表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

第五章 真実はいずこ

 翌朝の新聞の社会面には、

「黒揚羽、殺人」

 の見出しが踊り、鈴倉海産社長殺人事件が大々的に報じられた。犯行現場が裏門付近の木陰であり、凶器が鉄梃(かなてこ)であったことを、伊織はそのとき初めて知った。警察では、黒揚羽は金庫を破りに来たのだから、工具の一つや二つ持ってきていたとしてもおかしくない、と見ているらしい。

 暗号文の存在も公表され、それを鈴倉家の埋蔵金伝説と結びつけた噂がたちまち広まった。だが、肝心の紙片は黒揚羽に盗まれてしまい、総一郎と佐々木も内容を暗記してはいないとのことで――そんなはずはないと伊織は思ったが、少なくとも二人がそう言い張った以上、世の人々は騒ぎ立てる以上のことはできなかったのだ。

 あの夜、総一郎は深夜二時ごろ目覚めたが、激しい吐き気と頭痛を訴え、病院に運ばれた。夕方になってようやく落ち着き、むしろ進んで菅原たちの尋問を受けたらしい。だが総一郎は、

「宴会の途中で猛烈に眠くなった。黒揚羽の仕業だと気づいて佐々木を呼ぼうとしたが、間に合わなかった」

 と答えたくらいで、有力な情報は得られなかった。ただ、調査の結果、総一郎のさかずきだけ、見た目はそっくりだが底が二重になった別物とすり替えられていて、その中に薬が仕込まれていたらしいことが判明した。また、三時ごろ多喜が佐々木に淹れたお茶からも、睡眠薬が検出されたが、彼は忙しさにまぎれて飲まずじまいだったのだという。これはまりが薬を盛ったのだろうという結論に落ち着き、人の好い忠義な家政婦は幸運にも疑われることがなかった。

 また、身元調査の結果、雨宮薫は確かに実在の人物で、下田のホテルで静養中だが、彼女はほとんど外出したことがなく、真弓と近づきになった少女とは別人だという。父親の代議士が、娘が心を病んでいることを恥じ、滞在を隠していたため、総一郎にも調べがつかなかったものらしい。まりの場合も、鈴倉家の元女中を探して問いただしてみると、買収されて見ず知らずのまりを幼なじみだと紹介したことを告白した。いよいよ警察は二人への容疑を強め、警視庁からも人を呼んで捜査に力を尽くした。

 数日間は数馬の葬儀や、新聞記者への応対でめまぐるしく過ぎ去ったが、その後は鈴倉邸は深い悲しみに閉ざされた。病死や事故死ではなく殺人――それも未解決の殺人であるため、暗雲の垂れ込めたような重苦しさや、やり場のない怒りも加わっていた。八雲は笑顔を忘れて部屋に引きこもり、志摩子は前にもまして陰鬱になった。総一郎でさえ覇気を失い、時折瞳に悲憤を燃やしている。佐々木や多喜はそんな遺族たちを慰めながらも、自分たちも憂わしげだった。ことに多喜は人前では気丈に立ち働きながらも、陰で涙をぬぐっている様が痛々しい。

 予定では七日だった伊織の帰宅は、延期になっていた。本来なら速やかに帰されるべきところだが、万一何か質問する必要が生じたときのために、しばらくは残っていてくれという、警察の要望があったのだ。

 伊織の心にもまた、じわじわと悲しみが忍び寄ってきていた。数馬の、初めて会ったときの真摯な謝罪、いつも漂わせていた淋しげな影、遠慮がちだが慈愛に満ちた眼差しや口調を思い出すと、今頃になって胸を締めつけられる。何となく気まずいまま永の別れを迎えてしまった、こんなことになるのなら、もっと屈託なく話しかけていればよかったと、伊織は後悔にさいなまれた。

 もちろん、伊織を落胆させている原因はもう一つあった。数馬殺害の容疑者が黒揚羽だということである。

 確かに、あの状況では黒揚羽が疑われるのは至極当然だ。外部からの侵入者ということも考えられないではないが、総一郎ならともかく、数馬を恨んでいた人間など誰にも心当たりはないらしい。夜とはいえまだ薄明かりの残っている時刻だったし、もみ合いまでしているのだから、別人と間違えるということも考えがたい。怨恨などとは無関係な居空きや強盗だとしても、さして遅くもない時刻に、わざわざ宴会の催されている家に忍び込む物好きもいないだろう。

 自分はあまり無邪気に黒揚羽を信頼しすぎたのだろうか。菅原の言ったように、彼女もまたほかの凡百の泥棒と同様、保身のためなら殺人も辞さないエゴイストだったのだろうか。

(いや……)

 伊織は心の中で首を横に振る。約束を守って白昼堂々再訪し、手鏡の秘密を打ち明け、初対面にも等しい自分を仲間に引き入れてくれたあの黒揚羽が、殺人を犯すはずがない。だが、だとすれば真犯人は誰なのだ。

 葛藤を抱えて、ある夕方、伊織はひとり姫が浜の海を眺めていた。本当は八雲も誘ったのだが、

「ありがとう。でも……僕はいいよ」

 力ない微笑とともに、やはり断られてしまった。食欲がない上に、ろくに眠ってもいないらしい。頬がこけているばかりか、目の下にくっきりとくまが浮かんでいる。

 太陽には日中のような容赦ない輝きはなく、暑くはあっても潮風でまぎれる程度の気温だ。ねずみ色を帯びてきた海に、淡い金色の陽光が物悲しく揺れている。

 そのとき、背後から小さく激しい息づかいが近づいてきた。伊織が驚いて振り返ると、雑種らしい薄茶と白の子犬が飛びついてくる。その喉元には、何か銀色に輝くものがぶら下がっていた。

 手を熱い舌でなめ回され、伊織は呆気に取られたが、

「こらこら、くすぐったいよ」

 すぐに笑って子犬をなでてやった。子犬はちぎれんばかりに尾を振って、キュウンと鼻を鳴らす。

 子犬に構ってやりながらも、銀色のものの正体が気になる。伊織は子犬の興奮が静まってきたのを見計らって抱き上げた。その首輪に下がっていたのは、楕円形のロケットだ。

(これは……!)

 見覚えがあるどころではない。黒揚羽が身につけていた、暗号文をしまっていたロケットではないか。

 すぐにも中身を確かめたかったが、鈴倉家の誰かが見ているかもしれない。伊織はさも子犬の飼い主を捜しているようにきょろきょろしながら、道路のほうへ上り、草陰に身を隠した。

 子犬から首輪を外してロケットのふたを開けると、紙片が入っている。あのときの暗号文の紙片ではなく、もっと大きい。警察犬ならいざ知らず、こんな子犬にそう複雑な命令を聞かせることはできないだろうから、連れてきた人間が近くにいるはずだが、もう影も形も見えなかった。

 心臓の鼓動が全身に響くのを感じながら、伊織は紙片を開いた。


 伊織へ


 本当は、お悔やみや慰めの言葉を述べるべきなのだろうが、今のおまえが私をどう思っているかわからないから、やめておく。

 私も千里も数馬さんを殺してなどいない。だが、信じてくれとはあえて言わない。それはおまえの自由だから。

 それでも信じてくれるなら、あるいは私の話に耳を貸してくれるなら、今夜鈴倉邸の皆が寝静まったころ、姫が浜の右手の岩場に来てほしい。座り込んで海を見ている人のような格好の、一・五メートルくらいの高さの岩があるから、それを目印に。


 追記 使いの子犬は、おいしいものでも食べさせてから、青海(せいかい)荘という民宿に連れていってやってくれ。S海水浴場の南側――鈴倉邸から遠いほうの外れにあるから。

                            黒揚羽 

                                

 鉛筆書きではあるが、大人びた達筆な字で、最後に黒揚羽の紋章が添えられている。

 伊織は思わずため息をもらしたが、その意味は自分でもよくわからなかった。とにかく、近くのよろず屋でソーセージを買って子犬に与え、S海水浴場まで足早に歩いて、青海荘という民宿を探した。

 青海荘は、古い平凡な二階家だった。筆文字の味もそっけもない看板が、かろうじてここが民宿だと告げている。

「やあ!」

「やあ!」

 ちゃんばらでもしているのか、裏から子供たちの甲高い声が聞こえてくる。伊織が子犬を抱いたまま、門の前で戸惑っていると、キューピー人形を横抱きにした四、五歳の女の子が、家屋の陰からひょいと顔をのぞかせた。

「あっ」

 声をかけようとすると、女の子は逃げるように姿を隠したが、すぐに棒切れを手にした七、八歳の男の子二人を連れて戻ってきた。彼らの姿を見ると、子犬は息を弾ませてもがき始める。

「ポチだ!」

「ポチが帰ってきた!」

 男の子の一人が、棒切れを放り出して両手を差し出したので、伊織は子犬を渡してやった。

「君たちの犬?」

「うーん」

 男の子は、鼻の下をこすりながら首をかしげて、

「父ちゃんと母ちゃんはだめって言うけど、ときどきごはんあげてるの」

「何日かいなかったから、心配してたんだよ」

 年の近い兄弟か近所の友達か、もう一人の男の子も口を挟む。どうやら、黒揚羽は地域の野良犬を借りてきて手なずけたらしい。

「こら、ポチ、そんなになめるな。べとべとだよ」

「お兄ちゃんばっかりずるい。あたしにも貸して」

 血なまぐさい殺人事件のことなど知らぬげに――あるいは知っていてもかけ離れた世界にいて、子犬と戯れる子供たちに、伊織の心は和んだ。子犬に口の中で小さく礼を言って、そっと青海荘を去り家路をたどる。

 味などわからないながら夕食をとると、伊織は部屋で黒揚羽の手紙を幾度となく読み返した。

 考えたくないことだが、のこのこ出かけて行って、万一黒揚羽に伊織を害する気でもあろうものなら、まさに飛んで火に入る夏の虫だ。だが、このまま黙殺すれば激しく後悔し、胸に(おり)のようなわだかまりが残り続けるに違いない。

(ここへ来て逃げるなんて、情けないよな)

 手紙を胸に当てて、伊織は心を決めた。

 真夜中、伊織は裏門から屋敷を抜け出し、姫が浜へ向かった。半月よりややふくらんだ形の澄んだ月が、漆黒の夜空にぽっかりと浮かんでいる。海に映った幻の月は、さざなみによって無数の光に裁断され、銀鱗(ぎんりん)のようにきらめいていた。聞こえるのは波音と木々のざわめきばかり。

 伊織はふと不思議な気がした。父を殺した容疑者である怪盗に呼び出されたという状況も、小心者だと思い込んでいたはずの自分が、故郷を遠く離れた土地の夜の砂浜を、こうしてひとり平然と歩いていることも――。

 目印の岩には心当たりがあった。八雲と遊んでいるときに目に留めたことがあるのだ。丸めた背中のような曲線のある大岩に、顔のような凹凸(おうとつ)のある小岩がのっていて、確かに「座り込んで海を見ている人」のように見える。だが、場所の見当はついているとはいえ、夜に岩場を歩くというだけで、結構な体力と気力を費やした。たどり着いて息をついていると、

「伊織」

 背後から聞き覚えのある声が呼んだ。後ろの崖に小さな洞窟があって、そこから黒揚羽が身を乗り出している。

「こっちだ」

 それだけ告げて、黒揚羽は顔を引っ込めた。

 洞窟の入り口は、人一人がようやく通れるくらいだった。中は開けて部屋のような空間になっていたが、それでもせいぜい三畳くらいの広さだ。すみにちょこんと千里が座っていて、

「来たんだ……」

 伊織を見上げて、意外そうに、どこか呆然とつぶやいた。

 蝋燭の火が岩肌を黄金(こがね)色に照らし、濃淡に富んだ陰影を作って、秘教の儀式のような荘厳だが妖しい雰囲気をかもし出している。こんなところで暮らしているのだろうか、と伊織が見回していると、

「ここが隠れ家ってわけじゃないんだ。灯台もと暗しで案外名案かもしれないが、さすがに窮屈だし不便だからね」

 伊織の心を読んだように、黒揚羽がぽつりと言った。伊織はそれには言葉を返さず、

「これを……」

 代わりにズボンのポケットから、例のロケットを取り出して差し出した。重い話をするきっかけを作るには、簡単なことから始めるにかぎる。

「ありがとう」

 黒揚羽はすっと受け取り、首にかけてシャツの中に隠す。伊織は思いきって、

「黒揚羽。僕には、君が人殺しをするとはどうしても思えない。聞かせてほしいんだ、あの夜のことを詳しく」

 一息に告げた。

「ああ。言われるまでもないさ」

 黒揚羽は深くうなずいた。

「おまえにも想像はついたかもしれないが、私たちの作戦では、総一郎と佐々木を薬で眠らせ、私は体調を崩したふりをして座敷を抜け出し、暗号文を盗み出すというものだった。頭をしぼったのは、どうやって睡眠薬を盛るかということさ。あらかじめ酒や料理に混ぜておいたのでは、ほかの人々にも効き目が現れて騒ぎになってしまうし、宴が始まってからは機会がない。結局総一郎のほうは、特別な細工のあるさかずきに睡眠薬を仕込み、佐々木のほうはお茶に入れることにした。もちろん、あの家政婦に三時のお茶を淹れるよう誘導したのは千里さ。運悪く、佐々木のほうは失敗してしまったが……」

「ごめんなさい、お姉さま」

 千里が神妙にこうべを垂れる。

「そういうつもりで言ったんじゃないよ。おまえは精一杯やってくれた」

 黒揚羽は千里の頭にぽんと手を置いた。千里はまだ引け目を感じているようだったが、面映ゆそうに顔をほころばせる。

「佐々木に変化がないことは気になったが、私は計画どおり総一郎の書斎に侵入した。大勢の人が集まっているんだ、この前のように、ならず者を雇うとか銃を使うとか、目立つことはしたくないだろう。ならば佐々木ひとりが起きていても、対処できるという自負があったからね。書斎には毒針程度のしかけはあったが、そんなものに引っかかる私じゃない。無事金庫を破ると、中には貴重品や書類に混じって、鏡と古びた紙切れが収まっていた。ただ、一つ気になることがあってね」

「何なの?」

 伊織は初めて口を挟んだ。

「伊織は暗号を……いや、数学の問題でもいい、そういうものを解くとき、頭の中だけで考えるか?」

 黒揚羽は逆に質問を返す。

「いや、紙に書いて考えるよ」

「だろう? 総一郎だってそうしたはずだ。なのに、金庫の中には手帳やノートの類がなかった。総一郎が肌身離さず身につけているのかもしれないが、だったら暗号文そのものも一緒に持っていそうなものだ。些細なことだが引っかかってね、紙切れをじっくり観察してみると、伊織の預けてくれた暗号文の文字より墨の色が鮮やかだし、筆跡も少し違うんだ」

「それは……偽物ってこと?」

「ああ。似たような古い紙を探してきて、体裁(ていさい)や筆跡を真似て、内容だけでたらめなものに変えたんだろう。私に金庫を破られても、あざむくことができるように……。用意周到なことだよ」

「じゃあ、本物はどこに?」

「金庫の底が二重になっていて、そこに隠されていた。解読に使っているらしい手帳もね。私はさかずきの底に睡眠薬をひそませ、総一郎は金庫の底に暗号文を隠した。面白い偶然だよ」

 黒揚羽は皮肉っぽく笑ったが、

「暗号文はあとで見せるよ……おまえが望むなら」

 すぐに神妙な声で付け加えた。

「私は紙切れと手帳を懐に収めておさらばし、同様にこっそり屋敷を抜け出していた千里と落ち合った。事件が起こる前だったのか、数馬さんが殺されたことは二人とも知らなかったんだ。報道によれば、数馬さんが倒れていたのは裏門の近くだそうだが、私たちは表門から出てしまったしね」

「危ないと思わなかったの?」

「いや……。書斎に出入りするところをさえ見られていなければ、表門から出ようが裏門から出ようが同じこと、いくらでも言い逃れできるさ。そして鈴倉邸を出てしまえば、人目を忍んで逃げる必要もない。鈴倉一族と招待客以外の人間に、表を歩いているのを見られたところで、別段困ることはないんだから。それに、車で来ていたから道路側に出たかったんだ」

 伊織が再び黙り込んだのを見て、

「これで私の話は終了だ。あとの判断はおまえに任せる。私との関係を断つもよし、今までどおり宝探しに参加するもよし」

 黒揚羽は、そっけないほどさばさばした口調で締めくくった。傍らでは、口を挟みたいのを我慢するあまりだろう、千里がほとんど睨むように伊織を見つめている。

 伊織の心は不思議と()いでいた。ていのいい作り話ではないか、と怪しむことはできるが、そんな気持ちにはならなかった。ここに来ると決めたときから、無意識のうちに結論は出していたのだろう。

「信じるよ」

 まず黒揚羽に、次に千里に向かって力強くうなずいてみせる。

「見直したわ、伊織さん!」

 千里がぱっと顔を輝かせて、両手を組み合わせた。

「ありがとう」

 黒揚羽もはにかむように微笑んで言った。凛とした美しさの中に、初めて年相応に可憐な一面が顔をのぞかせる。

「仮に……仮にだよ」

 二人の感情を害さないように、伊織はその言葉を強調して切り出す。

「君たちが父さんを殺した犯人だとして」

 今だけでも数馬を「父さん」と呼ぼう。あきらめてはいたとしても、生前数馬は伊織からそう呼ばれることを望んでいたかもしれないのだから。

「僕は放っておいても害のない存在だ。犯罪の証拠を握っているわけでもなし、君たちの隠れ家や今後の行動を知っているわけでもない。暗号文の内容も半分しか知らないから、たとえ僕が君たちに裏切られたと思っても、単独で宝を探すことはできないよね。だから、僕をこうして呼び出す理由なんかないんだ。裏を返せば、あんな手紙をくれるということ自体、君たちが犯人じゃなくて、本当に僕の誤解を解きたいと思っている証拠じゃないだろうか」

 繰り返し考えたことだけあって、すらすらと言葉が口をついて出る。それはこんなときでも悪い気のするものではない。容疑者を一堂(いちどう)(かい)して推理を披露する名探偵の気分が、少しだけわかった。

「それに、あの日の署長さんの推理にも、無理があると思ってさ」

 伊織は菅原の推理を手短に話して聞かせると、

「署長さんは、君が書斎を出るのを見かけた父さんが、怪しんであとを尾けたって言ってたけど、だったらどうして父さんは草履を履いていたんだ? そういうときって、履物を取りに行くより、まず追いかけるものじゃない? そもそも、招待客の一人が不審な行動をしてたとしても、こっそりあとを尾けるってのはちょっと不自然だよ。そんなことをする前に、普通はまず声をかける」

 ちょっと息をついで、

「署長さんの推理とは違うけど、祖父が眠らされて味方が必要だと思った佐々木さんが、父さんにすべてを……君のことや暗号文のことを打ち明けて、金庫を見に行くよう頼んだってことも考えられる。君を追いかけやすいように、父さんは玄関で草履を履いて、外から書斎に近づいたのかもしれない。でも、その場合、逆に父さんが祖父のそばについて、佐々木さんが書斎に行くほうが自然じゃないかな。二人の立場を考えるなら。あの佐々木さんが、鈴倉家の長男の父さんに、怪盗が忍び込んでいるかもしれない書斎を見に行かせるなんて……そんな危険なことをさせるなんて思えない」

「なるほど、よく考えたな」

 黒揚羽は、一所懸命問題を解いた生徒を見る教師のように、満足げに微笑んだ。

「だけど」

 伊織は二つの理由から頭をかいた。一つは黒揚羽に認められた嬉しさから、もう一つはこれから気取ったことを言おうとしている恥ずかしさから。

「最終的に僕が君たちを信じることにしたのは、理屈じゃないよ。だって……信頼って頭じゃなくて、心で作るものだから」

 黒揚羽と千里は目をしばたたいた。

「きざな台詞ねえ。今時お芝居でもそんなこと言わないわ」

 千里が顔をしかめ、大袈裟に呆れ返る。

「こらこら、あんまり伊織をいじめるなよ。私だって同じようなことを言うじゃないか。頭で解決できないことは、直感で判断しろってね」

 黒揚羽が苦笑してたしなめる。かばってくれるのは嬉しいが、決して年下の少女にいじめられているわけではないと思いたい。

「そりゃあそうだけど……」

 千里は口の中でもごもご言い、上目遣いに黒揚羽を見上げる。黒揚羽は千里の膝を優しく叩いてから、

「光栄だよ、伊織」

 伊織に晴れやかな顔を向けた。伊織も笑い返してうなずいたが、すぐに真顔に戻り、

「でも……真犯人は誰なんだろう?」

 最大の疑問を口にした。

「私もずっと考えている。まず、私が席を立ってから、警察が来る前までの話を聞かせてくれないか?」

「ああ……そうだったね」

 要望に応えて、宴の終わりごろ、数馬が席を立ったこと、兵馬が捜しに行ったが見つからなかったこと、兵馬と安達が再び捜索し、庭で殺されているのが発見されたことなどを話す。

 聞き終わると、黒揚羽は腕組みをして、

「前提として、外部犯の存在は考えないことにしよう」

「それじゃわかるはずないものね」

「ああ。まず、どうして数馬さんが席を外したのか、考えてみる必要があるな。兵馬には、総一郎の様子を見てくると告げたんだって?」

「うん。佐々木さんも、実際部屋に来たって言ってたらしい」

「その数馬さんが、なぜ庭の裏門付近などにいたのか……。あらかじめ誰かに呼び出されていたと考えるのが、いちばん自然なんだが」

「僕もそう思う。もしかしたら、どっちも真実なのかもしれない」

「というと?」

「たった数日間の付き合いだけどさ、父さんってとても優しくて正直な人に見えたんだ」

「おまえの父親だものな」

「え……?」

「いや、独り言だ。先を続けてくれ」

 独り言と言われても、はっきり聞こえてしまった。照れくさかったが、伊織は気に留めぬふりをして、

「うん。だから、呼び出された場所に行く前に、実際に寝室をのぞいてみようと思ったんじゃないかな。それを口実に席を立ってるから、実行しないと後ろめたい気もしたのかもしれない」

「ふうん、一理あるな。よし、そう仮定して推理を進めよう」

 黒揚羽は膝を打って、

「いずれにせよ、数馬さんが席を立ってから遺体で発見されるまでの時間、一歩も座敷を出なかった人物は除外される。鉄梃で人を撲殺するというのは、機械じかけなどでは難しいし、仮にできたとしても装置を回収する作業が必要だからね」

「とすると、残るのは、佐々木さん、叔父、安達さん」

 伊織は指を折りながら挙げていく。

「あとはお多喜さんほか、使用人の人たちだね。祖父も……含まれるんだろうか?」

 いかに総一郎が非情でも、我が子を――伊織にとっての父を殺めたとまでは思いたくない伊織は、ためらいがちに訊いた。

「一応外さないでおこう。実は睡眠薬の存在に気づいていて、飲んだふりをして狸寝入りしていた、という可能性もなきにしもあらずだからね。おまえにとっては……違う意味では私にとっても不本意な可能性だが。やつのほうが、私より一枚上手だったということなのだから」

「うん。でも、ここからどうやってしぼる?」

「そうだな。犯人は私が来ることを知っていたと思う。何も知らずに数馬さんを呼び出して殺害したら、予期せぬ偶然で私に疑いがかけられた、ということも考えられるが、するとどうしてあの場を殺人の舞台に選んだのかがわからない。庭はともかく、邸内には大勢の人が集まっていたんだ。殺人そのものを目撃されなくても、庭に出るところをでも見られたら一巻の終わりだ。何でもない日に、屋敷外の無人の場所に呼び出して犯行を遂げたほうが、よほど安全だよ」

「つまり、計画的に君に罪を押しつけたってことだよね?」

「ああ」

「すると……怪しいのは祖父と佐々木さん?」

「状況だけを見ればね。だが、ここが難関なんだが、あの二人には動機がない。……千里」

 置いてけぼりを食って、所在なさげに地面を指でなぞっていた千里だが、不意に名を呼ばれてきょとんと顔を上げる。

「総一郎と数馬さん、あるいは佐々木と数馬さんの間に、特に軋轢(あつれき)があるようには見えなかったって?」

 確かに、鈴倉家の内情は、女中として入り込んでいた千里がいちばんよく知っているはずだ。

「ええ。数馬さんは人といさかいを起こすような性格じゃなかったもの。だからこそ、総一郎は歯がゆく思っていたみたいだけど……言っちゃ悪いけど、あきらめていたのかしら。何かもめごとがあるようには見えなかったわ」

「会社でも、数馬さんは肩書きだけの社長で、実権は未だ総一郎が握っていたらしいな」

「でも、祖父は自分の死後はどうするつもりだったんだろう?」

「優秀な補佐役がいるらしいから、その男に任せるつもりだったんだろう。あとは八雲君に期待をかけているのかもな」

 伊織は気が重くなった。あの屈託のなかった少年は、父を殺されて悲しみのどん底に突き落とされ、今後いや増すであろう、一族からの重圧に耐えて生きていくのか。

「で……」

 伊織の顔つきを見て、千里が珍しく控えめに口を開いた。

「佐々木にも動機はないと思うわ。あの人は父子二代で鈴倉家に仕えていて、総一郎にはもちろん、数馬さんにも忠誠を誓ってたわ。数馬さんが子供のころは、お兄さんみたいによく面倒を見てたそうよ」

「じゃあ、逆に動機のある人物は……?」

 伊織が質問とも自問ともつかぬ調子で言うと、黒揚羽と千里は目を見交わした。二人の間でも話題に上ったに違いなく、同じ人物を思い浮かべているようだ。それが誰かは、伊織にもたやすく予想できた。

「そりゃあ」

 千里が目を吊り上げて、

「兵馬に決まってるわ! あの人いやらしいのよ。人前……特に総一郎の前じゃ殊勝な顔してるくせに、陰では人の悪口や愚痴ばっかり。使用人の扱いもひどくて、八つ当たりしたり、些細な失敗でもねちねちいやみを言ったり。おまけに、可愛い女中には見境なくちょっかい出すの。あたしだってお尻なでられたのよ」

 多分に私怨が混じっているようだが、そして、間接的に自分のことを「可愛い」と形容しているが、今度ばかりは伊織は千里に同情した。まったく低劣極まりない男だ。

「あの人が内心父さんを邪魔者扱いしていたのは、僕も知ってる」

 鈴倉邸初日の風呂上がりの一件を思い出しながら、伊織も沈んだ声で言った。

「でしょう? 今回、予告状は郵便受けに入れてあったわ。手紙を回収するのは佐々木の役目だけど、誰でも見ようと思えば見られたはずなの。偶然か故意かはわからないけど、お姉さまが盗みに入ることを兵馬が知っちゃって、これ幸いとばかりに、日頃からうとんじていた数馬さんを手にかけたとしても不思議はないわ」

「それに、兵馬は先にひとりで数馬さんを探しに行っている。自然な行動ではあるが、もっとも好機に恵まれていたことも事実だ」

 黒揚羽が冷静に補足する。

「どうして郵便受けをのぞいたのかという疑問は残るが……。ここは一つ、兵馬の動向を探ってみることにしよう。濡れ衣を着せられたままで黙っているわけにはいかない」

 黒揚羽は鋭い目で地面を見据えてから、ふと顔を上げて、

「おまえも、今後は彼にも気をつけるように」

「うん」

 兵馬の小ずるそうな顔を思い浮かべ、伊織はこぶしに力をこめた。

「ところで……おまえは宝探しを続けるのか?」

 不意に、黒揚羽は真剣に、そのくせ妙に遠慮がちに訊いた。

「それは……父さんが殺されて、そんな気分にはなれないかってこと?」

「ああ」

 黒揚羽はぽつりと答えた。伊織はしばし地面に目を凝らして、

「もちろん、僕だって悲しんではいる」

 どう言えば自分の気持ちが伝わるか――。言葉を探しつつ語り出す。

「だけど、宝のことも、父さんが殺されたのも、一連の流れの上にあるわけだろう? すべての真相を知って初めて、僕はこの事件と向き合ったといえる気がするんだ。それも、ただ君たちの報告を待ってるだけじゃなく、一緒に行動を起こすことで……。確かに、今までみたいな、単純な好奇心とか子供っぽい冒険心もないとはいえないけど」

「なるほど、いい心意気だ」

 黒揚羽が、感心と安堵の入りまじったような口調で言った。千里も今度は、きざだの何だのと茶々を入れたりしない。

「じゃあ、暗くて読みにくいとは思うが、早速……」

 黒揚羽は、腰にさげている革袋から紙片を取り出した。新しいものと古いものが二枚ずつある。


 もおおつじおのならちいにいをすみいしいをすまわしこよおこつでつんきとろのかしく


 こちらはおなじみ、伊織が持っていた紅梅の鏡の暗号文だ。


 しだきにのまにはづいのわのわむびのわのわむべじりとろりやままじけゆしこちなごや


 そしてこちらが、黒揚羽が総一郎から盗んだ白梅の鏡のもの。二度じっくり目を通してから、

「君はもう解けたの?」

 顔を上げて尋ねる。

「ああ」

 黒揚羽は余裕たっぷりに微笑んだ。

「うーん……」

 挑戦しないまま答えを教えてもらうのも悔しく、伊織は暗号文とにらめっこを始めた。逆さに読む、文字を飛ばして読むというのは、初めて紅梅の鏡の暗号文を目にしたときに試してみたし、二つがそろわなければ解けないという以上、何らかの形で両者をつなげるべきなのだろう。

「文字を特定の字数で分けて、交互に並べてみようか。一文三十九文字だから、三で割ってみるとして、『もおお』『しだき』『つじお』『にのま』……」

 黒揚羽に鉛筆を借り、紙片の裏に書き出す。

「全部で二十六行、右から左に読むと、もしつにのにちいいのみびいのまべことこやつじとしかな……。だめだ、意味が通じない。左から右に読むと、なかしとじつやことこ……これも違う。いっそ下の列から読んで、おきおまらづにわすむ……」

 伊織が頭を抱えているのを見て、

「いい線まで行っているんだがな、考えすぎだ」

 黒揚羽が苦笑する。

「もっと単純に。特に初めのほうをよく見てごらん」

 言われたとおり、伊織は冒頭の三、四文字を集中して眺めた。と、不意に目の前が晴れたような気がした。

「しもだおき……」

 答えが口をついて出る。

「おにつのじまおにのはなづら……」

「そう!」

 黒揚羽が手を打ち鳴らした。

「何だ、ものすごく簡単じゃないか。白梅紅梅の順で、一文字ずつ交互に読むだけなんて」

 伊織は拍子抜けして嘆息する。

「よく言うわ。悩んでたくせに」

 千里が下唇を突き出したが、伊織は相手にしない。愛想を尽かしたわけではないが、気が急いていたのだ。

「いちのいわにのいわをむすび、みのいわしのいわをむすべ、まじわりしところより、おやこまつまでじつけんゆきしところ、ちのなかごしやく」

 残りを解読して読み上げる。

「ああ。漢字に直すと、おそらくこうだね」

 黒揚羽が、もう一枚革袋から紙片を出した。


 下田沖鬼角島鬼の鼻面、一の岩二の岩を結び、三の岩四の岩を結べ

 交わりしところより、親子松まで十間行きしところ、地の中五尺


「この『鬼角島』っていうのは?」

 文字を指さしながら、伊織は黒揚羽に尋ねる。

「下田港から南に十五、六キロの海上にある、外周四キロほどの小さな無人島だ。角が二本生えたような形状から、その名がついたらしい。船さえ調達できれば、正味(しょうみ)一時間もかからずに行けるだろうが、問題は、おまえに行動の自由が利かないことだね。今の状況で、丸一日外出するのは難しいだろう?」

「うん。気軽に遊びに行けるような雰囲気じゃない」

「当然だな。さてどうしたものか……」

 黒揚羽は親指の腹を唇に押し当て、しばし考え込んでいたが、

「伊織、帰る日付はもう決まってるのか?」

「ううん、まだだよ。七日の予定だったけど、警察が残るように言ってるらしくて……。東京の父さん母さんには、決まりしだい連絡することになってる」

「好都合だ。じゃあ、明日……いや、もう今日か、私がおまえの母さんのふりをして、鈴倉邸に電話をかけ、急事が生じたから、できるだけ早く伊織を帰してほしいと頼む」

「えっ、そんな……。佐々木さんが出たらどうするの? あの人は母さんの声を知ってるんだよ」

「案じるな。私だって、おまえの母さんの声は聞いたことがある」

 黒揚羽はこほんと咳払いをして、いたずらっぽく目くばせすると、

「夏休みの宿題ため込んじゃだめだって、あんなに言ったじゃない、伊織。母さん手伝いませんからね」

 声色を遣ってみせた。はきはきしてやや早口で、年のわりに若々しい、由紀子の声の特徴を見事にとらえている。

「すごいよ! 二言三言しか聞いてないのに、よく真似できるなあ」

 伊織は感心して手を叩いた。一瞬由紀子に叱られたのかと錯覚してしまったくらいだ。

「さすがお姉さまだわ」

 千里も誇らしげに褒めたたえる。一度会ったきりの佐々木をだますには十分すぎるできばえだ。

「……でも僕、宿題は計画的にやるよ」

「ああ、そういう性格だろうと思う。いかにも母親が言いそうな台詞を試してみただけだ」

 わざととぼけたつもりだったが、黒揚羽はそれを知ってか知らずか真顔で応じて、

「さて、そうすれば今日明日中に出発できる。ところで、伊織はどうやって鈴倉邸に来た?」

「交通手段のこと? 伊東までは東海道線の準急で、そこからはバスだよ」

「佐々木も一緒だったか?」

「うん、東京駅からずっと」

「そうか。もし、帰りも佐々木がバスに同乗するようだったら、何とかして追い返せないか?」

 伊織はちょっと思案して、

「やってみるよ。気疲れしたから一人になりたい、ってほのめかすとか」

「その調子だ。佐々木もさすがに停留所までは見送るだろうから、バスには乗らざるを得ないな。じゃあ、次の停留所で降りて待っていてくれ。迎えに行くから」

「つまり、帰るふりして君たちと合流して、引き返すんだね?」

「そうだ。おまえのご両親には、電報を打って四、五日あとの日付を教え、その日に帰ることにすればいい。そうすれば、その四、五日分は余裕ができる。逆に鈴倉邸には、時刻を見計らって、再び私がおまえの母さんの声色で電話しよう。伊織が無事帰宅したとね」

「で、いよいよ宝探し開始だね」

「ああ。ほかに話し合っておくべきことはないと思うが……。船や宿や道具は、私たちが手配すればいいし。手はずは覚えたか?」

「大丈夫だよ」

 深夜とはいえ、留守がばれないという保証はない。名残惜しかったが、伊織は二人に別れを告げ、来た道を引き返した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ