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第三章 南伊豆の豪邸(二)

 翌朝の朝食後、伊織は、もう一眠りしようか、それとも外出しようかと迷っていた。昨日の疲れは抜けきっていないので、睡眠をとりたいには違いないのだが、この重苦しい空気から解放されて気晴らしもしたい。総一郎や佐々木に気を許せないのはもちろん、志摩子は目に見えて伊織をうとんじていたし、数馬とも未だ自然に接することはできない。

 と、誰か――その軽やかさからして、おそらく子供があとを追ってくる足音が聞こえた。千里だろうかと思って振り向くと、意外にもそれは八雲だった。

 八雲ははっと立ち止まり、一瞬ためらうそぶりを見せたが、

「あの、伊織さん!」

 思いきったように呼びかける。

「何だい?」

 伊織は戸惑いながら訊いた。

「あなたのことはお祖父さんから聞いています。その……僕とは異母兄弟なんだって」

「異母兄弟」という言葉を、八雲は奥歯にものの挟まったような調子で口にした。

「……そうだね。僕も佐々木さんから聞いたよ」

 伊織は当たり障りのない答えを返した。さすがに、八雲が総一郎の命を受けて、自分に探りを入れようとしていると思ったわけではないが、相手の真意を測りかねたのは確かだ。

 それに、八雲がどこまで事情を知っているかもわからない。自分の父親が母親と結婚する前に、よその女性との間に子供を作っていたのだ、それだけでもいい気持ちはしなかっただろう。多くを語ればさらに傷つけることになるかもしれないし、要らぬもめごとを呼ぶかもしれない。

「はい。だから……母さんはあなたを好きになれないみたいで。だけど、僕は」

 八雲は澄んだ瞳で伊織を見つめて、

「あなたと仲良くしたいと思っています。昔何があったにせよ、あなたは悪くないんだし、母親は違っても兄弟なんだし」

 伊織は意表を突かれて八雲を眺めていた。志摩子と八雲が、内面は似ても似つかぬ母子だということは、初対面の印象で察せられた。とはいえ、志摩子がああも露骨に伊織に悪意を向けている以上、息子の八雲もどこかで影響を受けているのではないか、と勘ぐっていたのだ。だが、八雲は母の意に反してでも、自分と親交を深めようとしてくれているらしい。その素朴な気持ちが、ここに来てからかたくなになりがちな伊織の心に響いた。それに、一人っ子として育てられてきた伊織には、兄弟という存在に憧れるところもある。

「僕も、そう思ってるよ」

 伊織は穏やかに言った。

「だけどいいの? 僕としゃべってるところ、志摩子さんに見つかったら叱られるんじゃないか?」

「そうかもしれませんが……いいんです。それは母が間違っていると思いますから」

 少年らしい、凛とした口調で八雲は言った。自分が原因で八雲と志摩子が対立することには、伊織は心苦しさも覚える。まして、鈴倉家にとっては敵である黒揚羽と内通し、半ば宝探し目当てでここにもぐり込んでいる身だ。何ら後ろ暗いところはないと胸を張るわけにもいかない。だが、せっかく八雲が自分の意志を貫こうとしているのに、水を差すようなことは言いたくなかった。

「わかった。よろしく、八雲……でいいかい?」

「もちろん! こちらこそよろしく、兄さん」

 八雲ははしゃいで、

「ところで、今日はこれからどうするの?」

「実は僕も悩んでたんだ。ちょっと眠いんだけど、せっかく伊豆に来たんだから、観光もしたくてね」

「眠い?」

 八雲の眼差しが、心配事か問題でもあって眠れなかったのか、と気遣うふうなので、

「いや、僕、枕が変わると眠れないたちなんだよ」

 伊織はごまかした。

「そうなんだ、大変だね。やっぱり悪かったかな、一週間も泊まってもらうなんて」

「君が気にすることじゃないよ。このくらい大丈夫さ。普段だって、よく夜更かしして寝不足になっちゃうんだから」

 伊織が笑うと、ようやく八雲の表情は晴れた。

「じゃあ、海に行かない? 兄さんは泳げる?」

「まあ、人並みにはね」

「なら問題ないや。ちょっと待ってて」

 八雲は小走りに駆けていって、間もなく麦わらのかごと日傘を抱えて戻ってきた。

「お多喜さんにも声かけてきたから」

 表へ出ると、伊織は屋敷の裏手へ導かれた。緑したたる木々の向こうには、人気(ひとけ)のない海が広がっている。坂を下りながら、

「ここはうちの土地なんだ。夏になると毎日のように遊びに来るんだよ。姫が浜って呼ばれてるんだ」

 八雲は教えてくれる。

「すごいなあ。こんなきれいな浜辺が貸しきりだなんて」

 伊織は目をみはった。江ノ島の海水浴場には何度か行ったことがあるが、海ではなく人の中を泳いだ思い出しかない。

「でしょう?」

 八雲は嬉しそうに笑いかけた。その笑顔を見て、伊織は、先程八雲に好感を抱いたもう一つの理由に気づいた。快活で純真で、自慢を自慢と思わせない素直さ、彼は明生に似ているのだ。

 八雲は、砂浜の中央に構える岩の前へ、伊織を連れていった。かごから海水着を二着取り出して、

「僕のでもいい? ちょうど、大きすぎて合わないやつがあったから」

「構わないよ」

 伊織が快く受け取ると、八雲は待ちかねていたようにシャツを脱いだ。そのとたん、伊織ははっとして八雲の脇腹に目を据えてしまった。そこには十センチメートル以上にも渡るであろう、かぎ裂き状の赤黒い傷跡があったのだ。

「あ……これ?」

 伊織の視線に気づいたらしく、八雲は傷跡を指で示した。

「去年の冬、交通事故に遭ってね。ガラスの破片が刺さっちゃったんだ」

 恐ろしい体験だっただろうに、転んで膝をすりむいちゃったんだ、というのと同じような、照れくさそうではあるが屈託のない口調である。伊織はこの二つ年下の異母弟の強さを知った。

「……ごめん」

「いやだな、兄さん。もうすっかり治ったし、僕全然気にしてないし、そんな深刻な顔しないでよ」

 八雲は困ったように、両手を顔の前で左右に振った。

「うん。もちろん僕だって気にやしないさ」

 伊織が力強く言うと、八雲は笑顔に戻った。

 着替えを終え、二人は波打ち際へ駆け寄った。藍色に浅葱(あさぎ)色やオリーブ色の混じった、宝石のような海――。波が盛り上がっては白く砕けて、砂浜をなめてならしていく。普通の砂浜は白というより灰色をしているものだが、ここの砂浜は、南国の絵はがきにでもありそうなまばゆい白さだった。

 都会育ちで海に慣れない伊織は、幼い子供の海水浴のように、泳ぐというよりは浮いていた。海は穏やかだったが、それでも波と戯れているというよりは、波に遊ばれている感じだ。八雲は沖まで泳ぎに行ったりもしていたが、伊織には注意を払ってくれているようだった。

 太陽が高く昇り、岩場を隔てた海水浴場が人でひしめき合っているころ、

「そろそろ帰ろうか。おなかも空いたし、そろそろごはんの時間だよ」

 八雲の言葉をきっかけに、二人は海から上がり、岩陰に戻った。

「体はどこで洗ってるの?」

 伊織が体を拭きながら訊くと、

「うちに帰ってからだよ。私有地だから、当然海の家なんかないし。裏口から入れば、途中で知らない人に会うこともないよ」

 あっけらかんと答えて、実際八雲はそのままの姿で歩きだそうとする。鈴倉家を「他人の家」と認識している伊織には、さすがにそれは気が引けたので、

「ちょっと待って」

 あわてて海水着の上から服を着た。

 鈴倉邸に戻った二人は、浴場で水を浴びて座敷へ向かった。同時に入ってきた彼らを見て、誰もが意外そうな顔をする。そのあと、数馬の目には喜色が、志摩子の目には不快の色が浮かぶ。伊織はたじろいだが、八雲は顔をちょっとこちらに向けて、半ばすまなそうに、半ば安心させるようにうなずいた。

 鈴倉家の昼食は、焼き魚やらなすの揚げびたしやら、一汁三菜そろった立派なものだった。夏の昼食は、おおかた麺類かお茶漬けかおにぎりという中野家とは大違いだ。体を動かしたためだろう、気分が落ち着かないのは相変わらずだが、食欲はあった。

「一緒に遊んで……」

 数馬は、伊織と八雲どちらにともなく言いかけたが、

「ああ、姫が浜に泳ぎに行ってたのか?」

 二人の髪が濡れているのに気づいたらしい。

「うん、兄さんに浜を教えてあげたの」

「兄さん」という呼び名に、数馬はちょっと目をみはった。

 午後は八雲と別れ、伊織はひとり部屋に戻った。昼寝をしようと枕を取り出したとき、

「伊織」

 廊下から数馬の声が聞こえた。伊織は枕を押し入れに戻し、ふすまを開ける。

「ああ、いや……特に用というわけではないのだが」

 数馬は気まずそうに頭をかいた。とにかく伊織は彼を部屋に招き入れ、座卓を挟んで向かい合った。

「どうだい? 下田は」

 数馬が漠然とした質問をする。

「景色も空気もきれいでいいですね。魚もおいしいし……」

「それが売りだからね。そうだ、早速八雲と仲良くなったみたいだね」

「はい。八雲から声をかけてくれたんです」

「ほう。父親の私が言うのも何だが、素直ないい子だろう?」

「そうですね。クラスでいちばん仲の良い友達に似ています」

 数馬は満足げにうなずいたが、

「あのまま育ってほしいものだが……」

 ふと、その表情がうっすらかげりを帯びる。未来の社長として鈴倉海産を率いるには、そうもいかないということか。

「繁さんと由紀子さんは、どんな方なんだい?」

「ええと……。母は口うるさいところもありますが、明るくてしっかり者です。父は大らかで……それこそ僕が言うのも何ですが、ちょっと不器用で純朴な人です」

「そうか」

 数馬は笑ったが、ふと口調を改めて、

「……秋子のことは、何も覚えていないんだよな」

「はい。亡くなったの、僕が一歳のときですから」

「特に用というわけではない」と言ってはいたが、数馬はおそらくこの話をしたかったのだろう。

「秋……いえ、母さんって、どんな人だったんですか?」

 伊織が尋ねると、数馬は懐かしげに目を細めて、

「秋子は、とにかくおとなしくて女らしい人だったな。顔立ちはおまえと似ていたよ」

「どうして知り合ったんですか? 確か、母さんは鈴倉海産の工場で働いていたと聞きましたが……」

「そうだよ。工場の視察に行って、叱られていたのを止めに入ったのが馴れ初めだった。秋子は体があまり丈夫じゃなくてね。たびたび貧血を起こすことがあったようで……。伊織はそんなことはないかい?」

「はい。僕、体は健康です」

「よかった。それがいちばんだよ」

 それきり会話が途切れ、

「突然悪かったね。そろそろ退散するとしよう」

 数馬が腰を上げる。伊織は物足りないようなほっとしたような気分で見送った。

 今更昼寝をする気にもなれず、伊織は『潮騒』のページを開いた。それほど長い小説ではないので、数時間で読み終わってしまい、手洗いに立つ。

 と、角を曲がったところで佐々木とぶつかってしまった。今日はいろいろなことが起こる日である。総一郎に届けに行くところだったのだろうか、佐々木の手から封書がばらばらと落ちる。伊織もぼんやりしていたが、佐々木も冷静沈着な彼に似合わず焦っていたようだ。

「すみません」

 伊織はとっさに腰をかがめ、封書に手を伸ばそうとした。

「いえいえ、わたくしが拾います。申し訳ございませんでした」

 佐々木が素早くかがみ込んで、封書をかき集める。だが、伊織の目はすでに、黒い揚羽蝶の紋章が描かれた洋封筒をとらえていた。

「あ……」

 声をもらしてしまい、一瞬まずいと思ったが、よく考えれば、黒揚羽の予告状がどんなものかはニュースで報道されているのだ。実物を目にして驚いたからといって、黒揚羽と関係があるという証拠にはならない。

 だが、知らんぷりを通すのも不自然だ。伊織はあえて動揺を隠さず、目を丸くしたまま佐々木の顔色をうかがった。

「どうかなさいましたか?」

 封書を回収し終えた佐々木が、顔を上げて尋ねる。

「いえ、その……」

 伊織は口ごもってみせた。

「黒い揚羽蝶の封筒ですか」

 単刀直入に言い当てられ、今度は本当に、伊織は言葉につまる。

「紅梅の鏡を奪ったのですから、あの女が対になる白梅の鏡も狙っているのは当然です」

 佐々木は淡々と語った。いたずらだとごまかすこともできただろうが、あえてそうしなかったのは、偽物にしては紋章に手が込んでいたからか。

「警察を呼んだほうがいいとおっしゃるかもしれませんが、たかが女泥棒の手紙ごときで騒ぎ立てることを、総一郎様はよしとされないでしょう。また、かえってあの女につけ入る隙を与えるかもしれませんし、世間の好奇の目にさらされるのも不本意です。どうぞ、このことは内密にお願いいたします」

 佐々木の言葉は嘘ではあるまいが、「内密に」したい最大の理由は、なぜ黒揚羽がそこまで鏡に執着するのか、詮索されたくないためだろう。

「わかりました」

 納得したふりをして、伊織はおとなしく引き下がった。

 その夜、夕食の片づけをしている千里と行き合うと、彼女は得意げにウインクしてみせた。夕方の小事件のおかげで、伊織にはその意味がわかった。うなずくと、千里は何事もなかったかのように澄まして去っていった。

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