖かいオレンジ色の光に包まれた。二人の傷口はみるみるうちにふさがっていき、出血は止まった。やけどや電流斑も消えていき二人の美しい肌は元に戻った。

 闇夜はスケキヨの近くに走り寄る。闇夜は倒れているスケキヨを抱き起こしゆすった。

 「スケキヨ! どうした? 目を開けろよ!」

 闇夜がいくらゆすって声をかけてもスケキヨは返事をしなかった。

 「スケキヨ! どうしたんだよ? 目を開けろよ! こんなの嘘だろ?」

 闇夜は目に涙をためながら叫んだ。

 「お前はさぁ……俺の父さんで、母さんで、兄さんで、姉さんで、弟で、妹で、友だちで……彼氏なんだろ? 目を開けてくれよ!お 前がいなくなったら……どうしたら良いんだよ? ……なぁ、こんなの冗談だろ? ……お前はいつだって、俺がいたらすぐ抱きついてくるだろ? ……なんで黙ってるんだよ? ……いつまで死んだふりしてるんだよ !答えろよ! ……スケ……キ……ヨ……スケキヨーーーーーーー!!!!!!」

 闇夜は人目もはばからず泣きじゃくり、スケキヨを抱きしめた。


 「ニシシ」

 闇夜がいくらゆすっても呼びかけなかったスケキヨの笑い声が聞こえた。その直後、スケキヨは、ガバっと闇夜の身を引き剥がし、その薄紅色で甘美な唇を、強引に闇夜の唇に押し付けた。そして舌を闇夜の口の中にねじ込み、闇夜の舌と絡めた。闇夜は一瞬うっとりしかけたが、急いでスケキヨの顔を強引にどけた。

 「ぷは!……はへ?」

 闇夜は何事が起こったかわからなかった。

 「あんやの初キス、ゲットだぜ!」

 スケキヨはニコニコしながら言った。闇夜もようやく何が起こったか理解できるようになった。

 「ちょ! ……おま! ……何すんだよ!」

 「あんやも僕が彼氏だってこと認めてくれたんだね。うんうん。」

 「ば、バカやろ! ……お前、な、なんてことしてくれたんだよ! 生きてるなら生きてるって早く教えろよ!」

 闇夜は顔を真赤にして、唇を袖で拭きながら言った。

 「やっぱり既成事実を作らないとね。ニシシ。」

 闇夜は目を三角にして怒っていたが、スケキヨが生きていたという事実を受け止め、やれやれ、と言った感じで笑顔になった。

 闇夜は後ろで呆気にとられていたゴードンたちに言った。

 「悪いけど、深雪を家に帰してやってくれないか?」

 「わ、わかった。」

 ゴードンはそう言うと、アンディとスチュワートを連れて深雪の元まで行き、その体を三人で担ぎ上げ、神社の外へと出て行った。

 闇夜はスマートフォンを取り出し、後藤に電話した。

 「もしもし?おやっさん?」

 「『おやっさん』じゃない! 『文部科学省高等教育局特務課別室室長』だ! で、こんな時間になんの用だ?」

 「はいはい、長い名前乙。蚕糸の森高等学校呪殺事件、解決したぜ。」

 「そうか。ご苦労。よくやったな。お前ならできるって信じてたぞ。だからそう言ったろ?お前なら出来るって。……で……悪いが……次の仕事だ。大久保の百人町高校に行ってくれ。すぐにだ。そこも原因不明の事故死が多発している。可及的速やかにこれを解決してくれ。もう住居の用意などは整っている。頼むぞ。」

 「そんなバカな! もう仕事があるのかよ! 少しは休ませてくれ!」

 「そう言うなよ。次の仕事が終わったら休みを申請してやる。休みが取れるように……えーと……ど、努力しよう。」

 「……はあ……さいですか……了解。」

 闇夜はスマートフォンを切る。そしてスケキヨの方に向き直る。

 「だとよ。」

 「しょうがないよ。あんや優秀だし。がんばろ。」

 闇夜はあくまで前向きなスケキヨに苦笑を隠し得ず、その自分の境遇を受け入れた。

 闇夜はカフグリップ付きの杖を拾い上げ、結界を作っている護符を剥がし、神社を元の状態に戻した。あちこちの木々が燃えて炭になり、穴ぼこだらけになった神社の敷地をどうするのかと、一瞬闇夜は考えたが、そういうことは後藤に任せることにした。

 闇夜とスケキヨは神社を一度見回してから、早速荷造りするために神社を後にして自宅へと戻っていった。



 ***



 明くる朝、山の辺深雪は自分の部屋で目を覚ました。まるで長い悪い夢から目が覚めたように清々しい朝を迎えていた。昨日闇夜と戦った記憶があったが、彼女にしてみれば、それは夢の一部のような感覚だった。そしてその夢のなかで、山の辺瑞歩がいたぶられていたことを思い出した。深雪はベッドからガバっと起き上がると、母親を探した。

 瑞歩は台所で朝食と弁当の用意をしていた。

 「……お……かあ……さん……」

 「深雪。おはよう。」

 瑞歩には以前のような黒い執着や憤怒がその表情から消え、純然たる母の顔をしていた。深雪は母の表情から何かが変わったことを察し、瑞歩に抱きついた。

 「お母さん!」

 「深雪。今までごめんね。お母さんね、やっとわかったの。何が一番大事かって。深雪。あなたはもっと自由にしていいのよ。あなたの幸せが私の幸せなのだから。」

 「お母さん! ありがとう!」

 「お父さんとも仲直りしないとね。」

 「……うん……うん……」

 二人は時間が許す限り泣き、抱き合った。深雪の新しいスタートを示す朝となった。



***

 


 闇夜は自宅の荷造りを終わらせ、がらんとした部屋で立ち尽くしていた。荷造りは識神を使ったおかげですぐに出来た。しかし、短い間とはいえ、転校し、その地を離れるときまで暮らした部屋から何もなくなってしまう状態をみると、感傷的にならざるを得ない。

 「あんや、もう行くよ。」

 スケキヨが闇夜に声をかけると、闇夜は生返事を返して、その部屋を出て行く。玄関のドアがなんとも物悲しい音を立てて閉まる。



***



 朝。蚕糸の森高等学校二年四組の教室。

 生天目裕子は、隣の席の月島闇夜が来てないことに一抹の不安を覚えていた。昨日保健室に連れて行ってから、闇夜の様子がおかしかったし、なぜかもう会えないのではないか? という不安を感じたからである。それでも、やはり体調が良くないから今日はお休みするのでは? と無理に自分を安心させていた。

 ホームルームの時間になり、二年四組担任の日本史教師、佐藤繁子(三十四歳独身)が教室に入ってきた。少し神妙な面持ちをしている。

 「えー、皆さんに残念なお知らせがあります。月島闇夜くんがご家庭の事情により転校することになりました。」

 裕子は背中にゾクッとした気味の悪い感触を覚えた。先生の発した言葉がリフレインとなって裕子の鼓膜に響きわたっていた。

 「……うそ……うそだ……」

 「わずか一ヶ月と少しの短い間でしたが……ちょ、生天目さん!? ちょっと生天目さん!どこ行くの?」

 裕子は気がつくと立ち上がり、ホームルームの時間だというのに先生の呼びかけも無視して教室を抜け出し、走っていった。

 「月島くん! 月島くん!」

 どこにいけばよいかわからなかったが、とにかく走った。涙をいっぱい目に溜めながら。


 闇夜は東高円寺駅に向かっていた。杖をつきながらゆっくりと歩いていた。

 ふと横を見ると、裕子に連れて行ってもらった、つけ麺屋、麺屋えん寺があった。闇夜は立ち止まる。裕子に教えてもらった美味しいつけ麺。つけ麺を食べながら見せる、裕子の屈託のない笑顔。また一緒に食べ歩きしよう、という裕子との約束は果たせない。いろいろな想いが闇夜の頭のなかを駆け巡った。そして裕子に別れすら告げられず立ち去ることへの罪悪感を覚えた。そして気がついた。彼女は既に自分の友だちだったということを。そしてその別れを呪った。

 「……だから友だちなんて作りたくなかったんだ……」

 闇夜はそうつぶやくと、駅へと歩みを進めた。


裕子はとりあえず駅の方へ向かった。蚕糸の森公園を抜け、青梅街道を渡った。ふと麺屋えん寺の前で立ち止まり、闇夜との短い間の心のふれあいを思い出した。それが自分にとってかけがえのない思い出だということを再認識した。涙が堰を切ったように流れだした。

裕子は辺りを見回した。すると、杖をついて歩く、長身で黒髪の少年を見つけた。彼は地下鉄の駅の階段を降りようとしていた。裕子は急いでその少年を呼び止めようとした。

「月島くん!」

裕子は可能な限り大声をあげた。しかし往来の激しい車の音にその声はかき消された。横断歩道を渡ろうとするも、ダンプカーが連続して通り、信号無視もできない。巨大なトレーラーが通り過ぎたあとには闇夜の姿は消えていた。

「……月島くん……」

裕子はへたっとその場に座り込み、往来の人の目も気にせずワンワンと泣き続けた。



学校で不可解な事件が起こる時、文部科学省高等教育局特務課別室は、霊能エージェントを転校生として派遣する。月島闇夜もその霊能エージェントの一人だ。彼ら、闇夜(やみよ)の転校生の戦いは終わらない。この世に呪術を悪用する人間が消えない限り。


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