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第一章 怪盗と強盗

 昭和三十年、夏――。

 中野伊織(いおり)はあくびをしながら、危なっかしい足どりで階段を下りた。()の当たらない一階の廊下では、ひんやりした湿気が肌にまとわりつき、足の裏もぺたぺたと床に貼りつくようだ。さわやかな朝とは言いがたいが、冷たい水で顔を洗うと、だいぶ気分がすっきりして頭も冴えてきた。

 居間に入って、

「おはよう」

 声をかけると、ごはんをほおばっていた父、(しげる)は、「おう」とも「うん」ともつかぬ返事をして、母の由紀子は台所から顔を出して「おはよう」と答える。

「もう、なかなか起きないんだから。三回も声かけたのよ」

 茶碗と味噌汁のおわんを伊織の前に出しながら、由紀子が言った。

「昨日も遅くまで本読んでたんでしょう。夜更かしはやめなさいって、いつも言ってるのに」

「わかってるんだけどさ……」

 朝から小言は聞きたくない。伊織はちょっと口をとがらせた。昨夜はルブランの『奇巌城』を読み返していたら、結局床に入るのが一時近くなってしまったのだ。

 納豆にしょうゆをかけてかき混ぜ、ごはんにのせて食べ始める。だが、父が手にしている新聞に、つい視線が吸い寄せられ、箸の進みがしばし止まった。伊織のほうを向いているのは社会面。北朝鮮の残留者問題、スイスで開催される「世界母親大会」とやらの話題、先日の北海道の豪雨の被害、東京都庁の汚職――。

「こら」

 由紀子が見とがめて言った。

「よそ見してないで、さっさと食べちゃいなさい」

「はあい……」

 伊織は声に不満をにじませながらも、言われたとおりにペースを上げる。

「あなたもお行儀の悪いことしないで」

「ん、ああ」

 繁も気まずそうに新聞を閉じ、畳に置いたが、

「もしかして、例の黒揚羽が気にかかるのか?」

 話を逸らすつもりか、伊織に訊いた。いともたやすく心を見透かされたのと、自分の単純さを指摘されたような気がしたのとで、伊織は気恥ずかしくなり、

「ん……まあね」

 言葉を濁した。

「黒揚羽ねえ。一体何者なのかしら」

 問いというよりはつぶやきに近い調子で、由紀子が言う。伊織と繁はそろって首をかしげた。

「まるでちょっとしたスターよね。週刊誌にも出てるし、ご近所でも噂になってるわ」

「ああ。うちの会社でも、そりゃあお偉方はよく思っちゃいないだろうが、若いやつらの中にはファンもいるよ。今まで新聞なんて、スポーツ面とラジオ欄しか見なかったのに、黒揚羽のおかげで社会面にも目を通すようになったやつだとか、被害に遭った家をわざわざ見に行ったやつだとか」

「あら、どこも同じなのね」

「僕は人んちをのぞきに行くほど、野次馬じゃないよ」

 伊織はささやかに抗議した。

「まあ、応援したくなる気持ちもわかるさ。少なくとも俺たち庶民にはな」

 繁はちょっと小気味よさそうに笑った。

 黒揚羽――。それは、近頃世間を騒がせている怪盗の自称であり、通称であった。初めて噂を聞く者であったら、怪盗なんて、おとぎばなしの妖精や魔法使いと同じような空想の産物、せいぜい少しばかり風変わりな泥棒が祭り上げられているだけさ、とせせら笑うかもしれない。だが黒揚羽は、まさに怪盗の称号にふさわしい特徴をそなえていた。富裕層――特に、私利私欲のためなら手段を選ばないような者ばかりを狙うこと、犯行の前に予告状を送りつけること、人を殺したり傷つけたりはしないこと、などだ。なお、目撃者が一様に語る、「長い髪」「華奢な体つき」といった言葉と、名前の優美なイメージから、その正体は女性だとささやかれている。

 黒揚羽が出没するようになってからというもの、身に覚えのある実業家や政治家たちは枕を高くしては眠れず、警察はじだんだ踏んで捜査に奔走した。ジャーナリズムはこぞって、今日はどこどこの社長が、借金のかたに手に入れたセザンヌの絵が、今日は元何々(なになに)財閥総帥(そうすい)秘蔵の、千利休ゆかりの茶碗が、今日は大臣なにがしの夫人自慢の、ダイヤモンドの首飾りが盗まれたなどと、黒揚羽の活躍を書き立てた。本屋ではアルセーヌ・ルパンや怪人二十面相の本を平積みにし、ここぞとばかりに売り出すありさまだ。

 探偵小説マニアの伊織は、黒揚羽への思い入れも人一倍強かった。単に大衆がヒーローならぬヒロインを求めて賛美したり、あこぎな金持ちに対して溜飲(りゅういん)を下げたりする気持ちばかりではない。自分の夢想が突然現実になったような、喜びと戸惑いの入りまじった気持ちも抱いていたのだ。

「お、もうこんな時間か。いかんいかん。伊織よりも俺が遅刻しそうだ」

 繁はかけ時計に目をやって言い、味噌汁を飲み干して出ていった。伊織も急いで残りの朝食を平らげ、歯磨きと手洗いを済ませると、

「行ってきます」

 洗濯物を干し始めた由紀子に声をかけ、家を出た。むらのあるねずみ色の雲に覆われた空からは、大粒の雨が落ちてくる。憂鬱な天気だが、空梅雨と騒がれている今夏のこと、むしろ慈雨と思って感謝するべきなのかもしれない。ズボンの裾や鞄を濡らしながら、開店前の静かな商店街を通り抜け、伊織は早足で駅へ向かった。


 いつも仏頂面をしている、小柄な初老の教師が、分厚い封筒を抱えて入ってくると、教室の喧騒はいったん静まった。だが、浮き足立っている生徒たちのこと、さざなみのようなひそひそ声はいつまでも消えない。

「じゃあ、これから期末試験の答案を返すぞ」

 声は大きいが、どこか投げやりな口調で教師が言い、封筒から紙の束を取り出す。

「青木」

「はい」

 机の上で手を組み、上履きの先でとんとんと神経質に床を叩いていた男子生徒が、さっと席を立つ。

(あずま)

「はい」

「安藤」

「はい」

 順番が進むにつれて、教室は喜びや驚き、安堵や落胆の声に包まれ、空気も緊張したものから興奮したものへと変わっていった。

「中野」

 自分の名を呼ばれ、伊織は立ち上がって教壇に向かった。答案を渡された瞬間、たくさんの赤い斜線が目に入る。点数を確認してみると四十八点だ。化学は伊織のもっとも苦手な科目であり、特に今回の試験は自信がなかったので、覚悟はしていたが、それでもまったくショックを受けないわけではない。

 ため息をついて席に戻ると、

「どうだった?」

 後ろの席の立花明生(あきお)が、愛嬌のあるどんぐりまなこをくりくりさせて、身を乗り出した。

「どうもこうもないさ。顔見てわからないか?」

 伊織は大袈裟に眉をひそめてみせた。

「よおくわかったよ。何点?」

「……四十八点」

「そうか。まあ、次があるさ」

 明生は芝居がかったしぐさで、伊織の肩に手を置く。

「うん。でも、母さんにこってり油をしぼられそうだ」

 両親に試験の答案を見せる習慣はないので、点数を訊かれてもごまかすことができるが、通信簿は見せないわけにはいかない。中間試験の点数も平均すれすれといったところだから、成績は推して知るべし。楽しい夏休みの前に待ちかまえる試練を思うと、今から少々憂鬱だ。

「立花こそどうだったの?」

 伊織は答案を机の上に伏せ、教科書で重しをしながら訊いた。

「俺? 俺は思ったよりよかったよ」

 明生は余裕たっぷりに笑って胸を張った。こんな態度を取ってもまったくいやみではなく、むしろ微笑ましく感じられるのは、彼の人徳と素直さによるところだろう。

「へえ。もったいぶらないで、はっきり教えろよ」

 伊織とは反対に化学の得意な明生がこう言うからには、高得点に違いない。

「うん。九十点ちょうど」

 こめかみのあたりを指でかきながら答えた明生に、

「さすが、優秀じゃないか。何点か分けてくれよ」

 うらやましく思いながらも、伊織は本心から賛辞を送った。

「あっ」

 唐突に明生が、何かに気づいたらしく声を上げた。伊織がはっとして前を向くと、答案を同級生の宮島が手にして見ている。傍らでは、いつも宮島とつるんでいる井上ものぞき込んでいた。

「返せよ」

 むっとした伊織が伸ばした手をかわし、

「四十八点、と」

 宮島はぼそりと言った。伊織は頬に血が上るのを感じる。

「うわあ、ひでえ。俺だってもっとましな点だったぜ」

 井上が口を挟む。ただの追従(ついしょう)ではなく、少なからず本音らしい響きがこもっているのがまた悔しい。

「一年の一学期からこれじゃ、先が思いやられるな」

「おまえ、来年進級できるの?」

 気の置けない者同士の軽口ではなく、明らかに悪意の感じられるからかい。伊織がうつむいて黙り込んでいると、

「やっぱり、どこの馬の骨かも知れないやつは、頭もそれなりだな」

 宮島の言葉が胸を刺した。思わず顔を上げると、相手が傷つくのを期待しているというような、唇をゆがめた酷薄な顔をしている。

「何だって!」

 怒鳴り声とともに、机をバンと叩く音と、椅子がガタンと揺れる音が聞こえた。伊織が驚いて振り向くと、明生が血相を変えて立ち上がり、宮島と井上を睨みつけていた。宮島は気に障る薄ら笑いをやめなかったが、井上はひるんだ表情を見せている。ほかの同級生たちもみな、かたずを呑んでなりゆきを見守っていた。

「ふざけるな! おまえら、言っていいことと悪いことの区別もつかないのか? 中野に謝れよ!」

「立花」

 伊織はあわてて明生の手首をつかみ、制止の意をこめて見上げた。

「こら、そこ! 授業中だぞ」

 同時に教師の叱責が飛ぶ。

「だけど先生……」

 釈明しようとする明生を、

「言い訳はいい。早く座れ」

 にべもなくはねつけると、

「ほら、宮島も井上も席に着け。解説を始めるぞ」

 教師は教科書で自分のてのひらを二、三度叩いた。明生は唇を噛み、すこぶる不本意そうに腰を下ろす。宮島は相変わらず冷然と、井上はほっとしたようにそそくさと、それぞれの席に戻った。

「まず問一と問二。これは中間試験の範囲内だし、説明するまでもないな。問一の答えは、単体がイ、ホ、ト、化合物がハとニ、混合物がロとヘ。問二はロ、ホ、ヘで、元素記号は順にMg、Zn、Kだ。問三だが、窒素の化学式は……」

 教師が解説に集中し始めたころ、

「ほんと、いやなやつだよな」

 明生がいまいましそうにつぶやくのが聞こえた。

「大病院の院長の息子だからって、人を見下しやがってさ」

「落ち着けよ。気持ちは嬉しいけど、あんなやつら、相手にするだけ時間のむだだし、むきになったら向こうの思うつぼだし」

「おまえってやつは、大物なんだか気概がないんだか……。これじゃ立場が逆じゃないか」

「気概がないとは言ってくれるなあ」

「だってさ、あそこまで言われて黙ってるなんて……。理性的だとか、寛容だとかってのは美徳だと思うけど、さすがに見ていて歯がゆくなるよ」

 ふくれっつらをする明生を前に、伊織はただ苦笑した。

 伊織は自分の氏素性を知らない。伊織の母親――と思われる女性は、まだ乳飲み子だった伊織を抱いて、空き地で行き倒れになっていたという。近くを通りかかった中野夫妻が医者を呼んだところ、赤ん坊は空腹と疲労で衰弱していただけだったが、女性は肺炎から敗血症を患っていた。そのまま病院に運ばれたものの、数日後には帰らぬ人となってしまったのである。見舞いのつもりで病院を訪れ、そのことを知った繁と由紀子は、子宝に恵まれないのを悲しんでいたこともあり、これも何かの縁と、遺された子供を引き取ることにしたというわけだ。

 子供が「伊織」という名前であることは、おくるみに縫いつけられていた文字からわかったが、それ以外のことは一切不明であった。身分証の類は見当たらなかったし、警察も引き取り手の決まっている孤児の身元調査になど、ろくに対応してくれなかったのだ。女性の数少ない持ち物の中で、唯一手がかりになりそうだったのは、漆塗りに紅梅の蒔絵(まきえ)を施した、古めかしい手鏡だったが、これをどう使って母子(おやこ)の身元を調べればよいものか、一介の民間人に過ぎない繁たちにはわからなかった。

 あまつさえ血縁にまつわる噂というのは、色恋沙汰の次に人々の興味を惹くものだ。ましてこうも劇的ないきさつがあっては、伊織が繁と由紀子の実子ではないということが、知れ渡らないほうが不思議であった。伊織自身も、周囲の人々が自分に向ける、同情と好奇の入りまじった眼差しや、ひそひそと交わされる会話の断片や、宮島のような心ない(やから)からときに浴びせられる、あからさまな侮蔑の言葉によって、早くから真実を知っていた。

 とはいえ、あの悲惨な戦争と、敗戦後の窮乏と混乱の中、()さぬ仲の自分をいつも慈しみ育ててくれた両親に、伊織はいくら感謝してもし足りないと思っているし、義理や理屈ではない愛情を抱いてもいる。生みの親がどこの誰なのか、気にならないといえば嘘になるが、さりとて切実に知りたいと思うわけでもなかった。

「いけね」

 教師がじろっと二人を睨んだので、明生はちょっと舌を出して首をすくめた。伊織もあわてて前を向き、鉛筆を持ち直す。脳裏に残る宮島の言葉を追い払うように、軽く首を振ると、伊織は板書されている化学反応式を書き写し始めた。


        ***


 いわゆる草木も眠る丑三つ時――。居酒屋でさえも看板を下ろし、町は静まり返っていた。時折、悲しげにも物恐ろしくも聞こえる野良犬の遠吠えだけが響き、月が雲を透かしておぼろに輝いている。

 異様な気配に、伊織は眠りから覚めようとしていた。夢うつつに、がたごとというかすかな物音が聞こえる。はっと目を開けると、四畳半の狭い部屋のこと、見回すまでもなく、物音の主が視界の隅に飛び込んでくる。伊織はがばっと跳ね起きた。心臓が早鐘のように鳴り始める。

 物音の主は机回りを漁っていた。月光は弱々しいうえに逆光で、その姿は暗くかげっていたが、父でも母でもない、見知らぬ人間だということくらいはわかる。中肉中背、というにはやや上背のある男だった。

 伊織の動きが目に入ったのだろう、男は手を止めてこちらを向いた。伊織の心臓がひときわ大きく跳ね上がる。後ろに手を突いた体勢のままあとずさった。口の中が干上がり、額やてのひらから脂汗がにじみ出る。

 男は戸惑うことなく、腰から何かを抜いた。暗がりに目が慣れてきた伊織には、その正体を見て取ることはできたものの、しばし脳が認識を拒む。

(……拳銃!?)

 映画や小説、ことに伊織の愛する探偵小説ではおなじみだが、多くの人は、一生涯実物を目にすることはないであろう凶器だ。

 男はやや大仰な動作で安全装置を外し、銃口を伊織に向けた。あまりに非現実的な状況に、今度こそ頭の回転が追いつかなくなり、伊織は何も考えられず、感じられなくなってしまった。

「大声を出すなよ。おもちゃじゃないんだからな」

 男が低い声で凄みを利かせた。伊織は我に返り、がくがくと首を縦に振る。男は変哲のない作業着を着ていた。目が細いのと頬骨が張っているのが目立つくらいで、特別いかついというわけではないが、心なしか、全身から剣呑さが立ち上っているような気がする。

「おまえ、中野伊織だろう?」

 どうして自分の名前を知っているのだろう? そして、なぜ確認する必要があるのだろう? 怪訝に思ったのと、認めたら何か危害を加えられるのではないか、という危惧から、伊織は今度はためらいがちにうなずいた。拳銃などを持っているところからしても、この男はただの物盗りではないのかもしれない。

 さらに、次に男が発した質問も、伊織の予想だにしないものだった。

「鏡はどこにある?」

「かが……み?」

 伊織は上あごに貼りついた舌を引きはがして、かすれた声で訊き返した。

「そうだ。おまえの母親が持ってたっていう手鏡だ。まさか捨てたり、売ったりはしていないだろう?」

 理由はわからないながら、男の意図は呑み込めた。が、生みの母の唯一の形見を、得体の知れぬ男の言うなりに差し出すのが悔しく、伊織はすぐには返事ができない。

「何度も言わせるな。鏡はどこだ?」

 男が語気を強め、一歩近づいてきた。

「お、押し入れに……」

 とっさに口を割ってしまう。

「ふん。おまえが出せ」

 男は抑揚のない声で命じた。伊織はふらふらと立ち上がり、銃口を気にしながら男に背を向けた。押し入れのふすまを開け、色あせた風呂敷に包まれた鏡を取り出す。

 箱を抱きかかえ、男のほうに向き直ろうとしたときだった。

「待て」

 抑えてはいるが凛とした、中性的な声が、息のつまるような緊張と静寂を破った。伊織はもちろん、男も弾かれたように振り返る。

 そこには、窓の桟に両足をのせ、膝を折った体勢の人影があった。鼻から下を覆面で隠し、ぴったりしたシャツとズボンを身につけている。一つに結い上げた髪と、マントが風になびいていた。シャツもマントも同じような暗色なので、体の線は見えにくい。それでも控えめな胸のふくらみが見て取れ、少年ではなく女性だということがわかった。

「誰だ、貴様」

 新たな闖入者(ちんにゅうしゃ)に銃口を向けて、男が訊いた。だが、伊織にとってはもはや明らかなことだ。

(この人は……あの……)

「信じられない」という思いと「そうに違いない」という思いが、伊織の心の中で交互にふくらむ。今度は恐怖ではなく、期待で胸が高鳴っていく。男とて、彼女の噂を耳にしていないはずはあるまいが、とっさには思いつかないのだろう。

「黒揚羽……?」

 女性が答えるより先に、伊織は思わず口に出していた。女性は伊織のほうを向き、あごをしゃくって、

「私もずいぶん有名になったものだな。名乗る前に正体を言い当てられるなんて」

「黒揚羽だって? ああ、今女子供がぴーぴー騒いでる、きざな女泥棒か?」

 黒揚羽から銃口を逸らさぬまま、男は鼻で(わら)った。

「本物なのか? 黒揚羽は金持ちしか狙わないし、盗みに入る前には予告状を出すって聞いたが」

「あいにく本物さ。ただ、今回は盗むつもりで来たんじゃないんだ。こみ入った事情があってね。おまえだって、自分の仕事にどんな意味があるのか、不思議に思っていないはずはないだろう?」

「貴様……なぜそんなことを知っている?」

「私もはなはだ興味があるんだ、その鏡に。だからこそ、こんなタイミングで現れたんだが」

 その答えから、彼女を敵――少なくとも邪魔者だと認識したのだろう、男は黒揚羽に殴りかかった。拳銃を使わなかったのは、銃声が響くのをおそれたからか、女だと思って見くびったからか。黒揚羽は桟から飛び下りると、男の懐に入って、みぞおちにこぶしを打ち込んだ。

「ぐふっ」

 男がくぐもった呻き声を上げてくずおれる。その体の下敷きにならないよう、黒揚羽はさっと身をかわした。

 だが敵もさる者、次の瞬間、男はカッと目を見開いて銃を抜く。とはいえ、幸運にもその動きはまだ鈍重で、手元もふらついていた。黒揚羽がとっさに横跳びに跳ぶ。

 家中を揺るがすような強烈な音と衝撃が、伊織の脳天に響いた。音がやんでも鼓膜が震えているような気がする。銃弾は、黒揚羽のマントをかすって壁にめり込んだ。

「ちっ」

 男が舌打ちをして、再び照準を合わせようとする。その隙に、黒揚羽は拳銃を蹴り上げた。こんなときなのに、思わず伊織が見とれてしまったくらい、すらりとした脚がまっすぐ、美しく伸びる。鈍く重々しい音とともに、拳銃が畳に落ちた。黒揚羽はそれを拾い上げたが、構えることはせず、腕を下ろしたまま男を見据えた。

「伊織、どうしたの!?」

「今の音何だ!?」

 突然、階下から切迫した声が聞こえた。とたんに男は身をひるがえす。先程の苦痛が残っているのだろう、いくらか前かがみになりながらも、窓から屋根に飛び下りた。

 一方、黒揚羽はあとを追うことはせず、視線を伊織に移した。

「悪いが、その鏡、しばらく預からせてもらってもいいか?」

「え……」

 思わぬ台詞に、伊織は目を白黒させる。

「調べたいことがあるし、おまえが持っていると、また今日のように狙われるかもしれないからな。大丈夫だ、盗るわけじゃない。それに、近いうちにまた来る」

 黒揚羽の声には真摯な響きがにじみ出ている。伊織は自分の直感を信じることにした。恋文でも渡すように、両腕をまっすぐ伸ばして手鏡を差し出す。

 自ら頼んだにもかかわらず、黒揚羽は一瞬驚いたような目をしたが、

「ありがとう」

 手鏡を受け取ると、心なしか弾んだ声で言った。足音と階段のきしむ音は、すぐそこまで迫ってきている。黒揚羽は身をひるがえすと、窓枠をつかみ、その名のとおり蝶のように身軽く体を持ち上げた。同時に、

「伊織? 開けるわよ?」

 由紀子の声がして、勢いよくふすまが開く。

「きゃっ!」

「うわっ!」

 黒揚羽の後ろ姿を目にした両親が叫んだ。だが親たるものの(さが)で、不審な影の正体より、まずは我が子のことが心配らしい。窓に駆け寄るでも、通りを見下ろすでもなく、

「何だ!? 今の泥棒か?」

「大丈夫? 怪我はない?」

 立ち尽くしている伊織に質問を浴びせた。由紀子などは、すがりつくように伊織の肩をつかんで、今にも泣き出さんばかりに顔をゆがめている。

「うん、僕は大丈夫」

 伊織は何度かうなずいてみせて、

「泥棒……というより一人は強盗で、もう一人は」

 未だ夢から覚めやらぬような心地で言った。

「黒揚羽だったよ」

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