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第八章 明かされる真相(一)

 地下室での一日と同じ、刻々と迫る破滅をなすすべもなく待つ時間を、まさかもう一度過ごすことになるとは思ってもいなかった。

 名を呼び合っただけで怒鳴られ、平手で打たれたので、会話で気をまぎらわすこともできない。せいぜい目を見交わし、無言で励まし合ったり、いたわり合ったりする程度だ。

 気を落ち着かせようと、あるいは少しでも休息を取ろうと、伊織は目を閉じてもみたが、今度こそ眠気は訪れてはくれなかった。ほかの三人はまどろんだり目覚めたりを繰り返しているらしい。

 伊織たちの運命に合わせたわけではあるまいが、その日は曇天だった。だが、気温はあまり変わらないような気がしたし、むしろ湿気がある分不快である。時刻はわからないが、確かに夜が明けたころ、健吾が一度姿を消し、食料を携えて戻ってきた。自分たちのテントから持ってきたのだろう。伊織たちには水が一杯ずつ与えられただけだったが、もともと食欲など湧かないので、目の前で食事をされてもあまりつらくはない。不幸中の幸いかもしれなかった。

 朝食を終えて間もなく、佐々木が何かに気づいたらしく立ち上がった。その視線を追うと、次第に大きくなる二つの人影が見えた。誰なのかは考えるまでもない。

「総一郎様」

 佐々木は歩を進め、総一郎の前に立つと、模範的なおじぎをした。

「おお、佐々木。ついに暗号文を手に入れたそうだな」

「はい。少々脅してやりましたら、たやすく白状しましたよ」

 まるで黒揚羽たちが意気地なしであるような言い方に、こんな追いつめられた状況ながら、伊織はむっとする。

「ご苦労」

 総一郎は尊大に答え、伊織たちをざっと見回した。

「して、ここにはいつまでいらっしゃるので?」

 佐々木が控えめに尋ねる。

「明日の九時から次期社長の就任式があるため、遅くとも早朝には帰らねばならん」

「やはり、取締役の小泉様が社長になられるので?」

「ああ。兵馬が相当荒れているぞ。同じ地位にいる小泉が、身内の自分を差し置いて社長の座に就くのだからな」

 小泉というのは、鈴倉海産の内情について黒揚羽が説明してくれたとき、話題に上っていた「優秀な補佐役」のことなのだろう。

「はあ……」

 兵馬とて仮にも鈴倉家の身内、あまり悪く言うわけにもいかないと思ったのか、

「かしこまりました」

 佐々木はとにかくどの話題にでも使える答えを返した。総一郎は再び伊織たちに目を向け、つかつかと黒揚羽に近づいていった。影の形にそうごとく、佐々木があとをついていく。

 総一郎は黒揚羽の前に立つと、あごを乱暴につかみ、顔を上向かせた。内心どれほど不快で屈辱的であるか知れないが、黒揚羽は動じることなく目を閉じた。隣の千里は、もちろんそこまで大人ではなく、唇を噛みしめている。

「なるほど。雰囲気はまるで違うが、目鼻立ちは確かに、あの偽雨宮薫と似通っている」

 総一郎はぱっと手を離すと、

「よくも今まで……私をこけにしてくれたな!」

 ためにためてきたであろう怒りをほとばしらせて、こぶしを振り上げた。「数馬を殺したな!」ではなく「こけにしてくれたな!」という言葉が真っ先に口をついて出たところに、今更ながら、伊織は総一郎の性格を見る。

「お姉さま!」

 昨夜とは逆に、今度は千里が悲鳴を上げた。頬を殴られ、黒揚羽の顔が痛々しい勢いで横を向き、がくんと斜めに垂れる。だが気絶したのではなかったらしく、何秒かのちには、黒揚羽はゆっくり目を開け、顔を持ち上げた。頬に赤く痕が浮かび、唇から血が二、三滴滴るのが、離れていても見える。

「何てことするのよ……」

 どこか呆然とした口調で千里が言った。次第にその瞳が、怒りというよりもはや憎悪に近い色に染まっていく。

「許さないから」

 震える声は次第に大きく強くなり、

「万一お姉さまの顔に傷が残ったり、もっと悪いことになったりしたら、あたし、あんたを許さないから!」

 千里は感情のありったけをぶつける。だが、いかに激しい剣幕であろうと、年端もいかぬ少女にひるむような総一郎ではない。千里の頭から爪先までをざっと眺める。

「おまえはまりと名乗っていた小娘だな」

 思い出したらしくあごをしゃくり、にやりと不吉な笑みを浮かべて、

「安心しろ。そんなことに気を回すまでもなく、おまえたちは海の藻屑と消えるのだから」

「そんな……あんたなんかに、あんたなんかに、黙って殺されるもんですか!」

「たわごとを。あの女が万能だと信じているのか? 今や身動きもできず、先程も私に殴られるがままだったあの女を。……おお、そうか」

 総一郎は、ぽんとこぶしでてのひらを叩き、

「これはうかつだった。さすがは天下の大怪盗だ、我々の術中にはまると見せかけて、実はよい知恵を胸に秘めているのか。見たいものだな、この絶体絶命の窮地を打開するのを」

 嘲弄と皮肉たっぷりに言われて、千里は言葉につまり、せめてもの反抗らしく総一郎をぐっと睨みつけた。

「総一郎」

 不意に黒揚羽に名を呼ばれ、総一郎は向き直る。

「何だ? 可愛い手下がいじめられているのを見かねたのか?」

 肯定すれば千里に決まりの悪い思いをさせるだろうし、否定すればもちろん傷つけるだろう。この意地の悪い問いに黒揚羽は答えず、

「おまえは覚えているか? 五年前、屋敷に忍び込んだ一人の賊を撃ち、見殺しにしたことを」

 代わりに本来の意図であったろう問いを放った。伊織ははっとして、黒揚羽の厳しい横顔を見つめる。

「五年前……?」

 総一郎は怪訝そうに眉根を寄せたが、ふとその眉がぴくりとはねた。

「貴様、なぜそんなことを知っている? もしや貴様、あの男の娘だとでもいうのか?」

 反問ではあるが肯定に等しい。

「……似たようなものだ。事件の翌日、私は帰ってこないあの人を捜しに行き、おまえたちが遺体を運び出す現場に居合わせた」

 黒揚羽は最低限の答えを返し、きっとまなじりを決した。

「今度はおまえの番だ。おまえが彼を撃ったのはあやまちか? 彼は決して、盗みに際して人を脅したり傷つけたりはしなかったはずだ……」

「おまえと同様にか」

 総一郎はふんと鼻を鳴らした。

「あやまち? いちいちうるさいやつだ。金を盗んで逃げるところを見つけたから撃った。それだけの理由だ」

「では、なぜ警察を呼ばなかった?」

「ああ? こそ泥一人に手をわずらわされるのが、面白くなかったからよ。護身用とはいえ、拳銃を持っているのを、警察に知られるのも厄介だしな」

「やはり、あの夜おまえがもらした言葉は本心か。そんな身勝手で浅はかな理由で……。そして今も悔いてはいないのだな」

 黒揚羽は暗い瞳を伏せる。総一郎はうんざりした顔で、

「いかんいかん。貴様のむだ話に付き合っている暇はないのだ」

 いかにも時間の浪費だという調子で言うと、

「佐々木。暗号文を見せてくれ」

 振り向いて命じる。佐々木は懐に手を差し入れ、手帳を開いて差し出した。総一郎はあごひげをなでながら、ページをじっと見つめる。

「やつらはどのように行動していた?」

「東側の浜を探していたようです。『おにのはなづら』というのを、海岸線の突き出した部分だと解釈したのでしょう」

「そうか。おまえはどう思う?」

「とおっしゃいますと、『おにのはなづら』の意味でございますか?」

「ああ」

「わたくしも、あのあたりだとは思っております。暗号文というのは誰かに解読してもらうために作るもの、凝りすぎているとは思われないのです。二つの文章をつなぐ方法も、一文字ずつ交互に組み合わせるという簡単なものでございましたし……」

「うむ、私も同感だ。おそらくやつらは、次の一の岩から四の岩の箇所でつまずいたのではないか?」

「そのようでございます」

「よし、やつらの真似をするようで癪だが、我々もそこへ行ってみるとしよう」

「真似をするようで癪だ」という言葉が言い訳がましい。

「は、では少々お待ちくださいませ。道具を運んでまいります」

「ああ。それから、あの女と伊織は引っ張っていくことにしよう」

 思いも寄らぬ言葉に、伊織は目を見開いた。

「あの女には、我々が埋蔵金を手に入れるところを見せつけてやりたいし、伊織には話がある。何、残りの二人を人質に取っておけば、馬鹿な考えは起こすまいよ」

「かしこまりました」

 佐々木は平岡と岩崎親子に向き直り、

「かくいうわけだ。平岡、黒揚羽とその少年だけ、幹からほどいてやれ。岩崎親子は、テントから道具を取ってきたまえ」

「はい」

 平岡が近づいてきて、懐からナイフを抜いた。縄を切るためだとわかっていても、こんな状況で刃物を構えられるのはいい気分ではなく、伊織は思わず息を凝らしていた。木にくくりつけるためだったとはいえ、今までは縄で支えられていた状態だ。ほどけたとたん、くずおれて地面に座り込む。

「大丈夫か? 伊織」

 縄を切られても毅然と立っている黒揚羽が、向こうから声をかける。

「うん、ちょっと疲れただけだから」

 伊織は赤面して立ち上がった。

 やがて岩崎親子が戻ってきた。健吾はシャベルとつるはしを抱え、岩崎は鈍い銀色の立派な工具箱をさげている。総一郎が黒揚羽の、佐々木が伊織の胸ぐらをつかんだ。

「お姉さま!」

 千里が呼び止めるように悲痛な声を上げた。うるんだ瞳には、黒揚羽に対する信頼と、彼女の知勇をもってしてもこの危機を脱することはできないのではないか、という不安がせめぎ合っている。

「案じるな。あんな男に黙って殺されたりはしない、と言ったのはおまえじゃないか」

 黒揚羽はなだめるが、

「うん……」

 うなずいてはいても、語気は弱々しい。黒揚羽は千里の思いを受け止めるように深くうなずき、

「行ってくるよ」

 すがすがしく、確かな意志をこめた口調で告げた。罪人のようにいましめを受けているにもかかわらず、ほのかな光を身にまとっているような気高さを感じさせる。伊織は一瞬不安も忘れて見とれ、総一郎でさえ気圧されたように伸ばした手を止める。

「ふん、虚勢を張っていられるのも今のうちだ」

 自分がたじろいだことをごまかすように憎まれ口を叩き、総一郎は黒揚羽の腕をつかんで歩き出す。そのあとを佐々木が追った。伊織も同様に健吾に引っ立てられていく。あわてて振り向き、千里と成瀬に目礼した。黒揚羽のようにはなれなくとも、自分の眼差しに少しでも力強さが宿っていることを願いながら。

 浜に着くと、平岡が大きな岩に幾重にも縄を巻きつけ、一度結び、その余りの一端で伊織を、もう一端で黒揚羽をつないだ。総一郎と佐々木は額を合わせ、改めて打ち合わせを始める。

 そんな総一郎たちの様子を、なすすべもなくただ眺めていた伊織だったが、ふと隣の黒揚羽の変化に気づいた。総一郎たちの目を盗んで、奇妙な動きをしているのだ。後ろ手のまま、指を小刻みにこするように上下させている。思わずその横顔を見つめていると、黒揚羽はふっと唇をほころばせたが、それはほんの一瞬のこと。すぐに真剣な視線で総一郎たちを指し示し、注意を促した。伊織はあわてて前を向く。

 黒揚羽は手錠の鎖を切断しようとしている。おそらく、小さなのこぎりの刃のようなものを使っているのだろう。ズボンの後ろに隠しポケットでもついていて、そこから手探りで取り出したのだろうか。

 伊織の心臓は高鳴り始めた。さっきまで自分はどんな顔をしていただろう? 同じような表情を作ろうとするが、なかなか思い出せない。ものの一分も前ではないのに、希望があるのとないのとでは、こうも気持ちが違うものなのか。

 いつの間にか、総一郎たちは岩を探し始めていた。佐々木が指揮を執り、岩崎と健吾がそれに従って作業する。総一郎は、見守るというより監視するといったほうがふさわしい表情で、二人を眺めていた。

 健吾が岩に紐をかけ始める。総一郎は佐々木に何事か声をかけてから、体ごとこちらを向いた。

(まさか、ばれた……!?)

 体が熱くなったのか冷たくなったのか、それさえもわからず、ただ脂汗だけがじっとりとにじみ出る。だが、総一郎が見ているのは黒揚羽ではなく伊織で、そのまままっすぐ近づいてくる。総一郎の冷たい目に射すくめられるのはいい気分はしないが、一縷の望みを絶たれるよりは遥かにましだ。

 伊織の前に立った総一郎は腕を組んで、目だけを動かすようにして見下ろした。

「どうやら貴様、中野伊織本人らしいな。中野夫妻を問いただしてみたところ、息子は確かに七月末から不在だと言っていた。のみならず」

 不意にかがみ込んで、伊織の顔をのぞき込む。威圧感と、遠慮会釈なく見つめられる不快感に、伊織は思わず身を引いた。

「彼らに写真を送らせたが、その主と貴様とはどう見ても同一人物だ。変装で欺ける範囲ではないし、だいたいおまえが変装など施しているようには見えない」

 ここまで確信され、新聞で報道されるほど大ごとになっているのに、今更否定してもしかたがない。観念して、訊くだけのことを訊いたほうがいい。

「父さんと母さんには……何て?」

「うん? ありのままの事情を告げたさ。貴様がこの女と手を組んでいたこと、本人か黒揚羽の手下がなりすました偽者か、まだわからぬこと。確かめるため貴様の人相を聞き出し、念のため写真も送るよう命じた。中野夫妻は毎日電話をかけてきてな。屋敷を訪れた伊織が本物らしいとわかると、二人とも悲嘆に暮れていたぞ。母親のほうは電話口で嗚咽していた。まったく親不孝な息子だな、貴様は」

 総一郎はいやに饒舌だったが、それが親切心どころか、嗜虐心から来るものだということは明らかだ。事実、彼の思うつぼだとわかっていても、伊織は胸が痛むのを抑えられなかった。

「おまけに、おかげで貴様の一件を公にせざるを得なくなった。せっかく、身内に裏切り者がいたことを隠蔽しようとしたものを……。警察に通報してくれ、一刻も早く息子を見つけてほしい、話をしたいと、中野夫妻が騒ぎ立てるものでな。そうするとあなたがたも後ろ指をさされることになるし、伊織君の罪を不問に付すこともできませんよ、と懐柔しようとしたのだが、頑として聞き入れん」

 繁と由紀子は、総一郎の答えを聞いてもなお、息子が犯罪者に加担するなんて、何かの間違いだと思っていたのだろうか。それとも、我が子といえども犯した罪は償うべきだと思っていたのだろうか。いずれにせよまっとうな選択だが、前者だとしたらいささか複雑な気分だ。

「それにしても、貴様、そんなに埋蔵金に魅せられたのか?」

「え……?」

 黒揚羽に協力した理由を問われているのか。そういえば、黒揚羽との一件が総一郎に露見したあの日も、似たような詰問を受けたような気がする。こんな男に話しても、嘲笑されて自分の想いが汚されるだけだという気もするが、誤解されたままでもまた、自分がおとしめられているような気がする。

「ひょっとして、色じかけにでも迷ったか? 尻の青い貴様のこと、ちょっと女に色目を使われようものなら、造作もなく堕ちるだろうが」

 総一郎のとんでもない台詞に、伊織の逡巡は吹き飛んだ。

「黒揚羽はそんなことしません! 僕らはそんな……」

 思わず真っ赤になって首を振る。隣の黒揚羽を見やると、彼女も伊織から目を逸らし、かすかに頬を染めていた。総一郎の言葉に屈辱を覚えたというよりは、むきになった伊織の反応を気恥ずかしく思っているように見えたが、

「僕は……探偵小説が好きなんです」

 妙に勢いづいた伊織は、思わず語り出してしまった。

「だから、ずっと黒揚羽のことを応援していました。大胆不敵で誇り高くて、盗みはすれど非道はしない、探偵小説から飛び出してきたような怪盗だって。埋蔵金に惹かれなかったと言ったら嘘になりますけれど、お金そのものっていうより、暗号文や、宝探しっていう冒険に惹かれたんです。自分の夢見ていた世界が目の前にあると思ったら、居ても立ってもいられなくなって……」

 自分とあまりに価値観の違う伊織の言葉を理解するのに、時間を要したのか、総一郎は二、三秒険しい顔で黙っていた。が、不意にくっくっと喉を鳴らし、背を丸めて笑い出す。伊織を傷つけようとする意図もあったには違いないが、それ以上に本当におかしくてたまらぬらしい。

「これは傑作だ。貴様、本当にそんな下らない理由で、我が身を危険にさらすような真似をしたのか? 子供だな。軽はずみにも程がある」

 総一郎は目尻を指でぬぐい、

「貴様のその浅慮、あの世で後悔するんだな。いや、もうとっくに後悔しているか?」

 後悔――。その言葉が、伊織の脳裏に反響する。確かに、憧れていた怪盗の少女と近づきになれたことと引き換えに、支払った代価はあまりに大きい。総一郎の反応は一般的なものなのだろう。

「宝探しのお手伝いをさせてください」、もしもあの日、あの一言を口にしなかったら――。伊織は今頃とうに東京へ帰り、明生たちと氷水やアイスキャンデーを買い食いし、プールで泳ぎ、残った宿題を片づけていたのだろうか。数馬が殺されたこと、その容疑者が黒揚羽だということに心痛めることはあっても、二学期が始まり、級友たちの質問攻めに遭うことはあっても、それはきっとひとときのこと。時を経るにつれ、伊織の悲しみも級友たちの好奇心も薄れ、ありふれた日常を取り戻していたのだろう。記憶にも似た想像の光景は、伊織の胸を鋭くえぐった。

 それでも、伊織は喉元にこみ上げる切なさを押しとどめるように、ごくりと唾を飲み込んだ。後悔というのは、愛や憎悪のような、制御できない感情とは違う。するかしないかは自分で決める。たとえ自分の選択が、客観的に見てどんなに愚かだったとしても――いや、だからこそ、自分一人だけは認めたかったし、その結果を受け止めたかった。でなければ、伊織を信じ、伊織のために力を尽くしてくれた、黒揚羽と千里と成瀬にも顔向けができない。

「後悔は……しません」

「していません」ではなく、あえて「しません」。

 視界の隅で、黒揚羽がさっとこちらを向く。伊織も顔を傾けるようにして、黒揚羽に視線を返した。内心まだ心は揺れていたし、逆にあまり余裕のあるそぶりを見せて、総一郎に余計な勘ぐりをされてもいけないので、あるかなきかの微笑を浮かべるのが精一杯だったが――。黒揚羽は、伊織の誇りも押し込めた恐怖も、何もかも受け止めるような、どこか悲しげだが優しい顔でうなずく。

「総一郎様」

 そのとき、佐々木が足早に近づいてきた。すでに用件を察していたのだろう、総一郎は無言で振り返っただけだった。

「六尺以上掘りましたが、未だに小判一枚現れないのでございます」

「ふうむ」

 総一郎はまったく落胆したそぶりを見せない。良くも悪しくも、長年鈴倉海産の総帥として君臨してきた総一郎が、これくらいで動じるとは思えない。それに、いかようにも解釈できる暗号だから、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるという方式で臨むつもり――何度か外れを引くのは承知の上だったのだろう。

 総一郎は佐々木と話し合いながら、健吾たちのもとへ戻っていった。目に見えぬ圧力から解放され、伊織はほっと息をつく。

「伊織」

 黒揚羽が小声で呼びかける。今ならしゃべっていても不自然ではないと判断したのだろう。総一郎との会話の内容について話している、と思い込んでもらえるだろうから。

「待っていろ。私の鎖が切れたら、次はおまえにこの刃を渡す」

「うん」

 伊織は真剣にうなずいた。

「それから……」

 黒揚羽は、緊張感より神妙さの勝る口調で前置きして、

「私はおまえに謝らなければならない」

「え……?」

「今だからこそ言うが、私ははじめおまえに期待していなかった。人の好い、面白いやつだとは思ったが、所詮は陽の当たる世界で安楽に生きてきた少年だと、どこかで見くびっていたような気がするんだ」

 それは当然だ――。伊織は目を伏せ、改めて自分のふがいなさを噛みしめる。

「私が総一郎との因縁を語ったとき、おまえは言ったな。私にとっておまえは、守るべき存在でしかないのかと。あれは的を射ていたよ。私はおまえに、肉体的にも精神的にも、負担をかけないことばかりを考えていた。善良な市民を傷つけないことを旨とする怪盗として、当然の役目だと。その結果、おまえとの間に壁を作ってしまっていたのかもしれない。せっかく言ってくれたのにな、私に近づきたい、私のことを知りたいと……」

 黒揚羽は空を見上げた。相変わらずの曇り空には、彼女の心を慰めるものなどなかっただろうが、自らを省みるのに広い空はふさわしかったのかもしれない。

「その私も、今ではこうして、おまえともども囚われの身。おまえを守るどころではなく……。まったく、甘かったのは私のほうだ」

 自嘲気味に笑ったが、

「だが……」

 再び伊織を見つめる。その瞳には、伊織が宝探しをしたいと名乗り出たときの、興味混じりの好意でもなく、海岸の洞窟で互いに信頼を取り戻したときの感動でもなく、また地下室から救い出された伊織に向けた慈愛でもない、一種の敬意のようなものが宿っていた。

「私が思っていたよりずっと、おまえは強かったのだな。本当なら、泣き言恨み言の一つや二つももらしても……いや、取り乱してもおかしくはないのに」

「そんな……」

 思わず否定しようとしたが、自分を認めてくれた黒揚羽にかえって失礼だと思い直した。炭に火が(おこ)るように、胸がじわりと熱くなる。

「僕はただ、自分の選択を否定したくなかっただけだ。どんなに人に笑われても、君への憧れは僕にとって大切な気持ちなんだから。それに、ほんの四、五日とはいえ一緒に過ごして、今では一人の……」

 女の子として? 友達として? 人間として? どれもしっくりこないような気がするが――。

「とにかく、憧れだけじゃない好意も持ってるんだ」

「ありがとう。そう言ってもらえると、私も少しは救われる。私にとってもおまえは……もう単なるファンなどではないよ」

 黒揚羽は目を細めた。それきり口をつぐみ、再び総一郎たちの様子をうかがい始める。

 総一郎たちは苦戦していた。岩の外周を計ってみたり、色や模様を調べてみたり、ひいては「おにのはなづら」の解釈自体を疑ったのか、東の浜から移動してみたり、思いつくかぎりのことを試しているようだ。はじめは泰然自若としていた総一郎も、次第に焦慮の色を見せ、眉間にしわを刻み始める。人一倍頑健に見える健吾も、徹夜明けの肉体労働でいささか参っているようだ。伊織の見るかぎり、食事も簡素なものだったし、この蒸し暑い中、ほとんど休憩ももらえず働かされているのだ。岩崎は老いている分体にこたえたのだろう。総一郎に願い出て、途中から平岡と役割を変えてもらい、千里と成瀬の見張りに行っていた。

 もっとも、過酷なのは伊織たちもしかりだった。最小限、いや、それ以下の水しか与えられていないのだ。干上がるほどの喉の渇きは、やがて悪心(おしん)に変わり、意識が朦朧としてくる。

(これでも僕が強いなんて言えるんだろうか)

 黒揚羽の横顔を見て、伊織はぼんやりと思う。呼吸は速く浅くなっているようだが、黒揚羽は根気よく手元を動かしている。その横顔も次第にかすみ、闇に溶けていった。

「伊織。伊織」

 黒揚羽の声で目を覚まして、初めて自分が気を失っていたことに気づいた。お世辞にも快適な目覚めではなく、気分が悪く全身が気だるい。

「切れたぞ」

 黒揚羽は簡潔に告げた。その言葉を聞くやいなや、衰弱した体に力がよみがえってくるように感じる。

「次はおまえだが……できるな?」

「できるか?」という問いではなく、「できるな?」という確認の言葉だったのは、黒揚羽の意識の変化ゆえか。伊織は背筋を伸ばしてうなずく。

 黒揚羽は伊織にできるだけ身を寄せた。黒揚羽の指の熱さと、体温で温まった金属の硬い感触を手に感じる。伊織は刃のない部分を指でつまんだ。

「岩に鎖を押しつけるようにしてこするんだ」

 黒揚羽の助言どおり、伊織は岩を作業台代わりに刃を動かし始めた。総一郎たちは宝探しに気を取られ、伊織たちへの注意はだいぶ散漫になっている。が、邪魔をするのはむしろ伊織自身の怯えだ。動かしているのは後ろに回している手首だから、至近距離で見つめられないかぎり気づかれはしない。びくびくしているほうが逆効果だと、頭では理解していても、実際には誰かがこちらを向いただけで、生きた心地もしなくなる。

 目づまりしてきたのか、何度も岩にこすりつけてしまったためか、切れ味が鈍ってきた。効率が落ちたせいで、ますます気が逸る。雑巾をしぼるように胃がねじられている感じがして、きりきりと痛んだ。

 だが、ついに手ごたえがあった。両手で鎖に触れてみると、確かに二本に分断されている。待ち望んでいたくせにすぐには信じられず、伊織は確かめるように鎖をいじり回す。

「切れたか?」

 黒揚羽が声をひそめて訊いた。

「うん……」

 まだ呆然として伊織は答える。

「よくやった」

 精一杯の賞賛とねぎらいが凝縮されている一言だった。

「じゃあ、いいか。この分では、総一郎がいる間に宝は見つかるまい。やつが帰路に就いてから、船が戻ってくるまでの間が狙い目だ。総一郎に加え、岩崎か健吾のどちらか一人も、船の操縦でいなくなるからな。私がおまえの手を三回握ったら、それが合図だ。私が佐々木から銃を奪うから、おまえはもう一人に、体当たりでも何でもいい、とにかく打撃を与えてくれ。一瞬でも相手がひるんだら、身を引いて逃げろ」

「逃げて……いいの?」

「体格も力も違いすぎる上に、相手は刃物を持っているだろう。無茶をするのは強さじゃないぞ、伊織」

「わかった」

「よし。それ以前でも、好機が訪れたら同様に合図するよ」

 まだ終わりではない、むしろこれからが正念場なのだ。伊織は気を引きしめる。

 そしてもう一つ、この期に及んで何を甘いことをと言われようとも、伊織には黒揚羽に訊いておきたいことがあった。

「黒揚羽。君は……祖父たちを殺すの?」

 それを気にするのは、自分の優しさなのか弱さなのか、あるいは身勝手さなのか、伊織にはわからない。

 一瞬ののち、

「いや」

 黒揚羽はきっぱりと否定した。

「殺さない。傷を負わせるのはやむをえないと思うが……。仮に、私が総一郎に何もしていないのに、やつが私利私欲から私を殺そうとしたというのなら、私の考えもまた違っただろう。やつを殺すことも、正当防衛と割りきったかもしれない。だが、いかに理由があるとはいえ、私がやつの財産を奪おうとしたことは事実。自ら招いた事態と思えば、たとえ追いつめられても人を殺す気にはなれない」

 黒揚羽の答えを聞いて、伊織は安堵していた。とにかくひたすら、この少女の白い手を血に染めてほしくはない。その深く澄んだ黒曜石のような瞳を、「人を殺した」という罪悪感で曇らせたくはなかった。

 行く手に活路が開けてきたことと、胸のわだかまりが溶けたことで、やや余裕が生まれたのだろうか。何気なく斜め前の岩に目をやって、伊織ははっとした。それはねずみ色の、球を押しつぶしたような形の岩だったが、下のほうにまっすぐな傷が三筋、縦に並んでついているのだ。今まで幾度となく視界に入っていたのに、気づかなかったのが不思議なくらいだ。

「黒揚羽。あれ見て、あれ」

 興奮を抑えながら、伊織は岩の下のほうを見やった。黒揚羽も目をしばたたいて伊織の視線を追う。二、三秒間があって息を呑む気配があった。

「あれは……」

 思わず目を見交わす。考えていることは同じに違いなかった。ほかにも同様の傷がついている岩がないか、周囲を見回してみるが、あいにくそれは見当たらない。

「もう一度宝探しをする時間があったら」

「助かったら」ではなく「時間があったら」と仮定するところに、必ず生き残るという黒揚羽の決意を感じる。

「一本、二本、四本の筋のついた岩がないか、真っ先に探してみよう」

 白い空がゆるやかにかげりを濃くしていく。曇っていたとはいえ、時折は太陽が雲間から光をこぼれさせていたものだが、その位置も西の果てに近づいていく。夜の(とばり)が下り始めても、総一郎たちは作業を続けていたが、さすがに残光さえ消えてしまうとあきらめたようだ。今日は星も見えず、ほとんど闇夜だ。総一郎と佐々木はしばし額を合わせ、一歩離れて健吾と平岡が控えている。

(ひょっとして、帰る算段をしているのか?)

 総一郎は早朝までには帰らねばならないと言っていたから、明日はほとんど宝探しに立ち会うことはできないだろう。あとは佐々木たちに任せ、島を去るとしてもおかしくはない。

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