プロローグ
あらすじでも触れましたが、昨年某エンタメ系文芸賞に応募し、落選した作品です^^;
原稿用紙換算500枚超。ちょっと長めの単行本程度の分量はあります。
感想、批評等大歓迎です!
広い居間には、二脚の革張りのソファが向かい合わせに置かれている。間にはうっすら緑色がかったガラス天板のテーブル、床には幾何学模様を描いた深紅の絨毯、天井には、釣鐘型の花をかたどったランプが五つばかりついたシャンデリア。壁際では、線の細いローマ数字の文字盤を掲げた大きな柱時計が、チクタクと時を刻んでいる。傍らにはサイドボードがどっしりと構えており、草花だの果物だのを描いた、華やかな平皿やティーセットが飾られていた。
だが、そんな贅を尽くした部屋で繰り広げられているのは、一家の温かい団欒の光景でも、主人の優雅な休息のひとときでもなかった。
老境に差しかかった、目も顔も体つきも細長い男が、気難しい顔でソファに腰かけている。両腕両足を開き、威厳をかもし出そうと精一杯努力しているようだが、内心の不安を表すように、その指先はせわしなくももを叩いていた。
隣には、同じ年頃の大柄な婦人が寄り添っている。いや、寄り添っているというほど仲むつまじくは見えないだろうか。若作りでおしろいを塗りたくり、紫の地にクリーム色の百合の花という、派手なワンピースを着ていた。こちらは気難しいというより不機嫌な顔で、胸にビロード張りの宝石箱を抱きしめている。
二人の前には警官が二人、直立不動で立っていた。ぽつぽつと白髪の交じった髪をなでつけた、四十代半ばくらいのバタ臭い顔立ちの男と、三十前後の血気にあふれた感じの青年だ。
年かさの警官は、四方に鋭く目を走らせてから、胸ポケットから片手で便箋を取り出し、開いた。
前略 初めまして。黒揚羽と申します。こう名乗れば、野暮な自己紹介は不要なことでしょう。
このたび、貴女がお持ちのダイヤモンド、「天使の涙」の存在を知り、大変心動かされました。
ぜひ一度拝ませていただきたく、来る六月一日、御宅をご訪問しお借りする所存です。返却の期限は、当方の勝手により無期限とさせていただきますが、あしからず。なお、「天使の涙」が評判に反し二束三文の駄物であった場合は、このかぎりではありません。
それでは、当日を楽しみにしております。 草々
五月二十五日 黒揚羽
高遠登志子様
平凡な白い便箋だが、特徴的なのは、余白に黒い揚羽蝶の紋章が入っていることだ。印刷されたものではなく、専用の印で捺したものらしい。
「まったく、ふざけた真似をする」
いらだちと呆れの混じった声で言い、警官は便箋をつまんだ指に力をこめた。便箋にわずかにしわが寄る。
そう、ソファに腰かけている婦人こそが、この予告状を送られた張本人、高遠登志子である。隣の男はこの館の主で某省の大臣、高遠義彦、年かさの警官は警視庁の副総監の工藤、若い警官は警部補の丹羽という。
現在、六月一日午前三時。工藤と丹羽は、前日の九時ごろからここで待機していた。当のダイヤモンド、「天使の涙」は、登志子の抱えている宝石箱の中にある。三十カラットを超える、高品質の洋梨型の白色ダイヤモンドで、革命まではロシアの大貴族が所有していたという由緒ある宝石だった。登志子夫人はこれを首飾りに加工し、パーティのたびに胸元で輝かせていたのだ。決して服装の趣味がよいとは言えない登志子夫人は、しばし陰でほかの出席者たちの失笑を買うこともあったが、このダイヤモンドだけは、掛け値なしの賞賛と羨望の眼差しで迎えられていた。
「早く来ませんかね」
丹羽が焦れたように軽く体を揺らした。
「馬鹿。不謹慎なことを言うな」
工藤がいさめた。内心では、彼も案外同じことを思っているのかもしれないが、高遠夫妻の手前おくびにも出してはいない。
「ははは、これは頼もしい」
高遠が笑うが、笑い方には覇気がなく不自然な感じもする。
対して、登志子はきっと目を吊り上げて、
「頼もしいじゃありませんわ、あなた。こうやって、今まで何人の方々が被害に遭ったと思ってるの」
「おい、刑事さん方の前で、そんなことを言うものじゃない」
高遠は登志子と二人の警官、双方に気を遣うように、身をすくめながら言った。気の小さい高遠が大臣にまで上りつめたのは、夫人の内助の功(などと呼べるようなつつましいものではなかったとしても)であるというもっぱらの噂であり、彼は完全に尻の下に敷かれているのであった。
「いえ、奥様のおっしゃることは真実ですよ」
工藤は感情を害したふうでもなく、さらりと肯定した。
「これ以上、愚直な叩き上げの連中に任せてはおけません。だからこそ、普段は捜査などに携わらない私が、こうして足を運んだわけです」
まぎれもない「叩き上げの連中」の一人である丹羽が、隣でむっとしたように眉を上げる。
「はあ……」
高遠はかえって恐縮したように言った。
そのとき、
「大変です! 黒揚羽の部下らしい男が、屋敷に乗り込んで大暴れしております」
ぽっこりと腹のふくらんだ、中年と言うには少し若い警官が飛び込んできた。
「何だって! そんな馬鹿な! あんなに警備の人間を置いていたんだぞ」
工藤が目をむく。
「本当です。とにかく助勢をお願いします」
警官は必死で続ける。
「行ってまいります!」
すわ自分の出番が来たとばかりに、丹羽が工藤に声をかけ、飛び出した。丹羽は剣道、柔道ともに三段という猛者で、その才を買われて今回の警備に駆り出されたのだ。
「すみません。やつの不意を打ちたいので、あまり大声を出したり足音を立てたりなさらないで……」
警官があわてて注意すると、
「わ、わかりました」
丹羽は素直に駆け足を早足に変える。
二人が部屋を出るやいなや、
「言わんこっちゃないわ! これだから警察なんて当てにならないのよ! 天使の涙が盗まれたらどうしてくれるの!」
登志子が金切り声でまくし立てた。
「申し訳ございません。ですが、必ず向こうで食い止めさせますから……」
自信家の工藤も、額にうっすら脂汗を浮かべている。と、またもドアがかすかにきしみながら開いた。
「今度は何……」
睨みつけるように顔を向けた工藤が絶句する。先程の警官が、ぐったりした丹羽の上半身を、わきの下に腕を入れる形で支えて入ってきた。
工藤は一瞬呆然としていたが、
「あ、あ……」
高遠と登志子が金魚のように口をぱくぱくさせて、意味をなさない声を発しているのに気づいたらしく、双眸に光を取り戻す。しかも、高遠夫妻は気絶した丹羽を見てではなく、明らかにドアから九十度ずれた場所、二人にとっては真正面を向いて驚いている。二人の視線の先を追い、工藤はもう一度絶句することとなった。
柱時計の振り子室の扉が開き、その前に、黒いシャツとズボンに覆面の人物が立っていた。いや、よく見ると黒ではなく紺色だ。その昔、闇にまぎれて活動する忍者は、柿色や紺色の衣装を身にまとっていたというが、それと同じ理由からだろう。
「出たな!」
工藤は腰の拳銃に手をかけた。まるで化け物か怪物でも現れたような言い草だ。そのとたん、例の警官が豹のような俊敏さで飛びかかり、工藤の両腕をつかむ。
「このっ……!」
振り払おうともがく工藤だが、相手は涼しい顔でびくともしない。そこへ覆面の人物が、一まとめにした長い髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
「悪いね」
瞳に不敵な微笑をたたえて言うなり、工藤の背後に回り込み、首に腕を回して頸動脈を押す。工藤の体から力が抜けた。床に崩れ落ちるところを、警官――いや、偽警官が支え、ゆっくり横たわらせてやる。
高遠夫妻は抱き合って震えていた。気の強い登志子でさえ、立ち向かおうなどとは思いも寄らないらしい。宝石箱も床に取り落としてしまい、「天使の涙」がその絢爛たる輝きをのぞかせている。
覆面の人物――怪盗と、偽警官が悠然と二人に近づいてきた。
「床に座ってくれないか」
怪盗が口を利いた。穏やかな物腰がかえって不気味で、高遠夫妻は蛇に睨まれた蛙さながら、ずり落ちるように床に尻を突く。
「手を後ろに回して……そうそう」
怪盗と偽警官は、夫妻の両手をソファの足につなぎ、両足も縛り上げてしまった。怪盗は、今度はハンカチを使って「天使の涙」を拾い上げる。てのひらにのせてちょっと眺めると、丁寧に包んで腰の革袋に入れた。
「あ、あんた……どうやって逃げるつもりよ」
ようやく、うわずった声ながら登志子が口を開いた。
「時計の中には、警察が来る前から隠れてたのかもしれないけど、今は庭中に警官がいるのよ」
恐怖と動揺のあまり、一時的におかしくなっているのか、登志子の目がぎらぎらした光を帯び始める。
「警官に変装してるそいつはともかく、あんたはただじゃすまないわ!」
だが、怪盗は動じるそぶりもなく、
「ご忠告ありがとう。だが、そんなことは先刻承知。つまり警官の格好をしていればいいわけだね」
偽警官に目くばせする。と、彼はいきなり制服のボタンを外し始めた。上着を脱ぐと、何と丸めた衣服が腹にくくりつけられているのがあらわになる。もちろんそれは警官の制服だ。
「どうも滑稽な姿で……」
紐をほどきながら、偽警官が照れたように笑う。
「すまないな。だが、背に腹は代えられなくてね。いや、この場合は腹は背に代えられないのか」
「言い得て妙ですね」
偽警官は、今度は照れ隠しなどではなく、心底愉快そうに口元をほころばせた。外した制服を怪盗に手渡す。怪盗はそれを、今の衣装の上から素早く身につけると、夫妻に背を向けてごそごそやり始めた。どうやら覆面をはぎ取り、変装を施しているらしい。最後に髪を団子状にまとめ、制帽の中に押し込んだ。
「では、少しの間我慢してくれ」
怪盗がわずかに振り向いて言うと、偽警官が夫妻の口に手ぬぐいでさるぐつわをはめる。二人は堂々と玄関に通じるドアから出ていった。
あとに残されたのは、うなり声を上げ鼻息も荒くもがく登志子と、対照的に、放心して虚空を見つめる高遠であった。