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前編

   闇夜の転校生           飛鋭78式改


午前二時。

神田神社。

昼間は参拝客で賑わう神田神社も、この時間となれば、辺りには人の気配が全くなく、満月だけが煌々と光っている。

そう、彼らの気配以外は……


月島(つきしま)闇夜(あんや)はこの世のものではない存在と戦っていた。

漆黒の髪の毛を肩までざんばらと伸ばし、瞳は黒く大きくあるものの切れ長で、いかにもクールな印象を与える。精悍な顔立ちに屈強な体躯。身長は180センチを超える。欠点といえば、左足が不自由で、左手で杖をついているところくらいだ。そして幾分時代遅れの黒い外套を羽織っている。全身黒ずくめ。それが月島(つきしま)闇夜(あんや)の姿だった。

向こうにいるのはこの世のものではない存在。

白装束に憤怒の形相。顔はクシャっと折り曲げたように不自然に歪んでいる。よだれを垂らしなにかブツブツとつぶやいている。念仏などではない。この世のすべてのものに対する恨み事をつぶやいているのである。

そう、これは霊界から呼び寄せられた怨霊が明確に視覚化され顕現したものである。

闇夜(あんや)がこのような名状しがたきものと対峙するのはこれがはじめてではない。はっきり言って慣れていると言っても過言ではない。そう、怨霊を調伏するのが彼の仕事なのだ。しかし毎回このような存在と戦うときには、背筋に悪寒が走るのを禁じ得ない。いつもとって食われてしまう危険と隣合わせなのだから。

幸いこの神田神社という場所は闇夜に優位に働いていた。ここは大己(おおな)(むちの)(みこと)(俗にいう大黒様)、少彦名(すくなひこなの)(みこと)(俗にいう恵比寿様)、そして平将門といった、三柱もの強力な神々の加護を受けることができるからである。その場所に強い神様がいればいるほど心強いのである。

『怨霊』はおもむろに大量のどす黒い血反吐をビシャっと吐いて、闇夜の方に飛ばしてきた。

闇夜はすかさず、左足を支えていた、カフグリップ付きの杖で五芒星を描いた。杖で描いた軌跡が青く光り、闇夜を包み隠すほどの大きな光る五芒星ができる。

『怨霊』が吐き出した血反吐は、大きな五芒星に阻まれて闇夜のところまでは到達せず、ビシャッと五芒星の壁を汚した。五芒星からそれた血反吐が地面に落ちると、ジュウ、というシズル音を立てて煙が上がる。まるで硝酸が鉄を溶かすかのように。

「うわっ、あっぶねーな。」

闇夜はこの危機的状況にも余裕綽々であるかのように振舞った。

闇夜は、コホン、とひとまず咳払いをしてから、おもむろに人差し指と中指を合わせてから構え、とりあえず基本的なところからはじめることにした。

(りん)(ぴょう)(とう)(しゃ)(かい)(ちん)(れつ)(ざい)(ぜん)!!」

と唱える。一文字唱えるごとに、横・縦・横・縦・横・縦・横・縦・横、と指先で空を切った。いわゆる『九字』を切るというやつだ。『九字切り』は怨霊調伏の基本。

最後の一文字を切ったあと、すかさず指先を『怨霊』に向ける。すると指先から赤い雷撃がものすごい音を立てて『怨霊』に襲いかかる。

直撃だ。

雷撃は『怨霊』の右肩に命中し、まるでショットガンで撃ちぬかれたかのごとく右腕が吹っ飛んだ。吹っ飛んだ右腕は地面に落ちながらも、ピクピクと手のひらを握ったり開いたりをしばらく繰り返している。まるで鯛の活造りが口をパクパクするがごとく。

大きなダメージを与えた、と思われたが、その『怨霊』は、先ほどと相も変わらず、恨み事をブツブツとつぶやきながらこちらに向かってよろよろと歩いてきている。

「あっちゃー、これじゃだめか?」

闇夜は、余裕を見せつつ、わざとふざけた口調で誤魔化してみるものの、冷や汗が首筋を伝っていくのを感じていた。

『怨霊』はゆらりと抜け落ちた右腕を拾うと、右肩にくっつけた。元通りだ。

「やっぱあいつがいないとだめだな。」

と、闇夜は懐から、五芒星が描かれ、人の形をした白い紙切れを取り出す。息をフッと吹きかけて、それを風まかせに地面に落とした。すると紙切れが落ちた地面に、ボヤーッと直径三メーターほどの五芒星が青白く浮かび上がり、その中心に一人の人影が現れる。

 その人物は、ホワイトアッシュの髪の毛にシャギーカットが施されてふんわりとしたヘアスタイルだった。肌は雪のように白く、薄紅色の唇を持ち、その唇の左下に小さなほくろがある。ブカブカのキャスケット、七分丈のニッカボッカにサスペンダーという出で立ちは、まるで五十年代のアメリカの新聞記者のようだ。小柄で、一見ボーイッシュで華奢な女の子然としているが、実はれっきとした男の子である。

 その人物こそ、闇夜が最も信頼をおいている(しき)(がみ)、青沼スケキヨである。

 「あんや! 呼ぶの遅いよ!」

 スケキヨは頬をふくらませて不満気だ。だが闇夜に呼び出されたのがよほど嬉しいのか、目は爛々と輝いている。

「うっせーな、ちょっとはオレにカッコつけさせろよ! お前ばっか良いかっこすんなよ!」

「ちぇっ、僕が出てきてもカッコつけるくせに」

 闇夜は後頭部を掻きながらわざとばつが悪そうにしている。

「わかったわかった。そんじゃあまぁちゃっちゃと終わらせようや」

「じゃあ、なにで行く?」

「そうだな、久々にお前のパガニーニが聞きたいな」

「うげ、趣味悪ーい。難しいんだよ? パガニーニ。やる身にもなってよ」

「『趣味悪い』は言いすぎだろ! 全国のパガニーニファンの皆さんに謝れよ」

「嘘だよ嘘。ニシシ。闇夜ってばからかうとすぐ怒るからかわいいよね」

 スケキヨはいたずらっぽく笑った。

「かわ・・・・・・大の男に向かってかわいいとか言うなよ!!」

 闇夜は顔を真赤にして激昂した。

「だーかーらー、それが、『かわいい』んだってば。ニシシ」

 またスケキヨはいたずらっぽく笑った。

「ゴホン、と、とにかく、仕事が先だ。いくぞ」

「オッケー、じゃあいくよ~」

 スケキヨがヴァイオリンを構えるポーズをすると、どこからともなく光り輝くヴァイオリンがスケキヨの手に納まった。

「そんじゃ、あんや、パガニーニの24のカプリース24番イ短調、はじめるよ」

 スケキヨは一度深呼吸して気持ちを落ちつけた。そしてヴァイオリンの指板に左手の指を押し当て、右手で弓を弦にあてがう。

 流麗なメロディーが次から次へとヴァイオリンのfホールから流れ出てくる。そのメロディーはオレンジ色の暖かな光を伴う明確なヴィジョンとなって、闇夜を包み込む。

 闇夜の怨霊調伏方法はよく知られたものとはちょっと違っていた。識神に楽器を演奏させて、その音楽を触媒にして、自らの霊力や、儀式や言霊の力を何百倍にもするというユニークな方法だった。識神の奏でる音楽が広がる一帯には、強烈なパワーフィールドが発生するのである。

 このようなパワーフィールドに於いては、闇夜の左足の不具も開放される。そして左手に持ったカフグリップ付きの杖も、抜けば玉散る氷の刃と化した。

 闇夜は走る。不具を持つ日常の恨みを晴らさんばかりに走る。左手に握られ、不気味な光を放つ日本刀の切っ先を定め、異形の者へと一心不乱に走る。

 まず闇夜のサマーソルトキックが『怨霊』の顎を砕いた。そして空中で一回転して着地したあと、三往復ほど右足で頭を蹴りつけた。闇夜は飛び上がり二閃、太刀を浴びせかけ、『怨霊』を飛び越える。闇夜の後ろで『怨霊』の両腕がボトッと切り落とされ、肩口から鮮血が噴き出している。すぐさま闇夜は振り返り、右手から赤い衝撃波を放った。切り落とされた両腕が木端微塵に弾け飛び、再生不可能なほど細切れになり、消滅した。

 スケキヨのヴァイオリンは流麗なメロディーから、悪魔のように早い旋律を奏ではじめた。人間業を凌駕したオクターヴ奏法、頭が痛くなるような左手のピチカート。これだからパガニーニは恐ろしいのである。パガニーニを選んだ闇夜の猟奇趣味が垣間見える一端だ。

 曲調が変わるのと同時にパワーフィールドにも変化が訪れ、刃はショットガンに変形した。クルッと回転させて弾丸を装填する、ウィンチェスター1887というショットガンである。闇夜は、ズタボロになっている『怨霊』のところにゆっくりと歩きながら銃口を向ける。

「あんたにはこれっぽっちも恨みは無いんだけどな」

 闇夜は、一発『怨霊』の土手っ腹にショットガンを撃ちこむ。グシャっという音と同時に『怨霊』の胴体に直径30センチの風穴が開く。向こう側がよく見える。『怨霊』はグエッと苦悶の表情を浮かべながら、悲鳴にも似た苦しい声を上げた。

「まあこれが俺達の仕事だからな」

 クルッ。ダン!

「でも、それはな」

 クルッ。ダン!

「因果!」

 クルッ。ダン!

「応報!」

 クルッ。ダン!

「天罰!」

 クルッ。ダン!

「覿面!」

 クルッ。ダン!

「しかたが!」

 クルッ。ダン!

「ないわけで!」

 ダン!

「後悔」

 ダン!

「先!」

 ダン!

「立たず!」

 ダン!

「あの世で!」

 ダン!

「悔いな!」

 ダン!ダン!ダン!

 ダダダダダダン!!

「アスタラヴィスタ、ベイビー」


 ダン!!


御神木をねぐらにしていたカラスが一斉に飛び立つ。『怨霊』はもはや血まみれのミンチと化した。そしてみるみるうちにその破片は光に飲まれ地面に染みこむように消えていった。

スケキヨの奏でるパガニーニが最後の音符を終える。辺りを覆っていたパワーフィールドが包む世界から、日常へと還っていく。

 「ふう。調伏完了!」

 闇夜はカフグリップ付きの杖を左手で拾い上げ立ち上がり、右腕で顔の汗を拭った。全身返り血で真っ赤だ。

 「あんや―――!!」

 スケキヨが走りよって抱きついてくる。闇夜はこの手のスキンシップが大の苦手なのである。

 顔を見上げるスケキヨ。やけにいい匂いがする。上目遣いで目は少し潤んでいて、頬はかすかに紅潮している。これでもかというばかりの笑顔だ。なんて色っぽいんだ。

(落ち着け、闇夜。こいつはこう見えても男なんだ!)

 闇夜は自分に言い聞かせる。そして平静を装いつつスケキヨの頭を撫でてやる。はっきり言って闇夜にとっては、怨霊を調伏するより、こんな時に平静を装うほうがよっぽど苦労する。

「よ、よくやったな、スケキヨ。助かったぜ。」

闇夜はなんとか体裁を繕った。

「ニシシ、あんやのためだったら何だってするんだから!」

スケキヨの最大限の笑顔というのがどの程度なのか未だにわからない。いつも笑顔のたびに記録を更新しているのだから。

闇夜は早くシャワーを浴びたい気持ちを抑えつつ、懐からスマートフォンを取り出し、電話をかける。15コール目でようやく繋がる。

 「あ、おやっさん? まだ起きてたの? 仕事熱心だねぇ。」

 「ばかやろ! 今叩き起こされたんだよ! 何時だと思ってんだよ!? それに『おやっさん』はやめろって何度言ったらわかるんだ! 俺を呼ぶときは、『文部科学省高等教育局特務課別室室長』と呼べ! おやっさんと呼ばれるほど歳はとっちゃいないぞ!」

 で、叩き起こされ不機嫌レベル全開のこの男は、後藤権兵衛(ごんのひょうえ)だ。闇夜の上司にして、育ての親である。

 「そんな長ったらしい名前呼べるかってんだ。あんたはどこからどう見ても“おやっさん”だよ。まあそんなことより、たった今、秀明学園連続呪殺事件の怨霊、調伏してやったぜ。」

 闇夜はあくまで余裕綽々のポーズは崩さない。それが彼の美学なのだ。

 「そ、そうか、それはご苦労だったな。ゆっくり休め。」

 後藤は先程の不機嫌をかき消してねぎらいの言葉をかけた。しかしその声はどうもばつが悪いような感じだった。

 「……んー、前言撤回。まあゆっくり休んで欲しいのはやまやまなのだが、実はもう既に案件が来ててなぁ……」

 後藤は申し訳なさそうに言った。

 「ちょっ! マジかよ?! このところ内偵とかで徹夜続きだったんだぜ? かんべんしてくれよ。」

 闇夜の心からの叫びだった。

 「申し訳ない。メンゴメンゴ。」

 後藤としては最大限の謝罪のつもりだったのだが、闇夜はこの加齢臭満開のオジサンを本気で殴りたくならずにはいられなかった。

 「まあ機嫌直してくれよ。場所は杉並区東高円寺の蚕糸の森高等学校。このところ呪術としか思えない不審死や事故が多発しててな。発生源もなかなか特定できないのだよ。闇夜にはそこに潜り込んで調べて欲しいんだ。詳しいことは後でメールで知らせる。引越しの手続きとかはこっちでやっとくから。なるはやでシクヨロ! それじゃ、バイビー。」

ツー、ツー

 闇夜はスマートフォンを握りつぶしたくなった。

 満月は沈みかけ、夜が白み始めた。闇夜はようやく辺りが平和になったのを自覚した。闇夜はこの時間が一番好きだ。風が気持ちいい。鳥のさえずりが心地いい。


 「また転校か……」

 


*****

 


平安時代と同じように頻繁にに呪術が横行している20XX年の東京。その余波は教育現場にも影を落としていた。特に問題となっていたのが高校生による呪殺事件の数々であった。インターネットを中心とした情報社会の中、呪術に関する情報が簡単に手に入れられるようになり、高校生も手軽に呪術ができるようになったことの裏返しである。

 政府は事態を重く受け止め、文部科学省高等教育局に特務課別室を設け、各方面から霊能エージェントを集め、問題のある学校に彼らを送り込み、事態の収拾を計った。

 月島闇夜も特務課別室に所属する霊能エージェントのひとりであり、数々の高校を転校しては仕事をこなし、そしてまた転校していく、といった、旅役者のような生活を送っていたのであった。


***



 桜が既に散ってしまった五月。ピンク色の花雲が一気に花弁の雨を降らせると、瑞々しい青葉の季節をもたらしてくれる。ごく平均的な日本人に、日本のどこが好きか? と問うたならば、真っ先にそれは、「四季があること」と答えられるだろう。しかし、厳密に言うと日本の季節は決して「四つ」ではない。限りなく“夏”に近い“春”、“夏”と“秋”の丁度真ん中、“秋”から一歩飛び出した“冬”、“春”になりたくて仕方がない“冬”等等……五月とはそんな曖昧で、名前が付けられない季節の一つなのだろう。

 東京メトロ丸ノ内線東高円寺駅の南側に広がる蚕糸の森公園にも、瑞々しい五月が来ていた。花を落とした緑の桜は言わずもがな、色とりどりに咲き出したつつじ、棚から薄紫の花を垂らす藤などが見受けられ、その木々の間には人工の小川や滝が流れている。

 そんな蚕糸の森公園の奥に都立蚕糸の森高等学校がある。

 二年四組の教室からはガヤガヤとした喋り声が聞こえる。丁度休み時間だ。一時限目の世界史でのギリシャ人の名前が覚えにくいだの、昨日の夕食何食べただの、隣のクラスの沙都子とうちのクラスの雄輔が付き合ってるのってありえねーんじゃねーの? だのといった、他愛もない会話がランダムに連なっている。それを廊下で聞いている人物は、このクラスは割と良さそうなクラスだな、と勝手に合点している。その人物のとなりには、このクラスの担任の日本史教師、佐藤繁子(三十四歳独身)が付き添っている。ホームルームの時間を告げるチャイムの音がなるかならないかのタイミングで繁子(三十四歳独身)はクラスのドアを開ける。繁子(三十四歳独身)は授業を始めるのも終わらせるのもどんなに中途半端でも必ずオンタイムなのだ。どうやら彼女の中の体内時計はコンマ一秒の間隔で正確なようだ。彼女(三十四歳独身)はつかつかと教室に入り教壇に立つ。教卓を台帳でバンバンっと二回叩き、クラスに静寂を与える。繁子(三十四歳独身)は教卓の真ん前に座っているクラス委員長の生上院(きじょういん)()()()に目配せをする。


きりーつ。れーい。ちゃくせーき。


 クラスにオーダーが戻る。

 「えー、今日から転校生が来ます。紹介しましょう。入ってください。」

 繁子(三十四歳独身)はクラスに語りかけたあと、ドアの方にも語りかける。

 すると全身黒ずくめの生徒が入ってくる。五月で少々汗ばむ季節だというのに黒い外套を羽織っている。ブレザーの上から外套を羽織っているので非常に不自然だが、別に先生に注意されたわけではないので校則違反ではないのだろう。髪は真っ黒で肩までざんばらと伸ばしている。これも校則違反ではないらしい。目は黒く大きく切れ長で、身長は180センチ以上ある。大きく四角い眼鏡をかけている。左足が不自由なのか、左手でカフグリップ付きの杖をついている。目立つ。クラスは少し色めき立ち、誰が言ったのか、「金色夜叉かよ?」というセリフにクスクス笑っている生徒も何人かいる。その人物はそんな嘲笑には眉一つピクリともさせずに、第一声を放った。

 「はじめまして。月島(つきしま)闇夜(あんや)と申します。この度、この蚕糸の森高等学校に転校して参りました。ご覧のとおり左足に不具を抱えておりますゆえ体育は見学とさせていただきます。趣味は食べ歩きで御座います。どうぞよろしく御願い仕り候。」

 一瞬静寂が戻るもつかの間、すぐにクラスは色を取り戻す。

「『仕り候』って……」

「あのこ、かわいくない?」

「えー?そーお?」

「おもしろそうなやつだな。」

「でもちょっと暗そう…」

「是非とも我が時代劇研究会に入って貰いたいものだな。」

「うちの野球部、マネージャー募集してなかったっけ?」


 バンバン!!

 佐藤繁子(三十四歳独身)の台帳叩きが再び響き渡ると、クラスのカオスも元に戻る。すると誰からともなく、「よろしくー!」との声がかかり、さざなみのように『よろしく』コールがこだまする。そして拍手と歓声が沸き起こる。どうやら闇夜は思ったよりも歓迎されているようだ。転校する度、毎回この瞬間が一番緊張するのだ。闇夜は深々と一礼する。

「それじゃあ、月島くんには窓際の後ろから二番目の席に座ってもらいますね。」

繁子(三十四歳独身)が促すと、闇夜は先生(三十四歳独身)にも一礼して、指定された席へ杖をつきながらつかつかと向かう。

その闇夜の歩く姿に向けられる、一際熱い視線があった。その視線をたどると、一人の女の子がいた。その娘は、赤いフレームの眼鏡に、栗毛のショートボブで、幼い顔立ちをしていて、それに見合わないような大きな胸をふくらませていた。生天目(なばため)裕子(ゆうこ)であった。

「あの人……すてき……」

裕子の心の声が思わず現実世界の空気の振動となって現れていた。

「まーた生天目の眼鏡男子萌えがはじまったよ。」

裕子の右隣に座る、海江田魚々(かいえだななこ)がからかうように言った。

「え? 今わたしなんか言った??」

頭のなかがお花畑になっていた裕子が、その声を聞いてハッとして、パニクりながら隣の魚々子に言った。

「あんた気づいてないの? 思考ダダ漏れよ。あんた絶対ウソとかつけないわよねー。」

「えーーー?? うそーー?? どうしようー??」

裕子は顔から火が出て、学校中の火災報知機が全部鳴りそうだった。真っ赤になった裕子を見て、魚々子は更にケラケラと笑うのであった。

裕子からの熱い視線に気づいていない闇夜は、キョロキョロしながら、窓側の、後ろから二番目で、裕子の左隣の席を目指した。ほんの30メーターほどの距離でも、杖をついて歩くと思いの外時間と体力を使うのであった。

「よっこいしょういち。」

闇夜は安心するとたまにこんな死語をつぶやく癖がある。明らかに後藤の影響だろう。そんな独り言に周りの生徒達はクスクス笑う。すると後ろからちょいちょいとシャーペンで突かれる。

「おい、おまえおっさんか?」

闇夜が後ろを振り返ると、そこには白い歯をキラキラと輝かせた、百万ドルのえびす顔の坊主頭の少年がいた。

「これは失礼仕り候。」

闇夜は真顔で答える。

「今度は時代劇かよ! まあいいや。俺っちは中村(なかむら)(たつ)(とし)。野球部でキャッチャーやってんだ。これでも学校では色んな所に顔が利く方なんだよ。まあわからないことがあったらなんでも聞いてくんな。ただし、数学と英語以外な。」

達俊はまた白い歯を輝かせる。

「これはかたじけない。以後よろしゅう。」

闇夜は早速この学校の情報屋を見つけて幸先が良いと思いながら返事をした。だがそれ以上のことは言わなかった。この稼業は付かず離れずが良しとされるからだ。

とりあえず闇夜はクラスを見回してみる。この席はクラスを観察するには調度良い席だった。一番後ろの列から真ん中あたり、ついで廊下側の席、一番前の列、と視線を動かしていき、視線を戻すときに、廊下側の一番前の席の所で視線が止まる。一際目を引く生徒がいた。黒い髪を腰まで伸ばし、前髪は切り揃えてあり、病弱とも思えるほど白い肌をして、憂いを秘めた眼差しをしている。まるで日本人形のような、怪しくも美しい姿をした少女だった。そう、彼女は美しかった。不健康な美しさがあった。闇夜はしばらく見とれていた。それがどれだけの時間かわからなかったが、端から見れば、充分に「見とれてた」と認識されるほどの長さだったのだろう。すると後ろからえびす顔の少年の声がする。

「なかなかお目が高いな。」

闇夜はハッとして、後ろを振り向く。その少年は白い歯を見せながら続けた。

「だけどあの娘はやめたほうがいいぜ。あいつは(やま)()深雪(みゆき)。俺っちはなあ、あいつが話しているところを見たことがないんだよな。誰とも話しをないんだ。でもってあいつのことを悪く言ったり、噂したり、あいつに告白したり、関わったりするだけで、そいつに不幸な出来事が起こるんだ。まああのなりだからやたらと(コク)られるらしい。フラれるってだけでも不幸なのに更に事故に巻き込まれたりするのはかなわないよな。泣きっ面に蜂ってやつだ。ほら、某漫画家に関わると祟りがあるってジンクス聞いたことないか? それと一緒だな。だからあいつのことを、誰からともなく、『鳥居』って呼ぶようになっちまったくらいだ。祟りがあるからな。おっと、こんな話をしてる俺っちもアブナイな。わりぃ、忘れてくれ。」

闇夜は彼の話に相槌を打つわけでもなく、その話を終わらせた。その話しぶりは、あまり客観的とは言えず、まるで当事者になったことがあるかのようではあったが、武士の情けで、闇夜は敢えてそこにはツッコまずにしておいた。しかしその話は闇夜にとってはすごく興味深い話だった。闇夜は、彼女のことを深く調べる必要があると感じた。しかし、一見仲良しクラスに見えるこのクラスにも、そういうはみ出し者というか、スクールカーストというか、ハイエラキーじみたものが存在するのだな、と複雑な感情にもなった。いくつもの学校を渡り歩いているのにもかかわらず、この手の感情には毎回違和感を感じる闇夜だった。

(山の辺深雪か……覚えておこう)

その日は右隣の裕子からの熱いの視線に気づくわけでもなく、深雪のことを考えるだけで一日が終わってしまった。



***



闇夜の今回の仮住まいは学校からそう離れてはいなかった。学校から蚕糸の森公園を通りぬけ、青梅街道をわたって、東高円寺商店街のニコニコロード通り過ぎ、大久保通りを越して少し行ったところにあるデザイナーズマンションだった。ニコニコロードには、大きなスーパーがあり、八百屋や魚屋や駄菓子屋もあり、買い物やみちくさには困らなかった。いくら国から予算が出るとはいえ、一介の高校生ごときを家賃二十万円で3LDKの豪華なマンションに住まわせるのもいかがなものかと思われるが、そうあてがわれてしまったのだから仕方がない。そのおかげでピアノまで置けるのだから闇夜は感謝していた。

「ただいま。」

闇夜がタルそうに帰宅を告げると、いきなり轟音を伴って接近してくる物体が……

 「あんや! おかえりーーー!!!!」

 スケキヨが猛ダッシュで抱きついてきた。闇夜の首にぶら下がって、三回転くらいグルグル回ったので頸動脈が圧迫されて目眩がした。

そして人との密着が闇夜をまごつかせる。

「よ、よう、スケキヨ……た、ただいま……」

「ただいまのチューは??」

目を潤ませて上目づかいで見つめてくるチワワのようなスケキヨ。ここはビシッと言ってやらねば……

「な、何言ってんだよ、す、スケキヨ……男同士でキ、キスしてどうすんだよ……あはは……」

「そんなのどうだっていいじゃん。だって僕はあんやの彼氏なんだもん! ニシシ!」

「ば、バカの事言ってないで……着替えるから……」

闇夜はぎこちなく、かつ無理矢理にスケキヨを体から引き離す。スケキヨは、もう、と頬をふくらませている。闇夜は奥の自分の部屋へ入っていく。扉を開けて閉める直前に、

「覗くなよ。」

と釘を刺す。スケキヨは更にふてくされる。

闇夜は黄土色のブレザーを脱ぎながら、

「まったくあいつはなんでこんなことに……」

とひとりごちた。

 (そういえばあいつとももう十六年の付き合いになるか……)

 闇夜は遠い目で、着流し姿に着替えながら回想した。



***



 闇夜とスケキヨとの出会いは闇夜が五歳の時まで遡ることになる。

 呪術の修行をしながら日本中を旅していた時、岡山県の山間部の小さな村に滞在中に、闇夜はスケキヨの御霊と出会った。陰陽道の師匠である、田山伊右衛門がいる山小屋での修行が終わった帰り道に、村の大きな旧家の前で、闇夜はスケキヨを見つけた。

 髪の毛はホワイトアッシュで、ざっくりとすいてあり、ふんわりしている。雪のように白い肌で薄紅色の唇、そしてその口の左下にはほくろ。目は碧眼。華奢で小柄なので、ズボンを履いてなければ女の子と見間違えてしまうような美少年だった。

 彼はその近くを人が通るたびにその人を眺めていた。

 闇夜は修行で滝に打たれたり、難しい呪文を何度も唱えさせられたりする毎日に疲れながらも、その家の前にいるスケキヨをじっと見ていた。そして目があった。それが何回か繰り返されると、その少年はいきなり声をかけてきた。

 「君!」

 闇夜はどぎまぎしながら答えた。

 「オ、オレのこと?」

 「うん。」

 「なーに?」

 「君は僕のことが見えるの?」

 「うん。見えるよ。他の人は君のこと見えないの?」

 「うん。僕のこと見える人は他にはいないみたい。君、名前は?」

 「闇夜。月島闇夜。君は?」

 「スケキヨ。青沼スケキヨ。もともとこの家の九人兄弟の末っ子だったんだ。でも十五歳の時に結核で死んじゃってね。」

 「そうなんだ。オレはお父さんもお母さんも知らないんだ。何人兄弟かも知らない。どこで生まれたかも知らない。ゴトーっていうおじちゃんと、シショーしか知ってる人がいないんだ。毎日毎日ここの山小屋でシュギョーしてんだ。何のシュギョーなんだかよくわからないんだけど……」

 「ふうん。そうなんだ。」

 そんな感じで闇夜とスケキヨは出会った。そして山小屋での修行を終えた帰り道で闇夜はスケキヨと毎日話しをするようになった。

 「スケキヨは何が好きなの?」

 「僕はヴァイオリンとピアノが好き。おとうさまが買ってくれたんだ。それを上手に演奏するとおかあさまが喜んでくれるの。」

 「ばいおりん?ぴあの?なにそれ?」

 「楽器だよ。音が出るんだよ。それでいろんな音楽が弾けるの。あんやは何が好きなの?」

 「うんとねー、わかんない。あ、食べることが好きかな。美味しいものを食べるのが好き。色んな所を旅行してるの。それでそこで美味しいものを食べるのが好き。でも虫は怖くて食べられない。」

 各地を転々としている闇夜に、はじめて友だちができた。毎日が楽しくなった。自分が生きている、という感覚をはじめて感じた。

 「あんや、色んなところ旅行してるってどんな感じ?」

 「うーん、自分のおうちがないみたい。でもいろんな場所で美味しいものを食べられるのは楽しいよ。」

 「そうか。いいなあ。僕ずっとここから動けないんだ。だから他の場所がどんなところなのかわからないんだ。うらやましいなぁ。」

 「ふーん。そっか。スケキヨも色んな所行けるといいのにね。」


 闇夜はスケキヨのことを師匠の伊右衛門に話してみることにした。闇夜は伊右衛門にスケキヨとの出会いや、その場から動けないということを話した。

 すると伊右衛門はあごひげを手でひねりながら闇夜に答えた。

 「ふーむ。そうじゃな。そいつは自縛霊というやつだな。」

 「ジバクレイ?」

 「そうじゃ。この世に未練を残した霊がその場所に縛り付けてられてしまっている状態のことじゃ。」

 「スケキヨは他の場所に行けないの?」

 「そういうことになるな。でも他の場所に行く方法は二つある。一つは供養してやって成仏させてやることじゃ。」

 「そうすると他の場所にいけるの?」

 「うーむ、正確にはそうではないのう。成仏すると天国か地獄に行ってしまう。そうするともう会えなくなる。まあそれが一番その霊に良い事なのじゃよ。」

 「……。そっかぁ。ジョーブツってのしちゃうともう会えないのか……。もう一つは?」

 「ふむ。もう一つはじゃな……これは陰陽道を学ぶものには絶対必要なことなのじゃが……闇夜には色々教えてきたが……そろそろお前も識神を持ったらどうじゃろうか?」

 「シキガミ?」

 「識神というのはじゃな、自分を助けてくれる霊的存在、つまり言うことを聞いてくれる仲間みたいなものじゃ。霊じゃからこの世の存在では無いがのう。そのスケキヨとやらを識神にしてしまえば、呼びたいときに呼べるし、いつも一緒にいることができるぞ。」

 伊右衛門は珍しく目を細めて言った。

 「そうなの?! それはいいかもしれない!」

 闇夜は目を輝かせて言った。しかし伊右衛門はこうも続けた。

 「じゃが、問題なのは闇夜の力がスケキヨとやらを識神にするほどまで及んでるかどうかじゃ。闇夜の力がそこまで及んでないのに識神にしたら、逆に闇夜が識神に支配されてしまう。そうなると厄介じゃからな。」

 闇夜は臆することなく言った。

 「わかった。オレがんばる! 頑張ってスケキヨを識神にする!」


 闇夜は生まれてはじめて生きる目標ができた。それまではまわりから言われたようにただただ漫然と修行していたのが、一つの目標を得て、頑張ることでみるみるうちに力をつけていった。そして修行の帰りには毎日スケキヨと話をした。

 「ふーん、識神っていうのになると、いつもあんやと一緒にいられるんだ!」

 「そうなんだよ。でもまだオレの力じゃシキガミを使えないんだって。だからいっぱい頑張ってるんだ。」

 「そっかぁ。早く僕を識神にして欲しいな。だって僕らもう友だちだよね?」

 「トモダチ……そうだよな! オレ頑張るよ!」

 「うん。応援してるよ。」


 闇夜は無我夢中で修行に打ち込んだ。そしてあっという間に一ヶ月が経った。すると伊右衛門はある日闇夜にこう告げた。

 「うむ。闇夜もよく頑張ってきたな。そろそろ識神の作り方を教えよう。」

 「ほんと? やったー!!」

 闇夜は心の底から喜んだ。伊右衛門はこう続けた。

 「明日は朝、これから教える識神を作る儀式をやってからここに識神を連れて来なさい。闇夜の識神がどんなものか見てみたいからのう。」

 「わかった! そうする!」

 その後、闇夜は伊右衛門から識神を作る儀式を教わりいつもと違う道を通ってスケキヨに会わないようにして帰り、早めに就寝した。


 明くる朝、闇夜はまず滝に打たれて、禊ぎをした。そしてスケキヨのいる旧家の前まで行った。するとそこには果たしてスケキヨがいた。

 スケキヨのいるところまで行くと、闇夜はスケキヨの挨拶には答えず、無言で石を使ってスケキヨの周りを五芒星で囲んだ。そしていつもと違うテンションでこう唱えた。

 「急急如(きゅうきゅうにょ)律令(りつりょう)。」

 すると朝日で覆われていた一帯が一転暗くなった。スケキヨは少し不安げな顔色になる。

 今度は闇夜は懐から人型の半紙を取り出し、自分の指先を噛み切って、しみだした血で五芒星を半紙に描いた。それを地面に置き、こう続けた。

 「宿りし者の力と念を、わが元においてこの元へと移す。天霊霊地霊霊十二神将、急急如律令。我が力に従いて、その力、ここに聞こし召し給え。急急如律令。」

 するとスケキヨを囲む五芒星が青く光りだす。その光はどんどん強くなり、スケキヨを飲み込んでいく。そしてその光は、地面においた人型の半紙に吸い込まれていく。全部の光が半紙に吸い込まれると、光は無くなり、一瞬辺りは真っ暗になる。するとつかの間、人型の半紙はまた青白い光を放ち大きくなっていく。光はどんどん強くなり、真っ暗だった辺りをどんどん飲み込んでいき、闇夜もその眩しさに目をつむり、いつの間にか気を失った。

 どれくらいの時間が経ったのかわからないが、闇夜とスケキヨは気がつくと倒れていた。

 辺りは先ほどの朝の風景に戻り、小鳥のさえずりが聞こえた。

 闇夜とスケキヨはゆっくりと立ち上がった。

 「僕はこれで識神になれた……のかな?」

 「わかんない。」

 闇夜は頭を叩きながら正気を取り戻す。

 「試しに紙に戻してみるね。」

 闇夜はこう続ける。

 「オン・ウカヤボダヤダルマシキビヤク・ソワカ」

 するとスケキヨは黄色い光りに包まれ、一瞬で人型の半紙に姿を変えた。

 「おおう!!」

 闇夜の驚きは声に漏れた。そしてその紙を拾い、息を吹きかけ、地面に落とすと、地面に直径三メーターほどの五芒星が青白く光を放ちながら現れ、その真ん中にスケキヨがまた現れた。

 「すごい! 識神になってるよ! あはは! すごいすごい!」

 二人は手を取り合ってはしゃいでジャンプした。

 「これでいつもあんやと一緒にいられるんだね!」

 「そうだよ。いつも一緒だよ! スケキヨ!」

 本当の友だちを得ることができた闇夜は喜びを隠し得ない。

 「それじゃあシショーのところに一緒に行こう!」

 二人は手をつないで山道を登った。十五歳の少年と五歳の幼児が手をつなぎ、朝もやの中歩いて行く姿はまるで兄弟のようだった。道すがら闇夜はスケキヨに尋ねた。

 「そういえば、スケキヨはジバクレイっていう幽霊だったんだって。シショーが言ってた。この世に未練を残した霊なんだって。スケキヨは何を後悔してたの?」

 スケキヨは少し目をつむりうつむいたあと、闇夜を見下ろしこう告げた。

 「そうだね。確かに僕はこの世に未練があった。それはね……僕友だちが欲しかったんだ。僕は体が弱くて全然学校に行けなくてね。いっつも家にいた。一人で本を読んだり、ピアノを弾いたり、ヴァイオリンを弾いたり、絵を描いたり。でもそれを見せたり聴かせたり教えたりする人がいなかったんだ。おとうさまやおかあさま以外は。お兄さまたちはみんな戦争に行って帰って来なかった。さみしかったんだ。」

 「そうだったんだ。僕も友だちがいなかった。いつも一人だった。」

 闇夜は目に暗い影を落とした。すると「でもね」とスケキヨが続ける。

 「でもね、今は違う。友だちが出来たから! 僕にも喜びを分かち合える友だちができたんだ!」

 二人は握っている手を更に強く握り、にっこりと微笑みあった。


 二人が山小屋へ到着すると、伊右衛門がニコニコしながら迎えてくれた。

 「よく来たね。スケキヨ君。話は聞いてるよ。」

 「はじめまして。青沼スケキヨです。」

 初対面同士が挨拶をすると、伊右衛門は庵に二人を招き入れた。

 四畳半くらいの庵にはお茶が三つ並べてあった。伊右衛門が好きな普洱(プーアル)(ちゃ)だ。

 三人はお茶をすすりながら鳥の声を聞いていた。

 「スケキヨ君。ここまではっきりと具現化された識神は見たことがない。これも君の想いと闇夜の力のおかげかもしれない。君にはこれから闇夜を色々と手助けして欲しい。闇夜は今は陰陽道を学んでいるが、これから修験道、古神道、密教やエクソシズムまで色々学ばせることになると思う。その折々で彼を助けてやってくれ。彼には家族がいない。だから、スケキヨ君が彼の家族になって欲しい。父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちである……そんな存在になって欲しい。」

 伊右衛門はひとしきり喋ると普洱茶をすすった。闇夜は伊右衛門の口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。そしてそれに戸惑いを見せた。それに対し、スケキヨはしばらく考えこんでから、伊右衛門の方を向き、こう答えた。

 「分かりました。僕は彼の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちであり……そして彼の『彼氏』になります!」

 

その言葉に伊右衛門はお茶を吹いた。闇夜には何が起こったのかわからなかった。ひとしきり咳き込んだ伊右衛門が平静を取り戻すと、

 「そ、そうか……まあ人それぞれやりようがあるからな……まあ程々にしといてくれ。」

 「はい! 程々に頑張ります!」

 スケキヨはニコニコしながら言った。

 『彼氏』というのがどういう意味なのか、それを知るのには、闇夜が小学五年生になるまで待たねばならなかった。



***



 闇夜は濃い緑色の着物に着替えた。そして格子柄で白を基調とした袖付き羽織を羽織った。長めの髪は後ろで束ねていて、まるで素浪人のような出で立ちだ。眼鏡も外し、部屋を出てリヴィンウルームに向かう。

 その姿を見つけたスケキヨは目をハートマークにしてすり寄ってくる。

 「あんやかっこいい~~!! 惚れなおしたよ! 丁度近くに呉服屋があったから買ってきたんだけど……。さすが僕の見立て通り!」

 「そ、そうかぁ? まあ和服の方が落ち着くしな。丁度持ってた和服もボロボロになっていたからな。それより今日の夕飯はなんだ?」

 「ニシシ。今日はあんやの好きなミートローフとガーリックライスだよ。」

 闇夜は思わず顔がほころんだ。

 「そうか。それは楽しみだな。」

 そう言って、闇夜はリヴィングのステレオの方に向かう。レコード棚をしばらくあさり、一枚のレコードを引っ張り出してきた。そのレコードをプレイヤーに載せ、針を落とす。ブツッという音がしばらくして、いきなりバシっというスラップ音が鳴ると共に軽やかなメロディーが流れてくる。その様は天真爛漫、百花繚乱という感じだ。と、スケキヨが声を上げる。

 「ラヴェルのピアノ協奏曲!」

 「そうだ。ピアノがサンソン・フランソワで、オケがパリ音楽院管弦楽団、指揮はアンドレ・クリュイタンスのやつだ。僕はこの演奏がラヴェルの協奏曲の中でも一番好きだ。こんな日にはぴったりな曲だろ?」

 気まぐれに連なるピアノの調べは、まるでマリオネットがピアノの鍵盤上でバレエを踊っているかのようだ。

 それに合わせてスケキヨはしばらく台所で鼻歌混じりにステップを踏んで料理の続きをしている。

 そしてラヴェルピアノ協奏曲の第一楽章が終わりかけた頃に、スケキヨが台所から呼んだ。

 「できたよー。あんや。」

 テーブルには大きな皿に盛りつけられたミートローフと小さい皿にガーリックライスが。ミートローフはマッシュポテトで覆われていて、ところどころに焦げ目がついているのが食欲をそそられる。

 スケキヨはミートローフを切り分ける。ナイフをミートローフに入れると、肉汁が溢れ出てくる。それを見て闇夜は思わず嘆息を漏らす。

 「グレイヴィーソースは?」

 「はいはい。」

 と、スケキヨはソースポットに入ったグレイヴィーソースを差し出した。グレイヴィーソースというのはミートローフを焼く際に出た肉汁を集めて醤油や塩コショウその他スパイスで味を整えたものだ。ミートローフにはこれが無くてはならない。無論、ガーリックライスもグレイヴィーソースで味付けしたものだ。

 闇夜はグレイヴィーソースをミートローフにかけて一口食べる。マッシュポテトで包んでいるため肉汁や旨味が閉じ込められていて、芳醇な肉汁の旨味が口の中いっぱいにあふれる。牛と豚の合挽きだが、両方の肉の香りが渾然一体となって口腔から鼻に抜ける。ハンバーグも嫌いではないが、挽き肉はミートローフにして食べるのが一番だと闇夜は思っていた。醤油ベースのグレイヴィーだとどうしても味が濃くなってしまうが、それはマッシュポテトがうまく緩和してくれた。

 ガーリックライスの方は、グレイヴィーの旨味、焦げたにんにくの香りがたまらない。そしてジャマイカ産の唐辛子、スコッチボネットが独特のアクセントになっている。

 闇夜ががっついていると、それをじーっとスケキヨが見ている。そして聞いた。

 「あんや、どうかな?」

 「……見てわからんか?」

 「ちゃんと言って!」

 スケキヨは真剣な眼差しをこちらに向ける。

 「…………わーったよ。旨いよサイコー。」

 「ほんと?! わーいわーい!」

 スケキヨはエプロン姿のまま飛び跳ねて喜ぶ。

 「ニシシ。デザートもあるよ?」

 「ほう。なんだ?」

 「チェリーパイだよ。」

 スケキヨは笑顔で答えた。

 「ほう、そいつはすごい。」

 闇夜はミートローフとガーリックライスをたいらげながら感嘆の声と隠し得ない。

 「チェリーパイだが…………。」

 「温めてアイスクリームをのっけるのでしょ?」

 「わかってるじゃねえか。」

 闇夜は満足気な顔をする。チェリーパイを温める電子レンジの音がする。すると、湯気の立ち上る、ホールから六分の一に切り分けられたチェリーパイが、これでもかと言わんばかりにたっぷりとヴァニラアイスクリームがトッピングされて出てくる。アイスクリームはヴァニラビーンズの黒いつぶつぶが混じっている本格的なものだった。スケキヨが自作したものなのだろうか?

 「どれどれ?」

 闇夜はフォークを手に取る。さっくりとしたパイ生地の下には赤黒いチェリーが見える。アイスクリームは溶けかかっていて、クリーム状になった部分がチェリーパイをまんべんなく覆っている。闇夜は溶けていない部分のアイスクリームを取りながらチェリーパイを口いっぱいに頬張る。熱いチェリーパイと冷たいアイスクリームが不離一体となって闇夜の口腔内に広がる。チェリーパイの酸味とアイスクリームの甘みが調度良いバランスだ。チェリーパイに入っているシナモンがよいアクセントとなっている。

 「スケキヨの作るチェリーパイは最高だな。」

 闇夜の賛辞を聞くまでもなく、チェリーパイを貪る闇夜に向けられるスケキヨのニコニコ顔は終始続く。至福の時間だった。


 ひとしきり食べた後、闇夜はスケキヨが淹れてくれたチャイをすすっている。非常に甘いがスパイスのせいかそれほど気にならない。

 「スケキヨ、このチャイどうやって作ってるんだ?」

 「えっとね、まず水にアッサム茶葉とシナモンとカルダモン、クローブ、そして生姜のすりおろしを入れて煮込むでしょう? まあ煮込む間に香りが結構飛んじゃうから茶葉はそんな上等じゃなくていいんだけど。それでから低温殺菌のノンケ牛乳を入れて沸騰しないように弱火で煮込む。あとは茶こししながらコップに注ぐだけ。白砂糖じゃなくて、はちみつを使うのがポイントだね。白砂糖を使うとどうしてもエグみが出ちゃうから。」

 スケキヨはニコニコしながら熱心に語った。

 「ノンケ牛乳?」

 「ああ、ホモ牛乳じゃないってこと。まあ普通の牛乳のことだね。ホモ牛乳はお腹をこわさないけど、味がうすいんだよね。」

 「ノンケ牛乳ね……なんつうか、ものは言い様だな。ところでお前ってホモなの?」

 「何言ってるんだよ! 僕が好きなのはあんやだけだよ!」

 よくそんなこっ恥ずかしいことを平然と言えるな、と闇夜は他人事ながら思った。それにしても闇夜は、どこでそんな言葉を覚えたのか気になったが、問いただそうとは思わなかった。

 「ところであんや。今日は学校どうだったの?」

 「うーん、まあ歓迎はされたけど、まだ『仕事』に関しては手がかりはそれほどつかめていない。疑わしい人物は見つけたんだがまだ確信は持てない……しかしまあこの稼業はいちいち制服が変わって面倒くさいと毎回思うよ。」

 「ふーん。」

 スケキヨはスプーンを鼻と唇の間にはさみながら答えた。

 「それでスケキヨにちょっと頼みがあるんだ。」

 「なーに?」

 「山の辺深雪という女の子のことをちょっと調べて欲しい。どうやら彼女の周辺で良くないことが起こってるらしいんだ。だから俺が学校行ってる間、彼女の周辺を内偵して欲しい。できるよな?」

 スケキヨはジト目でこう答えた。

 「できるけど……まさかあんやその山の辺深雪という女の子に気があるってわけじゃないよね?」

 「バカ言うな。俺がこの稼業で守っていることがあるってことは知ってるだろ? 俺はどこに転校しようと友だちは作らない。どうせ『仕事』が終わったら転校しなきゃならん。そうしたら友だちとは別れなきゃならない。それがたまらなく苦しい。それならいっそ最初から友だちを作らなきゃいい。」

 闇夜は半ば吐き捨てるように言った。

 「でもあんやはそれで辛くない? 僕はあんやさえいてくれればそれでいいけど……でも友だちはたくさんいて困ることはないと思うよ? ……転校しても連絡取り合うくらい造作も無いことじゃないのかな?」

 スケキヨは心配そうに言う。

 スケキヨは昔から十五歳のままだ。昔は闇夜にとってスケキヨは年上だった。だから兄のようなことを言ったりすることがある。今は闇夜の年下に当たるので弟みたいな存在だが。

 「だめだ。この『仕事』は他の人に知られちゃいかん。付き合いが深くなればこの『仕事』がいずれ知られることになる。それはなんとしても避けたい。だから友だちは……作らない……いや、『作れない』んだ。」

 闇夜は目を伏せた。

 「でも……」

 「だめだったらだめだ! もうこの話は終わりだ。もう寝る……」

 闇夜は席を立つ。

 「あ、その前に今週はアンチエイジングのアンプルを注射しなきゃ。」

 「……そうだったな。……たのむわ。」

 スケキヨは薬箱からアンプルを取り出し、蓋をパキッと割り注射器に注入する。このアンプルの中にどんな薬品が入ってるのかは闇夜は知らないし後藤に深く追求する気はなかった。まあ特別生活に支障をきたすことはなかったので聞こうとはしなかったのだろう。この注射は闇夜が十七歳の時から打っている。現在闇夜は二十一歳。この『仕事』を続けるにはいつまでも高校生のような外見でいる必要があったのだ。実際闇夜はその注射のおかげか、髭が濃くなったりすることはなかった。

闇夜は袖をまくり左腕にその注射器で筋肉注射してもらう。いつものことで慣れているが、ちょっとイライラしていた闇夜にはその注射はいつもより痛い気がした。

闇夜は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。仰向けになり、暗くなった部屋の中で天井を見上げる。

(俺ってなんでこんな仕事してるんだろう? いつまで続けるのだろう?)

そんなことを考えながら知らないうちに眠りに落ち、夢をみることもなく次の朝が来た。



***



 その日の学校では特別なことが起こるわけでもなく、闇夜は一日中深雪を見て過ごした。相変わらず隣の生天目裕子からの熱い視線に気づくこともなく。

 だが、最後の時限が終わったあとちょっとしたことが起こった。

 授業が終わり、ガヤガヤとした教室内で突如静寂が訪れた。クラス委員長の()上院(じょういん)瑠璃(るり)()とその取り巻きの島田かほり、そして海江田魚々(かいえだななこ)があろうことか、帰り支度をしている山の辺深雪に詰め寄っていた。

 「ちょっと、山の辺さん、進路希望表の提出、まだなの?」

 生上院瑠璃香が山の辺深雪にイライラしながら尋ねた。

 彼女は長い髪をポニーテールにしていて、目がつり上がっていて、真面目で、いかにも『委員長』という感じのタイプの生徒だった。

 「……」

 深雪は無言だった。

 「ちょっと。黙ってたらわからないでしょ? あなたが進路希望のプリント提出しないと、なぜか瑠璃香があの三十四歳独身に怒られることになるのよ。聞いてるの?」

 島田かほりが続ける。肌は少し褐色がかっていて一見健康的だが、髪の毛は脱色して長く垂らしていて、高校生にして入念なネイルアートとメイクが施されていて、いかにもギャル予備軍という感じだった。

 「……」

 深雪の目は虚ろだった。

 「あんたデューク東郷のつもり?『……』で会話が成り立つと思ってるの? 話しなきゃ事情があったってわからないでしょ? 何とか言いなさいよ?」

 瑠璃香は幾分譲歩しながらもたたみかける。

 「……」

 深雪に変化はない。

 クラスの他の生徒は音も立てずに誰もが視線を瑠璃香達に向ける。

 瑠璃香のイライラは頂点に達し、

 「ふざけないで!」

 と座っている深雪の机をバンっと両手で叩いた。

 「これは言わないでおこうと思ったのだけど、この際言っておくわ。あんたに関わると祟りがあるらしいわね。あんた、周りからなんて呼ばれているのか知ってるの? 『鳥居』よ? でもあたしはそんな祟りなんか信じないから。あんたに関わって祟りがあって怖がるとでも思ってるの? あたしはやるべきことをやってるだけにすぎないから、あんたに恨まれる筋合いは無いからね。」

 瑠璃香の目は一層つり上がった。

 「そうよ。あんたの力がどんなもんか知らないけどあたしはそんなこと気にしないから。分かってるの? 『鳥居みゆき』さん?」

 かほりは長い髪の毛を手でねじりながら蔑みの目を向け攻撃する。

 そこで端からオロオロしながら見ていた魚々子が口を挟む。

 「ちょ、ちょっと二人とも。そ、そこまで言うことないじゃない? 山の辺さんだって事情があるかもしれないじゃない? 冷静に。冷静にね。」

 魚々子は震えながら二人をなだめる。魚々子はサイドテールのリボンを何気なく外し、目は少し潤んでいた。そして深雪に恐る恐る言った。

 「山の辺さん。あなたもご家庭の事情があるのよね? でも明日までに進路希望表出してくれないかな? そうすればみ……」

 と言いかけたところで、虚無だった深雪の瞳が鋭い眼光を瑠璃香、かほり、魚々子の順に発射した。

 時間が止まった。

 四人を見守っていたクラスのみんなも全て凍りついた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。時間停止を全身全霊をこめて瑠璃香が破った。

 「な、何よその目……」

 深雪の瞳から発せられる光線が瑠璃香に向けられる。

 「と、とにかく明日までに出してちょうだい。」

 瑠璃香は明らかにビビっていた。

 「そ、そうよ。いい気にならないでよね。」

 かほりは顔をひきつらせながら言った。

 「み、みんな悪気はないのよ。明日必ず進路希望表提出してね。」

 魚々子は誰の目から見ても震えていた。

 瑠璃香が深雪を一べつしたあと、三人は逃げるように教室を出た。しばらくして深雪も帰り支度を済ませ、教室を出て行った。

 クラス中から嘆息が漏れる。ようやく時間が動き始めた。

 「ふう。息が詰まるな。窒息して死ぬかと思ったぜ。」

 闇夜の後ろの達俊もこの時ばかりはえびす顔ではなかった。

 「何事も起きなければいいけど……」

 達俊は闇夜に尋ねるともなしに言った。

 「……そうで御座いますな。」

 闇夜は達俊の方を向くでもなしに深雪の席を向きながら答えた。そして黒い外套を羽織り、カフグリップ付きの杖に手をかけ教室を出て行った。



***



ピンポーン

「どちら様ですか?」

「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から素晴らしい言葉をお伝えしたくてお伺いしたのですが……」

「そ、そうですか。残念ですが、興味ありませんので失礼致します。」

「さようでございますか。それではその聖書の良い言葉の書いてある冊子をポストに入れておきますのでお時間のあるときに読んでいただければと思います。ごめんくださいませ。」

「は、はあ……」


ツカツカツカ

ピンポーン

「はい。」

「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から素晴らしい言葉をお伝えしたくて……」

「またあなたですか……もう来ないでくださいとお伝えしたでしょう。二度と来ないでください。ごめんくださいませ。」

「ですがあの……」

ブツ


ツカツカツカ

ピンポーン


ピンポーン

「お待たせしました。どちら様でしょう?」

「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から……」

「うるせぇ! 何度言ったらわかるんだ? 二度と来んな! 通報するぞ!」

ブツ

「…………」



東高円寺駅から青梅街道沿いに歩き、環七を超えたところにある昼下がりの団地。一人の中年女性が団地のドアからドアへと次々に呼び鈴を鳴らしている。彼女は山の辺瑞(みず)()。本当は四十三歳だが、髪の毛は白髪まみれでボサボサで、顔もシワが目立ち、見方によっては六十代に見える。長いスカートを履き、季節外れのグレーのストールをまとっている。声は酒やけしており、老婆のようにしわがれている。決して魅力的な声とは言えないだろう。片手には冊子の一杯はいった紙袋をぶら下げている。十階建てで、ワンフロアに十室ある団地で片っ端から呼び鈴を鳴らしているが、一向に冊子が減る様子もない。団地の住人には彼女からの切なる声は届かない。人を訪ねては罵倒され、蔑まれ、瑞歩の心はすっかりやさぐれていた。夫にも逃げられた瑞歩には信仰と娘しか残されていなかった。こと信仰に関しては偏執狂的であった。信仰を深めればいつか自分は救われる、そう彼女は信じて疑わなかった。いくら世間から冷たい目で見られようが、寄付金が高かろうが、いつか救われる。そう信じることでなんとか『生』にしがみつくことができるギリギリの状態であった。

その様子を一人の少年が物陰からじっと見ている。キャスケットを目深に被り、七分丈のニッカボッカをサスペンダーで吊り下げている少年は青沼スケキヨであった。彼はその老女の行動をつぶさに見て取り、ポケットから取り出したメモに筆を走らせている。神聖なる『訪問』に勤しんでいる瑞歩はあまりにも集中しているため彼に気が付かない。

ひと通り団地を回り尽くし、彼女は車の往来が激しい環七通りに出てきた。一息ついて、ポケットからスキットルを取り出し、ドライジンを目一杯あおった。松の匂いが口いっぱいに広がり、飲み込むと同時に喉に熱い感覚が通り抜けた。彼女は団地を見上げ、目を細めながらひとりごちた。

「主よ、()の人々を呪い給え。」


そうして彼女は帰途につく。青梅街道を戻り、東高円寺駅北口の裏手にある高円寺東児童館の目の前にある古びれた一戸建てが瑞歩の家だった。いかにも日本家屋という感じだが、ざっと見たところ築五十年はくだらないと見え、今にも屋根が崩れそうだった。家の前には数々の植木が並んでいるが、あまり手入れがなされていない。それどころか屋根を覆っている蔦が植木の上にまで伸び覆いかぶさっており、日当たりが非常に悪い。

スケキヨは人差指と中指を眉間にかざすと、その姿は毛並の良い黒猫へと変化した。

瑞歩が自宅に入ると、ドアが閉まる直前に黒猫も音も立てずにするりと家の中に入っていった。

すでに瑞歩の娘の深雪が帰宅していた。深雪は自分の部屋で英語の勉強をしていた。深雪の部屋は蛍光灯の機嫌が悪く、パチパチと点いたり消えたりするので敢えて消してあり、机の上の裸電球だけが点いている。本棚にはマンガや小説といった類いのものは全く無く、教科書と参考書、そして分厚い聖書だけがあった。壁にはポスターといったものも無ければぬいぐるみの一つも無く、がらんとしており、殺風景で、おおよそ女子高生の部屋とは思えない地味さが漂っていた。

不意にノックもなく瑞歩が深雪の部屋のドアをバタンと開けた。ボンベイ・サファイアのジンの瓶を片手にぐびっと飲んでから深雪を睨む。

「深雪、今日学校どうだった?」

その声には感情がこもっていなかった。深雪はゆっくり瑞歩の方を向いて答えた。

「……別に……」

瑞歩は更にキツい目つきになって加える。

「誰かと話ししなかったでしょうね?」

深雪はその目つきにビクッとして答えた。

「誰ともおはなししてないわ。お母さん。」

瑞歩は冷たい目つきで突き放すように言った。

「いい? 深雪。世の中は悪意で満ちてるの。世の中に良い人なんてほとんどいないわ。教会に通ってる人でさえ悪意に満ちている人はいっぱいいるわ。みんな深雪を騙そうとしているの。みんな深雪の悪口を言ってるの。唯一信用できるのは、『灯台の光』の仲間だけなの。あなたも十八になったら洗礼を受けさせるわ。そうすれば『灯台の光』の中でお友だちもできるでしょう。でもそれまではあなたが信じることができるのはお母さんだけなの。」

そこまで息継ぎせず言い切ると、ボンベイ・サファイアの瓶をぐびっとやった。

 「お母さん。そんなにお酒飲んだら体に毒よ。」

 深雪が心配そうな眼差しを向ける。すると瑞歩はツカツカ深雪の元へ歩いて行き、おもいっきり平手で深雪の頬を殴った。

「そんな目で私を見ないで! あなたの意見なんて聞いてないの! いい? 絶対に友だちなんて作っちゃだめよ。話してもだめ。特に男の人とは絶対口を聞いてはだめ。男はね、恐ろしいの。男の頭の中はいやらしいことでいっぱいなの。汚らわしいことしか考えていないの。あんたのお父さんだってそうだった。男なんて信じちゃだめよ。あいつらは地獄の業火で永遠に焼かれるのよ。」

そう言い終えてまたジンを一口飲む。

「あなたにふさわしい聖書の言葉を教えるわ。いい? あとから続けて唱えるのよ?」

瑞歩はそう言うと聖書を取り出し、テサロニケの信徒への手紙の第五章を開いた。

「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱いものたちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」

「……」

深雪は叩かれた頬を押さえながらも、既に泣いていて声が出ない。すると瑞歩は深雪の腕に掴みかかり強引に自分の方に顔を向けさせ言った。

「ちゃんと唱えなさい!! それがあなたのためなのよ!」

深雪は嗚咽を漏らしながら声を振り絞った。

「き、兄弟たち、あなた方に勧めます。ヒック……怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。……ヒック……弱い者たちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」

瑞歩が続ける。

「だれも、悪を持って悪に報いることがないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。」

 深雪も後に続く。

「だ、だれも、悪を持って悪に報いることがないように気をつけなさい。お、お互いの間でも、すべての人に対して、いつも善を行うように、つ、努めなさい。」

瑞歩は深雪の腕を掴みながらも聖書から目を離さない。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、イエス・キリストにおいて、神があなたがたに望んでおられことです。」

深雪はもう目を開けていられないがなんとか声に出す。

「い、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。ど、どんなことにも感謝しなさい。こ、これこそイエス・キリストにおいて、か、神があなたがたに、の、望んでおられること……です。」

すると瑞歩は深雪をゆっくりと抱きしめた。深雪は声を上げて泣きだした。瑞歩は深雪の頭を撫でながら言った。

「お母さんだけがあなたの味方ですからね……あなたが信じることができるのはお母さんだけよ…………お母さんはこれから仕事に行くからね。鍵をちゃんと閉めておきなさい。学校の勉強はもういいから、聖書を読みなさい。わかったわね?」

深雪は瑞歩の腕の中でゆっくりコクンと頷いた。しかしその瞳にはある種の悪意がたたえられていた。この世のすべてを呪わんばかりの目つきだった。そのことに、この時点では誰も気が付かなかった。

一部始終を見ていた黒猫は音もなくその家から出て行った。



***



スケキヨが家に戻ると既に闇夜は着流し姿になって、リヴィングルームでくつろいでいた。闇夜はスケキヨに尋ねた。

「山の辺深雪の件だが、なにかわかったか?」

スケキヨはすこしつかれた様子で語り出した。

「あの家はちょっとやばいよ。まず、山の辺深雪の母親、山の辺瑞歩がちょっとまずい。彼女はキリスト教系新興宗教、『灯台の光』の狂信的な信者なんだよ。それはもう酷い感じ。団地で片っ端から布教活動しては追い返されていて酷いストレスを背負ってる。あまりに酷く偏執狂的な瑞歩に愛想を尽かしたのか、夫は逃げちゃったみたい。まあ夫の行方も調べなきゃならないかもしれないけど。それはいいとして、そのせいなのか、或いはその前からなのかもしれないけど、重度のアルコール依存症になってる。彼女の世の中に対する恨み辛みはすべて信仰に向けられている。そのせいで娘である深雪に対する教育は著しく偏っている。深雪が学校で誰とも口を聞かないのは母親が原因みたい。娘に暴力も振るっていたしね。このままでは娘の深雪の心は壊れてしまうか、いずれ外側に向けて攻撃することになるよ。何とかしないと。」

静かに聞いていた闇夜はアスピリンを一錠口に放り込み、言った。

「そうか。しかし攻撃はもう始まっているのかもしれないな。既に『鳥居』なんてアダ名が定着しているし。学校の生徒は明らかに彼女を避けている。彼女が何らかの呪術を使っているのは間違いないだろうな。」

闇夜は頭を抱え、しばらくして頭をあげてスケキヨに言った。

「ふーむ。とりあえずもう少しスケキヨには張り付いてもらえないかな? 特に夜中の深雪の動向を掴んで欲しい。もし彼女が呪術を使っているなら、ここから一番近い高円寺天祖神社に行って丑の刻参りをするか、自分の部屋で黒魔術の儀式をやるはずだ。犠牲者が出る前に何とか止めたいところだけど、確証が得られない限り対処のしようがない。どんな呪術を使ってるかわからないからな。」

闇夜を心配そうに見つめるスケキヨは言った。

「それは造作も無いことだけど……あ、ごめんね。お茶でも淹れるよ。」

台所に向かうスケキヨに闇夜は声をかけた。

「それと気が滅入るから何か音楽でもかけてくれ。」

スケキヨはレコード棚からグレン・グールドのバッハ平均律クラヴィーア曲集を取り出し、レコード針を落とした。整然としながらも、情感のこもった、グレン・グールドのピアノが、どよーんとした部屋の空気を幾分ましにさせた。その足で台所に行き、リラクゼーション効果のある、(すい)(ぎょく)(ちゃ)を淹れ、リヴィングルームまで運んできた。

闇夜が翠玉茶を一口飲むとジンジャーの花のような、清々しい甘い香りが口に広がり、昂ぶっていた神経を優しく撫でていった。

するとスケキヨが切り出した。

「闇夜、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」

「なんだ?」

「前から疑問に思ってたことなんだけど……なんであんやは怨霊調伏の時に音楽を使うの? 音楽ってそんなすごい力があるの? 音楽って世界を変えるだけの力があるの?」

闇夜は目を閉じ、しばらく思案してから答えた。

「スケキヨ。夢を壊すようで申し訳ないのだが……はっきり言って音楽に世界を変える力なんか無い。音楽は単なる音楽だ。音楽だけでは話にならない。」

スケキヨは目をパチクリさせる。

「スケキヨ。フィンランディアって知ってるか?」

スケキヨは目を大きく見開いて答えた。

「もちろん知ってるよ。ジャン・シベリウスが1899年に作った曲でしょ?」

闇夜は指を組んで肘をテーブルにのせ、続けた。

「そう。あの曲が作られなければフィンランドっていう国は今頃存在しなかったって言われているというやつだ。あの曲ができた当時、フィンランドはロシア帝国の支配下にあって、その圧政に苦しんでいた。ところがジャン・シベリウスがあの曲を書いて、それを聴いてフィンランド人は独立の志を強めた。それを察知した帝政ロシアは演奏を禁止したりして弾圧したんだ。しかし、第一次大戦のどさくさでロシア革命が起きた時、フィンランド人も立ち上がり、自分たちの国を作った。」

スケキヨは頷きながら聞いていた。

「そうでしょ? フィンランディアがなかったらフィンランド人は立ち上がらなかったんだよね? それだったら、音楽にも世界を変える力があるんじゃないの?」

闇夜はうつむきながらも目線はスケキヨに向けこう付け足した。

「しかしこの話には裏があってね。……ジャン・シベリウスは魔術をつかったとも言われているんだ。」

スケキヨは首を傾げた。どうも納得がいってないようだ。

「シベリウスはキングソロモンが残した魔術書『レメゲトン』を読んで、七十二柱の悪魔を召喚したんだ。そして極秘裏に演奏できる場所をおさえて、真夜中に悪魔たちにフィンランディアを演奏させたんだ。そしてその結果シベリウスは世界の(ことわり)を書き換えてしまった、という話があるんだ。つまりシベリウスは悪魔を使ってフィンランドを作ったっていう話だ。」

スケキヨの顔からは驚愕の色を隠せない。

「魔術や呪術といったものは、つまるところ人間の『想い』のエネルギーを具現化させたものなんだ。しかしそれ単体では、余程の天才的な魔術師や呪術師でない限りその力は微々たるものだ。裏を返せば『想い』が絶対的に強力ならば、それだけで魔術的、或いは呪術的な現象が起きてしまうとも言えるのだけどね。それはそうと、魔術や呪術単体では力があまりない。一方で音楽自体にも力はない。でも魔術や呪術を音楽という触媒を通して施すとその効果は果てしないものになる。どういう原理でそういうことになっているのかはわからないけどね。とにかく、音楽と、呪術や魔術が組み合わさると、その効果は何倍、何十倍、何百倍、何千倍へと跳ね上がる。その力を使わないでおく理由はないだろ? だから俺は音楽を使ってるんだ。俺らの仕事っていうのは相手に付け入る隙を与えないで、絶対的な力を誇示する必要があるからな。圧倒的な力が必要なんだ。無論、俺が音楽が好きだってのもあるけどね。」

一通り闇夜が喋ると翠玉茶を口に含む。スケキヨはようやく合点が行ったようだ。

「そうだったんだ。ようやく長年の謎が解けたよ。」

スケキヨも翠玉茶を一口飲む。そして続ける。

「で、どうするの? これから。」

「そうだな。とりあえず学校での深雪の様子は俺が見ておく。スケキヨは山の辺瑞歩と夜中の山の辺深雪を見張っててくれ。きっと誰かがそのうちボロを出すに違いない。さて、相手はどう出てくるか……」

闇夜とスケキヨのアフタヌーンティーは思いの外ヘヴィだった。



***



 明くる日、深雪は進路希望表を学校に持ってきた。授業が始まる前に深雪は教卓の目の前にある瑠璃香の席のそばに立つ。

 「……」

 「な、なによ?」

 瑠璃香はいぶかしげに深雪に聞く。

 「……」

 深雪は無言で進路希望表を瑠璃香に突き出す。

 「なんだ。やれば出来るじゃない。」

 瑠璃香が言い終わる前に深雪は踵を返す。そのとき深雪の表情にはニヤリとした不敵な笑みが少し含まれていたことに誰も気が付かなかった。


 昼休み。

 生天目裕子はそわそわしていた。どうやったら闇夜に近づけるかどうかばかり考えていた。手っ取り早く仲良くなるには、お弁当を一緒に食べるのが一番かと思っていたが、いきなりそれはハードルが高い。しかしなかなか仲良くなる糸口を見つけられないまま、じっと闇夜の方を見ているだけではなんの進展もないことくらいは自分でも認識していた。それに彼をじっと見ることで学んだのは、闇夜が山の辺深雪の方ばかり見ていることだった。すでに彼の心には彼女のことしか頭にないのかもしれないという懸念もあった。でもここで起死回生の逆転満塁ホームランを打たなければ闇夜を彼女にとられてしまう。だがしかし闇夜が転校してきてからまだ三日目だ。チャンスはある。ここはなんとしても行動を起こさなければならない。裕子は幼い顔立ちには到底見合わないその大きな胸を押さえて精神集中する。「よし!」と心に決めた裕子は自分の頬を両手で二回叩いて、思い切って結腸の奥底から声を振り絞って、闇夜に声をかけた。

 「あ、あの!」

 やばい。声が裏返った。裕子の目には涙がほんの少しだけ湧いていた。

 「つ、月島くん! お、お弁当一緒に、食べませんか?」

 裕子は目をつぶりながら叫んだ。闇夜はそのテンションに少しビビッたあと、首を傾げて答えた。

「拙者とお弁当でござるか? 奇特なお方ですな。拙者とともにお弁当の箸を突いても何も面白いことなどござらんよ?」

裕子は首をブンブン横に振りながら言った。

「そ、そんなことないよ! 月島くんかっこいいし、魅力的だと思うよ。私、もっと月島くんのこと知りたいの。って私何言ってるんだろう?」

裕子は顔の方にカアーっと血液が上ってくるのを感じた。

闇夜はその迫力に負けて、

「さようでございますか。そこまでおっしゃるなら、ご相伴に与りたいと存じます。」

と了承した。すると裕子の顔にはぱあーっと表情が戻っていった。

闇夜は学校では友だちは作らないと決めていたが、それくらいなら構わないだろうと思った。しかし正直、だれかと弁当を一緒に食べるなどといったことは今までの彼にとっては皆無だった。だから勝手がわからない。一つの机に弁当を並べて、黙々と弁当を食べていてはしょうがないことくらいは闇夜は理解していた。何を話しながら食べればいいのか? そんな簡単なことすら彼には理解できなかった。しかし、一緒に弁当を食べることを了承した手前、断るわけにもいかなかった。

二人は一緒の机に対面に座り弁当を用意した。

しかしここで問題が発生した。

スケキヨが作った弁当の蓋を開けた瞬間、そこには、『ここ』にはあってはならないものがあった。

 弁当にはおかずとして、唐揚げ、チーズオムレツ、プチトマト、鯖の味噌煮が入っていた。それは問題なかった。しかし、ごはんを見ると、海苔で大きく『ダイスキ』という文字が描かれていた。蓋を開けた瞬間、カパッと蓋を戻した。

(まずい。非常にまずい。何とかせねば。こののり弁はぐちゃぐちゃっとかき混ぜればなんとかごまかせるかもしれない。でもアイツの事だ。第二、第三の地雷を仕掛けているに違いない。そんなものをクラスの人間に見られたらどう言い訳すればいいんだ? 新婚のサラリーマンだったら、ただの愛妻弁当とかいってからかわれるだけで済むが、アイツとの関係は非常に複雑だ。口で説明しおおせる自信がない。ここはもうこれしかないな。三十六計逃げるに如かず!)

「生天目殿、大変申し訳ござらん。今日ちょっと先生から呼び出しを受けていたことを忘れておりました。また別の機会に。」

「えー? そんなー……ちょっと……」

闇夜は裕子に一べつするのでもなく、弁当を持って杖をつきながら教室を急いで出て行った。

「もう。まったく。ついてないなー。それにしても先生に呼び出されたからってなんでお弁当まで持っていくのかしら?」

裕子は頬を膨らました。


闇夜は杖をついて息を切らせながら屋上へと向かった。螺旋状に続く階段は、永遠に続きいつまでたっても終わりが見えないように感じ、軽い目眩が起こっていた。長かった階段をようやく登り終え、屋上にたどり着くと、果たしてそこには誰もいなかった。闇屋は胸をなでおろして、改めて弁当を広げた。

「味は完璧なんだけどなぁ……」

闇夜は眼下に広がる蚕糸の森公園を見ながら弁当に箸をつける。

しかし、そんなことがあった間、見逃すべきではない兆候が教室で起こっていたのを、闇夜は知らsなかった。


 昼休みの教室。

 教卓の一番前の席に座っている生上院瑠璃香は隣の席の島田かほりと談笑しながら一緒に弁当を食べていた。すると瑠璃香はいきなり奥歯の痛みに襲われた。

「イタ!」

かほりが尋ねる。

「どうしたの?」

「急に奥歯が痛み出して……ちゃんと毎日三回歯を磨いてるのに。」

かほりが心配そうに言う。

「早く歯医者行ったほうがいいよ? 多分これからどんどん痛みが強くなってくるから。」

「そうよね。今日学校の帰りに歯医者行ってみるわ。でもこの辺の歯医者って轟歯科医院しか無いのよね。あそこなんか古臭くて嫌なのよね。」

瑠璃香は渋い顔をした。するとかほりは笑顔で答える。

「安心して。骨はあたしが拾ってあげるから。」

かほりはケタケタ笑っている。

「もう。こっちは大変なんだからね。よくそんな冗談言えるわね。」

瑠璃香は目を吊り上げる。



***



直接陽の光が射さない部屋。電気も消えている。

東高円寺商店街のニコニコロードから少しわきに入ったところにある轟歯科医院には、受付嬢もいなければ看護婦もおらず、歯科医の轟源三郎一人しかいない。彼は先程から何やら熱心に打ち込んでいる。患者はここ一週間訪れていない。

轟はジッパー付きの小さなビニール袋に入っているアンフェタミンの白い粉を丁寧に取り出し、水に溶かし撹拌し、それを注射器で吸い取る。そして右腕にゴムを巻いて血管を浮き立たせて、その血管にむけてその注射器で静脈注射する。すると血管内に冷たい感覚が走る。しばらくしてから、

「ああああああああああああ。」

と嘆息に似た声を上げる。

「来た来た来た!!!!はあああああ!!!!」

轟は空虚な病室で一人興奮している。

すると不意にドアチャイムが鳴る。久しぶりの患者だった。

轟は自分の大切な時間を邪魔されて少しむっとしたが、患者が来なければこの快感も得られなくなると思い、散らかったものを片付ける。

轟は出来る限り平静を装って受付に出る。

「こんにちは。今日はどうされましたか?」

「急に奥歯が痛み出して……」

「保険証はありますか? はあはあ。生上院瑠璃香さんね。それじゃさっそく診察室に入ってください。」

轟は奥に引っ込んだ。瑠璃香は黄ばんだ壁をキョロキョロ見ながら、恐る恐る診察室に入っていった。消毒液の臭いがする。申し訳程度にケニー・Gのソプラノサックスが響き渡る。歯医者というのはなんでケニー・GなんかBGMにするのだろうか? ただでさえ恐怖を覚える歯医者なのに、ケニー・Gのソプラノサックスの、取ってつけたような爽やかさはかえって逆効果だ。今ではすっかりケニー・Gを聞くだけで条件反射で歯医者のドリル音が簡単に想起される、と瑠璃香は思った。

 待合室の黄ばんだ壁だけでなく、診察室もなんだか古臭かった。テーブルに並んだエアタービンの替刃や薬。そして電気椅子か精神病患者用の拘束椅子を想起させる、緑とも黄色とも言えない古びた椅子。瑠璃香は、そこに座ることすら拒絶したくなる。

瑠璃香がしぶしぶ椅子に座ると、別室から出てきた轟は帽子を被り、マスクをして、ゴム手袋をはめている。すると不意に轟に語りかける声がする。


「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。」


轟はかぶりを降る。しかし声は鳴り止まない。


「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。」


轟の息遣いは荒くなり、額から嫌な汗が流れ落ちてくる。瞳孔が開いてくる。瑠璃香は轟の異常に気が付き、声をかける。

「先生、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。安心してください。」

轟の目はすわっていた。

「それじゃあ、お口を開けてください。」

瑠璃香が口を開けると、轟は医療用の小さなミラーを口の中に突っ込んで、どこが痛みの原因かを探った。

「ああ、これは親知らずですね。親知らずが横向きに生えてます。抜かないと痛みは取れません。どうしますか?」

瑠璃香は眉をひそめる。

「でも抜くのってすごく痛いんじゃ……」

「大丈夫です。笑気ガスで麻酔しますから痛くないですよ。」

轟はマスクの下で口を歪めてニヤリと笑った。

轟は笑気ガスを吸入するマスクを瑠璃香に強引にかけた。そして笑気ガスが発生する装置のスイッチを入れた。ブルンブルンという音とともに笑気ガスがマスクに流れてくる。瑠璃香は呼吸するたびに意識が遠のいた。まるで自分の体がグルングルンと回って、自分の足が自分の頭のあたりにあるような感覚がした。しばらくして瑠璃香は意識を失った。




瑠璃香が正気を取り戻すと、なにか体の自由が利かない感覚がした。それもそのはず、瑠璃香の頭、腕、足は椅子に粘着テープでぐるぐる巻きにされガッチリと固定されていた。

そこには目つきが常人と明らかに違う轟の姿があった。

「ヒヒヒ。それじゃあ、治療しましょうね。ヒヒヒ。」

轟の瞳孔は完全に開いていた。

「きゃああああああ。何これ????? 外してーーー!!!!」

「だめですよ。ヒヒヒ。これからちゃんと治してあげますからね。ヒヒヒ。」

瑠璃香はジタバタして必死に抵抗したが、体が全く動かない。

「親知らずを抜く前に、まず虫歯を削んないとだめですね。ヒヒヒ。でも虫歯の数が多すぎる。ちゃんと毎日歯磨きしてますか? 見たところ、そうですね、ヒヒヒ、全部虫歯です。それじゃあ、全部削りましょうねー。ヒヒヒ。」

笑気ガスの麻酔などとっくに切れているのにもかかわらず、轟はエアタービンを強引に瑠璃香の口にねじ込む。

ギュイーーーーーーーン

エアタービンが健康な歯を全く遠慮もせずにガリガリと削っていく。嫌な振動が瑠璃香の脳天に響く。歯を削りすぎて神経が剥き出しになったにも関わらず、エアタービンは咆哮をあげる。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ。」

むき出しの神経を削られる痛みは尋常ではなかった。

「大丈夫ですよ。この部屋は精神衛生上、完全防音になっていますのでどんなに騒いでも構いませんよ。」

轟はニヤニヤしながら言う。しかし瞳孔は開いたままだ。

瑠璃香は必死に体を動かそうとするが、まったく動けない。瑠璃香は半狂乱になりながら叫ぶ。

「やめれーーーられからるけれーーーー!!!!!」

神経から何もかも歯が削られてしまい、歯茎まで削り赤い血が染み出してくる。

「よし。これでこの歯は大丈夫。ヒヒヒ。次は他の歯を削りましょうねー。」

ギュイーーーーーーーン

瑠璃香は汗と涙と鼻汁まみれになって叫ぶ。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ。」


そんな地獄の時間が二時間ばかり続いた。瑠璃香は、襲いかかる異常な痛覚によってとっくに精神は破壊され、向こう側の人間になってしまった。残っていた歯はわずか十本ばかり。口の中には血がたまり、鉄の味がした。

「うーん。このベロが邪魔で奥歯がなかなか見えないなぁ。じゃあこのベロもとっちゃいましょうかね? あははははははははは。」

轟はエアタービンの刃を変えると、またもや瑠璃香の口の中にねじ込む。瑠璃香は抵抗する力もない。轟はエアタービンの刃を瑠璃香の舌の端に当てて回転させる。この時ばかりは瑠璃香もさすがに耐えられない。

「おごごごごごごごごごごごごごご」

瑠璃香の口から鮮血がほとばしる。轟の白衣は血まみれで真っ赤になっている。

エアタービンは瑠璃香の舌を端っこからゆっくりと削っていき、真ん中辺りまで達した。

「あと半分くらいですよー。もうちょっと頑張ってみましょうねー。」

轟は幼稚園児をあやすように言った。

瑠璃香は血液の飲み過ぎで胃腸がおかしくなり、嘔吐した。

「おろろろろろろろろろろろろ」

吐瀉物が口から吹き出し、轟の顔を汚した。口の中では血の味だけではなく、胃酸の味までもが溢れている。

轟は怒りに震えながらタオルで顔を拭った。

「いけない子だね。こういういけない子にはお仕置きをしないとね。ヒヒヒ。」

轟はテーブルについているガスバーナーを取り外した。ガスバーナーを点火し、それを瑠璃香の右手の甲にあてた。ガスバーナーは気味の悪い轟音を立てながら瑠璃香の皮膚を焼いていく。

「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいい」

瑠璃香はあまりの熱さに身をよじった。それは、残り少ない歯を噛み締めながら痛みに耐え、そこから漏れる声だった。

皮膚は焼けただれ、ぷちっと弾ける。肉の焦げる臭いがする。皮下脂肪が溶かされ、油分がしたたりおちる。

轟はそのあと五ヶ所ほどガスバーナーでこんがり焼いた。瑠璃香には一生消えない傷が残った。

「さあ、それじゃ治療を再開しましょうねー。」

轟は再びエアタービンを手にする。半分ちぎれた舌の切れ目にエアタービンを差し込み、舌を切り取る作業を再開した。再び鮮血がほとばしる。

瑠璃香の瞳はすっかりそれぞれ別の方向むいてしまっている。目の光も失われている。

「ギュギュギュギュギュギュギュギュ」

血液と唾液と空気が混ざる音がする。

「もうすぐで終わりますからねー。」

轟の声のトーンは明るい。舌は徐々にちぎれて、ついに全部切り取られた。轟は切り落とされた舌を取り出そうとするが、つるりと手から滑り落ち、瑠璃香の喉の奥に落ちる。

「ガボガボガボブボボブボボベボベボ……」

血液と唾液と切り落とされた舌が気道に紛れ込む。最初は呼吸音が聞こえたが、やがて呼吸ができなくなる。その苦しさで瑠璃香は体躯を縮めたり伸ばしたりする。粘着テープでがっちり結び付けられた彼女の可動範囲は限りなく狭いが、それでも精一杯動いた。が、やがて動きが止まる。そしてその体はぐったりとしてしまった。

轟は瑠璃香の脈をみる。血液の動きは全くない。そして轟は瑠璃香の口元に手をかざす。呼吸している様子はない。轟は瑠璃香の死を確信する。そして喜びに打ち震えた。

「やった! ついにやったぞ! 殺したぞ! 俺はやったんだ! 俺はナポレオンだ! 俺はナポレオンになれたんだ! あははははははははは。ぎゃははははははははは!!!」

虚ろな診察室では、もはや少女の悲鳴は聞こえず、轟の高らかな笑いと、さわやかなケニー・Gのソプラノサックスだけが響きわたっていた。


轟はひとしきり笑ったあと、瑠璃香の亡骸を見つめた。

「ふーむ、とりあえず目的は達したが、『コレ』はどうしたものだ? 財布からは診察料は頂いておこう。しかし、それ以外は『ゴミ』ですね。こんだけ大きいと粗大ゴミになるのかな? しかし粗大ゴミは出すと金をとられるかな。燃えるゴミで出したほうがいいかな? ヒヒヒ。あ、そうだ! 燃えるゴミの日は明日だった! 早くしないと!」

轟は椅子から粘着テープを剥がし、瑠璃香の死体を床においた。

「これだけ大きいとゴミ袋に入らないな。バラすか……」

轟は奥に引っ込み糸ノコを取り出してきた。

「なるべく小さく切ろうか。」

轟はまず、目を見開いたままの瑠璃香の鼻の下と上唇の間に糸ノコをあて、ギゴギゴとすり切り出す。一往復するたびにぐじゅぐじゅという音を立てて血が噴き出してくる。

「まったく。手間がかかる患者さんだ。ヒヒヒ。」

轟の地獄のような診察は夜まで続いた。



事件はものすごい早さで解決した。

その日、なかなか自宅に帰ってこない瑠璃香は、家族から捜索届けが出され、島田かほりの証言によって、瑠璃香が轟歯科医院に行ったことがわかった。警察が轟歯科医院に踏み込むと、大小三十数個に切り分けられた瑠璃香の死体が発見され、床は血の海となっていた。

轟源三郎は、殺人、死体損壊、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕された。



***



 闇夜が瑠璃香の死を知ったのは次の日のホームルームでの事だった。

休み時間でガヤガヤとしている教室。ホームルームの時刻を告げるチャイムが鳴るかならないかのタイミングで、佐藤繁子(三十四歳独身)がドアを開けた。彼女(三十四歳独身)が教室に入ると同時に、自然と教室に静寂が戻った。繁子(三十四歳独身)は本来ならば、教卓の真ん前にある席に座っている瑠璃香に号令を促すのだが、あいにくその席には瑠璃香はいなかった。隣の席の島田かほりはなぜかうつむいて、涙すら浮かべていた。繁子(三十四歳独身)は号令もなくいきなり切り出した。

「えー、皆さんには大変残念なお知らせがあります。クラス委員長の生上院瑠璃香さんが昨日お亡くなりになりました。」

その言葉に教室中が固まるがしばらくしてさざめきだした。いろんな憶測が飛んでいる。そしてその中から一人の生徒が質問した。

 「先生、生上院さんはなんで亡くなってしまったのですか?」

 その質問に繁子(三十四歳独身)はうつむき、困った表情をしばらくしていたが、なんとか前を向いて答えた。

 「彼女は殺されました。しかしそれ以上のことは言えません。あまりに残酷な殺され方だったもので……」

 島田かほりは状況を知っているらしく、唇を噛み締めた。生天目裕子の右隣に座っている、海江田魚々子はなぜかブルブルと震えていた。

 山の辺深雪の目は相変わらず虚ろで、クラスメイトが殺されたというのにもかかわらず、その表情に変化はなかった。

闇夜は机を右拳で叩いた。

(くそ! 手遅れだったか……)

机を叩く闇夜を見て、裕子はビクッとした。

「つ、月島くん? どうしたの?」

裕子が語りかけた。

「い、いや、なんでも御座いませぬ。」

 闇夜はなんとか体裁を作りなおす。

 「月島くん、何か知ってるの?」

 裕子は頬を少し紅潮させ、聞いてくる。

 「いや、生上院殿のことは何も存じ上げませぬ。」

 「まさか山の辺さんの祟りとか……」

 闇夜は繕っていた体裁をかなぐり捨てて一喝した。

 「バカな! そんなことあるわけがない!!」

 裕子はその迫力にビクッとして、すこし涙を浮かべる。頭に血が上っていた闇夜は彼女の表情の変化にハッとして我に返った。

 「ごめん……怒鳴ったりして……」

 闇夜は裕子に謝った。裕子は赤いフレームの眼鏡を外し、少し溜まった涙を拭いて言った。

 「ううん。大丈夫。私も軽率だった。ごめんなさい。」

 闇夜は笑顔を浮かべ、裕子に言った。

 「一ついいかな? このことはもう詮索しないほうがいいよ?」

 裕子は、明らかに闇夜がこのことについて何か知ってると気付いたが、闇夜に嫌われたくなかったので、この場は一旦、素直に言うことを聞いた。

 闇夜は裕子をなだめたあと、かほりのほうに視線を向けた。今日の彼女はメイクに気合が入っていない。まるで普段と別人のようだった。健康的な肌は変わっていなかったが、眼の下に大きなくまができていた。ネイルアートも、ワンタッチネイルだったのだろうか、今日は外してあった。目も虚ろだった。おそらく生上院瑠璃香の死のことを詳しく知っているようだった。そして山の辺深雪の『祟り』について怯えているようだった。

 不意に彼女の右隣の女生徒が彼女に話しかける。

 「大丈夫?」

 かほりは我に返り、気丈に振舞った。

 「え? な、なんの事かな? 私は全然大丈夫よ。はははは。」

 これが今の彼女にできる精一杯のことなのだろう。そこにはいつもの高飛車な態度のかほりはいなかった。

 山の辺深雪はずっと虚ろな表情で前を向いていた。しかし不意に虚空を見上げると、周りに気づかれるか気づかれないかの按配でニヤリと口を歪めた。



***



 放課後。闇夜は体育館にいた。体育館の隅で女子の器械体操部の練習を見学していた。中村達俊の情報によると、島田かほりは器械体操部に所属していて、今日が練習の日だった。かほりは今日部活だったため、ネイルを外していたのだと合点がいった。

 かほりは長い髪を左右にお団子にまとめ、なぜか体操部に似つかわしくない、白いシャツにネクタイにパンツという姿だった。彼女が主に取り組んでいるのは床の演技のようだ。普段はあんなかっこうをしているかほりだったが、部活には熱心に取り組んでるらしく、インターハイの出場もかかっているらしい。今日はナチュラルメイクなので、お団子のかほりは、わりと闇夜の好みのタイプに近い感じだった。

 インターハイ出場がかかっている程の腕前なので、かほりは後輩から慕われているようだった。かほりは後輩たちが床で飛んだり跳ねたりしているのを見ながら、ウォーミングアップのストレッチをしていた。

 今日はどうも、エキシヴィジョン用の演目の練習をするらしい。闇夜はフィギュアスケートや体操は好きではなかったが、エキシヴィジョンと言う名がつくものはたいてい好きだったのでちょっとワクワクした。

 かほりはチューリップ帽を被り、スタンバイする。後輩たちが小道具を用意している。

 音楽がかかる。闇夜はこの曲に聞き覚えがあった。映画「雨に唄えば」の中に登場する、「Make‘em Laugh(笑わせろ)」だった。この場面はドナルド・オコナーがコミカルなダンスをする名シーンだ。それを完全再現するつもりなのだろうか?

 かほりは音楽に合わせてコミカルにステップを踏む。歌は口パクだが、見事にリップシンクしている。後輩が二人で長い板を運んでくる。そこにかほりが乗っかり、泳ぐ真似をする。反対側からソファーを運んでくる後輩たちがいる。かほりはそれをくぐる。ソファーには布でできた人形が載っており、かほりがソファーに座り、その人形相手に一芝居打つ。この演目はダンスの技術も必要だが、演劇的要素も必要だ。かほりはそのどちらも兼ね備えているので、この演目を見事に演じている。

 やがて演目は後半に差し掛かる。かほりは床を転げまわる。その滑稽さに思わず、闇夜も手を叩いて笑った。体育館にいるものみんながそれに見入り、笑い声が聞こえた。かほりにこんな一面があったとは闇夜も気が付かなかった。

 やがて最後の見せ場である、壁を蹴り登り、バク転する場面が近づいた。後輩たちが壁を用意する。闇夜の記憶では、壁を蹴り登るのは二回あるはずだった。

 かほりはドラムロールとともに一つ目の壁に向かって走りだす。そして見事に壁を登り、クルッと一回転した。これくらい彼女にとっては造作も無いことなのだろう。

そして、もう一つの壁に向かってかほりは走りだした。壁を蹴り登るところまでは良かった。しかし、蹴り登るのが一歩足りなかったのか、かほりは頭から真っ逆さまに落っこちてしまった。

かほりはぐったりして動かない。周りが一気に色めき立つ。かほりに駆け寄る部員たちや顧問の先生。必死に声をかけるが反応がない。幸い息はしているようだった。

やがて救急車が来た。彼女は担架に乗せられ、ものすごい手際の良さで病院に担ぎ込まれた。幸い、軽い脳震盪を起こしただけだったが、なかなか意識が戻らない。



暗い部屋に生上院瑠璃香がいた。彼女は血まみれだった。

彼女はかほりに語りかける。

「なんで私がこんなことにならなきゃいけないの?」

頭から血まみれの瑠璃香はかほりの右腕をすごい力で掴んで迫った。

「見てよ……」

瑠璃香は口を開け、それをかほりに見せた。歯が殆ど無い。そして血がよだれと混ざり、ダラダラと顎を伝ってしたたりおちる。

「こっちも見て。」

 瑠璃香がそう言うと、瑠璃香の顔の鼻の下と上唇の間にギザギザの切れ目が生じ、鼻の下から上がボロっと落ちる。その後体中がバラバラに崩れ落ちていく。それでも瑠璃香の声がする。

 「どうして……どうして……どうして……」

 瑠璃香の『破片』がかほりの方にゴロゴロと転がってくる。


 「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 かほりは大声を上げた。気がつくと病院のベッドの上だった。

 (わたし、生きてる?)

 かほりは体中を見回した。すると右腕には真っ赤な血でできた誰かの手のひらの跡が残っていた。

 「ひっ!!」

 悲鳴を聞いて看護婦が駆けつけてきた。

 「島田さん、大丈夫ですか?」

 かほりは血の手形を隠した。はあはあと息遣いが荒かった。

 「あなたは軽い脳震盪を起こしました。今日はそのまま帰っても大丈夫ですが、一応後日検査に来てください。」

 「……はあ……」

 かほりはタクシーで帰ることにした。隠していた右腕を恐る恐るみてみると、手形はなくなっていた。


***


 闇夜は、かほりの演技の失敗を見た後、家に帰った。

 彼はただいまの挨拶もせずに、ドアをバタンと開けて、ずかずかと家に入り、カバンやら外套を撒き散らし、スケキヨに詰め寄った。

 「スケキヨ! どういうことだ!」

 スケキヨは闇夜の剣幕にビビりながらもなだめるように言った。

 「あんや、落ち着いて。昨日は山の辺親子にちゃんと張り付いていたんだ。でも瑞歩は相変わらずだったし、深雪も帰ってから全く外に出てなかったんだ。念のため黒猫になって深雪の部屋に入って観察していたのだけど、教科書と聖書を読んでるだけだったんだ。とにかく落ち着いて。」

 闇夜は、事態を把握するとようやく落ち着いた。そしてアスピリンを一錠かんでから言った。

 「そうか……そうだったのか……わりぃ……大人気ないことをしたな。」

 闇夜はようやく平静を取り戻したが、今までの状況をかんがみて、納得がいってないようだった。

 「しかし、どうも変だな。瑠璃香が死ぬとしたら、真っ先に思い浮かぶのは、深雪による呪術のはずなのだが。あれは単なる事故なのか? スケキヨ、瑠璃香がどういうふうに殺されてるかわかるか?」

 「それがさ、酷いんだよ。僕が警察に放った使い魔によると、彼女は、覚醒剤常習の歯科医の轟源三郎に、ほとんどの歯を削り取られ、舌まで切り取られ、その切り取られた舌が気道に入って窒息死したらしいんだ。それで遺体を処理するために轟は彼女をバラバラに切り刻んでたみたい。警察が踏み込んだ時は、まさに轟が遺体を刻んでた最中で、床は血の海だったらしいよ。」

 スケキヨの話を聞いていた闇夜は顎をさすりながら言った。

 「ふーむ、確かに尋常じゃないな、その殺され方は。単なる殺人事件じゃすまないだろうな。やっぱり何らかの呪術や魔術が関連しているのだろうか?」

 スケキヨも同意した。

 「僕も多分そう思う……とりあえず着替えてきたら? お茶淹れるから。」

 「ああ、そうだな。」

 闇夜はぶちまけた外套やらカバンを拾い上げ、自分の部屋に引っ込んだ。

 闇夜が着替えている間、スケキヨは番茶とうさぎやのどら焼きを用意した。そしてレコード棚からブラームスの交響曲第一番を取り出し、プレイヤーに乗せた。重厚で少しゆったりとしたティンパニの音と、それを盛り上げる弦楽器の音が響き渡る。

 闇夜は長い髪を後ろで結わえ、メガネを外し、着流し姿になって部屋から出てきた。

 闇夜はうさぎやのどら焼きをひとつまみ頬張って、番茶で流し込んで切り出した。

 「もし山の辺深雪絡みで呪殺が行われているとしたら、今のところ危ないのは、島田かほりと海江田魚々子だ。先日深雪に詰め寄っていたのは、瑠璃香、かほり、そして魚々子の三人だった。その内瑠璃香は殺されてしまった。今日の様子を見る限り、かほりは、瑠璃香の死について警察に聞かれたのか、顛末を知っている様子だった。」

 闇夜はそこまで言うと、またどら焼きを一かみして、番茶をすする。

 「かほりの様子がおかしかったので、放課後彼女をつけてみたんだ。彼女は器械体操部に所属していて、床の演目をやっていた。その演目をじっと観ていたが大したもんだったよ。しかし最後の最後で簡単なミスをして、頭をしたたか打ってしまった。まあ軽い脳震盪で済んだらしいのだが、もし狙われるとしたら、次は彼女じゃないかと思う。」

 スケキヨは両手でどら焼きを掴んで、ハムスターのように食んでいた。

 「そうなると僕だけではどうしょうもないな。使い魔も一度にそんなにたくさん使いこなせないし……。」

 「そうなったらあれだな。俺が識神を何人か呼べばいい話だ。」

 「あんやが僕以外の識神を呼ぶのはなんだかしゃくだけどこの際仕方ないね。」

 「とりあえずあの三人に来てもらおうかな?」

 と、闇夜は懐から三枚の、人の形をしている半紙を取り出し、フッと息をかけ床に落とした。すると三つの五芒星が床に現れ、そこから三人の識神が現れた。

 一人は背がすごく小さくて、やたら髪の長い女の子だった。彼女は長い髪を上に縛った変形ポニーテールをしていた。身長を伸ばしているつもりなのだろうか? 髪の色は燃えるような赤だった。眼の色はブラウン。ちょっと恥ずかしがりやなのか、もじもじしている。彼女の名はアンディ。

 一人は闇夜と同じくらいの背の高さの女の子だった。ミディアムボブでカールしている。眼の色は青く、すこしタレ目だった。大リーグの選手みたいにくちゃくちゃチューイングガムを噛んでいた。見るからにお調子者と言った感じだった。彼女の名はスチュワート。

 もう一人はスケキヨと同じくらいの背の高さの女の子だった。パンキッシュなベリーショートで、アニメでしかお目にかかれないようなピンクの髪の色をしていた。カラーコンタクトでもはめているような鮮やかな赤い目をしていた。目付きが鋭く、三人の中では一番落ち着きが見られる。彼女の名前はゴードン。

 「あ、あの……呼んでくれてありがとうございます。」

 アンディが頬を赤らめながら言った。

 「俺らのことならもっと気軽に呼んでくれたっていーんだぜ?」

 スチュワートは男のような口の聞き方をする。

 「我々が呼ばれた、ということは、ただならない状況に置かれている、ということですね?」

 ゴードンが落ち着きを払って言う。するとスチュワートがゴードンに言った。

 「そう固くなるなよ、スティング。」

 するとゴードンの目つきが一層鋭くなる。

 「私のことをその名で呼ぶな!」

 スチュワートが、やれやれだぜ、と言った感じで肩をすくめる。

 「みんな落ち着いて。仲良くやろうよ。」

 スケキヨが仲裁に入る。そして闇夜に目配せをする。

 闇夜は、コホンと咳払いをして切り出す。

 「アンディ、スチュワート、ゴードン、来てくれてありがとう。ゴードンの言うよう、今我々は困った状況にある。既に呪殺と思しき殺され方で一人が死んでいる。そしてマークしなければいけない対象がたくさんいて、俺とスケキヨだけではさばききれない状態だ。そんな訳で君達を召喚した。」

 闇夜はそこまで言うと番茶をすすった。そして意を決したように立ち上がる。

 「アンディ、君は島田かほりをマークしていてくれ。授業中、学校外に関わらずだ。もちろん護衛もな。」

 「わかりました。任せてください。」

 アンディは小さい胸を張る。そして早速風の様に消え去る。

 「スチュワート、君は海江田魚々子をマークしていてくれ。逐一レポート頼む。護衛も頼むぞ。」

 「いいぜ。何とかやってみせる。」

 スチュワートはガムをくちゃくちゃ噛みながら答える。そしてアンディに続き消え失せる。

 「ゴードン、君には山の辺深雪に張り付いていて欲しい。昼も夜も。彼女が呪術や魔術を使ってないか突き止めて欲しい。」

 「了解した。そちらも気をつけてな。」

 ゴードンの話し方は肩肘張っているように聞こえるが、信頼に足る人物であると闇夜は知っていた。彼女もあっという間に姿を消した。

 スケキヨは呆気にとられていた。

 「あんや? 僕は? やること無いの?」

 「スケキヨは山の辺瑞歩だな。あとは俺の身の回りの世話だ。頼むぜ。」

 闇夜は笑顔で答えた。スケキヨの表情はパーッと明るくなった。

 「これだけ網を張ったのだからなんとか防げると思うのだが……しかしもしかしたら相手は想像をはるかに超えたものなのかもしれないからなぁ……そうだったらどうすべきか……」

 闇夜は残りの番茶を飲み干した。


 「それはそうと、スケキヨ。お前に一つ問いただしたことがあるのだが……」

 スケキヨは満面の笑みで答える。

 「なーに?」

 闇夜は瞳を閉じ怒りで腕をプルプル震わせながら吠えた。

 「あの弁当は一体何だ?! 嫌がらせか?! あんなもの他の生徒に見られたらどうすんだ?!」

「え? なんのこと? ……ああ! あれか! いいでしょ~僕の愛妻弁当。頑張ってる闇夜を想う気持ちが表現されて、思わず食べるのももったいないってなっちゃったのかな? やだ~いいんだよ~普通に食べて。ニシシ。」

 「違う! そうじゃない! あんな弁当他の生徒に見られたらどう説明すりゃいいんだよ?!」

 スケキヨは悪びれもせず答えた。

 「え? 彼氏に作ってもらったって言えばいいんじゃないの?」

 「バカヤロー!!」

 スケキヨはふてくされながら言う。

 「いいじゃん、減るもんじゃないし……」

 「減るんだよ! 俺の寿命がな! ……と、とにかく、普通の弁当にしてくれ。頼むから。」

 闇夜は息を切らせながら言う。スケキヨは頬をふくらませ言った。

 「チェッ。残念だなぁ。でもお弁当自体は美味しかったでしょ?」

 「ん? ……ま、まーな。」

 「ほら! やっぱり! あんやだーいすき!」

 スケキヨは闇夜に抱きつく。

 「こら! く、くっつくな! はーなーれーろー!」

 「やだやだ! スケキヨはあんやから離れません! 僕は闇夜の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちであり、彼氏なんだから!」

 「だー、彼氏は余計だーーーーーーー! ったく暑苦しい! 助けてーーー!!」


 こんなやり取りができるのも、つかの間の平和だったからかもしれない。それかずっと続く緊張感を和らげるために敢えて彼らがやっていることなのかもしれない。

 その後二週間ほど何も起きなかった。島田かほりについて以外は……



***



 島田かほりは明らかに衰弱していた。それは学校で顔を合わせる程度の闇夜にもわかった。日毎にメイクののりが悪くなり、授業中居眠りすることも増えた。

 原因は睡眠不足によるものだった。彼女は毎晩眠れずにいた。眠れば『ヤツ』が出てくる。

 脳震盪を起こしてから直ぐに『ヤツ』は夢に出てくるようになった。非業の死を遂げた生上院瑠璃香が。


 かほりが眠りにつくと、かほりは自分が狭い部屋に閉じ込められているのに気がつく。窓や扉などどこにもなく、非常に圧迫感のある部屋だ。後ろに人の気配がする。振り向くとそこには血まみれの瑠璃香がいる。瑠璃香の目は虚ろだった。しかし、かほりが向いているのに気がつくと、キッと目を吊り上げてこちらを睨んでくる。そして瑠璃香はかほりの右腕をものすごい力で掴んでくる。

 「どうして私はこんな死に方しなきゃなんないの?」

 瑠璃香がかほりに詰め寄ってくる。

 「知らない……知らない……知らない知らない!」

 かほりは首を横にブンブン振る。

 「見てよ……こんなになっちゃった……」

 瑠璃香が口を開けて見せつけてくる。歯がほとんど無く、舌も切り取られている。開けた口から真っ赤な血とよだれがだらだらとこぼれ落ちてくる。かほりは口の中を正視できない。

 「それでね、こんなになっちゃった……」

 瑠璃香が不自然な切れ目で、まるで積み木を崩すようにボロボロと崩れてくる。ボロボロと崩れたあと、かほりの右腕には瑠璃香の、血で真っ赤に染まった左手だけが強く握られている。

 「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 かほりは気がつくと自分の部屋のベッドにいた。毎夜こんな夢にうなされる。汗びっしょりで息が上がっている。かほりがバッと掛け布団をはねのけ右腕を見る。すると、赤い血の手形がついている。

 「いやあああああああ!!」

 かほりはその血の跡をティッシュで拭き取ろうとするが一向に血の跡が取れない。

 かほりは部屋を出て洗面所に向かう。お湯を出して右腕をこする。

 「取れない……」

 お湯を出しながら、スポンジにボディソープをかけ、泡立てて右腕をこする。

 「取れない……」

 かほりは今度はワイヤーブラシで右腕をこする。

 「取れない取れない取れない取れない取れない!!!」

 ワイヤーブラシでこすられた部分は皮膚が削れ、肉も削れ、血がドクドクと噴き出してくる。

 夜中の異常を察知したかほりの母親は洗面所で異常な行為に走っているかほりを見つける。

 「ちょっと! なにやってるのよ?! かほり! 血だらけじゃない!!」

 「取れないのよ! 血が取れないのよ! 助けてー!!」

 かほりの母親はかほりの頬を平手打ちして、少し怯んだ隙に左手に持っていたワイヤーブラシを取り上げ、かほりを洗面所から引き剥がす。かほりは母親に抱きつく。

 「わあああああああああああああああん! 助けて!!!!!!」

 母親は泣きわめくかほりを抱きしめ頭を撫でてやる。

 「かほり、あなた病気なのよ。明日お医者さんに行きましょうね。」

 かほりは『医者』という言葉に反応した。

 「いやああああ!! お医者さんはいやああああ!!」

 「大丈夫。ちゃんと信用できるお医者さんのところにするから。」

 かほりの母親はなんとかかほりをなだめることができた。

 その様子を見つめる白いフェレットがいた。アンディだった。

 それ以後かほりは、学校へは通うものの、部活は休むようになり、大学病院の精神科に通うようになった。医師の診断によると軽いノイローゼだった。しかし医者は精神安定剤と睡眠導入剤を与える以上の事はしなかった。いや、できなかったのだ。



***



 瑠璃香が死んでから二週間が過ぎた。その間もアンディ、スチュワート、ゴードン、そしてスケキヨによる内偵は続いていた。しかし、悪夢に苦しむかほりのこと以外には変化はなかった。



 六月六日の事だった。

 闇夜が学校から家に帰ると、いきなりクラッカーの音と紙吹雪の嵐が待っていた。

 「あんや、お誕生日おめでとう!」

 スケキヨが笑顔で迎えた。しかし、当の闇夜はというと、なんだか白けている。

 「あ……あ、そうか。俺の誕生日か……誕生日ね……」

 スケキヨは肩透かしを食らったようだった。

 「あんや? ……ええと、誕生日嬉しくないの?」

 「ふーむ、嬉しい、というか、六月六日が誕生日っての実は違うかもしれないんだよね。言わなかったっけ?」

 スケキヨは首を傾げる。

 「俺の名前とかの由来も話さなかったっけ?」

 「そういえば聞いたことないかもしれない。」

 スケキヨはちょっとばつが悪そうにしている。

 「俺には親も兄弟もいないってのは知ってるよな? 正確には『知らない』んだ。」

 闇夜は続けた。

 「俺は孤児だったんだ。赤ん坊の俺は、六月六日の月のない闇夜(やみよ)の晩に月島仲町商店街――ほら、もんじゃ焼き屋がたくさんある――の一角にに捨てられているのを拾われたんだ。だから生まれたのはそれより前かもしれないんだ。その時から左足を怪我していたらしい。月島で拾われたから苗字が月島、月のない闇夜(やみよ)だったから名前は闇夜(あんや)。なんて安直な名前なんだろうな。はは。」

 闇夜は自嘲気味に笑った。

 「そんでもって、俺みたいな拾われた子供ってのはよく実験とかに使われるらしい。赤ん坊の頃だから覚えちゃいないが、おれもあちこち体をいじくりまわされたらしい。あんまり後藤のおやっさんは教えてくれねえんだけどな。そんで、俺は呪術師になるための霊能力だのといった能力値が遺伝子レベルで高かったらしい。だからまあその霊能力のお陰でスケキヨとも出会えたわけなんだが。とにかくそういう素質があったから、陰陽道から始まり、修験道、密教、古神道、黒魔術、白魔術、エクソシズムまで叩きこまれた。小さくて一人で生きる力がない俺はそれにしたがって生きていくしかなかった。だから今やってるようなことって俺が自分でやりたくてやってることじゃないんだよな。」

 スケキヨはなぜか悲しそうな顔をしている。

 「今までいろんな学校を転々としてきて思ったのだけど、いろんな奴がそれぞれいろんな夢に向かって頑張ってる。何かに打ち込んでいる。スポーツだったり、勉強だったり、映画作ったり、マンガ書いたり、小説書いたり、音楽やったり。そういうの見て思うんだ。俺って一体何がやりたかったんだろうなって。俺っていつまでこんなことやり続けるんだろうって。」

 スケキヨは更に悲しそうな顔をした。

 「あんや。もしかして今の仕事好きじゃないの? 他にやりたいことがあるの? 今は楽しくないの?」

 闇夜はしばらく考えこんでから、スケキヨに答えた。

 「うーん、今が楽しくないかと聞かれれば、楽しいと答えるよ。特別にやりたいことがあるというわけでもないし。もし、やりたいことがあるとすればそうだな……普通に高校生やりたいな。そしてそこでやりたいことを見つける。そのやりたいことが大学にあるとしたら、大学受験に向けて勉強もする。」

 スケキヨは恐る恐る聞いた。

 「もしあんやが普通に高校生やることになったら、僕とはもう会えないのかな?」

 そんな不安そうなスケキヨの表情を見て闇夜は一喝した。

 「ばーか。お前も一緒に決まってるじゃないか。お前は俺の一番の友だちじゃないか。お前と出会って無ければ音楽との出会いもなかったかもしれない。お前の料理やケーキも食べたいしな。なんだかんだ言ってお前にはかなわないからな。」

 闇夜が言い終えてからスケキヨを見ると、彼はボロボロと涙を流していた。闇夜は焦って取り繕おうとした。

 「ば、バカだな……スケキヨ……こんな事で泣くなんて……い、言っとくけど、か、彼氏にはならんぞ?」

 スケキヨは涙を拭いながら言った。

 「……うんうん……そうだよね……僕ってバカだよね? 彼氏についてはね……今はこのままでもいい……ただあんやがそばに居てくれればそれでいい……」

 スケキヨはようやく笑顔を取り戻した。

 「お前は俺の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だち……なんだろ?」

 「そうだよ。僕はそんな存在を目指してるよ。……さあ、今日は、あんやの本当の誕生日じゃないかもしれないけど、ニューヨークチーズケーキ作ったんだ。食べてよ。」

 美味しいものに目がない闇夜の目は輝きを取り戻す。

 「ほう、そいつは楽しみだな。」

 「今日のは自信作なんだから。待ってね。コーヒーも淹れるから。」

 スケキヨは冷蔵庫から少し桃色がかったニューヨークチーズケーキを取り出した。

 「デンマーク産のクリームチーズをたっぷり使って、サワークリームとかと混ぜて、砕いたビスケットで作った生地に塗り固めてただ冷やしただけなんだけどね。」

 「なんでピンク色なんだ?」

 「ニシシ。これはね、いちごの果汁を少し入れてみたの。チーズといちごの香りが結構合うんだよね。」

 スケキヨは、エッヘンと得意げに言った。

 「それとニューヨークチーズケーキにはアメリカンコーヒーが合うんだよね。グリーンマウンテンコーヒーのブレックファストブレンドって豆をネットで注文したんだ。」

 闇夜はよだれを垂らさんばかりにスケキヨのうんちくに付き合っていた。そしてひとしきり講義が終わったあと、待ってましたとばかりにフォークをアメリカンチーズケーキに入れる。闇夜は濃厚なクリームチーズの滑らかさに舌鼓をうった。普通ニューヨークチーズケーキにはブルーベリーソースをかけたりするが、いちごもなかなか捨てがたい。ビスケット生地の食感も心地よい。やや酸味のあるアメリカンコーヒーが濃厚なチーズケーキの後味をさっぱりとさせる。

 スケキヨは少し不安げに聞いた。

 「どう?」

 闇夜はニコッと笑い答えた。

 「全くお前ってやつは……こんなうまいもんばっか食わせんじゃねーよ。俺を太らせて食うつもりか?」

 闇夜がスケキヨの頭をチョップで小突く。

 スケキヨの笑顔新記録がまた更新された。



***



 朝。

 憔悴しきった島田かほりが学校への道をゆらゆらと歩いていた。

 後ろからは赤毛の背の小さい女の子がついてきている。アンディだった。

 かほりはアンディがつけていることに気がついていない。それどころか、自分がどこをどういう風に歩いているかもよくわかっていないようだった。ただ惰性で毎日通っている道を体が覚えていてその通りに歩いているようだった。

 彼女は明らかにやつれていた。毎夜見る悪夢に疲れ果てていた。


 「上野発のふふふふふふふふふふふふふーん」

 かほりが歩いている歩道の隣の車道でゴミ収集車が並走しており、中年の清掃員が間抜けな鼻歌を歌いながら路上においてあるゴミ袋を掴んでは回収車に投げ込んでいる。

 「先輩、なんすかその歌?」

 もう一人の若い清掃員がゴミ袋を投げ込みながら、中年の清掃員に聞く。

 「ばかやろう。そんな有名な曲も知らねぇのか。全く最近の若い奴は……この歌はだな、ええと……なんて歌だっけ?」

 「知りませんよ! なんだ、先輩だってダメダメじゃないっすか!」

 中年の清掃員と若い清掃員がそんな他愛もない話をしながらゴミをさばいていく。

 そんな朝の日常などかほりには目が届かなかった。

その時不意に声が聞こえてきた。


 「死ね。」


 その声は聞き覚えがあったが誰の声か思い出せなかった。最初は空耳だと思ったがその声はまた聞こえてきた。


 「死ね!」


 かほりは辺りを見回した。アンディは咄嗟に物陰に隠れた。かほりの周りには、清掃員達しかいなかった。また声が聞こえる。今度ははっきりと。

 「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」

 かほりは耳を塞いだ。しかしその声は止まない。

 「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」

 かほりは泣きながら叫ぶ。

 「やめて! お願いだからやめて!」

 かほりの心からの叫びは声の主に届かない。

 「死ねば死ぬ時死ななきゃ死にたい死ななければ死ななくはない死死死死死死死死死!!」

 かほりは首をブンブン横に振って駆け出そうとした。その刹那、横で工事をやっていたビルの屋上から鉄材が落ちてきた。

 それをすぐさま察知したアンディは咄嗟に叫ぶ。

 「あぶない!」

 かほりはその声を聞き、上を見上げる。危機が迫ってることを察知したかほりは持ち前の運動神経の良さで、とんぼ返りをして直撃を避けた。

 ガシャーンというものすごい音を立てて鉄材が地面に落ちた。間一髪でかほりは鉄材の落下から逃れることができた。

しかしその直ぐ後、車道に飛び出していたかほりにダンプカーが近づいていた。ダンプカーは急ブレーキをかけた。危ない所で止まった。しかしかほりは軽くダンプカーに押された。

ダンプカーに軽く押されたかほりはバランスを崩し、前のめりに片足でとんとんとんと進みそのまま勢いが止まらず、前にあったゴミ収集車のゴミ投入口に頭から突っ込んだ。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

ゴミ収集車のプレス機が回転する中でかほりの叫び声が聞こえる。

「おい! 緊急停止ボタンだ!」

中年の清掃員が若い清掃員に命令する。若い清掃員は緊急停止ボタンをすぐさま押す。しかしどういうわけか止まらない。

「先輩! 止まりませんんん!」

「何だって?!」

中年の清掃員も緊急停止ボタンを押してみる。しかし止まらない。何度も押してみるが止まる様子がない。

中年の清掃員はゴミ収集車の運転手に叫ぶ。

「おい! エンジンを切れ!」

運転手がエンジンキーをひねった。しかしなぜかエンジンが止まらない。

「エンジンが切れません!!」

「何だって?!」

中年の清掃員がそういう間にも緊急停止ボタンを押し続けるが無駄だった。

アンディは手印を結び、破魔のマントラを唱えた。

「オンデイバ・ヤシヤ・バンダバンダ・カカカカカ・ソワカ!」

これでゴミ収集車の電気系統が焼き切れて止まるはず。そう思ったアンディであったが、マントラを唱え終える前に、そのマントラの響きが何か鏡のようなものにカキーンと阻まれたと思った束の間、天地が逆転し、アンディは虚空から地面に落っこちて、地面に倒れてしまった。すると恐ろしいほどの重力がのしかかり、体が地面に張り付いて身動きがとれなくなった。マントラを唱えようにも、強力な重力で押さえつけられ、呼吸ができない。

ゴミ収集車からは鈍い破裂音が聞こえてくる。


バキバキバキミシミシミシ


「ぎゃあああああああああ!!!助けて!!!」

かほりが叫びながら、ゴミ収集車からはみ出ている手足をバタバタさせる。その間にも鈍い破裂音のような音がする。

そして、ゴミ投入口からはどす黒い血がドクドクと溢れ出てくる。

「おい! 引っ張れ!」

中年の清掃員が若い清掃員に促すと、二人はかほりの足を片足ずつ掴み、おもいっきり引っ張った。しかしどんどんかほりは中に引き込まれていく。

「だずげでーー!! ばぶべべ!!」

かほりの言葉がどんどんおかしくなっていく。

そしてバキバキっという破裂音がやがて、グチョグチョっという、汁気の混じったかき混ぜるような音になっていく。その頃にはもうかほりの叫び声は聞こえない。

かほりの体はどんどんゴミ収集車の中に引きこまれていき、外側に出ている部分は腿から下の部分だけになった。それでも二人の清掃員は引っ張った。力の限り引っ張った。その甲斐あってか、二人の清掃員は少女をようやくゴミ収集車から引き離す事ができた。

「やった!」

しかし、二人の清掃員の腕に握られていたのは少女の膝から下の部分だけだった。

「ぎゃあああああああああ!!!」

二人の清掃員の叫び声が辺りに響き渡った。

アンディはその頃ようやく強烈な重力から開放された。


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