第八章 明かされる真相(二)
だが、伊織の予想に反して、突然総一郎は身をひるがえすと、大股に荒々しく近づいてきた。
「黒揚羽!」
黒揚羽の前に立ちはだかる。「黒揚羽」などという風雅な名は泥棒にはふさわしくないと思っているのか、基本的に彼女のことを「女賊」「あの女」と呼んでいる総一郎だが、そんなことに構っている余裕はなかったらしい。
「貴様、まさかわざと改竄した文章を教えたのではあるまいな?」
総一郎は憎々しげに訊いた。黒揚羽は無表情な目で彼を見上げ、
「そんなことはない。もとの紙片は燃やしてしまったから、証拠はないがな」
イエスと答えようとノーと答えようと黒揚羽に利益はない。淡々と、最低限の事実だけを述べたのは、策を弄さないことが最上の良策だと考えたからだろう。
「我々をたばかると為にならんぞ」
総一郎は再度凄味を利かせたが、
「そんなことはわかっている」
黒揚羽はそっけなく答えただけだった。
総一郎は黒揚羽を上から下まで眺めた。もちろん信用はしていないだろうが、嘘をついていると決めつける理由もまた見つからないのだろう。そのことにかえっていらだちを募らせたのか、不意にももを上げたかと思うと、黒揚羽の腹部を立て続けに蹴る。爪先が人の体に食い込む音と振動が伝わってきて、伊織は自分の体まで痛み出すような気がした。黒揚羽は苦悶の表情を浮かべて耐えていたが、総一郎が蹴るのをやめたとたん、伊織の肩にぐったりともたれかかる。
「黒揚羽!」
自分のほうが泣き出しそうな声をしていることに気づいた。黒揚羽はこくんとうなずき、
「……すまない」
かすれ声で詫びた。今の彼女は颯爽たる怪盗ではなく、苦境にあえぐ一人の少女――そんな思いが伊織の胸をよぎり、痛々しさと怒りがいっぺんにこみ上げてきた。顔を上げ、総一郎をぐっと睨みつける。
「ひどいことを!」
何を言っても総一郎の良心には響かない、とわかっていた伊織だが、感情を吐き出さずにはいられなかった。総一郎は半ば呆れた、半ばわずらわしそうな目で伊織を一瞥する。
「佐々木」
「はい」
それも自分の仕事であるかのように、主人の狼藉を見つめていた佐々木が、総一郎に歩み寄る。
「銃をよこせ」
「え……」
佐々木は一瞬、声を上げた口の形のまま静止する。
「何をなさるのでございますか?」
「おまえにしては間の抜けた質問だな。銃を手にして成すことといえば一つではないか」
総一郎は歪んだ愉悦を感じさせる笑い方をした。
「ですが……埋蔵金が見つかるまでは生かしておくおつもりだったのでは?」
総一郎の意図がわかっても、佐々木はまだ怪訝そうだ。
「殺しはしないさ」
もったいぶった物言いは、佐々木より伊織と黒揚羽に聞かせるためだったのだろう。それが証拠に二人を横目で見て、
「殺しはしないが、死なない程度に痛めつけてやろうと思ってな。どうせ長くない命なのだ、手足の一本や二本なくなっても困りはしないだろう?」
戦慄が背筋を駆け抜けた。黒揚羽もぴくっと体を震わせ、頭をもたげる。
総一郎を気にしながらも、伊織は黒揚羽に目をやった。言葉を交わすことはできないが、こんなとき訊きたいことは口に出さずとも伝わるだろう。
(どうしたらいい……?)
今まで揺るぎない光を宿していた黒揚羽の瞳にも、初めて困惑と不安が浮かんでいた。いかに黒揚羽が俊敏でも、二対四では分が悪いし、今は何度も蹴られた直後だ。
だが、黒揚羽は後ろに回った手で伊織の手をつかんだ。それはもちろん例の合図に備えた準備だったのだろうが、彼女自身が心を落ち着かせようとするしぐさにも思える。伊織は返事代わりに手を軽く振り、再び前を向いた。総一郎の右隣には佐々木、左斜め後ろに健吾、平岡。伊織はさりげなく、手前の健吾の一挙一動に神経を集中させる。四人が持っている懐中電灯のおかげで、体当たりの狙いを定めるくらいなら困らない明るさだ。
佐々木が懐に手を差し込む。黒揚羽のまとう空気が緊迫の度を強めたのがわかった。ぎりぎりまで引きしぼられた弓のように、というのもあながち比喩ではあるまい。
だが、次の瞬間――。
伊織は目を疑った。いや、疑う前に、目の前で繰り広げられた光景を理解できなかった。今まで自分がなじんでいた現実とは違う、抽象画のような色と形の集合にしか見えない。懐中電灯の光に照らされた真紅の色だけが、鮮やかに目に焼きついた。
佐々木が拳銃で、総一郎を撃っていた。
「まさか……」
黒揚羽の認識は早かったが、さすがに到底落ち着いては見えず、いっぱいに目を見開いて細かく震えている。
腹部から血があふれてはいたが、少なくとも総一郎は死んではいない。後ろに倒れ、化け物にでも遭遇したような、恐怖と驚愕の表情で佐々木を凝視している。
時が凍りついたような中で、真っ先に動いたのは平岡だった。が、彼の行動もまた予想外のものだった。呆然自失している健吾に飛びかかるなり、殴り倒したのだ。抵抗らしい抵抗もしないまま、健吾は動かなくなった。気を失っただけなのか、打ちどころが悪くてあえなく絶命したのか、それさえもわからない。
佐々木と平岡が組んでいたということか? 徐々に正気を取り戻しつつあった伊織は考える。
「なぜ……なぜ……」
身をよじった体勢で、佐々木から一寸でも一分でも遠ざかりたいというように這いながらも、総一郎はうわごとのように繰り返す。
「知りたいですか?」
総一郎の占有物だったいたぶるような口調を、今度は佐々木が使う。それでも油断は大敵と思っているのか、肘を引いてはいるものの、まだ引き金に指をかけている。
「そうですね。冥土の土産とやらに教えて差し上げてもよいかもしれません。むろん、あの二人を助けたかったから、などという理由ではありませんよ」
伊織と黒揚羽を視線で指し示す。
「いささか長いお話になりますので、終わるまであなたさまが意識を保っていらっしゃるとよいのですが……」
佐々木は冷酷な前口上を述べ、
「今から十五年前のことです」
おもむろに切り出した。
(十五年前……?)
「長いお話になる」という佐々木の言葉から、こみ入った事情があることは察せられていたが、その語り出しはあまりに突拍子もなかった。十五年前といえば、秋子が伊織を連れて出奔したころか。が、まさか自分と関係があるとも思われない。
「当時、数馬様と志摩子様は、祝言を上げて二年と経っていらっしゃいませんでした。ですが、志摩子様は不服でいらっしゃったようです。それもそのはず、数馬様が事業のために伊織様の母君、秋子殿と引き裂かれ、志摩子様と婚姻させられたのは有名な話。志摩子様のお耳にも届いていたそうですから。また、数馬様は昔の女のことを忘れてはいない、決して自分を愛してはいない、それでいてうわべは優しいのが腹立たしいとも、志摩子様はこぼしていらっしゃいました。そして……私も若かったのでございますよ」
感傷というよりは自嘲に近い口調だった。
「私は志摩子様と、男と女の関係を持ったのでございます」
苦痛に歪んでいた総一郎の顔がさらに歪む。自分ではなく息子の妻なのだから、嫉妬という感情ではないかもしれないが、使用人に寝取られていたというのは耐えがたい屈辱なのだろう。
「それだけではありません。子まで成したのです」
追い討ちをかけるように、佐々木は続ける。
「子だと……? まさかっ……!」
「ええ。八雲様は……いいえ八雲は、わたくしの息子なのです」
佐々木はこともなげに告げる。ちょうど波音の合間で、その言葉は伊織の耳にいやにはっきりと響いた。体をがくがくと揺さぶられているようにめまいがする。
「情事を重ねるうちに志摩子様が身ごもられ、わたくしとしても我が子か否かは気になりました。八雲が生まれると、志摩子様にひそかにご自身と八雲の血液型を調べていただき、わたくし自身も調べたのです。数馬様の血液型は、A型だと知っておりましたから。その結果、志摩子様はA型、八雲はB型、そしてわたくしもB型……疑いの余地はありますまい」
佐々木は目を細めた。
「もしや……数馬さんを殺したのもおまえなのか?」
黒揚羽が押し殺した声で訊いた。その重大な事実が、伊織の頭の中心に飛び出してくる。今までは、総一郎が撃たれた衝撃で意識下に押し込められていたのだ。
「そのとおり」
佐々木はあっさり肯定する。
「さ、佐々木ぃ……」
総一郎は地の底から響くような声をしぼり出し、
「貴様、許さん! 許さんぞ!」
傷も忘れたように叫んだが、すぐに呻き声を上げて身悶える。
「あまり興奮なさるとお体に障りますよ」
佐々木は片頬に憫笑を刻んだ。
「半年ほど前、八雲、志摩子様、数馬様のお三方が自動車事故に遭われたのを、よもやお忘れではないでしょう。数馬様は比較的軽傷でしたが、八雲と志摩子様は輸血が必要でした」
伊織の脳裏にある映像がひらめいた。海に泳ぎにいったときに見た、八雲の傷跡――。
「事故後、数馬様の様子がおかしいことに気づいた志摩子様は、もしやと思って問いただしたそうです。すると数馬様は、あの日看護婦の一人が、『奥様はA型、お子様がB型です』と言うのを聞いたと告白なさいました。A型の自分とA型の志摩子様の間に、B型の八雲が生まれるはずはないと……。ですが、若いころの自分の心持ちを振り返ってみれば、志摩子様を責める気にはなれない、このことは自分一人の胸に秘めておこうとおっしゃったそうです。ああ、補足しておきますが、志摩子様とわたくしは、八雲が生まれて以降体を重ねてはおりません。私的なお話をするのも、このことが久方ぶりだったのですよ」
言い訳がましいと取られかねない一言だったが、佐々木の物言いにそんな印象はない。たとえ死にゆく人間に対してでも、事実をはっきり知らせておきたいという、奇妙な几帳面さであるように感じられた。
「数馬さんは知っていたのか? 八雲君の父親が誰であるかを……」
再び黒揚羽が口を開く。彼女にとっては不本意かもしれないが、総一郎の気持ちを代弁している形になっていた。
「ええ。育ての親として、知っておきたいとおっしゃったそうです。開き直っていらっしゃったのか、志摩子様は答えてしまわれました。もっとも、志摩子様に対してと同様、数馬様はわたくしに報復なさるようなことはまったくございませんでした。態度はいくらかぎこちのうございましたが」
「だったら、どうして……半年も経った今になって、父さんを?」
「それはほかならぬ、伊織様のせいです」
佐々木はぴしりと言い放った。
「伊織様は数馬様が心から愛した秋子殿の息子……そして唯一数馬様の血を引く実子。あなたに会えば、志摩子様の不義を、八雲の出生の秘密を、誰にも言わぬとおっしゃっていた数馬様の気も変わるかもしれない。八雲を排斥し、伊織様を跡継ぎに据えるかもしれない」
「でも、父さんはそんな人には見えなかったよ!」
長年数馬と一つ屋根の下で暮らし、幼少のころは兄のごとく世話を焼いていたという佐々木と、曲がりなりにも十六年間夫婦として連れ添ってきた志摩子が、そこまで数馬のひととなりを見誤っているとは思えない。
佐々木は伊織の主張に直接は答えず、
「もともと志摩子様は、数馬様のそんな反応がお気に召さなかったようです。自分のことなど眼中にないような態度に、誇りを傷つけられたのでしょう」
もとどおり話を続けた。
「それでも、八雲のことを思えば好都合と、母親としての志摩子様は納得していらっしゃったようです。このまま数馬様が口をつぐんでいてくだされば、八雲は鈴倉家の長男として、何の問題もなく社長の座を継げるのですから。ですが、伊織様の登場によって、八雲の立場すら危うくなった。少なくとも志摩子様はそう思い込まれた。半ば精神の均衡を崩していらっしゃったのかもしれませんね……。ですからわたくしは、白梅の鏡から暗号文が見つかり、総一郎様が伊織様を捜そうとなさったときに、それとなくお止めしたのです。いずれにせよわたくしのものにはならないのですから、埋蔵金などはどうでもようございましたし」
志摩子に対してか総一郎に対してか、佐々木は軽くため息をついた。
「そして、伊織様の居場所が明らかになったとき、志摩子様はわたくしに命じたのです。夫を……数馬様を殺してくれと」
では、手は下していないものの、志摩子は共犯ということか。もう伊織には驚く余力はなく、ただ八雲への同情だけが胸をひたした。
ただ、あるいは――。それが八雲の救いになるかはいざ知らず、志摩子は本当は数馬を愛していたのかもしれない。だからこそ、妻がほかの男と密通し、生まれた子を十四年間我が子と思い込んで育ててきたことを数馬が知っても、嫉妬はおろか怒りも憎しみも向けてくれないことが、やりきれなかったのではないか。報われぬ愛がいつか歪んで、この件をきっかけに殺意に転じたのではないか。男女の機微に精通しているとは言いがたい伊織だが、ふとそんな想像が頭をよぎった。
「数馬様は伊織様が現れたからといって豹変なさるような方ではない、心配なさることはないと、わたくしは再三志摩子様を諭し、なだめました。ですが、聞く耳を持ってはくださいませんでした。しまいには、数馬様を殺さないなら、八雲はわたくしに暴行されてできた子だ、と総一郎様に訴える、とまでおっしゃる始末だったのです。むろんそれでは本末転倒なのですが、もはや理性的な判断ができなくなっていらしたのでしょう。そんな中、ついに伊織様が鈴倉邸を訪れ、黒揚羽の予告状が舞い込んだのです」
黒揚羽の表情がわずかに硬くなった。
「予告状を見たとき、わたくしの心に天啓のようにある計画がひらめきました。黒揚羽が祝賀会の夜暗号文を盗みに来る……。でしたらそのとき数馬さんを殺害すれば、黒揚羽に罪を着せることができるのではないかと」
暗い中にも、佐々木の目が異様な光を帯びたように見える。
「祝賀会の前日、わたくしは数馬様にこうお話ししました。宴が終わろうとするころ、人目につかないように、裏門付近の楓の木の陰に来てほしい、どうしてもそこでお見せしたいものがあると。また、このことは決して誰にも言わないでほしいと」
かつての志摩子の密夫である佐々木に、そんな秘密めかしたことを言われたら、当然数馬は、八雲か志摩子に関わることだと思い込んだだろう。
「そしてわたくしは、総一郎様の水差しに睡眠薬を盛りました。総一郎様が宴の最中眠り込んでしまえば、介抱という口実で寝室にこもることができますから。本当は、わたくしも薬で眠らされたことにしようかとも思ったのですが、すると万一部屋の外で姿を見られた場合、言い逃れができませんからね」
「ちょっと待って。黒揚羽もさかずきに睡眠薬を仕込んだって言ってたじゃない」
伊織は混乱して、黒揚羽と佐々木に交互に目をやった。
「ああ。つまり総一郎は二度睡眠薬を飲んだということになる。病院に運ばれたとはいえ、運がいいよ。あの高齢で多量の睡眠薬など飲んだら、命を落としてもおかしくはないのに……」
図らずも人を死に至らしめるところだったことにおののいたのか、黒揚羽の瞳に罪悪感がちらついた。もっとも、あのときは大事に至らなくとも、今となっては右腕だったはずの執事に裏切られ、撃たれて呻いている総一郎が、「運がいい」のかは微妙なところだった。
「水差しの水は処分しましたが、万一、総一郎様が眠り込んだことに不審を抱かれたときにも、黒揚羽の仕業にできると思ったのですよ。まさか本当に、黒揚羽も同じ手を使ってくるとは思いませんでしたが……。わたくしはあの日、念のため、少しでも目を離したものと、人が提供したものは飲み食いしなかったのですが、正解でしたね」
佐々木は自分の判断を評価するようにうなずいて、
「約束どおり木陰に現れた数馬様に、わたくしは誰にも会わなかったかとお尋ねしました。数馬様が首肯なさり、見せたいものとは何なのだと問われたとき、わたくしは鉄梃を振り上げました」
そのときの感触を思い出しているのか、手元に視線を落とした。
「数馬様が息絶えたのを確認すると、わたくしは数馬様の着衣を乱し、もみ合いになったように見えるよう細工いたしました。無抵抗のまま殺されてしまったように見えては、顔見知りの犯行だと露見してしまうでしょうから……。綱渡りのような犯罪でしたが、ここまでは順調でした。ですが、落とし穴というのは、得てして最後に待ちかまえているものですね。寝室に戻ったわたくしは見てしまったのです。総一郎様が目を開けていらっしゃるのを」
首尾よく殺人を終えて帰ってくると、薬で眠らせたはずの相手が虚ろな目で宙を見つめている。その光景を想像すると、何か奇妙に恐ろしかった。
「ほんの一瞬のことでしたし、神経が高ぶっていたがゆえの錯覚だったのかもしれませんが、むろんわたくしは気が気ではありませんでした。正直なところ、その場であなたさまも葬ってしまおうかと思ったのです。濡れ手ぬぐいか何かをお顔に押しつけて……。ですが、ちょうどそのときお多喜さんが部屋を訪れたため、機会を逸してしまったのです」
そういえば、あのとき八雲が教えてくれた。数馬が席を外していた間、多喜が総一郎の寝室を見舞ったと。
「翌日の夕方、あなたさまが本当にお目覚めになったとき、わたくしは病院のベッドに付き添っておりましたね。そのときのご様子を拝見したかぎりでは、気づかれてはいないと思いました。あなたさまは打算的ですが直情的なお方。もしわたくしが寝室を留守にしたことに気づき、疑惑を向けていらっしゃったとしたら、その場で詰問なさったはずです。ちょうど伊織様になさったように……」
伊織は思わず納得してしまう。
「とはいえ、完全に気を抜いたわけではありません。わたくしの錯覚であればよいのですが、本当に目を開けていらっしゃったにもかかわらず、覚えていらっしゃらなかっただけだとしたら……。ふとした拍子に思い出され、不審に思われることもあり得ます。そこへ再び天の助けが降りてまいったのですよ。岩崎と健吾が、漁船の一件を密告してきたのです」
佐々木は地面に伸びている健吾を一瞥して、
「埋蔵金のありかが無人島と来れば、そこにいるのは総一郎様とわたくし、せいぜい数人の味方、そして黒揚羽の一味……。味方を買収し、途中までは総一郎様に従って黒揚羽たちを縛り上げます。総一郎様は帰り際に撃ち殺し、黒揚羽たちも始末するのです。そしてわたくしは警察に訴えます。埋蔵金を探しに行ったこと、黒揚羽一味を捕らえたこと……ここまでは真実ですね。ですが、この先を捏造するのですよ。彼らはひそかに縄を解いていて、総一郎様を殺した」
どきりとする。殺す気はなかったにせよ、伊織たちがやろうとしていたこととほぼ同じだ。
「わたくしと平岡は応戦し、黒揚羽一味を仕留めた。使った拳銃は、黒揚羽たちのものだと言えばよい。これがわたくしの考えた筋書きです。埋蔵金のことは警察にはごまかし、後日すべてが片づいてから、改めて探しにくればいい。この計画なら、わたくしは総一郎様を葬ることができるのみならず、埋蔵金まで我が手中に収めることができます」
佐々木は満足げに微笑した。
「だけど、よりによって、どうして今祖父を撃ったの?」
伊織たちにとっては僥倖だったのだから、「よりによって」という言い回しはおかしいが、佐々木にとって伊織たちが――というより黒揚羽が脅威だということに変わりはないはずだ。それを助けるような真似をしたのが不思議だった。
が、今度は佐々木は顔も動かさず黙殺した。総一郎に聞かせる気のない話をするつもりはないようだ。
「総一郎は確か、手足の一本や二本なくなっても……と言っていただろう?」
律義にも黒揚羽が口を開く。
「今のような佐々木の話を聞けば、当然警察はこの島へ来て、現場検証を始めるだろう。そのときに私たちの死体に不自然な傷が……佐々木の話と食い違うような傷が残っていたらどうする?」
「そうか」
伊織は合点した。伊織と黒揚羽を撃つのをやめるよう、総一郎を丸め込むこともできたろうが、その総一郎とて、佐々木にとってはいつ殺してもいい相手なのだ。ならば、余計な手間をかけずにいっそ今、と思ったのだろう。
「それに、総一郎に拳銃を渡すのも気が進まなかっただろうしな」
黒揚羽は付け加える。
「き、貴様……」
不意に、聞くだけで体が瘴気に冒されそうな声が響き、伊織の背筋に震えが走った。
「父親の代から……使ってやっていた……恩も忘れて……」
ずっと無言だった総一郎が、さながら亡霊のような形相で、絶え絶えに怨嗟の言葉をもらす。
「これは笑止。おのが利益と欲望のためなら手段を選ばぬ生き方を、わたくしに教え込んでくださったのは、あなたさまではありませんか」
佐々木はあっさりと一蹴した。
「では、そろそろお別れです、総一郎様。三十年間お世話になりました」
これから殺そうという相手に手向けるとは思えない生真面目な台詞を、普段どおりの口調で言った。佐々木なりのユーモア――恐ろしく悪意のあるユーモアなのかもしれない。佐々木は拳銃を再び前に突き出した。
そのとき、黒揚羽につかまれたままだった伊織の手に、明らかな力がこもった。伊織はびっくりして黒揚羽を見る。
総一郎を助けるつもりなのか? それとも単に、佐々木の注意が総一郎に向いている今がチャンスだと思っているのか? いや、両方なのかもしれない。二度目の合図までのほんの数秒の間に、伊織の脳裏をそんな考えが駆けめぐった。
そして、三度目の合図。黒揚羽はひときわ強く伊織の指を握って、地面を蹴った。斜め上から見上げた黒揚羽のシルエットは、空へ飛び立とうとするかのように力強く美しかった。どこまでも冷然としていた佐々木が、初めて呆気に取られた顔を見せる。
もちろん伊織も、様子を見守っているだけではいられない。立ち上がって総一郎と健吾の枕元を駆け抜ける。黒揚羽の急襲に気を取られていた平岡は、意外なほど無防備だった。頭を低くし、当て身を食らわせる。二人は折り重なって倒れた。
一瞬でも相手がひるんだら、身を引いて逃げろ――黒揚羽の忠告に従うまでもなく、伊織は平岡にはねのけられた。無数の石の上に勢いよく転がり、鋭い痛みが体のあちこちに走る。それでも目は、拳銃を拾い上げようとしている黒揚羽、地面に尻を突いている佐々木、懐からナイフを抜き、黒揚羽に向かって猛突進していく平岡の姿をはっきりととらえていた。黒揚羽は平岡の手首をつかみ、体をひねり、自分の足で相手の足を引っかける。
「うおっ……」
平岡がバランスを崩すと、素早く手首から手を離し、代わりに後ろ首に手刀を叩き込んだ。何ら防御の姿勢を取らず、平岡はうつ伏せに倒れ込んだ。顔面の惨状を想像して、敵ながら伊織は顔をしかめる。
だが、後ろの佐々木の行動を見て、
「黒揚羽!」
伊織は叫び、痛みも忘れて飛び起きた。黒揚羽がわずかに振り向いて身をよじる。
次の瞬間、銃声が伊織の身も心も視界も揺るがした。が、黒揚羽が身をひるがえして腕を伸ばしたのは、はっきりと見て取れる。
残響の中、黒揚羽と佐々木は、互いに銃口を向け合っていた。黒揚羽の体に流血が見当たらず、表情にも苦痛の色がないことに、伊織はひとまず息をつく。
「もう一丁……持っていたのか」
動揺を見せたら付け入られると思い知っているからだろう。黒揚羽が淡々とつぶやいた。息苦しいほど張りつめた、それゆえに少しでも動いたら崩壊するであろう空気が、周囲に充満する。
策を求めて、伊織の頭は過熱するほど回転したが、知恵は一つしか浮かばない。伊織が佐々木に飛びかかること――。確かに、先程は平岡に対して同じことをやってのけた。が、平岡の武器が懐にしまわれた刃物だったのに比べ、佐々木のそれはいつでも発射できるよう構えられた拳銃。恐怖感が数段上だ。それに黒揚羽のことだ、伊織を助けようとして、かえって不利な状況に追い込まれるかもしれない。
それでも、伊織が迷っていたのは二、三秒の間だった。ふと頭の中が空っぽになったかと思うと、一種の催眠状態だったのだろうか、妙に澄みきった境地が訪れた。
(いちか、ばちかだ)
思わず伊織は飛び出していた。佐々木の姿が迫ってくる。それが妙にゆっくり感じられるのは、恐怖ゆえかもどかしさゆえか――。佐々木は顔色を変え、一瞬だが確実に逡巡していた。
佐々木に生じた隙を、黒揚羽は見逃さなかった。腕に力がこもるのがわかる。銃声とともに佐々木の体がのけぞり、右肩から血が噴き出した。拳銃が佐々木の手を飛び出し、地面に落下する。
黒揚羽は素早く拳銃を回収し、さらに佐々木のももを膝で押さえつけながら、懐を探った。もうほかに拳銃を隠し持っていないか、調べているようだ。と、そのままの姿勢で伊織を振り返り、
「一歩間違ったら撃たれていたぞ。言ったじゃないか、無茶をするのは強さじゃないと」
叱るような口調だが、安堵がこめられているのがはっきり感じられる。
「ごめん」
伊織が思わず謝ると、黒揚羽は拍子抜けしたように目をしばたたいて、
「だが、助かったよ」
語気を和らげて失笑した。が、何を思ったか、その表情が再び険しくなり、瞳に鋭い光が宿る。
(まだ何か!?)
黒揚羽の見ているものを確かめようと、伊織は首をよじった。
健吾がむっくりと起き上がっていた。首を左右に曲げてぽきぽきと鳴らす。彼の真意はわからないが、とにかく黒揚羽をかばおうと、伊織は前へ踏み出した。
「そう身構えるなよ」
ぶっきらぼうな、だが昨夜よりは少しだけ穏やかな口調で言って、健吾は伊織に近づいてきた。仰向けに倒れて肩を押さえている佐々木を見下ろし、
「こいつがこんな極悪人だったとはな。偽善者だろうが何だろうが、あんたのほうが百倍ましだ」
黒揚羽を見下ろした。「こんな極悪人」という言い方に、伊織はふと違和感を覚える。健吾は佐々木が総一郎を撃ったところまでは見ていたが、その後の独白は聞いていないのではないか?
健吾は苦笑らしきものを浮かべて、
「全部聞いてたさ。商売柄危険な目には慣れてる。おいそれと気絶したりはしねえよ」
肩をすくめた。
黒揚羽はかすかに気まずそうな顔つきをしていた。たとえ否定的な受け取り方であろうと、「人を傷つけたり殺したりしない」という黒揚羽の主義を信じていた健吾を、裏切ったような気がしていたのかもしれない。が、すぐに健吾をまっすぐ見つめ、
「健吾といったな。総一郎の息があるか確かめてくれ」
硬い表情で頼む。
「助けるつもりなのか? こいつを」
健吾が頓狂な、いささかなじるような声を上げた。
「間に合うかもしれないものを、放っておくことはできないだろう。……もっとも、無理強いはしない。おまえは私の手下でも何でもないのだからな」
突き放すような口調なのは、黒揚羽自身葛藤を抱えているからかもしれない。健吾は呆れたようにため息をついたが、無言で総一郎の傍らにかがみ込んで手首を取った。
「伊織は私たちが縛られていた岩のところへ行って、縄を持ってきてくれ。ナイフは、そこに落ちている平岡のものを使えばいい」
「わかった」
伊織が駆け出すやいなや、「脈があるぞ」という健吾の声が耳に届いた。心が揺れたが、それが不安ゆえなのか安堵ゆえなのか、正反対の感情であるにもかかわらず判断できなかった。
指示どおりに縄を切り取ってきて渡すと、黒揚羽はそれで佐々木の両足を縛りながら、
「今度は千里と成瀬を助けに行ってほしい。あそこには岩崎がいるから、健吾も一緒にだ」
「人を気安く呼び捨てにするなよ、小娘のくせに」
不平をこぼしながらも、健吾は腰を上げ、地面に転がっていた懐中電灯を拾い上げて駆け出す。伊織もあわててあとを追った。
木々の間にともっていた明かりが次第に大きくなり、千里、成瀬、岩崎の姿がのぞく。一瞬、岩崎が駆け寄ってきそうなそぶりを見せたが、伊織と健吾が連れ立って現れたことに、状況を把握しかねたのだろう。足を踏み出したまま動きを止めた。
「伊織さん、これってどういう……? 銃声が聞こえたけど、お姉さまは無事なの? 何があったの?」
千里が声を張り上げ、矢継ぎ早に問いかける。
「大丈夫、黒揚羽は無事だよ」
伊織は力強く、千里がもっとも知りたがっていることを伝える。千里の顔中に安堵の色が満ち、すぐに瞳が震えて涙が頬を伝った。しばらくその喜びの中にひたらせておいてやりたかったが、もう一つの重大な事実を伝えないわけにはいかない。
「佐々木さんが……祖父を裏切った。撃ったんだ」
三人はいっせいに息を呑んだ。千里の涙も一時引っ込んでしまったようだ。
「健吾、本当か? この子の言ってることは……」
伊織と健吾を交互に見比べ、岩崎がおろおろと尋ねる。
「ああ、父さん」
健吾は深くうなずいた。
「詳しい話はあとだ。とにかく今は……」
少しの間、伊織たち三人を見つめて考えあぐねているようだったが、ふいと目を逸らして、
「総一郎様を運ぼう。まだ息があるんだ」
「こ、この子たちはいいのか? 黒揚羽の一味なんだろう?」
「構ってる余裕はないよ。それに……もし黒揚羽がいなかったら、俺も佐々木に殺されていた」
健吾は伏し目がちに言った。
「さあ、早く」
岩崎を促して、健吾はきびすを返す。
しばし二人の後ろ姿を、見送るともなく見送っていた伊織だったが、
「伊織さん!」
千里の呼びかけで我に返った。あわてて千里と成瀬に駆け寄り、平岡のナイフで縄を切る。
「あ……」
千里の体がぐらりと揺れる。今朝の自分を思い出し、伊織はあわてて抱き留めた。年下で小柄な、しかも一日のうちに心労と空腹でやつれた少女の体は、不安を感じさせるほど弱々しく軽い。
「ありがとう。伊織さんも……無事でよかった」
感情の奔出を必死でこらえているのか、驚きすぎて驚きを表現することもできないのか、千里は妙に神妙だった。「ついでみたいな言い方だなあ」などと軽口を叩くのもはばかられる。
成瀬のまなじりにも涙が光っているように見えたが、彼はすぐにきりりと表情を引きしめると、少しずつ両の腕と指を動かし始めた。ずっと縛られていたのを、運動に慣らすための訓練だろう。
その間に、伊織は手短に事情を説明した。佐々木と志摩子が道ならぬ関係を持っていたこと、八雲が実は佐々木の息子だったこと、志摩子に脅され、数馬を殺したのも佐々木だったこと――。二人は話についていくのが精一杯らしく、ただただ目を丸くして聞き入っていた。
テントの中に残っていた水を飲み、黒揚羽の分も水筒に入れる。さらには懐中電灯も携えて、もと来た道を急いだ。
岩場に戻ると、健吾と岩崎が佐々木を運び、黒揚羽が手持ちぶさたにたたずんで、その様子を眺めていた。すでに船――ハヤブサ丸に乗せられたらしく、総一郎の姿は見えない。
黒揚羽は伊織たちの姿を認めると、
「千里! 成瀬!」
声を弾ませて、体ごと振り返った。
「大丈夫か? 何もされなかったか?」
一歩手前まで駆け寄ってきて、二人の体に順に目を走らせる。
「はい。ご心配は無用ですよ」
聞こえたのは成瀬の声だけだった。千里はというと、これがあたかも思いがけぬ邂逅であるかのように、目を見開いて、
「お姉……さま……」
たどたどしくつぶやいたかと思うと、次の瞬間黒揚羽の胸に飛び込んでいった。
「うっ……うえっ……ひっく……」
肩を震わせて泣きじゃくる。黒揚羽はその体を抱きしめ、
「心配かけてすまなかった。だが、もう大丈夫だ」
背中を優しく撫でてささやいた。気がゆるんだのか、千里の泣き声がさらに大きくなる。
「伊織君」
胸を熱くして二人の様子を眺めていた伊織の肩を、成瀬が叩いた。そっとしておいてあげなさいという意味かと思ったが、
「平岡を運ぶのを手伝ってもらえませんか? 彼もハヤブサ丸で帰すのでしょう?」
そればかりでもなかったらしい。
伊織が千里と成瀬のもとへ向かっている間に、平岡は縛り上げられていた。伊織と成瀬で力を合わせて運ぶ。船の前まで来ると、
「おまえたちもよくまあ……。怪盗の一味のくせに、総一郎様の敵のくせに、どうしてそんなに協力的なんだ」
健吾が呆れ顔で甲板から見下ろした。だが拒絶の言葉ではないので、そのまま平岡を船に運び入れる。
「健吾。いつでも出発できるぞ」
船を点検していた岩崎が声を上げた。そこへ黒揚羽と千里も追いかけてくる。千里は伊織と成瀬と目を合わせようとしない。もっと明るかったら、きっと目の周りと頬が赤くなっているのが見られただろう。
「やり残したことはないよな?」
思わず口をついて出たというように、健吾が黒揚羽に確認する。健吾が罪を犯したわけではないのだから、現場でなすべきことなどそうあるはずもないのだが、理屈ではなく不安になったらしい。
「ああ。今はただ急げ」
黒揚羽は力強く答えた。その返事を待っていたらしく、岩崎が船を動かし始める。嫌っていたはずの相手に助言を求めてしまった健吾は、ばつの悪そうな顔をして、
「じゃあな。あんたたちも、逃げるなら早く逃げろよ。わかってるだろうが、俺たちが戻ったら、入れ替わりで警察が来るぞ」
鼻の頭をかいた。
「ありがとう。おまえたちも気をつけて」
黒揚羽が軽く手を上げる。健吾はもう口を利かなかったが、それは黙殺というよりは単なる沈黙で、決して気に障るようなものではなかった。
ハヤブサ丸が何十メートルか沖へ進んだころ、
「これからの話だが、伊織はもうしばらく私たちとともに行動したほうがいい。数馬さんを殺したという私の容疑が晴れれば、おまえは殺人犯の仲間ではなく、怪盗の仲間。大した責めは負わないだろうから、警察を恐れることもない。ここで彼らの船を待ち、乗せていってもらってもいいんだ」
大した責めは負わないといっても、大目玉を食うことに変わりはなかろうから、警察には積極的に会いたいものではない。もちろん、黒揚羽たちと別れるのもつらい。だから同行できるのは嬉しいことではあるのだが、今の黒揚羽の言葉のニュアンスからすると、彼女の容疑が晴れない可能性もあるということではないか? 伊織は喜びと不安を半々に顔に浮かべ、黒揚羽を見つめた。
「ただ、佐々木は警察に嘘の供述をするだろう。埋蔵金を探しに鬼角島へ渡ったこと、そこへ私たちが現れたことまでは包み隠さず話すとしても、問題はその先。やつは、総一郎を撃ったのは黒揚羽だと言い張るはずだ。もっとも、あの様子では健吾が反論してくれそうだし、総一郎さえ一命を取り留めてくれれば、そんな嘘などたちどころに瓦解する」
「だけど……もし祖父があのまま命を落としたら、警察は健吾さんより佐々木さんの主張を信じるよね?」
一介の漁師である健吾と、長年陰に日向に総一郎に仕えてきた佐々木。警察がどちらを選ぶかといったら、まぎれもなく佐々木のほうだろう。
そうなったら、事態はいっそう悪化してしまう。黒揚羽は数馬の殺害ばかりでなく、総一郎の殺害と、佐々木への傷害の罪も負わされることになるのだ。
「ああ。ただ、私はあまり悲観してはいないよ」
黒揚羽の余裕に、伊織は怪訝な顔をする。
「立場からして、いくら佐々木のほうが信用されるといっても、言うことがまったく食い違っていれば、警察だって不審を抱かないはずはないさ。おそらく、健吾は佐々木の告白の内容を、すべて警察に話すだろう。佐々木が数馬殺害の真犯人だということも、その動機も……。そうすれば、警察は佐々木、志摩子、八雲君の三人の血液型を調べてくれるんじゃないか?」
「あっ……!」
「数馬さんの血液型は、絹枝さんあたりが知っていると思うし。そうすれば、八雲君が数馬さんの息子でないことが明らかになる。健吾の証言が、にわかに真実味を帯びてくるというわけさ。とはいえ、警察が健吾の言うことを、頭から世迷い言と決めつける可能性もなきにしもあらずだ。念のため、決着がつくまでおまえは身を隠していたほうがいいと思うんだ」
伊織はようやく納得してうなずいた。
「そんなに心配することはないのね」
千里が口を挟み、
「だけど、このぶんじゃ宝探しはあきらめるしかないわね」
いくらか残念そうに、目を斜めに伏せて言う。
「いや、それにはまだ早い」
黒揚羽が首を横に振る。千里は弾かれたように、成瀬はおもむろに黒揚羽の顔を見た。
「だけど、総一郎たちが手を尽くしても見つからなかったんでしょう? そんな、一時間や二時間じゃ……」
千里が珍しく黒揚羽に異を唱えた。
「ああ。だが、岩につながれている間、伊織が発見してくれたんだ。目の前の岩に、明らかに人為的な三つの傷があることを」
千里と成瀬はそろって息を呑む。
「もしかして……それが三の岩の『三』ってこと?」
「ではないかと思う。最後に賭けてみる価値はあるんじゃないか?」
千里と成瀬、そして伊織は真顔でうなずいた。
「まず、その岩とやらを見せてください」
言われるまでもない。伊織と黒揚羽は二人を例の岩へ案内した。二人はかがみ込んでためつすがめつ岩を観察する。
「まずこの周辺から、これと同じ種類の岩を当たってみよう。あまり硬くないようだし、なめらかだから傷も目立つし、目印をつけるにはぴったりだと思ったのかもしれない」
黒揚羽が提案し、捜索開始となった。成瀬だけは出航の準備をするため、いったん反対側の海岸へ向かった。ハヤブサ丸は健吾たちが乗って帰ってしまったので、当然佐々木たちの船を使うことになるのだ。途中でテントのそばを通るので、ありったけの懐中電灯、紐やつるはしなど必要な道具も持ってきてくれるという。
その場には懐中電灯が二本しかなかったので、黒揚羽が一本、伊織と千里が組になってもう一本を使う。
「あれは?」
「ええ」
最低限の会話だけで岩を探し、表面をくまなく調べる。心が一点に集中しているからだろうか、伊織には不思議と焦りはなく、頭も研ぎ澄まされていた。
「あった!」
「あったわ!」
懐中電灯で照らした先に二筋の傷を見つけ、伊織と千里は歓喜の声を上げた。黒揚羽がぱっと駆け寄ってきて、
「間違いない」
とお墨付きをくれる。成瀬が戻ってきてから十五分ほどで、残りの二つも見つかった。
急いで一の岩と二の岩、三の岩と四の岩を紐で結び、交わったところから親子松まで十間の距離を測る。
「今日は一刻を争いますから、まず私が掘れるだけ掘ります。疲れて遅くなったら交代しましょう」
言うなり、成瀬はつるはしをつかんだ。地面に穴が穿たれ、広さと深さを増していくのを、伊織と千里はまばたきもそこそこに見入る。幸いにしてここの土はやわらかいらしく、昨日より明らかにペースが速い。黒揚羽だけはほとんど沖のほうを見やっていて、警察の船が来ないか見張っていた。
八十センチメートルほど掘ったところで、成瀬は黒揚羽に交代を願い出た。黒揚羽が成瀬の半分ほど掘り進め、次は伊織の番となる。
伊織は異世界のような暗い穴の底に下り立ち、成瀬が途中から使っていたシャベルを受け取る。無心に振るっていると、突然シャベルの先が固いものにぶつかり、ガツンと衝撃が腕に響いた。ずっとこの瞬間を目指していたはずなのに、むしろ意外な心地すらして、伊織は一瞬動けなくなってしまった。
「伊織さん?」
いぶかしさ半分、期待半分といった調子の、上ずった千里の声が降ってきた。
「見つかったかもしれない」
伊織はゆっくりと千里と成瀬を見上げ、まだ呆然と答えた。加えて黒揚羽も顔をのぞかせ、さっと膝を突く。
「伊織! 掘り起こせるか?」
伊織はようやく我に返り、こくこくとうなずいて、再びシャベルを構えた。浅く、慎重に掘っていくと、ざらざらした質感の黒っぽいものが、あちこちに露出し始めた。伊織はもはやシャベルを放り出し、両手で土を払う。
姿を現したのは、一抱えはある金属製の箱だった。かすかに青みがかった色合いを見るに、鉄ではなく青銅製だろう。縦に二条横に一条、帯が巻かれているような意匠をしている。輪のような円柱形の留め具を回して、本体とふたを封じるしくみになっていた。周囲にも他の箱の端がのぞいたりしているが、時間がないのでこの一つを確認するのが精一杯だろう。
「開けてもいい……?」
伊織は思わず黒揚羽たちを見上げて問うてしまう。いざとなったら気後れしたのと、この宝探しに自分より深い意味を見出している、黒揚羽こそが開けるべきなのではないか、という思いに押しとどめられたのだ。
「もちろんさ。何のためにここまで来たと思っている」
黒揚羽は笑って答えた。
伊織は留め具をつかみ、渾身の力をこめて回した。シャベルをてこ代わりに使ってふたを押し上げる。何か恐ろしいものが待ちかまえているような気すらして、こわごわ中をのぞき込んだ。
まばゆいばかりの大判小判――ではなかった。箱の中は一面布で埋まっている。緩衝材代わりだろう、丸めた布がぎっしり詰まっているので、「敷いてある」などではなく、「埋まっている」という表現が正しいのだ。
布をかき分けると、すぐに固い手応えがあった。同じ布を用いて何かを包んでいるらしい。取り出してみると大きさはてのひら大だ。注意深く布をはがしていく。
「これは……」
あらわになった中身を見て、伊織は息を呑んだ。半透明で薄緑の、翡翠らしき石でこしらえた、雲に乗った竜の彫刻だ。そのつややかさと精巧な細工に、こういうものには門外漢の伊織ですら見入ってしまう。そっと彫刻を掲げ、頭上の黒揚羽たちに示した。
「貸してくれるか?」
黒揚羽が彫刻を受け取り、千里と成瀬が両側からのぞき込む。その間に、伊織はさらに箱を探った。大きさはまちまちだが、同じような布の包みがいくつも出てくる。中身は瑪瑙の鳳凰、水晶の魚、玉杯、珊瑚玉、青磁の花瓶、白磁の高炉、花鳥の皿――。取り出すたびに黒揚羽に手渡していく。千里がきゃあきゃあ歓声を上げていた。
「どう見ても日本の品ではない。清のものだろう」
黒揚羽は、つがいのきじを絵付けした皿をそっと地面に置いて、
「鈴倉家の先祖が抜け荷に手を染めていたというのは本当らしいな。証拠を隠滅する意味もあって、輸入した品をここに埋めたのだろう。もしかしたら、抜け荷の取り引きをこの島で行っていたのかもしれないな」
推測を述べた。
「これ……運ぶ?」
歯切れの悪い口調で、伊織は問う。というのも、ある予感がしていたからだった。昨日、佐々木たちが現れる前にこうなっていたのなら、胸は歓喜と達成感でいっぱいで、一刻も早く宝を運び出そうと浮き足立っていたに違いないのだが――。
黒揚羽は直接的には答えず、
「やむを得なかったとはいえ、私は人を傷つけるという禁忌を犯してしまった。総一郎への復讐心とて、あんな目に遭った彼を見ては失せてしまった。もう私には、宝を頂く資格も理由もないというわけさ」
もの淋しげに言うと、
「おまえたちはどうだ?」
千里と成瀬を振り返って問う。二人は顔を見合わせ、
「あたしたちだって同じよ」
千里が代表して言った。
「だが、こんなに苦労させたのに、一銭の取り分もないなんて……。不満ではないか?」
「とんでもないわ」
千里は勢い込んで、
「あたしはお姉さまが生きててくれただけで十分だもの」
「そのとおりですよ。それに、私たちはお金だけが目的で仕事をしているわけではありません。黒揚羽様が納得する形で盗めなければ、意味がないのですよ」
「……ありがとう」
黒揚羽は目を細め、二人の大切な手下に頭を下げた。再び伊織を見下ろし、
「おまえこそ、宝が欲しくはないのか? 不本意かもしれないが、おまえはまぎれもなく総一郎の直系の孫。しかも、八雲君の出生の秘密が明らかになれば、唯一の……。ただ、盗人である私に与したという経歴があるし、あの欲深い兵馬のことだ、あれやこれやと理屈をつけて、おまえにはびた一文よこさないだろう。だから今いくらか懐に収めたところで、恥じることなど何もない。換金は私が行ってやる。裏の経路ならいくらでも知っているのだから」
伊織は黒揚羽から視線を外し、ちょうど目の高さのところに並ぶ、貴石の動物たちや陶磁器を改めて見つめた。
「ううん」
ゆっくりとかぶりを振る。
「僕も……要らないよ。もともと宝そのものが目当てだったっていうよりは、探すことが楽しみだったんだから。それに、君と同じで、いちばん信頼していた相手に裏切られた祖父を……そして、これから衝撃的な事実を知らされる八雲のことを思うと、とてもここで宝をくすねる気にはなれないんだ」
黒揚羽はちっとも意外そうではなく、
「それでこそおまえだよ、伊織」
むしろ我が意を得たりというように微笑んだ。
「よし、そうと決まれば長居は無用、すぐこの島を出よう」
黒揚羽の口調が再び緊張感を帯びる。一瞬沖に目をやったが、船影はまだ見当たらないらしい。
「宝はこのままにしておけば、警察が見つけてしかるべき処置を取ってくれるだろう」
「わかった」
伊織はうなずき、ロープを垂らしてもらって地上に上がる。
「ではあちらへ。出航の準備は万端ですよ」
成瀬に導かれ、伊織たちはテントまで引き返し、さらに向こうの海岸へと駆けた。一キロメートル程度の距離とはいえ、疲労した体ではさすがに駆け抜けるというわけにはいかず、休み休み行くことにする。
暗くてよくは見えなかったが、西側の海岸も東側と同様の岩場だった。成瀬の懐中電灯の光が、正面に停められている船をなぞる。やはり下田の漁師から借りたのだろう、ハヤブサ丸より二回りは大きい小ぎれいな漁船だ。
全員が乗り込むと、成瀬はすぐ船を出発させた。ほかの三人は甲板に座り込み、遠ざかる鬼角島を無言で眺めていた。それもつかの間、島影は黒い空と海に溶け、視界には闇だけが残った。