第六章 地下室の窮地
翌朝、座敷で八雲に会うと、彼は伊織のあいさつに返事らしい返事もせず、そそくさと席に着いてしまった。いつにもまして食べ物が喉を通らないらしく、箸を手にしたままぼうっとしている。ここを去る前に、少しでも八雲を元気づけてやりたいが、よい知恵が浮かばない。
八時ごろ、佐々木が伊織の部屋を訪れた。
「少々お話がございます」
てっきり伊織は、黒揚羽が打ち合わせどおり電話をかけてきたのだと思った。が、案内されたのは共用の電話機がある玄関ではなく、総一郎の書斎だ。それでも疑問に思いこそすれ、さして不安を覚えなかったのは、佐々木の物腰がいつもと変わらず丁寧だったからだ。
書斎には、背こそ高くないが、ガラス戸のついた、つややかな焦茶色に光る立派な書架が並んでいる。すみに隠れるように例の金庫があった。総一郎は座椅子にあぐらをかいている。
伊織を見るやいなや、総一郎の顔つきがにわかに険しくなった。
「おまえ、昨夜どこに行っていた?」
静かでゆっくりした口調がかえって不気味で、生半可な言い訳では切り抜けられないと思わせる威圧感がある。顔から血の気が引くのを感じながら、伊織は足を踏みしめ、せめてもの抵抗で目を逸らさなかった。
「八雲が寝つけずにいて、窓から外を眺めていると、おまえが庭を通るのを見かけたそうだ。ずいぶん時間が経って、今度は廊下で足音がしたので、ふすまをそっと開けてみると、やはりおまえの後ろ姿が見えたという。自分と同様眠れず、夜の散歩にでも出たのかとも思ったらしいが、それがいかにも忍び足というふうだったそうでな。一晩中思い悩んでいたようだが、私が今朝、様子がおかしいのを見て水を向けてみたら、重い口を開いた」
以前の八雲なら深く考えなかったのかもしれないが、精神の均衡を崩している今、疑心暗鬼に陥ってしまったのだろう。先程八雲に会ったときに、もっと気を回していればよかった、そもそも昨夜姫が浜へ行くとき、母屋のそばを通らなければよかったなどと、後悔が伊織の脳裏を駆けめぐったが、あとの祭りだ。
「答えろ! おまえ、我々に何を隠している?」
総一郎の怒鳴り声と、文机をこぶしで叩く音が同時に響いた。伊織はびくりと震えて身をすくませる。
総一郎は勢いに任せて立ち上がると、大またに伊織に歩み寄って胸ぐらをつかんだ。服の襟が首を締めつける。これから起こることへの予感に、伊織が目をつぶるやいなや、頬にこぶしが飛んできた。七十を迎えた老人とは思えない力だ。目の奥で火花が散り、伊織は倒れ込む。板敷の床ではなく、畳だったのがせめてもの救いだ。頬がじんじんと痛み始め、口の中に生暖かい血がたまって鉄臭い味がする。
佐々木が伊織を押さえつける。総一郎はかがみ込むと、伊織の全身を探り始めた。
(いけない!)
ズボンのポケットには、まだ黒揚羽からの手紙が入ったままだ。あれを見つけられては言い逃れできない。伊織は必死で身をよじったが、佐々木の力はゆるまない。総一郎はたちまち手紙を探し当て、眉をひそめながら開いた。見る見るうちに、その顔に朱が走り、眉間に青筋が浮かぶ。
「『黒揚羽』だと……。貴様!」
総一郎はかっと目を見開いた。
「こともあろうにあの女と通じていたのか! 数馬を殺した張本人と!」
そこで、やや冷静さを取り戻した、だが逆に酷薄さは増した口調で、
「ということは、埋蔵金の件も知っておろうな? 分け前をやるとでも言われて、金に目がくらみ、やつに手を貸したのか? それともまさか、雨宮薫と同じように貴様も偽者なのか?」
自分は確かに中野伊織だ。主張しようとしたが、そうすると繁と由紀子に迷惑がかかる。ここは黒揚羽の一味だと誤解させておくのが得策だ。
伊織は喉元まで出かかった言葉を呑み込み、
「黒揚羽は……あの事件の犯人じゃありません」
抑えた声で、だが精一杯の感情をこめてそれだけ答えた。
「ふん、たわごとを」
案の定、総一郎は伊織の訴えを一蹴する。
「まあ、おまえが偽者か本物かは、この際問題ではないわ。仮におまえが偽者だとして、本物の伊織がどうなっていようと、知ったことではない。下賎な女の息子など、はじめから孫だなどと思ってはいなかったのだから」
総一郎は唇をゆがめた。年老いているとはいえ、顔立ちそのものは端正な男なのだが、そんな表情をすると内面のあくどさがにじみ出て醜く見える。
「呼び寄せたのも、本当は愛情や後悔からなどではない。それでも体面上、おまえさえおとなしくしていれば、物分かりのよい祖父を演じてやろうと思っていたものを」
吐き捨てるように言うと、
「黒揚羽について貴様が知っていることを、すべて話せ」
きっと伊織を睨みつけて命じた。
「素直に警察に引き渡しては、私の腹の虫が治まらん。それに、世間の目から見れば、おまえは私が認めた鈴倉家の一員だ。それがとんだ食わせ者だったと知れれば、いい物笑いの種だからな」
「……言いません」
小声で、だがきっぱりと伊織は拒んだ。もしかしたら、真の意味で人に反抗したのは、これが初めてかもしれない。
総一郎はふんと鼻を鳴らし、壁に立てかけてあるステッキを取ってきた。佐々木が立ち上がって受け取る。総一郎は再びどさりと座椅子に腰を下ろすと、たばこに火を点けた。
「本当は自ら打ち据えてやりたいところだが、さすがに若いころのようにはいかなくてな。見物に甘んじるとしよう」
夜叉のような総一郎の裏の顔をとうとう目のあたりにして、伊織はぞっとした。本能的に逃げ道を求めて振り向いたとたん、佐々木が伊織の襟首をつかみ、前に引き倒す。
「血は流すなよ。畳が汚れる」
「はい、承知しております」
佐々木は抑揚のない声で答え、伊織の背中めがけてステッキを降り下ろした。ひゅっと空を切る音、ついで息が止まるほどの衝撃。
「ぐっ……!」
激痛が、背骨から体の奥へと沁み込んでいく。ようやく痛みが引けようとするころ、呼吸を整える間もなく次の一撃が襲った。早すぎず遅すぎず、相手にもっとも苦痛を与えるペースで、佐々木はステッキを振るい続ける。涙がにじむどころではなく、ぽろぽろこぼれるほどの痛みというものを、伊織は生まれて初めて知った。
「佐々木」
名を呼ばれただけで、佐々木は総一郎の意を察したらしく、手を止めた。総一郎が布切れを手にして、たばこをつまんだまま再び近づいてくる。
「こやつの口をふさげ。家の者が驚いて集まってきてはやりにくいからな」
「はい。では、恐縮ですがこちらを」
佐々木はステッキを総一郎に返した。伊織の口に布切れを押し込んで、体をはがいじめにする。と、総一郎が、つまんでいたたばこを伊織の首筋に押しつけた。熱いという言葉も浮かばないほどの熱さに、伊織は声にならない悲鳴を上げた。焦げ臭いにおいがぷんと漂う。全身の感覚が痛みに支配され、気が遠くなる。
「どうだ?」
総一郎は伊織の頬をはたいて訊いたが、伊織が力なくも首を横に振るのを見て、
「ふん、案外強情だな」
冷ややかにつぶやいた。
「今日はこのくらいにしておくか。一昼夜頭を冷やさせて、それでも気が変わらないようなら、もっと苛烈な拷問を加えるとしよう」
「頭を冷やさせる……のですか?」
佐々木が首をかしげて問う。
「そうだ。覚えているか? 例の場所を」
総一郎が思わせぶりに答えると、佐々木は合点したらしくうなずいて、
「かしこまりました。ですが、みなさまには何と? 突然この子が姿を消したら、不審に思われるでしょうが……」
「そうだな、内輪の者には本当のことを話してよかろう。外部の者にもらさないよう、口止めした上でな」
「八雲様はお心を痛められるかもしれませんが……。この者を慕っていらっしゃったようですし、総一郎様の、こうしたお厳しい一面をご存じないのですから」
「構わん。八雲にもそろそろ、世の中きれいごとでは通らないということを教えてやったほうがよい。数馬のように優しいだけが取り柄の男にしないためにも」
「さようでございますか。ではお達しのとおりに」
苦痛に倒れ伏していた伊織は、なすすべもなく両手首を縛られた。口の中の布切れも取ってもらえず、さらに口元に手ぬぐいを巻かれる。伊織が大声を上げて、通行人にでも聞かれるのを恐れたのだろう。
その間に、総一郎が安達を連れてきた。事情は打ち明けたのだろうが、安達はまだ半信半疑らしく、困惑顔で伊織を見つめる。
佐々木が伊織の手首をつかみ、庭へ引きずり出す。曳かれていく途中で思わず振り向いて、伊織は胸をつかれた。八雲が縁側に立ちすくみ、伊織を見つめている。伊織の姿を見て状況は察しているだろうが、未だ一片の信頼を捨てられず、憎悪に徹しきれないのだろうか。険しいというよりは悲しげな表情で、泣き出しそうに顔をゆがめている。
(ごめん、八雲)
やましいところはないつもりだが、八雲の心情を思うと、伊織はひそかに詫びずにはいられなかった。
「よそ見なさいませんよう」
佐々木がひときわ強く伊織の手首を引き、伊織は無言で前を向いた。
連れていかれた先は土蔵だった。総一郎が錠を開けて、漆喰の戸を重たげに引く。大小長短さまざまな箱や風呂敷包みが、床や棚に並んでいた。明かり採りの窓からは光が差し込んでいたし、意外と涼しく風通しもよかったが、それも伊織の不安を軽減させはしない。
「このあたりの箱をどけろ」
総一郎が、円を描くように床の一部を手で示した。安達は怪訝そうだったが、言われたとおりせっせと箱を動かす。
そこはただの床ではなく、鉄格子の扉がはめ込まれていて、下に暗い階段がのぞいていた。総一郎が扉を開け、佐々木と安達が二人がかりで伊織を中に押し込む。伊織はずるずると階段を滑り落ちたが、幸いにして浅いところに踊り場があり、そこで止まった。その隙に扉が閉められ、錠がかけられる。
「その地下室は私の父が造らせたものだ。生意気な女中や下男に灸を据えるためにな。ちょっとやそっとの物音では、土蔵の外まで届かない」
総一郎の声が頭上から降ってくる。
「水だけはあとで持ってきてやる。渇き死にされるのはごめんだからな。用は下の甕ででも足しておけ。明日の朝になっても意地を張り続けるなら、もう容赦はせんぞ」
言い捨てて、総一郎は姿を消した。三人の足音が遠ざかっていく。
ひとり取り残されると、にわかに恐怖感が倍増した。土とかびのにおいが鼻を突く。階段の底に広がる暗闇に吸い込まれそうな気がして、伊織は固く目をつぶった。
不意に、下のほうで、バタッと何かの倒れる音が響いた。伊織は肝をつぶしてばっと顔を上げる。しばらく息をひそめて、目を凝らし耳を澄ませていたが、人や動物のいる気配はない。こわごわ立ち上がって、慎重に階段を下りた。
足で探って段が終わったことを確認し、そろそろと壁伝いに歩いていく。視界が利かず感覚が鈍っているのかもしれないが、それを差し引いても意外に広いようだ。総一郎が「地下室」と形容しただけのことはある。
爪先に硬いものが当たり、伊織はかがみ込んで手を伸ばしてみた。どうやら竹刀らしい。さらに探ると、どれもほこりをかぶってはいたものの、鞭や縄や鎖らしいものも見つかった。ここが使用人の仕置き部屋だったとして、ただ監禁するだけの空間ではなかったのは明らかだ。
かつてここで繰り広げられたような生き地獄を、自分も見ることになるかもしれない。そう思うと、それ以上探索する気力もなく、伊織はその場に座り込んだ。
(そんな目に遭ってまで、黒揚羽をかばいきることができるだろうか)
そして今頃になって、伊織は肝心なことを思い出した。黒揚羽は電話をかけてきただろうか。あるいはこれから来るとして、総一郎はそれが偽の電話だと見破るだろうか。総一郎が何と答えるかはわからないが、黒揚羽が異変に気づいてくれることを、伊織は切に祈った。
(でも、なまじ黒揚羽が助けに来てくれて、総一郎に捕らえられてしまったら……?)
自分はどうなってもいいから逃げてくれ、と心の底から願えるほど強くはなれないし、黒揚羽がそんな利己的な行動を取らないこともわかっていた。が、自分のせいで黒揚羽が縄をかけられることになったら、すまなさでいたたまれない。想像するだけで身を焼かれるようだ。
それでも、彼女が警察に引き渡されるのならまだいい。二度にわたって煮え湯を飲まされ、しかも黒揚羽を息子のかたきだと信じ込んでいる総一郎のことだ。目を覆いたくなるような私刑を加え、悪くすると命まで奪うかもしれない。
とにかく、女の子を――いや、他人を頼るばかりではだめだ。恐怖に押しつぶされそうな心を必死に奮い立たせ、伊織はここを脱出する策を練り始めた。
総一郎は、あとで水を持ってくると言っていた。そのときを狙うしかない。仮病を使うのは見え透いているし、屈服したふりをしてはどうだろう。言うことを聞くと言っただけでチャンスが訪れればめっけものだし、でたらめでも黒揚羽について情報を提供すれば、信用はしないまでも油断はするだろう。
心を決めると、伊織はいくらか落ち着いて、壁に背をもたれてじっとしていた。ほかに気を取られることがないためか、傷がいっそう激しくうずくような気がしたが、歯を食いしばってこらえる。
時間の感覚が狂っていたが、おそらく一時間ほど経ったころだろう。ガタンと扉の開く音がして、佐々木と安達が下りてきた。二人とも一つずつバケツをさげ、佐々木はもう片方の手に懐中電灯を持っている。
「ん、んん」
伊織は物言いたげに身をよじった。佐々木は歩みを止め、無言で伊織を見つめた。どんな嘘も見抜きそうな冷徹な視線にたじろぎながらも、哀願の表情を作って見つめ返す。佐々木はゆっくりと下りてきた。
「言いたいことがあるのか?」
佐々木なりの基準があるのか、総一郎がいないときは敬語ではないらしい。こくこくとうなずくと、佐々木はさるぐつわを外してくれた。伊織は荒い息をつき、
「すみません、やっぱり全部話します。だからここから出してください」
床に転がった責め道具を恐ろしそうに見やり、膝を縮めてみせる。佐々木はしばし黙り込んでいたが、
「わかった。総一郎様にお伝えしてこよう」
答えると、視線で安達を促した。二人は階段を下り、床にバケツを置く。佐々木は安達に懐中電灯を預け、階段を引き返していった。
(しめた!)
伊織は内心快哉を叫び、
「あの……水をもらえませんか?」
おずおずと安達に頼んだ。さりげなく正座して爪先を曲げ、飛び出す準備を整えておく。
「ん、ああ」
安達は硬い声で答え、伊織に背を向けてバケツに歩み寄った。そのとたん、伊織は不自由な両手で竹刀を引っつかみ、立ち上がって駆け出した。安達が振り向くやいなや、その背中を思いきり打つ。
「つっ……!」
安達はつんのめって膝を突いた。
「ごめんなさい!」
謝りながらも、もちろん勢いはゆるめない。罪もない彼には悪いが、正当防衛だと思って許してほしい。
伊織は部屋を突っきり、階段を駆け上がった。傷ついた体でよくこんなことができるものだ、これが火事場の馬鹿力というやつかと、妙に冷静に感心しているもう一人の自分がいる。
だが、上りきって扉を押してみたとたん、伊織は信じられない、というより信じたくない思いで凍りついた。開かないのだ。もちろん引いても同じことだ。安達という見張りはいるものの、念には念を入れて、佐々木が施錠していったらしい。
「そんな……!」
むだとわかっていながら、伊織はガタガタと押し引きを繰り返した。
「まったく、むちゃをするなあ」
のろのろと振り向くと、いつの間にか安達が追いついていて、中腰で背中に手を当てている。
「ほら、戻ろう。総一郎さんと佐々木さんにばれたら大ごとだぞ」
安達は伊織の襟首を引っ張る。
「どうしましたか?」
そのとき、鉄格子の間から佐々木と総一郎の姿がのぞいた。伊織はぞっとして、思わず安達の顔を見上げる。
「ええと」
安達は気まずそうな顔で、
「この子、逃げようとしたんです。申し訳ありません、僕も油断してしまいまして」
「何だと?」
総一郎が気色ばんで目をむいた。
「貴様……さては洗いざらい白状すると言ったのも、そのための嘘か」
生きた心地もしないとはこのことだった。気丈にふるまおうとしても歯の音が合わない。
「もう我慢ならん! 今すぐ目にもの見せてくれるわ」
総一郎が佐々木から鍵をひったくったとき、
「ちょっと待ってください、総一郎さん」
安達があわてて制止した。
「ああ?」
総一郎は、不愉快で固めたような声を出す。
「いえ、あの……」
安達は気圧されて口ごもりながらも、
「お怒りはごもっともですが、力に訴えることには慎重を期されたほうが……。万一警察に知られたら厄介です」
「かもしれんが、菅原署長とはまんざら知らぬ間柄でもなし、不届き者をちょっと痛めつけるくらい、目をつぶってくれるだろう。何なら袖の下でも送ればよい。こやつが黒揚羽の手先であることまで、世間に隠すことはできぬだろうが」
「ですが、数馬さんの事件で警視庁の人間が来ているはずです。鈴倉家の権威をもってしても、彼らまで抱き込むことは……。民主主義の世の中とやらで、私刑だ拷問だというのはとかく非難されますから」
「ふむ」
総一郎は口をつぐんであごひげをひねった。
「それにまだ少年ですから、一晩暗闇に閉じ込めておけば、心がくじけて言うなりになりますよ。余計なお手間をかける必要はありません」
安達の口調は淡泊だが、その分卑屈さを感じさせず説得力がある。総一郎は伏し目がちに考え込み、伊織は息を凝らした。その選択を一刻も早く聞きたい気持ちと、永遠に聞きたくない気持ちがせめぎ合う。
「こやつに同情的なのは気に食わないが」
総一郎は面白くなさそうに安達を睨んだが、
「おまえの言い分にも一理ある。やはり明日まで待つとしよう」
ぶっきらぼうに言い放った。伊織の肩――いや、全身から力が抜ける。伊織は安達に感謝の眼差しを投げた。さっきはだまして竹刀で打ったというのに、それを根に持たず助けてくれるなんて、何と気のいい青年だろう。
総一郎が扉を開け、上がってくるよう安達に命じた。安達はちらと伊織を横目で見たが、思いきったように階段を上って地上へ出ていく。再び無情に扉が閉まった。
伊織は、体をよじって横に手を突き、腰を下ろしたままの体勢で踊り場まで下りた。心にどっと疲れが押し寄せる。目前の危機は回避されたものの、事態はふりだしに戻っただけだ。
(何とかしなければ。何とかしなければ)
焦慮ばかりが頭の中で空回りし、具体的なことは何も考えられない。
十分ほどして、扉の向こうに伊織にも見覚えのある下男が現れた。恰幅のよい三十歳前後の男で、確か平岡といったはずだ。時折脅すような鋭い視線をよこす以外、伊織を黙殺しきっている。
伊織は無限とも感じられる時を過ごした。叫び出したいような衝動と、指一本動かしたくないような倦怠が交互に襲ってくる。一日しか猶予が与えられなかったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。それ以上ここに押し込まれていたら、気が狂いかねなかった。
窓からの光で、日中は鉄格子の外も薄明るかったが、やがてそれも絶え、地下室は真の闇に閉ざされた。よい知恵も浮かばないまま、伊織はいつしかまどろんでいた。覚悟ができたとか度胸がついたとかいうよりは、昨夜数時間しか眠っていないのと、これ以上精神を消耗するまいとする、無意識の自己防衛のためであったのかもしれない。
濁った水の中で藻にからみつかれているような、浅い不快な眠りの中をさまよっていると、不意にまぶたの向こうに光を感じた。かすかに、かちゃかちゃと金属の触れ合う音が聞こえる。伊織はうっすら目を開けた。もう夜が明けて、総一郎が決断を迫りにきたのか? いや、それにしては暗すぎる。
ある期待と、それに伴う、またも希望を打ち砕かれるのではないかという不安が、伊織の中で交錯した。金属音は数分続き、扉が開いて、誰かが忍び足で下りてきた。懐中電灯の明かりの背後に、長い髪のすらりとしたシルエットが浮かび上がる。伊織は胸の中まで光が満ちあふれるような気がした。
「黒揚羽……」
「伊織! 大丈夫か?」
黒揚羽が駆け寄ってきて、伊織を抱き起こす。その口調は真剣なだけではなく、意外なほど不安げだった。伊織は痛みにちょっと顔をしかめたが、安堵と喜びの前には、そんなものは取るに足らない。
「うん、大丈夫」
「怪我は?」
「してないわけじゃないけど、大したことないよ」
黒揚羽は伊織の全身にさっと目を走らせた。ほっとしたように息をつくと、不意に伊織を抱きしめる。
(うわ……)
全身がほてり、心臓の鼓動が高まった。だが、
「ここはまだ使われていたのか……」
ふと耳元で聞こえた暗い声に、再び体温が下がるのを感じる。
(今の言い方……。黒揚羽はここの存在を知ってるのか?)
疑問が頭をかすめ過ぎた。黒揚羽はまだ動かない。
「黒揚羽?」
伊織が声をかけると、ようやくぴくりと身じろぎし、
「すまない。今はそれどころではないな」
伊織から体を離し、ナイフで手首の縄を切ってくれた。
「詳しい話はあとだ。まずはここを出よう。立てるか?」
「うん」
伊織は黒揚羽に肩を貸され、階段を上って扉の外へ出た。床には平岡が伸びていて、そばに男がぬっと立っている。伊織はぎょっとしたが、
「ご苦労だった。行くぞ」
黒揚羽が声をかけたので、味方だとわかった。黒揚羽にいったん床に座らせてもらい、今度は男に背負ってもらう。この年になって人におぶわれることがあろうとは思いもよらなかったが、照れくさがっている場合でもないので、おとなしく男の首につかまった。
土蔵の扉の前にも、見張りらしい男が一人倒れていた。庭の木々に身を隠しながら門を出る。道路に着いていくらか歩くと、路肩に車が停めてあった。運転席から小さな人影が降りてくる。それが誰かは顔を見るまでもない。
「お姉さま、伊織さんは……?」
千里は、男に背負われている伊織を心配そうに見やった。
「総一郎にやられたみたいだが、命に別状はなさそうだ」
千里が肩の力を抜いたのがわかる。
「まったく、手間かけさせるんだから」
憎まれ口にも覇気がなかった。
男は伊織を後部座席に乗せ、車をひととおり点検した。伊織の隣には黒揚羽が、助手席には千里が座る。
「つらいだろう。横になったらどうだ?」
黒揚羽に勧められて、伊織は座席に身を横たえた。
男が運転席に乗り込んできた。エンジン音と振動が響き、車が走り出す。ようやく逃げ延びたという実感が湧いてくると、伊織はちょっと頭をもたげて、
「ありがとう。黒揚羽、千里、それから……」
「成瀬と申します。事件の日、一瞬だけですがお目にかかっているのですよ」
にこやかな表情が目に浮かぶような口調で、男は自ら名乗った。その言葉で、伊織は彼が雨宮薫のお付きに扮していた男だと思い当たった。
「彼も千里と並ぶ私の片腕なんだ」
黒揚羽が誇らしげに紹介する。伊織の名などとうに知っているだろうし、初めましてとも言えないし、あいさつに窮した伊織は、とにかくもう一度「ありがとうございます」と繰り返した。ちょうど会話が途切れたので、
「……ごめん」
思いきって口を開く。
「計画を台なしにしてしまって。君たちに会いに行くとき、庭を通るのを異母弟に見られていたらしいんだ。しかも、君が子犬に託したあの手紙……ズボンのポケットに入れたままにしていて」
前者はともかく、後者は明らかに伊織の失態だ。言う必要のないことまで言ってしまうところが、彼の律義なところである。だが、黒揚羽は優しく伊織を見やって、
「おまえばかりのせいじゃないさ。私も考えが甘かったんだ。それに、ひどい目に遭ったのはおまえじゃないか」
「でも……」
「むしろ、私のほうこそ礼を言いたい。総一郎に私のことを話せと脅迫されても、黙っていてくれたんだろう?」
しんみりした空気が流れたが、
「怪我人のくせに、つべこべうるさいわよ」
例によって、千里のつっけんどんな言葉でおじゃんになった。
「そっちこそ、怪我人にはもっと優しくしてくれよ」
伊織は口をとがらせたが、内心では、こんな他愛ないやりとりができることがたまらなく嬉しかった。
「だけど、どうして僕の身に危険が迫ってるってわかったの?」
伊織は再び黒揚羽の顔を見る。
「ああ。電話をかけたとき、家政婦が出たんだ。運良く、と言っていいだろうね。『伊織の母でございます』と名乗ると、一拍おいて『はい』と答えたきり、考えあぐねているように何も言ってこない。自分の声色には自信があったし、そもそもあの家政婦はおまえの母親の声を知らないのだから、声で怪しまれるはずがない。これは伊織に何かあったのでは、私と会っていたことがばれたのではないか、と思った私は、『総一郎さんか佐々木さん……伊織本人でも構わないのですが、代わっていただけますか?』と訊いてみた。と、『申し訳ありませんが、只今お三方とも取り込み中でして……』と答えるじゃないか。いよいよ確信を強めた私は、適当にごまかして受話器を置いた。すぐに鈴倉邸の庭に忍び込むと、男が土蔵の前に見張り然として立っている。そこにおまえが監禁されていることは察せられたから、いったん引き返して、夜が更けるのを待って、こうして助けに来たというわけさ」
「そうだったんだ。返す返す、君たちには頭が上がらないよ」
伊織がしみじみ言うと、
「何を大袈裟な」
黒揚羽は苦笑して、
「さあ、もう寝ろ。あとのことは私たちに任せておけ」
伊織の肩に手を置いた。
体も弱っていたし、恐怖から解放されて気もゆるんだのだろう。目を閉じているうちに、激しい睡魔に襲われて、伊織の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。