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第二章 手鏡の秘密(一)

第二章、やや長いので二つに分割します。

 繁が公衆電話から一一〇番通報すると、数名の警官が駆けつけた。ただの居空きや出来心の強盗ではなく、一人は拳銃を所持していたということ、一人は天下に名だたる黒揚羽だったということで、警官たちも目の色を変えた。尋問された伊織は、二つのことを除いては事実を述べた。黒揚羽の足を引っ張るようなことは言いたくなかったが、あまりにもわからないことが多すぎて、何が彼女にとって不利な情報なのかさえ判断できなかったのだ。伏せておいたこと――それはもちろん、黒揚羽が再訪を誓ったことと、望まれるまま彼女に鏡を手渡したことだ。事件の鍵が鏡にあると知った警察は、繁と由紀子に伊織の出生について尋ねたが、二人とも事情を説明し、自分たちもよく知らないと答えるしかなかった。

 結局、伊織たちが再び床に就いたのは明け方になってからだった。当日はまだ身辺は静かであったが、翌日には噂が広まってしまったらしい。伊織は登校すれば同級生たちに取り囲まれ、由紀子は表を歩けば、近所の奥さん連中に呼び止められるはめになったのである。


 そんな落ち着かない日々が数日続いた。毎晩伊織は、

(黒揚羽はいつ来るのか、本当に来るのか)

 と、懐疑混じりの期待をもって眠りに落ちた。

 土曜日のことである。昼食にそうめんをすすったあと、伊織はうちわ片手に、足を投げ出してくつろいでいた。開け放した障子の先に降り注ぐ陽光が、別世界のもののようにまぶしく目に沁みて、やかましい蝉の声に交じって、どこからか風鈴の澄んだ音が響いてくる。自然とまぶたが下がってくるような、気だるいが満ち足りた昼下がりだ。繁などは、座布団を枕にもういびきをかいていた。

 不意に、トントンと玄関の戸を叩く音がして、

「はあい」

 皿を洗っていた由紀子が、手を拭き拭き出ていった。

「あのう、失礼ですけど、どちらさまでしょうか?」

 見知らぬ人間らしいが、押し売りだろうか。伊織は耳を澄ませたが、相手の声は表に流れてしまうらしく、聞こえるのは由紀子の声ばかりだ。

「あらまあ。今呼んできますから、ちょっと待っててちょうだいね」

 その言葉に伊織は身を起こした。由紀子の言葉遣いからして、やってきたのは知り合い――それも、父のではなく自分の友人のようだ。

 居間に戻ってきた由紀子は、満面の笑みを浮かべて、

「伊織、あなたにお客さんよ。学校のお友達ですって。とっても可愛い女の子」

「えっ?」

 伊織は耳を疑った。当たり障りのない会話を交わすような仲の女生徒なら、クラスに何人かいるものの、家を訪ねてくるほど親しい間柄の子なんて、どう頭をひねっても思い当たらない。ひょっとして、野次馬根性の旺盛な誰かが、先日の事件についてさらに詳しく聞き出すべく、押しかけてきたのだろうか。そう思うといささかうんざりしたが、さすがに上下ともに下着一枚といういでたちで、女の子の前に出るわけにはいかない。あわてて二階に上がって身支度を整えてきた。

 玄関に出ると、セーラー服姿の、すらりとした背の高い少女が立っていた。白いラインの三本入った紺色の(えり)に、臙脂(えんじ)色のスカーフ、紺色のひだスカート、たしかに伊織の高校の制服である。

 一目見て伊織は息を呑んだ。由紀子の言ったとおり、いや、それ以上の、非の打ちどころのない美少女だ。黒曜石の瞳、白磁の肌、桃の花のような唇、腰まである濡れ羽色の髪。まなじりが切れ上がっているのが、ややきつい印象を与えるが、それも少女の魅力を損なう要因にはなっていない。

 おかしなことに、伊織には彼女にまったく見覚えがなかった。これほどの美少女、クラス内にいたり、登下校時や行事で顔を合わせていたりすれば、必ずや印象に残っているだろう。そうでなくても、男子の間で話題になりそうなものだ。

「待たせてごめん。ええと……君、何組の子? どこで会ったのかな? 言いにくいんだけど、ちょっと思い出せなくて」

 あまつさえ緊張しているのに、自分だけ相手の顔を忘れているとあっては、気まずさもひとしおだ。

「会った場所? おまえの家じゃないか、伊織」

 少女はふっと微笑し、からかうように言った。

「君……いや、あなたは!」

 二重の意味で伊織は驚愕した。一つはもちろん少女の正体に、もう一つは、その「正体」に当たる人物がこんなにうら若い――いや、幼いと言ってもいい年恰好だということに、である。

「約束どおり、また来たぞ。泥棒に二言(にごん)はない……なんてことわざはないが」

 とにかく、伊織は少女――黒揚羽を家に引き入れた。戸の閉まる音を聞いて様子を見に来た両親に、

「おじさま、おばさま、突然お邪魔してすみません」

 黒揚羽は、良家の令嬢としか思われぬ上品さでおじぎをした。声音まで、鈴を鳴らすような高いものに変わっている。

「いえいえ、どうぞゆっくりしていって。すぐにお茶をお出ししますから」

 由紀子は愛想よく応対し、繁は浅黒い顔を赤らめて、「いやあ、どうも」などと他愛ない言葉を繰り返す。男はいくつになっても美人には弱いものだ。だが、伊織は気が気ではなく、背中を押すようにして黒揚羽を自分の部屋に連れていった。

 間もなく由紀子が、氷を入れた来客用の緑茶と、三角形に切ったすいかを運んできた。戻ろうとするところに駆け寄って、

「あのさ、あの子がいる間はそっとしておいてくれる? いや、別にその、やましいことをするってわけじゃないんだけど……」

 伊織は両手を合わせて頼んだ。一応は犯罪者である黒揚羽を警察にも突き出さず、自室に招き入れているのだから、これも一種の「やましいこと」なのかもしれないが、言葉のあやというものだ。

「わかってるわよ。大丈夫、母さん、伊織を信頼してるから」

 由紀子は陽気に伊織の肩を叩いた。あとでどれだけ話の種にされるかと思うと気が重いが、やむを得まい。

 由紀子の足音が遠ざかると、伊織は表にも話し声がもれないように、窓を閉めた。

「なかなか気が利くじゃないか」

 ちょこなんと正座していた黒揚羽が言い、

「いただきます」

 コップに手を伸ばしてお茶をすすった。伊織も彼女の前に腰を下ろす。訊きたいことは山ほどあったが、どこから切り出してよいやらわからず、

「その制服は……?」

 とっさに口をついて出たのはそんな質問だった。

「これか?」

 黒揚羽はスカーフをつまみ、ずいと身を乗り出した。伊織はどぎまぎしたが、何のことはない、小声でも聞こえるようにという配慮だろう。

「おまえの学校に転入するという口実で仕立ててもらったんだ。これなら万一見張りがいても、やつらの目をごまかせるだろう? さっきのおまえがそうだったように、制服を着て白昼堂々現れれば、よもや私が黒揚羽だとは思わないからね」

「見張りって……この家にですか?」

「ああ」

「もしかして、あのときの男が?」

「あいつ本人だとは言いきれないけど、仲間ではあるだろうな」

 さらに質問を浴びせようとした伊織を、

「ちょっと待った」

 黒揚羽は手を上げて制した。

「私が順を追って、あの事件の背景を説明する。そのほうが手っ取り早いだろう」

「あ、はい」

 自分が先走ってしまったことに気づき、伊織は赤くなってうなずく。

「まず、おまえの出生について話したいんだが、心の準備はできているか? 本当なら、赤の他人の私が教えることじゃないが、ここを通らなきゃ話が進まないし、いずれもうすぐわかることだし」

 どうしてそんなことを黒揚羽が知っているのだろう、という疑問は、この際後回しだ。伊織は一瞬ためらったが、あの日以来、この問題に向き合わなければならない時期が来ていることには、うすうす気づいていた。ここで否と言うほど意気地なしではないつもりだし、好奇心にも勝てなかった。それは好奇心というより、自分のアイデンティティーをはっきりさせたいという、人間としての自然な欲求だったかもしれない。

「大丈夫です。ぜひ教えてください」

 伊織が意を決した表情で言うと、

「よかった。じゃあ、本題に入ろう」

 そう前置きして、黒揚羽はおもむろに膝を崩した。

「おまえの父方の一族は鈴倉(すずくら)家といって、南伊豆のほうの名士なんだ。音の鳴る鈴に、倉庫の倉と書く」

 伊織は頭の中で漢字を思い浮かべる。

「鈴倉海産って会社を知らないか? 苗字をカタカナにして、商標に使っているんだが」

「もしかして、缶詰とか乾物とかで有名な?」

「そう、海産物の加工食品の会社だ。あそこを経営してるのが鈴倉家だよ。そして、鈴倉家の跡継ぎで現社長の数馬さんと、鈴倉海産の工場で働いていた秋子さんとの間に生まれたのが、おまえなんだ、伊織」

 そう言われてもすぐには実感が湧かず、伊織は何だか他人事(ひとごと)のような気持ちで聞いていた。

「数馬さんは、遊びではなく、秋子さんを本気で愛していたようだ。息子のおまえも生まれたし、正式に妻にするつもりだったらしい。だが、いかんせん身分違いの恋だろう。周囲の……特に数馬さんの父、総一郎の猛反対に遭って破局したんだ。おまけに、数馬さんはほかの女性と結婚させられてしまった。秋子さんはおまえを生んでしばらくして、いたたまれなくなって町を出た」

「それで……」

 伊織は一瞬迷った末、

「秋子さんは、東京に流れてきたんですね」

 この呼び方を選んだ。由紀子以外の女性を「母さん」や「母」と呼ぶのには、抵抗があったからだ。

「ああ」

「じゃあ、あの鏡は?」

「あれは鈴倉家に代々伝わる……ちょっと言い方が大袈裟だが、家宝みたいなものだよ。鈴倉家の家紋は梅なんだ。実は紅梅のもののほかに、もう一面白梅のものがあって、対になっている。おおかた、将来を誓った証にでも、数馬さんが秋子さんに紅梅のほうを贈ったのだろう」

「どうして秋子さんは、別れるとき鏡を返さなかったんでしょう?」

「さあ……。そのときもまだ数馬さんを愛していたからかもしれないし、自分に憂き目を見せた鈴倉家に、一矢報いてやろうという気持ちがあったからかもしれない。こればかりは私にもわからないさ。家宝の片割れを持っていかれたものだから、総一郎はあわてて追っ手を出したが、ついに秋子さんを見つけることはできなかった」

 生みの母の人生を初めて知り、伊織は感慨のため息をつく。

「そしてこの前の強盗は、鈴倉家が……というより、おまえの祖父であり鈴倉海産の会長でもある、総一郎が雇った男だ。ただし理由は教えられず、単に鏡を盗むよう命じられただけ。総一郎はいろいろ後ろ暗いところのある男で、ならず者の一人や二人、雇うくらいわけないのさ」

「そうだったんですか……」

 祖父といっても顔も見覚えておらず、まして愛し合っていた数馬と秋子を引き裂いた男だ。肉親に強盗を差し向けられたというショックは薄かったが、

「だけど、一度はあきらめたものを、どうして今になって、また奪い返そうとするんですか?」

「それにはまた理由があってね。今度は、十五年前どころじゃなく古い話になる」

 黒揚羽の瞳が輝いた。夢見る少女の輝きというよりは、獲物を見つけた狩人のそれだ。

「下田の町は江戸時代初期に発展を遂げた。鈴倉家は、それに伴い勢力を伸ばした豪商で、一時は伊豆でも一、二を争うほどだったのさ。ところが元禄のころ、抜け荷のかどで告発され、商売も家もつぶされてしまった。鈴倉一族は、商売敵の讒言(ざんげん)による濡れ衣だと主張しているがね」

 黒揚羽はひょいと肩をすくめて、

「さて、当時の鈴倉家の主は鋭敏な男で、自分たちに嫌疑がかけられていることを察していた。どうあがいても罪を逃れられないと知った彼は、財産をかき集め、番頭をはじめ本当に信頼している奉公人たちに隠させた。そして、一対の鏡を幼い息子に託し、妻と番頭とともに逃がしたんだ。その後主は死罪、一族も罪に問われ、家財は没収された。鈴倉家が再興したのは、明治になって鈴倉左門(さもん)が鈴倉海産を創業してからさ。だが、逃げ延びたはずの妻と番頭も、主の息子に鏡の秘密を教える間もなく命を落としてしまったらしい。財産のありかは子孫に伝わらず、手鏡だけが受け継がれた。いわゆる埋蔵金となったわけだね」

「埋蔵金!?」

 伊織はすっとんきょうな声を上げた。

「眉唾ものだと思うか? 正直なところ、つい最近までは私もそう思っていたし、当の鈴倉家の人たちだって同様だっただろうな。有名な徳川幕府、秀吉、結城(ゆうき)家のをはじめ、埋蔵金伝説というのは全国各地に残っているが、多くの人々が挑戦しているのにもかかわらず、未だに発見されていないものばかりなんだから。だが鈴倉家の場合、総一郎が、手入れをしようとして鏡を落としてしまったことをきっかけに、話は一変した。鏡の()の部分が外れるようになっていて、その中に空洞があり、紙切れが収められていることがわかったんだ。その紙切れに不可解な文章が記されていたのさ」

 今度は伊織は声を上げることもせず、ただ目をみはっていた。

「これは暗号文……それも鏡の由来からして、例の埋蔵金のありかを示したものではないか、と考えた総一郎は色めきたった。あの鏡は、十七世紀末から十八世紀初頭のものだと鑑定されているから、時代も一致している。だが、暗号はどうしても解けなかったし、でなくとも対になっている鏡なのだから、暗号文も二つに分けて隠されていると考えるのが自然だ」

「だから、僕の鏡を盗みに……」

 もともと、こういう古風でロマンチックな物語に慣れ親しんできた伊織だ。まして、話を持ってきたのは、存在自体がロマンチックな黒揚羽と来ている。埋蔵金の有無や暗号文の真偽については未だ半信半疑だったが、理性に反して心が浮き立つのは抑えられなかった。

「そういうことだよ」

「だけど、よく僕の居場所を突き止められましたね」

「うん。おそらく、十五年前からある程度突き止めていたんだと思う。ただ言いにくいことだが、秋子さんが陽の当たる暮らしをしていなかったのと、あんな時代だったから鈴倉海産の経営も苦しく、総一郎にも余裕がなかったのとで、行きづまってしまったんだろう」

 黒揚羽が言葉を切ると、二人の間にはしばし沈黙が落ちた。気がつけば、閉めきった部屋はひどく蒸し暑くなっており、ぬぐってもぬぐっても汗が噴き出してくる。黒揚羽の額にも玉の汗が浮かんでいた。

 黒揚羽は両手で髪を持ち上げると、ぱっと離して風をはらませた。傍らの鞄を引き寄せて、伊織には見慣れた風呂敷包みを取り出す。黒揚羽がほどくと、川に紅梅の花が散るさまを、金と朱金で描いた、漆塗りの手鏡が現れた。

「柄の部分を強く引っ張ってごらん」

 黒揚羽に促され、伊織は鏡を手に取って、柄をつかんで恐る恐る引っ張った。何度か力をこめていると、不意に手ごたえが軽くなって柄が外れる。川の絵柄の輪郭に沿うように外れるため、一見こんな切れ込みがあろうとはわからないのだ。伊織が柄の空洞をのぞき込むと、

「悪いが、暗号文はこっちだ。いちいちその中に出し入れするのは面倒だからね」

 黒揚羽は胸元から、楕円形の銀のロケットを取り出し、ふたを開けた。古いものと新しいもの、二枚の紙片が小さく折りたたまれて入っている。

「こっちが鏡に収められていたもの、こっちは読みやすいよう私が書き直したもの」

 説明しながら、黒揚羽は丁寧に紙片を開き、畳の上を滑らせるように差し出した。伊織は手に取ってしげしげと眺める。


 もおおつじおのならちいににをすみいしいをすまわしこよおこつでつんきとろのかしく


「も、お、お、つ、じ……」

 思わず読み上げてしまい、あわてて口をつぐんだ。まさか真っ昼間から外壁に張りついている間抜けな偵察者がいるはずもなし、盗み聞きされる心配はないとは思うが、念には念を入れよだ。

 試みに逆さに読んでみたり、文字を飛ばして読んでみたりしたが、さっぱり意味が通じない。伊織はあきらめて紙片を畳の上に戻した。もっとも落ち込む必要はない。もう一方の暗号文も単独では解けないものらしいから、こちらも同様と見てよいだろう。

「それで……あなたは宝探しをするんですね?」

「もちろん。機をうかがって、白梅の鏡の暗号文も手に入れてね。肝心の内容は、私もまだ知らないんだ。何しろ、総一郎の警戒ぶりは相当なものでね。鏡は書斎の金庫に収めておいて、暗号文が出てきたってことも、執事の佐々木って男にしか教えていないのだから」

「家族にも、ですか?」

「ああ。数馬さんは人が好すぎるし、自分の妻たる絹枝さんのことは軽んじている。ほかの親族にはいさかいのもとだと思っているのだろう。ただでさえ、円満とはいかない一族なのだから」

「円満とはいかない……? 家督争いでも起こっているのですか?」

「争いというほどのものでもないがね。総一郎には、数馬さんの下にもう一人息子が……つまりおまえにとっての叔父がいる。この男がなかなか強欲で野心家でね。長男だからという理由で、おとなしい数馬さんが総一郎のあとを継いだことに、不満たらたらなのさ。ここで埋蔵金なんぞ出てきたら、一悶着(ひともんちゃく)起こるに決まってる」

「はあ……。お金がありすぎるのも楽じゃありませんね」

 伊織は訳知り顔でうなずいたが、

「でもそれじゃ、あなたはどうして知っているんですか? さっきの話だと、はじめから暗号文が眠っていると考えて、鈴倉家を調査していたわけではないのでしょう?」

 そのとたん、今まであまり表情を変えなかった、まして負の感情などまったく見せなかった黒揚羽が、ふっと瞳をかげらせた。埋蔵金の話を疑っているように聞こえて、誇りを傷つけてしまったのか、と伊織は案じたが、すぐに黒揚羽は顔から憂いをぬぐい去って、

「実は、総一郎には私怨があってね。次の標的にしようと思って、手下を鈴倉家に送り込んでいたんだ。そうしたら、彼女が暗号文の話を探り出してきた。これはいい、埋蔵金を頂戴してやったら、総一郎への恨みも晴らせるし、莫大な財宝も手に入るし、一石二鳥だと思ったわけさ。いや……一石三鳥かもしれないな。加えて宝探しのスリルも味わえるのだから」

 黒揚羽はにっこりして、

「そうそう、埋蔵金が見つかったら、一部はおまえにも分けるよ」

「えっ!」

「莫大な財宝」に魅力を覚えないはずはないが、生まれてこの方平凡な暮らしをしてきた伊織には、具体的にイメージできるものではない。まして、一部とはいえ、それが自分のもとに舞い込むなんて考えてもいなかった。

「だって、埋蔵金は本来総一郎のものなんだから、孫たるおまえには何分の一かを相続する権利があるんだよ」

「僕のことは気にしなくても……」

「おいおい、私が仕事をするときの主義は、おまえも知っているだろう? 金持ちでもなければ非道でもない……標的の条件に当てはまらないおまえから、間接的にとはいえ、財産を横取りするわけにはいかないのさ」

 まだ困惑した顔をしている伊織を見て、黒揚羽は首をかしげると、

「まあ、いやだというものを無理に押しつけるつもりはないが」

「いえ、いやだとまでは言いませんが……」

 伊織はあわててかぶりを振った。もらえるとなると戸惑うが、もらえないとなると惜しくなるのだから、金とは厄介なものであり、人間とは因果な生き物である。

「煮えきらないな」

 黒揚羽は呆れたように肩をすくめた。

「まあいい。捕らぬ狸の皮算用はこのくらいにしておこう。それより、もう一つおまえに伝えておきたいことがあるんだ」

「何ですか?」

「近いうちに、おまえのもとに鈴倉家から使いが来ると思う」

「え? 祖父は、鏡があなたの手に渡ったことを知らないんですか?」

「そうじゃない。あのならず者が報告したみたいだからね」

「じゃあどうして? 祖父にとって、僕はもう用済みなはずでしょう?」

「そんな自虐的な言い方をするものじゃない」

黒揚羽は軽くたしなめたが、

「もっとも、『そんなことはない』と否定はできないのが悲しいところだな。総一郎は、おまえが暗号文の存在を知っている可能性を考えているらしいんだ」

「そこまで気を回しているのですか? あんなに巧妙に隠されていたら、普通は気づかないと思いますが……」

「でも、総一郎に訪れたような偶然が、おまえにも降りかかるかもしれないからね。あまり当てにはしていないだろうし、総一郎が今躍起になっているのは、むしろ私の行方を捜すことのほうだけれど」

 伊織ははっとする。

「そうですよね。大丈夫なのですか?」

「ああ。ここでしっぽをつかませるような私じゃないさ」

 黒揚羽の瞳には青い炎のような闘志が揺らめいたが、口調は落ち着いており、自信のほどをうかがわせた。

「それから、総一郎の目的は暗号文にしかないが、数馬さんは純粋におまえに会いたがっている」

 伊織はぴくりと顔を上下させた。実の父に会えるといっても、喜びより緊張や戸惑いが先に立つ。総一郎の圧力に屈し、自分と秋子を見捨てた数馬を非難するつもりはないが、十五年間他人同然に過ごしてきたのだ。今更どうふるまえばいいのか、何を話せばよいのかわからない。

「使いが来るだけじゃなくて、伊豆の鈴倉邸に呼ばれるかもしれない。そうしたら、私ともきっとまた会える」

「本当ですか?」

 むしろ、伊織にはそのことのほうが嬉しかった。

「よかったら、向こうでも宝探しのお手伝いをさせてください。お金が欲しいっていうよりも、あの……僕、探偵小説が好きで」

 机の上にのっている『奇巌城』や、本箱に代用しているみかん箱に目をやる。

「埋蔵金や暗号なんて聞くと、もうわくわくしてしまって」

 何気なく申し出たつもりだったが、黒揚羽は伊織をまじまじと見つめて、

「おまえ、変わっているな。ためらいなく鏡を渡してくれたときも思ったが……」

 呆れたような感心したようなため息ののちにつぶやく。

「世間にも私をもてはやしている連中はいるが、それはあくまで表面的で気まぐれな興味、進んで協力してくれる人なんていないと思っていた」

 黒揚羽はふと遠い目をして感慨をもらすと、

「異存はないよ。もともとあの鏡はおまえのものなんだし、利己的なことを言わせてもらえば、鈴倉家の一族の中に、味方がいるというのは好都合だ」

「ありがとうございます!」

 伊織は顔を輝かせ、軽く頭を下げたが、

「だけど、信頼できないとか、裏切るんじゃないかとか、考えないのですか?」

 ふと、知り合って間もない自分の介入を許した、黒揚羽の無防備さが気にかかった。

「自分から志願しておいて、何を言い出すんだか。これでも人を見る目はあるつもりさ。でなけりゃやっていけない」

 胸を張ってみせてから、黒揚羽は伊織と同様の不安――というより疑問にとらわれたらしい。眉をひそめて、

「そういうおまえこそ、心配じゃないのか? 怪盗なんてしゃれた肩書きを掲げてはいるが、私は結局泥棒なんだぞ」

「いえ、そんな」

 伊織はあわててかぶりを振った。

「僕、あなたに憧れていたんです。泥棒は泥棒でも、あなたみたいに稚気があって、自分のルールを守って行動している人が、悪人のはずはありません」

 一息に告げてから、伊織はぱっと顔を赤らめた。普段の彼なら、若い女性に向かって「憧れていた」などと口にする勇気は、到底なかっただろう。

「これはまた、ずいぶん高く買ってもらったものだね」

 黒揚羽はおかしそうに、またいささか面映ゆそうに唇をほころばせて、

「それじゃあ、おまえが向こうに着いたら連絡するよ。さっきも話したとおり、屋敷には私の手下が潜入しているから、その子に話をつけておく」

「わかりました」

 少しの間待って、黒揚羽からほかに指示がないことを察すると、

「あの……一つ伺ってもいいですか?」

 伊織は気になってしかたがなかったことを尋ねるべく、遠慮がちに切り出した。

「何?」

「どうしてそんな……ちょっと変わった言葉遣いなんですか?」

 黒揚羽は目をしばたたいて、

「ああ。これは父親代わりの人の言葉遣いを真似ているうち、癖になってしまってね。ぶしつけに聞こえたら謝るよ」

「いえ、そういうわけじゃ」

 伊織は手を横に振った。実際、いきなり男言葉で「おまえ」呼ばわりされて、面食らいはしたものの、不思議と不快ではなかった。

「ならいい。私に言わせれば、おまえこそどうしていつまでも敬語なんだ?」

「どうしてって……」

 初対面も同然であり、敬意を寄せていた相手の前だから、ついかしこまってしまうのだった。

「もっとくだけた口調でいいよ。文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも、私はしょっちゅう仮面をかぶっているんだ。肩が凝るのは好きじゃない。まして、おまえと私は首領と手下ってわけじゃない、対等な関係にあるのだから」

「そういうことなら、やめます……じゃなくて、ええと、やめるよ」

 伊織がぎこちなく言って目を伏せると、黒揚羽の手が視界に入ってきた。数秒かかって、握手を求められているのだということに気づく。伊織は胸をどきどきさせながら、遠慮がちに白くしなやかな手を握った。

「さあ、そうと決まったら、すいかをいただくとしよう」

 黒揚羽の提案で、二人は生ぬるくなったすいかにかぶりついた。

 かくして、一人は女学生に扮した怪盗、一人は数奇な運命を背負った少年、という組み合わせの男女が、向かい合って黙々とおやつを食べるという、奇妙な光景が出現したのである。


 繁と由紀子の姿を探すと、二人も居間でお茶を飲んでいるところだった。

「おじさま、おばさま、私そろそろおいとましますわ」

「まあ、もう帰るの?」

 由紀子が腰を上げ、歩み寄ってきた。

「はい。このあとピアノのおけいこがありますので」

 黒揚羽は真っ赤な嘘をつく。いや、怪盗がピアノを習ってはいけないという法はないが、おそらく嘘なのだろう。

「もっとゆっくりしていってほしかったのに、残念だわ。でも、ピアノが弾けるなんて素敵ねえ。頑張ってね」

「ありがとうございます。今日はお邪魔しました」

「いえいえ。またいらしてね。頼りない子だけど、これからも伊織と仲良くしてくれると嬉しいわ」

 由紀子に名残を惜しまれながら、黒揚羽は中野家をあとにした。その夜、両親の追及と冷やかしに、伊織が辟易(へきえき)させられたことは言うまでもない。

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