第二章 手鏡の秘密(二)
黒揚羽の予告に誤りはなかった。
翌日の夕食時、両親はいやに寡黙で、深刻な顔をし、そのくせ妙にそわそわしていた。伊織にはぴんときたが、「どうしたの」と訊いてみるのもはばかられたので、気まずい空気をやり過ごした。
食卓が片づくと、
「伊織、ちょっとここにいてくれ。大事な話があるんだ」
繁が真面目な口調で言った。いつもは真っ先に洗い物を済ませてしまう由紀子も、今日は食器を流しに運んだだけで戻ってきて、繁の隣に座る。伊織が身構えたのを見て、
「いや、何もお説教とかお小言とかっていうんじゃない」
繁は力なく笑ったが、すぐに表情を硬くした。
「おまえの……出生のことでね」
伊織は黙ってうつむいた。本当なら、もっと驚いてみせたほうが自然だったのかもしれないが、この二人の前でそう神経をとがらせる必要もないだろう。
「夕方、うちにこんな手紙が来たんだ」
繁が、上質そうな白い封筒と便箋を重ねて、伊織の前に差し出した。伊織が手に取ると、案の定、差出人は鈴倉総一郎、住所は静岡県賀茂郡下田町となっている。
「読んでごらん」
繁に促され、伊織は便箋を開いた。
前略 突然お手紙を差し上げるご無礼をお許し下さい。
老生は、株式会社鈴倉海産の会長を務めております、鈴倉総一郎と申す者です。
この度、「黒揚羽」を名乗る女賊の被害に遭われたとの由、新聞にて知りました。衷心よりお見舞い申し上げます。
その際、かの女賊の強奪したものが、古色蒼然たる漆塗りの手鏡だったとの由ですが、その特徴から鑑みるに、その手鏡は元々拙宅に所蔵されていた品ではないかと思われます。十五年程前、故あって老生の手元を離れてしまい、以来気に掛けておりました。
かの手鏡が我が鈴倉家のものであるならば、ご子息伊織君のご生母こそ、それを持ち出した人物ということに相成ります。
本件については更にお話ししたいことがございますが、書面にてご説明するのは限りがございますし、またそれに相応しい内容とも思われません。宜しければ、お二方のご都合の良い日時を伺った上で、貴宅に代理の者を遣わせたいと思いますが、如何でしょうか。事が事ですので、伊織君にもぜひご同席の程お願い致します。
取り急ぎ、用件のみにて失礼致します。鶴首してお返事をお待ち申し上げております。 草々
七月八日 鈴倉総一郎
中野繁 様
由紀子 様
伊織が顔を上げると、
「そういうことだ」
繁は重々しくうなずいた。
「十五年間わからなかったものが、今になってねえ。こないだの事件で鏡のことが取り沙汰されてから、もしやという予感はしていたけれど」
傍らで由紀子がしんみりと述懐する。
「それで……父さんと母さんはどうするの? 鈴倉さんの申し出に応じるの?」
「ああ。先方の意向も考慮しなけりゃならんし、折角機会がめぐってきたのだから、親としておまえの出自を知っておいたほうがいいという気もする。もちろん、そのせいでおまえに対する愛情が変わるなんてことは、絶対にないぞ」
「そうよ、伊織。何があっても、あなたは私たちの息子なんだから」
由紀子が情熱をこめて同意する。
「わかってるよ」
胸が温かくなるのを感じながらも、やはり照れくさく、口調がいくらかそっけなくなってしまう。
「伊織はどうなんだ? やっぱり自分の出自とか、生みの父さん母さんのことが気になるか? それとも逆に、わからないままにしておきたいか?」
「僕も……父さん母さんと一緒だよ。自分のことだもの、できればはっきりさせたいよ」
いくばくかの後ろめたさとともに、だがきっぱりと伊織は答える。
「本当に……いいんだな?」
「うん」
今度は繁は由紀子のほうを向いて、
「おまえも?」
「ええ」
どこか淋しげな顔ながら、ためらいなく由紀子は答えた。
「よし。それじゃあ返事を出すとしよう」
吹っきれたような、あるいは自分を鼓舞するような、決然とした繁の一言で、その話は締めくくられた。さりとてほかの話題を切り出す者もおらず、立ち去るきっかけもつかめず、三者三様の思いを胸に宿しながら、彼らはしばし無言でその場に留まっていた。
***
「ごめんください」
約束の時刻より五分ほど早く、朗々たる男の声が居間の緊張を破った。逡巡と焦慮という相反する感情を顔に浮かべたあと、繁と由紀子が玄関に迎えに出る。
案内されてきたのは、五十歳前後と思われる、謹厳実直を絵に描いたような紳士だった。長身かつ痩せ型で、細長い顔に黒縁の丸眼鏡をかけ、コールマンひげを生やしている。
「あなたが伊織様ですか」
「はい、初めまして」
伊織は声も体も強張らせて答えた。
「初めまして。と申しましても、実はあなたがみどりごでいらっしゃる時分、一度お目にかかったことがあるのですよ。大きくなられたものですなあ」
紳士は眼鏡を押し上げ、目をしばたたいて懐かしげに伊織を見つめた。
「は、はあ……」
伊織が返答に窮していると、
「伊豆からはるばるいらして、お疲れでしょう。どうぞお座りになってください」
繁が紳士に座布団を勧めた。
「これはどうも」
紳士は静かに正座し、
「改めまして、わたくし鈴倉家執事の佐々木と申します。父の代から鈴倉家にお仕えしておりまして、総一郎様には光栄にも並々ならぬご信頼を寄せていただいております」
執事の佐々木といえば、総一郎が暗号文の存在を明かした唯一の人物だ、と伊織は思い出した。誠実そうな顔をしているからといって油断ならないぞ、と気を引きしめる。
「では早速、書状にてお伝えした件ですが……」
佐々木はよどみなく、伊織と鈴倉家の関係について語った。その内容は黒揚羽の話とおおむね一致していた。相違点といえば、数馬と由紀子の交際のくだりに、数馬は秋子に軽い気持ちで手をつけたのだが、秋子が熱を上げてしまったため、引きずられるように交際を続けてしまった、というニュアンスが含まれていたところと、当然ながら暗号文のことや、総一郎が強盗を差し向けた張本人だということなど、おくびにも出さなかったところである。繁と由紀子は終始目を丸くして耳を傾けていたが、伊織は初めて聞いたような顔をするのに苦労していた。
「総一郎様、数馬様、総一郎様の奥様絹枝様は、大変あなたに会いたがっていらっしゃいます。昔は数馬様と秋子さんの仲を認められなかった総一郎様ですが、それも鈴倉家のためによかれと思ってなさったこと、伊織様を憎んでいらっしゃったわけではございません。また、お年を召されて情にもろくなったところもおありなのでしょう。奇跡のような偶然で孫の居場所がわかった、これも神様仏様のお導きだろう。一目顔を見たいものだと、こうおっしゃるのでございます」
佐々木はまことしやかに述べた。
「いかがでしょうか? 折しも伊織様はもうすぐ夏休みでございましょう。ほんの一週間ばかり、鈴倉家でお預かりさせていただくわけにはまいりませんか?」
繁と由紀子は顔を見合わせた。
「ですが、数馬さんとやらには奥さんもお子さんもいらっしゃるのでしょう? そこに伊織がのこのこお邪魔するというのは……」
「ご心配はごもっともですが、ご安心くださいませ。奥様の志摩子様もご子息の八雲様も、お心優しい方々ですから、こだわりなく歓迎してくださいますよ」
二人の顔から不安は払拭されてはいなかったが、
「だとすれば、私たちがどうこう言える問題じゃありません。せがれさえいいと言うなら……」
「どうする? 伊織」
由紀子に小声で打診されて、
「僕は構わないけど……」
伊織は答えた。
「よろしいですか。ありがとう存じます。総一郎様も数馬様も、さぞお喜びになることでしょう」
佐々木は両手を握り合わせ、おもむろにこうべを垂れた。
「して、伊織様はいつごろがお暇でしょうか? いずれにせよ、お盆は避けようと思っておりますが」
「ええと、七月の二十一日から二十八日までの平日は、学校の補習がありますが、それ以外ならいつでも……」
「かしこまりました」
佐々木は満足そうにうなずいて、
「ようございました。実は、八月の五日、総一郎様が古希をお迎えになりますので、祝賀会を開く手はずになっているのでございます。それにぜひ、伊織様にも参加していただきたいと考えているのですよ」
伊織が気後れしたのを察してか、
「何、祝賀会と申しましても、総一郎様のご意向を反映して、身内や親しいご友人ばかりを集めた私的なものに致します。堅苦しくお考えになることはございませんよ」
佐々木は如才なく付け加え、てきぱきと日程を決めた。
その後、細かい打ち合わせや交通経路の説明をすると、
「そろそろおいとまいたします」
佐々木は腰を上げた。だが、ワイシャツの襟を正しながら、ふと思い出したように、
「そういえば、あの手鏡ですが、お宅にある間に、落としたりぶつけたりということはございましたか?」
伊織はどきりとした。何気ないふりをして佐々木の顔を見上げると、心なしか、眼鏡の奥の目が鋭く光っているような気がする。
「いいえ、特にありませんが……。どうしてそんなことを?」
何も知らない繁が怪訝そうに尋ねる。
「いえいえ、保存状態が気にかかっただけですよ。お気を悪くされたとしたら、申し訳ございません」
佐々木はあっさり引き下がり、あとは紋切り型のあいさつをして帰っていった。
「驚いたな」
佐々木を見送って居間に戻ると、繁が興奮冷めやらぬ顔でもらした。
「おまえが有名企業の社長さんのご令息だったとはなあ。おまえと……秋子さんを見つけたあの日から、何かいわくがあるのだろうとは思っていたが」
「本当にねえ。事実は小説より奇なり、っていうのはこのことだわ」
由紀子も頬を紅潮させて言う。
「うん。僕もまだ信じられないよ」
これは伊織の正直な感想だった。
「だが、何もかも教えてもらって、かえってすっきりしたな」
「ええ。あんな思わせぶりな手紙じゃ、不安だったけれど」
実際に、両親は憑きものの落ちたような顔で、口元に穏やかな笑みさえ浮かべていた。そこには、生殺しの状態から抜け出した爽快感だけではなく、先方が伊織を引き取るなどと言い出さなかったことへの安堵も含まれていたのだろう。
「まあ、それだけおまえに会いたがっているというなら、悪いようにはしないだろう。楽しんでおいで、というのは不穏当かもしれないが、あまりぴりぴりすることもないさ」
「逆に、鈴倉のお宅と伊豆の土地を気に入って、こっちで暮らすんだなんて言い出したりしてね」
由紀子がいたずらっぽく伊織を横目で見た。冗談に隠された切実な思いを嗅ぎ取って、
「心配しないで。僕の家はここなんだから」
それどころか、思わぬお土産まで持ってくるかもしれないよ、と伊織は心の中で付け加えた。
「この子ったら」
由紀子は、愛しくてたまらないというふうに、伊織の頭をくしゃくしゃとなでた。決まり悪さに伊織はあわてて身を引く。
「ところで、補習って何の補習?」
由紀子が思い出したように訊いた。しまった、と伊織は額を押さえたが、あとの祭りというものだ。
「実は、化学の試験で……」
四十八点を取ったことをしぶしぶ白状すると、由紀子の目は一転して三角になった。
「まあまあ、取っちまったもんはしょうがない。次に挽回すればいいじゃないか」
繁がとりなしたが、
「あなたがそうやって甘やかすから……」
由紀子に矛先を向けられて早々に退散してしまい、結局伊織は、小一時間ほどもお説教を食うはめになったのである。