幕間一 発端
少女は冷たい塀にもたれていた。あざの浮かんだ目元はうずき、同時に気を失いそうなほど空腹だった。それでも、瞳からは一滴の涙もこぼれてはいない。子供ながらの矜持も多少はあったが、何より泣けば泣くだけ体力を消耗することを、身に沁みて知っているからだった。
少女には両親がいなかった。父は新聞記者だったが、戦時中軍部を批判する記事を書いて逮捕され、獄死した。
少女と母は、当時としては裕福だった親戚の家に身を寄せたが、それができたのは、その家の主人が母の美貌に目をつけ、妾として所望したからだ。その母も、無理がたたって終戦後間もなく病死し、ひとり残された少女は酷使され、虐げられる日々を送っていた。今日も、少女はお茶をこぼしたという些細な失敗から、「しつけ」と称して殴られ、閉め出されたのだ。家の主人が少女を追い出さなかったのは慈悲ではなく、いずれ娼家にでも売り飛ばすか、いっそ母親同様妾にする魂胆だったからかもしれない。
少女は音も立てずに、細く長いため息をついた。
(そろそろ許してもらえるかしら……)
後ろに回した両手で塀を突く。そうでもしないと、足を踏み出す力さえ生まれなかった。
歩きながら、少女はふと一軒の青果店に目を留めた。かごに盛られて店先に並ぶみかんに、視線が釘づけになる。鮮やかな色が頭の中に広がり、甘酸っぱい味を想像すると唾液が湧いてきた。
魔が差したというのか、あるいはこの先少女がたどる人生を思えば、これも運命の女神の思し召しだったのか――。少女はみかんに手を伸ばそうと身じろぎした。その瞬間、自分を見つめる店主の鋭い視線に気づく。
(迷惑だと思われてるの? それとも疑われてる?)
いずれにせよ、今ここで万引きなどしようものなら、たちどころに捕まってしまうだろう。
だが、少女はあきらめきれずたたずんでいた。盗もうという明確な意思があったわけではなく、思考が麻痺して動けなくなってしまったような感じだ。
店内には五十がらみの婦人客が一人いた。不器量ではないが、顔つきに険があり、少女を虐げる主人の妻にどことなく似ている。野菜を手に取ってはべたべたといじくり回し、ためつすがめつ眺めたあげく、返すときは乱暴という、態度の悪い客だった。
彼女を見ているうち、少女の頭にとある策がひらめいた。怪訝な顔を作り、店内に足を踏み入れる。婦人に近づき、
「おばさん、何してるの?」
「え?」
婦人は少女の倍も怪訝な顔をして振り返った。
「何してるって……。あんたこそ何よ?」
嫌悪と不快の念をあらわにして、反問する。
「え、ええと……」
八つや九つとは思えぬほど大人びた性格の少女は、普段ならこんなことでうろたえたりはしないのだが、ここは気弱な子供を演じてみせる。救いを求めるように店主を見た。店主は億劫そうに近づいてくる。
「どうしたっていうんだ?」
少女は婦人から逃げるように、店主の前に進み出て、
「あの……この人が……りんごをたもとに隠すの見ちゃったの」
店主の表情は険しくなり、婦人は目をむいて、湯気を立てんばかりに顔を真っ赤にした。
「と……とんだ言いがかりだわ! 何て失礼な子なの!」
少女を指さしながら店主を睨みつけ、
「ちょっとあんた、さっさとつまみ出してちょうだい。いいえ、つまみ出すどころじゃ気が済まないわ。警察に突き出してやりなさい!」
「まあまあ、奥さん落ち着いて」
店主は婦人をなだめにかかった。婦人の言うなりにならなかったのは、店主も彼女の無遠慮な行動を苦々しく思っていたからかもしれない。
婦人の剣幕におびえるふりをして、少女はじりじりとあとずさった。二人の注意が逸れた隙を狙って、みかんをつかむとたもとに放り込む。すぐに駆け出したりしては、かえって盗んだことを公言しているようなものだから、困惑の表情を浮かべながら通りへ戻り、角を曲がる。そこでようやく駆け出した。
無我夢中で走り、力尽きたところで、誰も追いかけてこないことを確認する。路地裏に身をひそめ、しゃがみ込んだ。膝を曲げ背を丸め、ことさら身を縮めたのは、追手に対する恐れか、罪の意識か、あるいは、手に入れたものを誰にも奪わせまいとする意志だったのか。
少女はみかんをたもとから取り出す。たとえ不正な手段で持ち込まれたものであっても、薄暗い路地裏の中でそれだけが輝くように明るかった。
矢も盾もたまらず、少女がみかんの皮に爪を立てようとしたとき、
「こら」
ぴしっと鞭打つような、激しくはないが厳しい声がした。少女は雷に打たれたように体を震わせ、顔を上げる。見知らぬ男が近づいてくるところだった。先程の青果店の店主ではない。美男子というほどではないが精悍な顔つきで、こんなときでなければかっこいいおじさんだと思ったかもしれない。
迫害されて育ったものの悲しい性として、少女は人の気配や機嫌に敏感だった。なのに、男が路地に入ってきたことにも、そもそもあとを尾けられていたことにも、まったく気づかなかったのだ。それも少女の恐怖心をあおった。
少女はみかんを胸に抱きしめ、手負いの獣のように、うなり声を上げんばかりに男を睨みつけた。と、男はしゃがみ込み、少女をじっと見つめる。その目が不思議と悲しそうなのに、少女はいくらか警戒心をそがれて男を見つめ返した。
「腹が減っているのか?」
不意に男が訊いた。当たり前だと怒鳴り返してやってもよかったのに、男の口調には何か、少女の心を静める力があった。一瞬ためらったのち、無言でうなずく。
「あの作戦は、おまえが考えたのか?」
「さくせん?」
少女は初めて男に口を利く。
「ああ、すまない。わかりにくかったね。お店の人に、おばさんがりんごを盗んだと嘘をついて、その間にみかんを盗んだやり方だよ」
質問の意図はまだわからなかったが、
「うん」
少女はつい素直に肯定していた。
「ふむ……」
男の目がみはられ、怒りでも悲しみでもない――驚嘆ともいうべき色が浮かんだ。男はあごをしゃくり、何やら考え込んでいるようだったが、
「いいかい、もうあんなことをしてはいけない」
一語一語に力をこめて諭した。少女は当然、盗みを働くこと自体を禁じているのだと思ったが、
「あんなふうに、人を罠にはめたりしてはいけない。同じ盗むなら、もっと正々堂々と盗まなくては」
続いて男の口から飛び出したのは、思いも寄らぬ台詞だった。少女は目を白黒させる。
「おまえには、お父さんとお母さんはいないのか?」
両親の話題を持ち出されて、少女は顔を曇らせた。
「父さんは……警察の人に連れていかれて、帰ってこなかった」
男の顔にやや動揺が走ったのが気になったが、何も言われなかったので、少女はそのまま続ける。
「母さんは……病気で死んじゃった。今はおじさんとおばさんの家にいるけど、みんな意地悪する」
「そうか……」
男は沈んだ声でつぶやいたが、やがて決然と少女を見つめ、
「よかったら、私と一緒に来るか? 実を言うと、私も泥棒なんだ。だが自分で決まりごとを作って、貧しい人や優しい人には迷惑がかからないようにしている。おまえは賢い子供のようだ。だからこそ、その賢さを悪いこと……いや、卑怯なことに使ってほしくない」
年齢に関係なく、相手を対等な人間として扱っていることがわかる、まっすぐな口調だ。
「それに、お父さんは警察に捕まったと言ったね。私もそうなんだ。泥棒で捕まったんじゃなく、私自身は正しいと信じていたことで……。私には娘はいなかったが、何だか縁を感じてしまってね」
男はすっと手を差し伸べた。実際聡明な少女には、男の言葉の意味は理解できたが、だからといって感動したとか、感謝したとかいうわけではない。ただ、このつらい境遇から救い出してもらえるかもしれない、もっと身もふたもない言い方をすれば、何か食べ物をもらえるかもしれないという希望が、閉ざされていた少女の胸を高鳴らせた。
しばらく考えたのち、少女は男のがっしりした手をつかんだ。