それは朧月家の物語……
「ねえ、園宮。スケボー買って!」
とあるうららかな月曜日の朝。園宮が朧月家のキッチンで軽い朝食を作っていたところ、背後から可愛らしいソプラノボイスが投げかけられた。料理長を任されているだけあって、真剣な表情で卵をフライパンに流し入れていた園宮は、その最後まで見届けると満足げに微笑んで背後を振り返った。
だが、長身である園宮の視界には誰もいない。それもそのはず。音源は彼の腰のあたりから聞こえてきたのだから。
園宮が首を六十度くらい下に向けると、ぱっちりした大きな瞳と目があった。猫の絵がプリントされた子供用のパジャマに身を包んだ女の子――園宮が仕えている朧月家の一人娘、朧月希である。
「おはようございます、お嬢様。昨夜はよくお眠りになられましたか?」
「うん。でも、ちょっと寒かった」
「では今晩新しい毛布をお出ししましょう。お嬢様がお風邪を召しては、旦那様もきっと心配なさるでしょうから」
園宮は器用に片手でフライパンを操りながら、胸ポケットから年代を感じさせる高級万年筆を取り出した。そして、冷蔵庫にマグネットでとめてあるメモ用紙に『今晩:お嬢様の毛布』と素早くペンを走らせる。その姿はどこにでもいる専業主婦を思わせるが、朧月家の家事全般を園宮が一人でこなしているのもまた事実である。もっとも、現在この別荘に住んでいるのは、園宮と朧月親子(父、聖夜と娘、希)の三人だけなので、そこまで重労働というほどではないが。
むしろ最も体力を消費するのは希の世話である。毎度毎度無茶な要求をしてきては、その無垢な笑顔で園宮を振り回すのである。日々の買い物やロードワークで割と足腰には自信がある園宮だが、さすがに老いの波が徐々に押し寄せてきている体に、彼女の弾けんばかりのエネルギーすべてを捌けるだけの元気はない。今も希の手前、なんとか笑顔を保っているが、目尻に増え続けるしわの数が彼の苦労を雄弁に物語っていた。
そんな園宮の気苦労を知らない希は、今日も彼の手から万年筆を奪い取り、冷蔵庫のメモ用紙に文字を書こうとしたのだが――。
「うぅ~~~!」
つま先立ちになって懸命に背伸びをする希だが、その手はぷるぷると震え、とても文字を書ける状態ではなかった。しまいには、
「もう! 園宮、あのメモ用紙の位置高すぎる! もっと低くして!」
と、頬を膨らまして怒り出す始末である。そもそも園宮と希の身長差は軽く四十センチ以上あるのだ。学校の黒板も満足に消せない希が、大型冷蔵庫のほとんど最上部付近にとめてあるメモ用紙に手が届くはずがないのであった。
「しかしお嬢様。毎日背伸びをすると、少しずつ背が伸びると言います。今日はわずかではありますが、万年筆の先端がメモ用紙に届いておりました。お嬢様の背が伸びている証拠でございます」
「ほんと!」
先ほどとは打って変わって、ぱあ、と花が咲いたような笑顔を見せる希。その微笑みには子供特有の無邪気さ、あるいは“心の底からの”と形容できるような純真さが備わっていた。子供を持つこともなく、長年朧月家に仕えてきた園宮にとって、希は孫のような存在であり、彼女の笑顔はいつも心を和ませてくれるのだった。
「ええ。ですが、先ほどは一体なにを書こうとなさったのですか?」
「あのね! あたし、スケボーが欲しいの!」
「スケートボード……でございましょうか。確かにここの庭は十分な広さがございますが、ほとんどが芝生ですのでスケートボードの練習には向いてないかと……」
そう冷静な返答をしながら、園宮は希の表情を窺う。これまでの経験上、弱く否定すると押し切られ、強く否定しても泣き出してしまうからだ。子供のメンタル面が繊細なのは充分理解しているつもりだが、やはり受け答えには必要以上に慎重にならざるを得ないのである。
希はしばらく、うーん、と考え込んでいたが、やがて顔を上げると、
「わかった。じゃあ、児童公園で練習する!」
と、あくまでスケボーを極めることに執着しているご様子である。
一体、なにが彼女をそこまで突き動かすのか。
園宮にはその理由がまったく見えてこなかった。と言うのも、希はボードに対してある種トラウマめいた過去を持っているからである。
そう、あれは五年前の冬だっただろうか。世界的に有名な大魔術師である聖夜に、長野県のとある集落から手品公演の依頼がかかったことがある。
その関係で長期間長野に滞在していた園宮たちは、ある休演日を利用して白馬までスキー旅行に出かけた。そこで希はスノボーに初挑戦してみたのだが、予想通り初心者向けコースでステン!と盛大に転んで大泣きしていた。機嫌を損ねた彼女は「ボードなんか二度と乗らない!」とふて腐れてしまい、日が落ちるまで雪だるまやかまくらを作って遊んでいた。これではスキー代とスノボー代をドブに捨てたようなものであるが、園宮含め弟子たちは文句一つ言わず希に付き合ってあげたのである。中には、雪だるまに閉じ込められた者や、雪合戦の的にされ続けた可哀想な者もいたが、まあそれは仕方のないことだと諦めてもらうしかない。
そんな出来事もあり、希はあれ以来ボードとは縁のない生活を送ってきたはずである。それがなぜ今頃また固執するようになったのか。
園宮が詳しい理由を訊ねる前に、彼女は笑顔のままさらに付け加えた。
「あと、麻酔針が飛び出る腕時計も欲しい!」
その一言に園宮の全身が凍る。希が何に影響されたのか分かってしまったからだ。おそらく、体は子供・頭脳は大人の某小学生探偵が出てくる漫画だろう。
そういえば、希は魔術師の他に探偵にも憧れていた。この頃、やけに探偵小説が本棚に増えるようになったのは、きっと付き合っている友達の中にそういう趣味を持つ子がいるからだろう。ただ、希は難しい漢字が出てくる本は途中で放り出してしまうので、最後まで読み終えたものとなると種類は限られてしまうが。
そんな希でも漫画になると話は別で、こちらはシリーズすべて集めて楽しそうに読んでいることが多い。時々、気に入った漫画の主人公の真似事をしたり、必殺技を叫んだり、「園宮がマフィア役ね」と人を勝手に悪人にした挙句、モデルガンで「だだだだんっ!」と銃撃戦を演じたりする。ここまで漫画の影響を受けやすいと彼女の将来が非常に心配だが、お菓子で懐柔できる内はまあいいかな、と園宮も若干投げやりなのが現状である。
しかし、希が怪我をする可能性がある場合にはさすがに口出しをする。今回がまさにそうで、公園でスケボーの練習をするということは、公衆トイレの壁に顔からぶつかったり、誤って車道に飛び出して車に轢かれたり、逆に公園で遊んでいる他人の子供を轢いてしまったり、そもそもまたステン!と転んで頭を打つのではないかという諸々の不安要素が渦巻いているのである。
「あの、お嬢様……スケートボードで遊ぶなら、どうかこの敷地内だけにしてくれるよう、約束してくださいますか?」
「え~、それじゃあ、つまんない……」
「しかし、旦那様がいない間は私も屋敷から離れるわけにも参りませんので……」
「あ、それなら心配いらないよ。ご神木の猫さんが傍についているから!」
猫になにができるのか、と反論したい気持ちを園宮はぐっとこらえる。それほど、希の声が楽しそうに弾んでいたからだ。
結局、お嬢様と私の力関係は昔と変わらないままだなぁ、と過去をしみじみ振り返りながら、園宮は恭しく一礼した。
「では、明日までに用意しておくといたしましょう。ただし、公園で遊ぶにしても夕飯の時間までには帰ってきてくださいね」
希は「うん!」と元気よく返事をすると、二階の自室へタタタ……と駆けていった。
その後ろ姿に聖夜の若かりし頃の影がちらついて見えたのは、園宮の感傷に過ぎなかったのだろうか……。