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湯船の底で眠りたい。

作者: 千蓮

 お風呂の栓を抜くと、こぽこぽと音をたてて流れ出る。私を満たしていたぬるま湯が、音をたてて流れ出る。みるみるうちに空っぽになっていく湯船の中で。視界がゆらりと揺れて、排水溝が低くく唸り声をあげても。私だけがうずくまったまま、動けずにいた。



1.


 寂しい夢だな、と思った。なんて寂しい夢なんだろう。脱衣所の洗濯機と向かいあう箪笥にもたれて、うずくまったまま。どうやら眠りに落ちてしまったらしい。まだ夜のどんよりとした静けさが続いている。ふと気づくと、水音がしていた。誰もいないはずの浴室で、人の気配がしていた。


 立ち上がろうとした途端、足が痺れて膝から崩れた。じんじんと痛む足をさすっていたら、浴室の扉がガラガラと音をたてて開いた。見上げると、大地が出てきた。びっくりした。たちこめる湯気と共に、石けんの香りが流れでる。


「美鈴、タオルとって」


 大地が言った。私は少し迷って、足元に落ちていたバスタオルを拾って、何も言わずに差し出した。


「これ、使ったやつ?」


 まあいいや、と苦笑しながらも、大地は濡れた身体をざっくりと拭き始めた。それから、脱衣場の隅にひっそりと置かれていた服を手にとる。綺麗に折り畳まれていたのに、広げた途端、汗と砂の混ざりあったような匂いがした。よれたTシャツに、下はジャージ姿になった大地は、几帳面なのか大ざっぱなのか、よくわからない。しばらく呆然と見上げていた私は、ふと我に返り、慌てて彼の服の裾を引っ張った。そのままスタスタと脱衣所を出て行こうとしていくところだった。


「ちょっと」


「何?」


「何、じゃないでしょ、なんで大地がここにいるの」


 大地はこちらを振り返り、なぜだか脱力したように、くつくつと笑いだした。


「美鈴は不用心すぎるんだよ」


 私の腕をすっとほどいて、そのまま、ずかずかとキッチンへと向かう。意味がわからない。仕方なくついて歩くと、ふいに真夜中が巻き戻されていくような感覚に襲われ、目眩がした。静かに。でも確かに、巻き戻されていく。


 食器棚からグラスを取り出した大地は、そこになみなみと水を汲み、こくこくと喉を鳴らして気持ちよさそうに飲み干した。そして、背後でむっつりと押し黙っていた私を振り返り、なあ、美鈴、と呟いた。


「俺たちって今、どういう関係なんだっけ?」


 何をいまさら、と吐き捨てようとして開きかけた口を、ふたたび引き結ぶ。巻き戻されていく記憶といくつもの感情が、せきを切って溢れ出しそうになるのを、心の深く深いところにぐっと押し込み。ゆっくりと息をして、今はもう他人だと、そっけなく答えた。


「そっか、そうだよな」


 大地はそう呟いて、力なく笑った。


 それ以上は何も言わずに、私も何も言えずに、蛇口からだらしなく滴る水の音だけが響いていた。やがてキッチンを出て、玄関を出て、何ごともなかったかのように大地は、ふらりとどこかへ行ってしまった。


 私は浴室へ向かい、お風呂の栓を抜いた。あぁそういえば、合鍵渡したままだったな。大地を満たしていたお湯が、こぽこぽと流れでるのをぼんやりと眺めていたら。深く深いところに沈めた気持ちまでもが、音をたてて流れでていく。


 ーー俺たちって今、どういう関係なんだっけ?


 そんなのは、私が聞きたい。




 それまで実家暮らしをしていた私は、短大卒業を機に一人暮らしを始めた。就職先の飲食店は地元だったけれど、一度家の外に出て生活してみようと思い立ってのことだった。それから数ヶ月がたった頃、アルバイトを転々としながら生活していた大地がふらりと訪れ、私の部屋に転がりこむようになった。それなのに、何も言わずにどこかへ行ってしまったまま何日も戻って来ない日が続いたり、気づくと平然と部屋にいて、寝そべりながらテレビを見ていたり。どこまでも、掴みどころのない人だった。だからこそ。


「待っててくれてもいいし、待っててくれなくても、別にいいよ」


 前触れがあるのは、初めてだった。あれは、いつの言葉だったのか。今となってはもうわからないけれど。その言葉を最後に、ぱたりと来なくなってしまったことだけは、はっきりと覚えている。


 放浪することは、息をするのと同じことなのだと、思った。大地にとって。そう思えるようになるまで、いじましく待ち続けていたことも、はっきりと覚えている。そう思えるようになって初めて。私は、別れを想ったのだった。でも、そんなのは建前だけで、本当は後ろめたさで、何も言えずにいただけなのかもしれない。


 いつでも、いつまでも音信不通だった彼の携帯に、一方的に送りつけた言葉。「別れようか」


 大地からの返事がないままに、気づけば何年もの月日が流れていた。もっと早くに、ちゃんと区切りをつけるべきだったのに、曖昧な関係のままずるずると引き延ばしていたのは、私の方だ。


 今年で、27歳になる、私たち。


 幼なじみだったのに、最後の最後まで掴みどころのない人だった。



 薄暗い空の下、ひと気のない道を、とぼとぼと歩く。生暖かい夜風が、じっとりとまとわりついて、離れていく。駐車場を抜けて少し歩いたところに、見慣れた小さな公園がある。ぽつんとひとつだけ灯りの点る街灯の下、ブランコに座り込む大地の姿を見つけた。ほっそりとした背中をきゅっと丸めて、がっくりと頭をもだけたまま、じっと動かずにいる。


 やっぱり、ここにいた。そろそろと近づいて、大地の前に立つ。その途端、

きゅぅっと胸が苦しくなって、そのまま間を詰めていくように、ブランコをそっと引き寄せた。きぃっと軋んだ音が響いて、きょとんとした顔でこちらを見上げた大地の、息がかかる距離まで、引き寄せる。屈み込んで、覗き込んだ瞳の奥は。笑っているのか、泣いているのか。


「……キスでもされるのかと思った」


 あと数センチで、唇が重なりそうな距離にいて。しばらくの沈黙の後、大地が堪えかねたように、くつくつと笑いだした。


「する?」

「……しない」


 真顔でそう答えると、大地がまた、おかしそうに笑った。それからふっと表情が消え、何、どうしたの? と気だるそうに呟く。私は大地に触れそうな距離を手放すことも出来ずに、一番聞きたかったことも聞けずに、一番言いたかったことも言えずに、ただ心の底に溜まっていたぬかるみを確かめるように、ひとことひとこと、ゆっくりと口にした。


「今まで、どこで、何してたの?」


 あぁ、と呟いた大地が、ふっと思考を巡らすかのように目を細めた。


「まぁ、色々?」


「何、色々って」


「泊まらせてくれるところを転々としたりとか。住み込みでバイトさせてくれるところもあったし」


「なんで、うちに帰ってきたの?」


「なんでって……」


「なんで、今なの?」


 らちのあかないことばかりが、口をついて溢れでそうになる。ぬかるみに触れただけで、全てが泥水になって溢れでそうになる。大地は、なんでだろうなあ、と他人事のように呟いた後で、なあ、いつまでこの体制なんだよ? と今更のように付け足した。


「なんで、なんにも答えてくれないの?」


「……今はもう他人なんじゃなかったっけ」


「あたしのこと、好きだった?」


 思わず滑りでた言葉に、はっとして息をのむ。それでも、濁流のように渦巻いて渦巻いて。こぼこぼと音をたてて、喉元まで流れこんでいく。


「好きだったよ」


 大地の言葉に、ちくんと胸を刺すような痛みがはしる。触れたい、と思った。大地に、触れたいと思っていた。引き寄せていたブランコをそっと離して、ゆっくりと大地の両頬に手を伸ばす。雨の匂いがしていた。


「……どこまで行っても結局は、戻って来ちゃうんだよ、この場所に」


 ぽつり、とつぶやいた声に、はっと我に返り、両腕をひっこめる。揺らいでいた気持ちがじわじわと濁っていくのを、遠い場所からぼんやりと眺めているような感覚に落ちていく。この場所に。この場所。大地はきっと無意識に呟いたのかもしれない、けれど。また、気づいてしまった。どうしようもなく、気づいてしまったのだ。


「そう」


 ゆっくりと息をして、吐き出す。生暖かい夜風が、懐かしい記憶が、じっとりとまとわりついて、離れていく。もう一度息をして、ゆっくりと息をして、言葉を、吐き出した。


「私はいま、雅喜さんと付き合ってる」


 大きく見開かれたその瞳に、私の姿はうつっているだろうか。


「ふぅん」

「結婚するかもしれない」


 その刹那、大地が、今までで一番傷ついたような顔をした。その顔を見て、私が一番傷ついたような顔をしていたかもしれない。一瞬抱いた仄暗い優越感と、胸をざっくりと刺されたような痛み。


 大地はずるい。だけど私はもっともっと、ひどくてずるい。こんなこと言いたい訳じゃなかったのにと思いながら口にしてしまう言葉の、多いこと、多いこと。


「だから、合鍵、返して」



 私はあのとき。些細な優越感に浸りたくて、大地の手をとったのだろうか。私はいま。大地を傷つけたくて、ここまで追いかけてきたのだろうか。ほっそりと頼りなく丸まった背中に、ひっそりと爪をたてるように。


 大地はどこに向かうのだろう。どうしてうちに来たのだろう。これでもう二度と大地と会うことはないんだろうな、と思った。帰る場所がないのなら、またうちで暮らせばいいよ。そう言って引きとめることも出来たのかもしれない。だけど、遅いよ。


 やがて、瞳の奥の世界が涙で滲み、夜明け前の薄暗い空も、まばらにそびえ立つ街灯も、大地の顔さえも巻き込む。ぼんやりとした一色だけが視界に浮かび上がる頃、ついに何もかも見えなくなった。雨の匂いがしていた。ずっと、雨の匂いがしていた。


2.


 まさ兄は、迎えに来なかった。今年は一緒に行けないんだ、ごめんな、と電話越しで申し訳なさそうに言うまさ兄に、来年は? とは、聞けなかった。今年は、ではなく、今年からは行けない、という意味なのだということは、わかり切っていることだった。私たちにとっては中学にあがって初めての夏だけど、まさ兄にとっては高校にあがって初めての夏。きっと今まで、私たちに付き合ってくれていたんだろうな。わかっていたけど、やっぱりちょっと、寂しいな。


 そんなことを思いながら、私は大地の家の玄関チャイムを鳴らす。まさ兄、友達と行くからって言ってたけど、どうかな。怪しいな。玄関先で出迎えてくれたおばさんが、あらまあ、と呟いて、ゆったりと微笑む。


「鈴ちゃん、いらっしゃあい。ごめんねえ、ちょっと待ってて」


 私が返事をするより先に、おばさんは踵を返して、階段を登っていく。ほどなくして降りて来たおばさんの後に続いて、大地がのっそりと現れる。寝ぐせのついた髪をくしゃくしゃとかまいながら、大きくあくびをしている。ごめんねえ、と詫びるおばさんの後ろで、Tシャツにジャージ姿の大地はまだ眠たそうにしていた。


「はやく準備しちゃいなさいね、すずちゃん待ってるんだから」


「あ、いえ、ゆっくりで大丈夫です」


 私達の言葉をよそに、大地はぼうっと玄関先まで降りて来る。そのままビーチサンダルをつっかけて出て行こうとしたので、思わず小声で呼び止める。


「何、そのまま行くの?」

「ん」

「……そう。いいけど」


 着替え位しなさいよーと言うおばさんに、大地は気のない素振りでひらひらと手をふり、私は軽く頭を下げて、玄関を後にした。


 薄暗くなった道を、ふたり並んで歩き出す。いつもの静けさはなく、落ち着きのない住宅街。浴衣姿の少女が、ぱたぱたと足音をたてて私の横をすり抜けていく。私も、浴衣着てくればよかったかな。そんなことを思いながら、ふと足元に視線を落とす。華奢なデザインのピンヒールサンダル。白地に小花柄があしらわれたシフォンワンピース。どうせすぐに、見えなくなる。私には不釣り合いなことも、花火大会には不向きな格好だということも、わかっていたけど。どうしても今日、おろしたかった。大地はこちらを見向きもしないけど、私も結構、頑張ったつもりなんだけどな。


「……雅喜先輩は?」


 ぽつりと呟いた言葉に、思わずむっとして答える。


「今年は一緒に行けないって」

「ふぅん」

「残念でした、あたしだけで」


 嫌みったらしくそう言うと、また、沈黙が落ちる。心持ちゆっくりと歩いているのに、履きなれないサンダルの、かつかつと鳴る大げさな足音がうっとうしくて嫌になる。ふと見上げると、きょとんとした顔で私を見つめる大地と目が合い、慌てて逸らす。逸らしたままなら言えるような気がして、私は独り言のように呟く。


「あいにく、あたしは大地と行くの、結構楽しみだったんだよ。勿論、まさ兄ともだけど……」


「あー俺も楽しみだったよ、わりと」


「うそばっかり。寝てたくせに」


 心なしか不貞腐れたように響いた言葉に、大地は喉の奥でくつくつと笑う。


「本当に嫌だったら、部屋からも出てこないよ」


 なんだそれ、と心の中だけで毒づいて、私は俯く。思いがけず頬が緩んでしまいそうで、ぐっと唇を噛みしめていた。


 まさ兄と、大地と、私。家が近く、その上、地域の親同士の結束もかたい土地柄だったということもあり、物心がついた頃から自然と家族のような仲になっていた。3つ歳上のまさ兄は面倒見もよく、ことあるごとに、いつでも私たちを引き連れてくれた。歳があがるにつれて、3人で遊ぶようなことはなくなってきたけれど、それでも花火大会だけは、決まっていつも、まさ兄は私たちを迎えに来てくれていた。今年に限って、どうしてだろう。私たちが中学生にあがったから。それもあるけれど、たぶん、違うだろうな、と思っている。


「雨、降りそうだね」


 何気なくそう言って、見上げる。藍色の空が、濃く深くなっていく。暗がりの中できらきらと光る粒。霧雨が、しっとりと肌を濡らしていく。その心地よい冷たさが、夏の終わりをしんみりと実感させる。私は、少し湿ったアスファルトを、一歩一歩踏みしめるようにして歩く。


「美鈴、手を」

「えっ、」


 ふいに立ち止まり、差し出された手。どうしたらいいのかわからずにいると、大地は


「道すべって、危ないよ」


と言って、小さく笑った。どくん、と高鳴る心臓の音。ためらいながら、その手に触れようとして。頬がかぁっと熱くなっていくのが自分でもわかり、その気恥ずかしさに耐えられずに、私は体の前で私の手を繋いだ。


「いい。自分で歩ける」


 あぁ可愛くない。全然、可愛くない。大地は、ふぅんと呟いて、また何事もなかったかのように歩き出す。私もまた、何事もなかったかのように歩き出す。それなのに、さっきより、少しだけ距離が出来てしまったような気がする。大地が歩幅を早めたのか、私が歩幅を緩めたのか。私の斜め前をいく大地の手が、行き場を失ったかのように、曖昧な場所で、ぶらりと揺れている。私は、ありがとうって笑って、その手に甘えてみればよかったのに。気まずい沈黙が流れたまま、それでも、口を閉ざしたまま歩を進めることしか出来ずにいる。


 住宅街を抜け、道を折れ、堤防へとあがる。その先の車道には、歩行者天国の看板。暗がりに浮かび上がる、色とりどりの屋台と、歩道から溢れる人ごみ。近づく活気。お醤油と、ソースと、焦がした砂糖の匂いがない交ぜになって。見慣れたはずの光景が、なぜだかいつもと違って見える。


 ……やっぱり私から、繋いで、みようか。ゆっくりと距離を詰め、さりげなく大地の横に並んでみる。自分の体の前で繋いでいた手をほどき、息を詰め。さりげなく大地の方へ右手を差し出そうとした、その時。


「美鈴、戻ろう」


 張り詰めたような声で、大地が言った。心臓が跳ね上がり、慌てて出しかけた手をひっこめる。どくん、どくん、とうるさい位に、せわしなく鳴り響いている。私は出来るだけ平静を装いながら、言う。


「どうしたの?」

「俺、人ごみは嫌いなんだよ」


 えぇっと間の抜けた声をあげた私をよそに、大地は踵を返して足早に引き返していく。その後ろ姿を、小走りに追いかける。ざわめきが、どんどん遠ざかっていく。息を切らしながら、私は言う。


「待ってよ、ねえどうしたの?」

「人ごみは嫌いなんだよ」

「楽しみだって言ってたじゃん」

「気が変わった。俺は帰る」


 苛立ちを滲ませた返事に、思わずTシャツの裾を思いっきりひっ掴んだ。ぐえっと喉を鳴らした大地が、弾かれたように振り返る。


「なんだよ」

「……やだ。帰さない」


 するりとでた言葉に自分自身で驚き、下唇を噛みしめる。霧雨が、雨粒になって、ぽつりぽつりと降り出している。遠くから、近くから、ノイズ混じりのアナウンスが響いている。ご来場の皆様に、ご案内申し上げますーー。大地は何も言わない。何も言ってはくれない。ーー只今より、第47回、大会を、開催いたしますーー、


「ごめん大地、帰ろっか。濡れるし」


 気恥ずかしさを誤魔化すように、わざとらしいほど明るい声で言う。意味もなく、濡れるし、ともう一度繰り返して、笑う。ね、帰ろう、とせかすように言う。手を離しても、そそくさと隣に並んでも、大地は口を閉ざしたまま、私を振り返った体制のまま、動かない。一歩も動かないまま、すっと遠くを見つめている。その視線の先を辿ろうとして、見つめる先には。色とりどりの屋台と、そこから溢れる人ごみ。そしてーー


 ……ああ、気づいてしまった。



3.


 ボールにお湯をはり、2人分の食器を浸ける。スポンジを濡らし、洗剤を垂らしたところで、ふと気配に気づいて振り返る。いつの間にか背後に立っていた雅喜さんの手がすっと伸びてきて、蛍光灯の灯りをつけた。思わず、あぁ、と声が漏れる。


「ありがとう」

「いいえ」


 その手がそのまま私の腰にするりとまわり、そっと抱き寄せられる。ふわりと雅喜さんの香りがして、くすぐったい。身をよじろうとした途端、その手にきゅっと力がこもり、私は諦めて脱力しながら言った。


「お風呂、わいてるよ?」

「知ってる」

「明日、早いんでしょう?」

「それが何か?」


 もう、と呟きながら、口元は自然と緩む。それでも、流れっぱなしのお湯、手には泡のついたスポンジ、このまま身動きが取れないのも困る。ねえ、お湯がもったいないよ、と言うと、えーと不貞腐れたような声をあげて、するりと離れていった。まだ、雅喜さんの香りがしている。付き合ってみて初めてわかったことだけど、彼は、けっこう子どもっぽい。


 雅喜さんとの再開は、思いがけず、他愛もなく。私が働いている飲食店に、他の何人かのお客様に紛れて、彼が現れた。多分、彼の会社の同僚だったと思う。いらっしゃいませ何名様ですか、と言いかけたところで目が合い、言葉を詰まらせてしまったことを、今でも覚えている。もう一度目を合わせて、二人でひっそりと笑いあった。


 今度は彼が一人で訪れ、一名様でよろしいですか、よろしいですよ、とおどけてみせて。久しぶり、お久しぶりです、とあらためて言葉を交わしてから、外で会うようになるまでに、そう時間はかからなかった。話したいことはいつでも、山のようにあったから。この人が好きだと思うようになって、この人と一緒にいたいと思うようになって、すこしずつ、ゆっくりと、記憶の外へと溶け出していくように、大地のことを忘れていった。忘れていこうと、思っていた。気づけば大地に別れを告げてから、幾分時間が流れていたから。罪悪感がなかったといえば、嘘になる。



「一緒に入る?」


 意味もなく、脱衣所までべたべたとくっついて歩いていた私に、雅喜さんは笑いながら言った。そういえば、お互いの家を行き来するようになったのはいつからだろうと、ふと思う。雅喜さんが家に泊まるのは、今日で何度目になるのだろう。


「ここで待ってる」


 そう答えると、一瞬目を細めた彼が、笑みを浮かべたまま私の頭にそっと手をのせて、そのまま浴室へと消えていった。


 私は箪笥にもたれかかり、ずるずると床に座り込んだ。浴室から絶え間なく流れる水音が、ひたひたと心を満たしていく。口元に浮かべていた笑みが消え、ゆっくりと真顔になっていくのが自分でもわかる。細く長いため息をひとつ零して、静かに目を閉じた。


 雅喜さんに、言えずにいることがある。こうして脱衣所でまどろみながら、昨日の出来事を、ひっそりと思い出す。浴室から、当たり前のように大地が現れた昨日のことを。そして、それまで大地と過ごした日々のことを、そっと手繰り寄せてみる。くだらない話をした。手を繋いだ。指を絡めた。キスをした。体を重ねた。笑いあった。嬉しかった。楽しかった。だけど。


 どれだけ手繰り寄せてみても、何かが決定的に抜け落ちている。どんなに心を満たそうとしても、栓の抜けた湯船のように、こぽこぼと音をたてて流れでてしまう。そうして残ったものは、一体なんだったのだろう。いつでも一方的に寂しくて、辛かった。


「……いや、違うな」


 ふと我にかえり、私は私をあざ笑う。こんな歳になっても、まだ。私は私が一番傷ついていて、可哀想なフリをしている。そうして誰かを責め続け、自分は何も悪くないような顔をして、生きてきたのだ。寂しいのも、辛いのも、きっと一番に感じていたのは、大地だったはずなのに。そのことが、途方もなく、虚しかったのだ。


「ごめんね、雅喜さん」


 ゆっくりと瞼を開く。そこにあるもの、見慣れた景色。私は思う。自分の中の残虐性を一番さらけ出すことが出来たのが大地で、それなのに、たぶん、本当に好きだったのだ。大地に再び出会ったあの瞬間まで、私は本当に大地が好きだったのだ。だから私は。


 流れる水音を聞きながら、こぽこぽと音をたてる排水溝を思いながら、昨日やっと失恋できたことを思い、やっと長い片想いを終わらせることが出来たことを思い。ごめんね、雅喜さん、今日だけ、今だけ。膝を抱えたまま、顔をうずめて。今日だけ、今だけと、心の中で呟きながら。嗚咽が漏れてしまわぬよう、私は静かに、静かに泣いた。



4.


 気づいてしまった。いや、どうして今まで気づかずにいたのだろう。こんなにも近くにいたのに。大地の視線の先を辿る。いつもなら、迷わず声をかけていたかもしれない。まさ兄だ、まさ兄、と心の中では何度も呼んでいるのに、全然言葉に出来る気がしなかった。藍色の浴衣をまとった小柄な女の子が、まさ兄の隣にぴったりと寄り添い、控えめな笑みを浮かべている。


 俺、人混みは嫌いなんだよ。

 何よ、結局嘘ばっかり。


 私は大地の手に、そっと触れる。じっとりと湿った感触。指先は、わずかに震えていた。ひっこめそうな気配がして、思わずその手をきゅっと握りしめる。漆黒に、夏の終わりが、咲き乱れる。


「付き合おっか、大地」


 私は言った。自分でもびっくりするほど、平坦な声で。ひゅー、どん、と間の抜けたようなタイミングで、音は響く。見上げれば、ぱらぱらと散っていくだけ。ぱらぱらと、余った光が、落ちていく。


「いいよ」


 しばらくの間の後で、大地は言った。大地もまた、感情をどこかに置いてきたような、平坦な声だった。……いいよ、というのは、付き合ってもいいよ、ということ、なんだよね? 自分が口にした言葉の重さに、後から後から思い出したように、心臓が高鳴る。それでも平静を保とうとして、何気ないそぶりで大地の方を見る。瞬間、息の根が止まるかと思った。眩い光の中で見た大地は、怯えたような表情を浮かべていた。ねえ、そんな顔、しないでよ。


「大地、」


 手繰り寄せた記憶の中をさまよいながら、大人になった、私は思う。思えばこの日から、流れ続けていたんだね、と。心を満たそうとして、流れ続けていたことを。気づいてしまったのに、気づかないふりをしていたことを。ねえ大地、本当はまさ兄のこと、と言いかけて、口を噤んでしまったことを。悔いているのだろうか、私は。悔いているのだろうか、大地は。


「私のこと、好き?」


 そう問えば、好きだよ、と返ってくる。その言葉で心を満たしたかった私が。大地を忘れてくれますように、どうか。いつでもあいまいな笑みを浮かべていた大地の想いが、いつか途切れてくれますように、どうか。そう願うことが全て。今の私に出来る全て。だけど。



 本当は、空っぽになった湯船の底でふたりきり。



 いつまでも、いつまでも、

 うずくまっていたかった。




end




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