第4話
残酷な表現が含まれます。
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「こ、これはどう言う事じゃ!葵!葵は何処へ行った!」
手紙を右手で鷲掴みに握り締め、四十代後半に見える白装束の女性が、怒鳴り声を上げる。
「母上様!落ち着いて下され!」
立ち上がり叫ぶ女性を、三十代前半ぐらいの淡い青色の着物を着た女性が、縋る様に腕の無い左袖を引いて諌める。
「何時じゃ!何時から葵は居らぬ!」
笹百合の傍に控える侍女に怒鳴り付けると、
「ひっ、ひ、姫様は、さっ、昨日より、お、お姿が……」侍女は、顔を青ざめ体を小刻みに震わせ、怯えながら答えた。
「菖蒲!お主は知って居ったのか!」
「いえっ、滅相も!妾は一向に!」
山深い森の中、木々に囲まれた高大な朱塗りの神殿あった。
その奥で、大峰の主、笹百合と笹百合の娘達が集まっていた。
長女の菖蒲は、笹百合に怒鳴り付けられながらも、笹百合を落ち着かせようと、必死にしがみ付く。
「母上様!」
菖蒲だけでは、手に負えぬと、二十代後半に見える次女の楓と、二十代前半ぐらいの三女の桜が笹百合に駆け寄る。
その様子を、二十前ぐらいの四女の紅葉が、おろおろとしながら見ていた。
激怒していた笹百合が、三人に諌められ少し落ち着いたのか、毛皮が敷き詰めてある長椅子へと座った。
「なんと言うことじゃ……娘が……葵が、伊予の者と……」
落ち着きを取り戻し、愕然と頭を垂れる笹百合。
「されど、何時の間に……伊予の者と通じていたのやら……」三女の桜が、眉を顰める。
「五百年前の大戦……まだ齢浅き我を舐めよって、紀伊の海まで、我が者顔で勝手振舞う阿波の輩を、追い払った事が始まりじゃった……あの大戦、我が所領を守る為の戦い、我は、あの戦いで失くした左腕の恨み、生涯忘れぬぞ……」
「母上様……」
眉間にしわを寄せ、悔しそうに唇を噛む笹百合に、心配そうに楓が声を掛ける。
「我の恨めしい思い……分からぬ訳では無かろうに……なのに、何故……伊予の者と……しかも、あの刑部の嫡孫の元に行くなどとは……何故じゃ……」
「書置きを読むと、随分と前から通じていた様な……あの子、その様な素振り等、一つも見せなかったのに……」菖蒲が笹百合の落とした手紙を拾い上げ、再び手紙に目を通した。
「まだ歳若いとは知りながら、大台の地を任せたのが誤りじゃった……目の届かぬ所で勝手しおって……あの戦いで、どれ程の者達が死んで行ったか、知らぬ訳でもあるまいに……我が一族の恨み、分らぬ訳ではあるまいに」笹百合は、長椅子の背凭れに体を預け力無く項垂れる。
「されど、母上様……大戦を知っているのは母上様と妾だけ……」
菖蒲が遠慮がちに、笹百合から顔を背けたまま小声で言うと、
「だから、何じゃ」と、笹百合は目を吊り上げ、菖蒲を睨み付ける。
「歳若い葵や、桜に紅葉は、まだ生まれては居らず……楓とて大戦のおりは、まだ幼く……」
「だから、何じゃ!」
言い難そうに口篭る菖蒲を、笹百合が怒鳴り付けると、
「……」菖蒲は黙ってしまった。
「お前は、この母の悔しさが分からぬのか!この母の無念さが!」
「いえっ!決してその様な!」
立ち上がり怒鳴る笹百合に、慌てて菖蒲は床に平伏して答えた。
「申し上げます!」一人の若者が、笹百合達の居る部屋の入り口で跪いていた。
「何用じゃ」
楓が若者に尋ねると、
「はっ、只今、吉野の物見より報告が参りました」と、若者は深く頭を下げながら報告した。
「何と申しておる」
「はっ、本日夕刻、我らが領地へと迫りました軍勢は、伊予の者達と判明いたしました」
「何!」
その場に居る笹百合達五人と侍女達が一斉に驚き、若者の方を見た。
「……まさか……葵め、裏切よったか……」
立ち上がり、茫然とする笹百合に、
「まさか!あの子が、その様な事を、するはずがござりません!」菖蒲が力強く否定する。
「しかし……」
「伊予の者達はその後どうした」
茫然とする笹百合を他所に、楓が若者に尋ねると、
「はっ、生駒の方へと向ったと思われます」若者は頭を下げたまま答えた。
「生駒じゃと……何故?」
眉を顰め楓が再び尋ねると、
「それは、未だ分かりませぬ」若者は頭を下げたまま再び答えた。
「伊予め、舐めよって……何を企んで居る……誘い出す積りか……」
「如何されます?」目を細め考える笹百合を見ながら、菖蒲が尋ねた。
「……誘いに乗るのも口惜しい……まずは、吉野の者達に守りを固め、伊予の軍勢の動きを詳しく調べる様に伝えよ。そして高野、和歌浦の者達にも警戒する様に伝えよ」
「はっ!」
笹百合の命令を受けて、若者は一礼しその場から立ち去った。
「葵の件は如何しましょう?」
遠慮気味に尋ねる楓を他所に、
「なあ、我は、良き母であったか?……どうじゃ?我は、お前達にとって、良き母であったか?」と、笹百合が一人一人の顔を眺めながら、心配そうに尋ねた。
「母上様……」
自信無げな笹百合の姿を見て、戸惑う菖蒲に縋り付き、
「のう、言うてくれ、我は良き母であったか?」と、笹百合は悲しそうな顔で尋ねた。
「何を仰います……もとより、母上様は我らに良うして下されました。優しい母上様であられました」
優しく微笑みながら菖蒲が言うと、
「されど……あの子は……葵は……」と、笹百合は悲しい顔で項垂れた。
「母上様……」
そんな笹百合を哀れに思い、菖蒲は笹百合を抱き締めた。
---◇---
慣れない野宿で、なかなか眠付けなかった龍士が、明け方近くにやっとまどろみ掛けた時、突然、顔の上に何かが落ちて来た。
「わっ!」
驚き飛び起きた龍士は、まだ薄暗い中、何事かと寝惚けた目で辺りを見回す。
周りの状況が頭で理解出来始めた時、目の前で明日香も何事かと驚いた様子で辺りを見ていた。
夜露を凌ぐ為に立てかけてあった木の枝が崩れ、龍士達の体に落ちていた。
そして、葵が直ぐ傍に立っていた。
「葵さん……何やってんだよ……」
恐らく、葵が立ち上がったせいで木の枝が崩れたのだろうと思った龍士は、眠そうに目を擦りながら葵に尋ねた。
「……」葵は龍士の言葉に気付かないのか、ただ辺りを警戒する様に見回している。
「どうしたの?」葵の様子に、明日香が心配して尋ねる。
「来よった……」
「えっ?」
「追手じゃ……」
遠くの一点を見詰める葵の言葉に、二人は驚き葵の見ている方を見た。
しかし、まだ群青色の空を見ても二人には何も見えなかった。
「我は行く……済まぬな、道を案内出来そうも無い……」
葵は空を見詰めながらそう言うと、明日香に振向き、
「お主等をこれ以上、巻き込む訳にも行かぬ……」と、悲しそうに笑みを浮かべた。
「そんな……でも、葵さん大丈夫なの?逃げ切れるの?」
心配そうに明日香が尋ねると、
「……」葵は不安げに項垂れ、懐剣の入った刀袋を胸に強く抱き締めた。
「葵さん……」明日香は立ち上がり、葵の傍へと近寄る。
「何とか逃げて見せる……時貞様のご遺言……守って見せる……」
不安そうに呟く葵の横で、明日香も不安そうに葵を見ている。
「分かった……俺達なら心配しないで……何とかするから」
龍士が立ち上がり、葵へと話し掛ける。
「でも……」
不安そうな顔で、龍士を見る明日香に、
「俺達が居ても、葵さんの手助けなんて出来ないよ……それより、何も出来ない俺たちが居たら、返って葵さんの足手纏いだよ……」龍士は静かに明日香を説得した。
「……」明日香は龍士の言葉を聞いて、黙って俯いてしまった。
そんな二人を、葵は悲しそうな顔で見て、
「我は、あちらへと向う、お主等は、この岩肌の斜面に沿ってあちらへと向かえ……遠回りになるやも知れぬが、岩肌に沿って進めば迷う事は無いじゃろ」指で方向を示しながら、龍士達に帰れる方向を教えた。
「あっ!」明日香が空を見て声を上げる。
それは、不思議な光景だった。
化物の集団が、明日香から見て、左手前から右奥へと明日香達に気付かず斜めに遠ざかって行く。
「どう言う事……」
「早く行け!」茫然と眺めている明日香達を葵が急かす。
「うん……」
急かされて戸惑いながら明日香が頷いた時、化物達は、ふっと消え、今度は遠くの正面に現れた。
「なんなの……」理解しがたい現象を目の前にして明日香が呟く。
「これが、隠里じゃ……さっ、早く!」
再び急かす葵に、
「無茶しちゃ駄目よ……」と、明日香が心配そうに言った。
明日香の言葉を聞いて葵は、微笑みながら頷いた。
「じゃあ……」明日香が葵に頷き返し、龍士と共に斜面に沿って走り出した。
明日香達の後姿を暫く見送って、葵は明日香達とは反対の方へと走り出した。
「逃げたぞ!追え!」道真は葵の逃げる姿を見て、化物達に号令を掛ける。
命令直後、化物は一群となり急降下して、葵の後を追った。
葵は走りながら刀袋を口に咥え、全身を狐火で包むと、大狐の姿へと変化した。
大狐の姿で、斜面に沿って木々の間を縫う様に駆け抜ける葵に、化物達が迫る。
葵は、後ろから迫る化物達との間合いを計りながら大きく飛び上がると、身を翻し、全身を包んでいる狐火を、散弾の様に化物の達へと放ち、直後に再び身を翻す。
無数の小さな狐火が、大きな集団となって化物達へと向う。
そして、化物達に命中した狐火の散弾は、先頭の化物達を削る様に連続で炸裂する。
葵は、命中した事を確かめる事無く、森へと方向を変え、生い茂った葉の海へと飛び込み、木々に隠れ逃げて行く。
木々の間を蛇行し進む青白い光を見ながら、
「ええいっ、小癪な!」先頭の二十匹ぐらいの化物を失い、道真が眉を顰める。
「信綱!源衛門!」
「はっ!」道真が、呼ぶと二人の戦装束の青年が道真の前に現れた。
「力押しでは、犠牲が大きくなるだけだ。信綱、お前は百を引き連れ、斜面に沿ってそのまま進め。源衛門、お前は同じく百を引き連れ葵の後を追え。我は残りを引き連れ何とか先回りする。良いな!」
「はっ!」道真の命令を聞いて、二人が頭を下げて返事をする。
「それと、相手は大峰の笹百合の娘。神通は高大だ。油断するな。どの様に痛め付けようが構わぬが、決して殺しては成らんぞ!良いか、ご隠居様の厳命ぞ!」
「はっ!」
二人は、再び頭を下げて返事をすると、
「続け!」
「行くぞ!」と、化物達に合図をして、命令された方へと向った。
「よし、我らも行くぞ!遅れるな!」
道真は残りの化物達に合図すると、葵が逃げて行った方角から大きく右に逸れ、森を迂回する方角へと向った。
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時康軍が葵を探す為に、木々の密集した山の斜面を舐める様に飛んでいると、突然、時康軍と衝突すれすれの上空に、憲正軍が現れた。
「うっ!」時康は、直ぐ様身を捻り降下し躱す。
低速で移動していたとは言え、一部の化物同士が衝突し森へと落ちて行く。
「くそっ……」落下して行く化物達を見ながら、時康が毒付く。
「申し訳ございませぬ……お怪我はございませぬか」
憲正が申し訳無さそうに、時康に近付き頭を下げると、
「……憲正殿か……構わぬ、我も気付かなかった……」と、時康は苦笑いしながら答えた。
「まったく、忌々しい隠れ里じゃ……」
「確かに……道となる結界は見えまするが、壁となる結界の向こうは見えませぬな……これでは軍勢での移動は、無理がありますな」眉を顰める時康を見ながら、憲正が呟いた。
憲正の言葉を聞いて、時康は暫く腕を組んで考えている。
「迷路の様な結界……手分けした方が良いかと……」
「そうじゃな……」
時康はそう言って、軍勢へと振り向くと、
「皆の物!よく聞け!これより、この場より散り、各自で女狐めを探せ!例え女狐めを殺そうとも、男刀を持ち帰った者には、金でも身分でも望む物をくれてやる!よいな!」大声で、命令を下した。
「おお!」時康の命令を聞いて、俄かに響き立つ軍勢。
「正造、清次、善平!」
「はっ!」
時康に呼ばれ、切袴に鎧の胴と草摺りだけを付けた、下級武士の様な青年達が時康の前で頭を下げる。
「千代松、権蔵、小六!」
「はっ!」再び下級武士の様な三人が呼ばれて進み出て、時康の前で頭を下げる。
「貴様らが男刀を持ち帰れば、それなりの身分と領地を与えてやる」
「おお……」六人が顔を見合わせ、想像以上の褒賞に笑顔を浮かべる。
「若!有難き幸せ!」
権蔵が笑顔で時康に礼を言うと、
「馬鹿者、礼は手柄を立ててから言え」と、苦笑いを浮かべて時康が嗜めた。
それを聞いて、其の場の皆が声を上げて笑う。
「幼き頃から、共に過ごしたお前らにも、手柄を立てる好機が巡って来た。存分に励め!」
「はっ!」笑顔で励ます時康に、六人は勢い良く笑顔で返事をした。
「皆の者!武功を立てよ!」
「おお!」手を振りかざし声を上げる時康に化物達が大声で答え、各自めいめいの思いの方角へと飛んで行った。
「良いのですか……若様……」
憲正と共に残っている、軽衫袴に、家紋の入った陣羽織を着た戦装束の青年の一人が声を掛けた。
「構わぬ……それより貴様らも行け」
「しかし……若様を置いては……」
「兼次、我には構うな……今は、男刀を取り戻すが大事……行け」
五人の青年達が顔を見合わせ、
「はっ……」不安げな表情で一礼し返事をすると、青年達は各自違う方向へと飛んで行った。
「時康殿、聊か配慮が足りぬかと……」
残った憲正が、時康の後ろから声を掛けると、
「承知しておる」と、時康が憲正へと振向いた。
「権蔵達も六人寄らば、何とか女狐の相手には成るであろう。しかし、容易には勝てまい……ましてや、褒賞に目が眩み、一人で抜け駆けする様では命を落とすであろうな」
「ならば……」
「それならば、所詮はそれまでよ。今後、我の傍に居ても役には立たぬ。兼次達にしても同じ事……家柄だけで、力も知恵も無い奴らは要らぬ……これより、我が作り上げ様とする新しい世にはな……まだ、多門次や源一坊の方が使えるわ」
「若……」
「相手は笹百合の娘、道真殿や我ら伊予十二神将でも無ければ、対峙出来まい。しかも……」
時康が、冷徹な目で憲正を見ながら話していると、
「若、今更、弱気は禁物ですぞ」と、憲正も冷徹な目で時康を見ながら時康の言葉を遮った。
「何……」その言葉に、時康は憲正を睨み付け、
「何を見て弱気と言うか!こうして葵を追い詰めているではないか!」と、語尾を荒く迫る。
「……ならば良いのですが……今の若には躊躇いが見えます。我らの本願、よもやお忘れでは無いでしょうな……」睨み付ける時康に怯む事無く、憲正が冷徹な目のまま静かに言った。
その言葉を聞いて、時康は眉を顰め憲正を睨み付け、
「忘れては居らぬ……力を手に入れる……誰にも逆らえぬ様な巨大な力を……その為には男刀と女刀が揃わなければ成らぬ……」と、拳を握りながら憲正に言った。
「力を手に入れれば、大峰なんぞ何する者ぞ……五月蝿い年寄り達もな……」
「そう、それが我らが本願。若の壮大なお考えに感銘し、我は若に命を預けたのです。その為には、例え刑部様であろうと、我らの壁と成るのであらば、我は躊躇いはいたしませぬ……」
「その様な言葉は、此処だけにしておけ……我には頼もしく思えるがな……」
憲正の言葉に、薄笑みを浮かべながら二人は見詰め合った。
憲正を見詰めていた時康が、急に顔を顰めて、
「なのに兄じゃは、刀の力を知りながら、清めるなどと言い出しおって……」と、唇を噛む。
「兄じゃの持つ男刀と、我の持つ女刀を合わせて使えば、巨大な力が手に入ると言うのに……兄じゃは我の説得を聞きもせず……」
「それ故、後戻り出来ませんぞ……何としてでも男刀を手に入れねば……」
「分かっておる……今となっては……是が非でも手に入れる……」
そう言って二人は頷き合い、揃って隠里の奥へと飛んで行った。
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信綱と、源衛門が追い込んでいる葵を、結界の道筋を読んで先回りした道真が、岩山の影に潜んで葵を待ち構えている。
「葵が森の木々に行く手を阻まれ、思うに動けぬとして、我らが先に付いて居る事は確か……間も無く、二人が追い込んで来るに違いない……よいか、葵が現れれば一気に皆で取り囲み、動きを封じるのじゃ」
「はっ!」信綱と、源衛門同様、道真の直属の若武者三人が返事をして頭を下げる。
「良いか、くれぐれれも念を押しておく、決して殺すな」
「はっ!」
「うむ、では、配置に付け」
「はっ!」若武者達は、返事をすると化物を連れて三方に散った。
刑部にとって、初孫に当たる道真は、刑部の長女、お初の長男である。
子供の時から、哲学者でもある、宇和島を治める、父、宗時より学問を習い、その学識の深さは、伊予でも五本の指に入る程のものであった。
その上、刑部の孫である事に誇りを持ち、また、自身も、その立場に身を律した。
その為、どちらかと言うと、子供の時から堅物で、是は是、非は非と、はっきりと区別する性格で、外孫である道真からは、立場が上である嫡孫の時貞や時康にも、良い悪いをはっきりと躾ける従兄弟であった。
聊か行き過ぎた所もあったが、そんな道真を、死んだ時貞は実の兄の様に慕っていた。
道真も、利発で聡明な時貞を、実の弟の様に可愛がっていた。
「時貞殿を喪ったは、我ら一族にとっては大きな痛手じゃ……あの方なら、きっと、我ら一族を良き方へと導いて下されたろうに……」道真は、無念の思いに臍を噛む。
「それど……どうも、腑に落ちぬ……真に葵が、時貞殿を滅したのか……我ら伊予十二神将の一人でもある時貞殿を、あの葵が、意図も容易く手に掛ける事が出来たものか……」
道真が、考え込んで居る所に、
「殿!源衛門様にございます!」と、化物の一人が道真に叫んだ。
「何!?」慌てて道真は、前方に目を凝らした。
化物を引き連れ現れた、源衛門の前には葵の姿は無かった。
「何とした……」
訳が分からず呟く道真の視界に、続けて信綱の小隊も現れた。
「これは、いったい……」
目の前の出来事が理解出来ず、文字通り、狐に抓まれた様な顔で、現れた小隊を見ていた。
「殿!」
源衛門が道真の前まで飛んで来て、跪き、
「申し訳ございませぬ、見失いましてございます!」と、無念の表情を浮かべ、頭を深く下げた。
「見失った……馬鹿な、あれより、此処まで僅かな間ぞ、見失うなぞ……信綱!」
「はっ!」呼び付けられた信綱は、返事をして道真の前に跪く。
「お前の方はどうじゃった、逃げるとすれば、お前の方しか無いはずぞ」
きつい口調で尋ねる道真に、
「申し訳ございませぬ!葵の姿は一向に……」と、信綱は恐縮して、頭を深く下げた。
「うむ、お前ら程の者が、易々と見逃すとは思えぬ……源衛門、葵の姿をどれ位で見失った」
考えながら尋ねる道真の言葉を聞いて、
「はっ、葵の姿は……あっ……」源衛門は、何かを思い出したかの様に言葉を詰まらせる。
「どうした」
再び尋ね直す道真に、
「はっ、我は、葵と思われる青白い光を追っており、葵の姿は……この目では……確かめて居りませぬ……」と、申し訳無さそうに答えた。
「なんと……」源衛門の言葉に、道真は驚き目を丸くする。
「申し訳ございませぬ!」源衛門が再び深く頭を下げる。
「うむ……もしや、初めから、それを狙って、あの場に留まり我らから目を逸らす為に……葵め、謀りよったか……」
減衛門達が、決して凡愚では無い事を知っている道真は、逃げる為に一か八かの勝負に出た葵に感心した。
「やりおるわい……流石、大峰の娘か……良い度胸じゃ」
道真は、にやりと笑みを浮かべ、葵を賞賛した。
「そうなれば、最初に葵を見付けた所まで戻るぞ。その後、再び分かれ葵を追う」
「はっ!」
道真の命令に皆が返事をし、葵を見付けた所へと向った。
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「おはよう……眠れた?」
まだ日が昇らない、オレンジ色の空を眺めている邦彦の後ろから、翔子が声を掛けると、
「ああ、おはよう。少しな……」邦彦は、眠そうな目で翔子を見て答えた。
翔子の後ろから、亜美も起きて来た。
「あ、おはよう。眠れたか?」
邦彦が笑顔で尋ねると、亜美は少し暗い笑みを浮かべながら首を横に振った。
「そうよね……こんな所で寝るなんて……あぁぁ……肩が痛い……」
肩を揉みながら腕を回す翔子を見て『お前の鼾で眠むれなかったんだよ……」と、眉を顰めながら睨み付けた。
日本人形の様な美少女にも欠点はある……ちょっと多いみたいですが……
「あれ?河童達は?」
乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、翔子が尋ねると、
「ああ、気が付いたら居なかったよ……逃げたんだろ」
それを聞いて、昨夜の悲惨な光景を思い出し、亜美は納得した様に頷いた。
「……どうかしら……あいつ等、私の体が目当てみたいだし……」
考える様に腕を組んで、顎に手を当てて話す翔子の、刺激的な言葉に二人は顔を赤くした。
「あっ、姉さん。もう、起きてましたんか」
翔子の後ろから、緩い斜面を登りながら三匹の河童達が戻って来た。
「あっ……」意外にも帰って来た河童達を見て、邦彦と亜美は呆れた様に驚いた。
河童達は、其々の手に熊笹の葉を編んで作った籠を持っていた。
「朝飯、集めて来ましたで」
にこやかに微笑みながら河童達が籠を下ろすと、其処には赤やオレンジの木の実の様な物がいっぱい入っていた。
「ええぇ、何、これ?」初めて見る木の実に、翔子が目を丸くする。
「赤いのが草イチゴ、黄色いのが紅葉イチゴ……」
「えっ、イチゴなの?」
「ああ、野イチゴとか言う奴か……」
初めて見る野イチゴを、三人は興味深々の目で見ている。
「へぇ、それと、こっちがウグイスカグラの実とユスラ梅の実でおます」
「なんか、サクランボみたいね……」
ユスラ梅の実を摘み上げ、不思議そうに見ている翔子に、
「へえ、良く熟れた奴だけ集めましたよって、あんまり酸っぱくは無いはずでっせ」と、河童がにこやかに説明した。
「あっ、美味しい……」ユスラ梅の実を食べて、翔子の顔が綻ぶ。
「あっ、本当だ……甘い……」草イチゴの実を食べて、邦彦が感動している。
亜美も、甘いミカンの様な味の紅葉イチゴを食べて、笑顔を浮かべる。
「貴方達!凄いじゃない!」翔子が笑顔で一匹の河童に抱き付いた。
抱き付かれた小学五・六年生ぐらいの体格の河童は、その身長差から、翔子の形の良い胸に顔を埋ずめ、顔を赤くしながら満足そうに目じりを垂らす……これを、アメと鞭と言う……
「あっ、あ、姉さん!ユスラ梅の実を集めたんは、わてでっせ!」
抱き付かれた河童を見て、別の河童が羨ましそうに、必死で自己主張すると、
「偉いわ!貴方達!」と、翔子はその河童に抱き付いた。
抱き付かれて目じりを下げる河童を見て、
「わ、わては草イチゴを集めましてん!」と、残りの一匹が更に強く自己主張した。
「貴方も、ありがとうね!」
最後の河童に抱き付き礼を言うと、翔子は亜美の隣に座り、
「ばっかみたい……」と、呟きながら草イチゴを摘んだ。
ご褒美を貰って顔を赤くしながら満足そうに目じりを垂らしている、完全に、翔子に飼い馴らされた河童達を他所に、笑顔で木の実を食べている翔子を見て、邦彦と亜美は呆れた笑顔を浮かべた。
聊か腹持ちが悪そうではあるが、一応、腹ごしらえも済み、翔子達は河童達の案内で帰り道へと向った。
「でや……ええ事あるやろ……」
「へへへ……ほんまでんな……」
「この次は、是非、股座に、顔を埋めたいでんな……」
先を行く河童達がにやにやと笑いながら、何やらこそこそと小声で話していると、
「あれ?……」先頭を行く河童が、ふと立ち止まった。
「えっ?」
「どないしたんでっか兄貴……」
立ち止まった河童に、他の河童達が声を掛けると、
「此処の結界、変わってないか?こんなんやったか?」と、立ち止まった河童が、振向いて他の河童に尋ねた。
「言われて見れば……ちょっと変わってる様な……」
河童達が戸惑っている様子を見て、
「どうかしたの?」と、翔子が河童達に近付いて訪ねた。
「へえ……ちょっと道が変わってるみたいで……」
「……これは、誰ぞ無理やりに抉じ開けよったんちゃうか……」
「えっ?そんな無茶な……」
翔子が河童達の話を聞いて、
「帰れないの……」と、河童達の話は良く理解出来なかったが、何となく意味を感じ取って不安な顔で尋ねた。
「いや、帰れない事は無いん……」
河童が翔子に振り返った瞬間、
「危ない!」と、河童が叫び、翔子を横へと突き飛ばす。
「きゃっ!」
地面に倒れた翔子が何事かと顔を上げると、突き飛ばした緑の河童が、赤く染まっていた。
其処には、頭の無い河童が首から血を噴出して、血まみれで立っていた。
「うあぁ!」
「ぴっ!」その光景を見て、邦彦が驚き声を上げ、亜美は短い悲鳴にも成らない声を残して気絶した。
「兄貴!」
「兄さん!」
河童達が首から血を流す河童に駆け寄った時、その河童は細かな塵となって消えて行った。
「くそっ!」
一匹の河童が睨み付けた所には、蛇の体に手足を生やした様な、全長が十mぐらい有る一匹の黒い蛟が胴を起こして立っていた。
「邪魔をするな……」
河童の頭を叩き潰した手を舐めながら、薄気味悪い笑みを浮かべて河童達を睨む蛟に、
「何が邪魔や!行き成り何しやがる!」一匹の河童が食って掛かる。
「ふん……何をだと?食うに決まってるじゃろが……そいつら、人間じゃろ……美味そうじゃないか……」
蛟は、細長い二つに割れた舌を伸ばし、翔子を薄笑みを浮かべた気味の悪い目で嘗め回す様に見ている。
「あ、姉さん……逃げておくれやす……お前は姉さん守れ……」
一匹の河童が翔子の前に立ち、もう一匹の河童へと言った。
「そ、そんな……兄さん……」
倒れている翔子に寄り添う様にしゃがんでいる河童が震えながら言うと、
「はよ逃げ!」と、蛟に立ち塞がる河童が叫ぶ。
その時、
「邪魔だと言うとるじゃろが!」と、蛟が立ち塞がる河童の頭を鷲掴みに掴んで持ち上げる。
河童は、蛟の手から逃れ様と、必死で暴れもがいていると、
「ふん……」と、蛟が小さく鼻を鳴らし、河童の頭を握り潰した。
蛟の指の隙間から飛び散る血を見て、
「兄さぁん!」残った河童が涙を流しながら、絶叫する。
そして、蛟の手に掴まれたまま、力無くだらりとぶら下がって居た河童は、塵と成って消えて行った。
その様子を見て、茫然と立っていた邦彦が、
「あっ……」やっと我に帰り、倒れている翔子へと駆け寄る。
それと同時に、
「わあぁぁぁぁ!」と、怒りの叫びを上げながら、残った河童が蛟へと殴りかかる。
涙を滝の様に流しながら、力無い腕で小さな河童が、立ち上がっている蛟の胴を必死になって殴っている。
「わあぁぁぁぁ!兄さん返せ!兄さん返せ!兄さん返せ!」硬い蛟の腹を、泣き叫びながら殴る拳の皮が破れ、蛟の腹に血の跡を付ける。
蔑んだ笑みを浮かべ、殴る河童の姿を見ていた蛟が、
「鬱陶しい……」と、呟く様に言って河童を、手で払い除けた。
河童の体は弾き飛ばされ、十mぐらい宙を舞って岩の斜面へと叩き付けられ、力無く斜面を転がり落ちる。
「河童さん!」その姿を見て、翔子が叫び声を上げた時、
「しゃぁぁぁぁ……」と、気味の悪い声を上げて、蛟が翔子に噛み付こうと襲って来た。
迫る蛟に気付き、振向き蛟を睨み付ける翔子の目には怒りが燃えていた。
蛟が翔子に食らい付く寸前に、邦彦が間に合いフィールド張る。
大きく開けた蛟の口が、邦彦の顔の三十cm手前でふっと止まる。
巨大な物を止める事が出来るのかと不安だったが、世話になった河童達を無慈悲に殺されて、邦彦の怒りは、そんな不安など吹き飛ばしていた。
「何故じゃ……」
邦彦に食い付こうとしたが、邦彦から三十cmほど手前で止まり、何度やっても、どうしても食い付けない事に、蛟は目を白黒させて戸惑っている。
「へ、へ、へ……食べれる物なら食べてみな……」
どうやら、フィールドの効果が思惑通りに働いた事に、邦彦は迫る蛟の大きな口に恐怖を覚えながらも、少し自信が出て来た。
「おのれ……」
蛟は悔しそうに顔を歪め、
「くらえ!」と、叫び、太さが二十cmも有りそうな尻尾を邦彦へと振り下ろす。
「ひっ!」邦彦は、その恐怖から、腕で顔を防御する様に身を縮め、しゃがみ込む。
が、尻尾は邦彦の体には当たらずに静止する。
「このおぉぉぉ!」それに怒った蛟が、邦彦へ尻尾を叩き付け様と連続で尻尾を振り回す。
「ひっ!ひっ!ひっ!」尻尾が目の前三十cmで止まる度に、邦彦は短い悲鳴を上げている。
そして、再び食い付こうとするが、鋭い牙を剥き出しにして、蛟の大きく開かれた口はフィールドの前で止まっている。
僅かな間とは言え、自分達の世話をしてくれた河童達を喪った事に、翔子は初めて経験する死別の悲しみを味わい、意味も無く理不尽に河童達を殺した蛟が憎かった。
「ううぅ……」蛟を睨み付け、両手に拳を握り締めながら、憎しみに体を小刻みに震わせる。
そして、その怒りに我を忘れた翔子は、
「この、がぁきゃあぁぁぁ!」と、上品な雰囲気の翔子の口から出たとは思えない叫び声を上げて、蛟の口へと、静電気を溜めた拳を放った。
しゃがむ邦彦の背面から放った拳は、邦彦のフィールドで止まったが、二人のフィールドが接触した瞬間、邦彦のフィールドが眩しく光り、翔子の静電気だけがフィールドを突き抜け、直径二十cmくらいの球状になり、小さな稲光を上げて蛟の口に入った。
「ぎゃっ!」蛟は弾かれた様に飛び上がり、地面へと背中から倒れた。
自分の目の前で起きた不思議な現象に、怒りで我を忘れていた翔子が自分を取り戻す。
「何?……今の……」
茫然と、倒れた蛟を見ながら翔子が呟くと、
「……わからん……」と、邦彦も不思議そうな顔で蛟を見た。
その時、倒れていた蛟が気付き、起き上がろうと腕を付いたのを見て、
「田原本君!蛟に乗って!動きを止めて!」と、翔子が叫び、
「よし!」と、邦彦がフィールドを張ったまま、反射的に蛟に飛び乗った。
「なんじゃ!」
腕の生えている、肩と思われる部分へ邦彦に寝そべる様に乗られて、仰向けに倒れている蛟は、起き上がろうと腕を付いたまま動けない。
「おのれ!」
蛟は訳が分からず、怒りに任せて邦彦に食い付こうと、静電気で焼け焦げた口を開ける。
その時、翔子が寝そべっている邦彦の頭の上へ飛び乗り、邦彦に馬乗りになると、
「くらえ!」と、再び、あまり上品では無い言葉を叫びながら、蛟の大きく開かれた口へと静電気を溜めた拳を放つ。
「ぎゃ!」再び、静電気の塊を口に喰らい蛟が叫び声を上げる。
「この!この!この!この!」
スカートから覗く太腿も、邦彦の後頭部に乗せている股間も気にせず、邦彦のフィールド越しに連続で静電気を溜めた拳を、蛟の口へと放つ翔子の怒りに燃えた目から涙が零れていた。
邦彦は、後頭部に乗る翔子の重さに耐え、後頭部から伝わる柔らかな暖かい感触を自制心で堪えながら、必死でフィールドを張り続ける。
そして蛟は、痙攣しながら口を血だらけにして動かなくなった。
「はあぁ、はあぁ、はあぁ、」
肩で息をしながら、蛟が動かなくなった事を理解すると、翔子は立ち上がり、飛ばされて倒れている河童へと駆け寄った。
河童へと駆け寄った翔子は、ぐったりと倒れている河童を抱き起こして、
「しっかりして!」と、目に涙を浮かべながら声を掛けた。
「ははは、すんまへん……」
傷だらけの河童が気付き、虚ろな目で翔子を見て、力無い声で答えると、
「なに謝ってるのよ!謝るのは私でしょ!」と、涙を流しながら叫んだ。
「へへへ、すんません……」
弱々しい笑みを浮かべ謝る河童を見て、翔子は言い知れようの無い悔しさに、唇を噛む。
細い血の筋が、翔子の唇から流れる。
「すんまへんな……どうやら、道案内出来そうにおまへんわ……」
「こんな時に何言ってるの……良いわよそんな事……」
すまなそうに笑顔を浮かべ河童に、悲しそうな笑顔で翔子が答えた。
力無い河童に翔子は死を思い浮かべ、笑顔を浮かべる河童を見ているのが辛かった。
「でも……おかしいな……あんな奴、この里には居らんかったのに……ごほっ!」
喋っていた河童が、突然、血を吐き咳き込む。
「だめ!もう喋らないで!」咳き込む河童の胸を、手を血だらけにしながら翔子が摩る。
「三輪、とにかく此処から離れよう……あいつ死んだわけじゃないから……」
邦彦が、気絶して倒れている亜美を抱き上げ、翔子に声を掛けた。
「でも……道が……」
不安そうに尋ねる翔子に、
「今は、あいつから離れる事が先決だ。次も上手く良くとは思えないからな」と、邦彦が亜美をお姫様抱っこしながら言った。
「そうね……」
邦彦の言葉を理解し、翔子は河童に背を向けてしゃがんで、肩越しに河童の手を引っ張り、
「行くわよ……掴まれる?」と、肩越しに振向き河童に声を掛ける。
「あっ、そんな……姉さん……べべ(服)が汚れまっせ……」
吐いた血で胸が血だらけの河童が、遠慮気味に言うと、
「ばか!そんなの構ってる時じゃ無いでしょ!」と、河童に怒鳴り付け、
「早く掴まって……」と、優しく微笑んだ。
「……へい……すんまへん……」
河童が遠慮気味に翔子の肩に手を回すと、翔子はその手をしっかりと掴み、河童をおんぶして立ち上がった。
「大丈夫か……俺が背負おうか?」
小学五・六年生ぐらいの体格の河童を背負う翔子の姿を見て、邦彦が言うと、
「大丈夫よ……これぐらい……それに、もし、急に走らないといけない時に、二人も担いでいたんじゃ田原本君、走れないでしょ」そう言って、翔子は元進んでいた方角へと歩き出した。
「へへへ、やっぱり姉さん凄いわ」河童が翔子の背中から話しかける。
「何が?」
「あんな凄い蛟に勝やなんて……やっぱり凄いわ」
「そんな事無いわよ、私一人じゃ無理よ……」
その時、邦彦の腕の中で亜美が目を覚ました。
「あっ……」再び邦彦の腕の中で目を覚ました亜美は、今度は暴れずに、ただ顔を真っ赤にして邦彦を見詰めていた。
「大丈夫か?」
亜美を気遣う邦彦に、亜美は恥かしそうにこくりと頷いた。
そして、邦彦が亜美をそっと下ろして立たせる。
翔子の背中に頬刷りをしながら、河童が和んだ笑みを浮かべ、
「あったかいでんな……」と、呟いた。
「えっ?」
「姉さんの背中……柔らこうて……あったかい……」
「そう?」
「へへへ、役得や、兄さん達が見たら羨ましがるやろな」
「そうね……もう、余り喋っちゃ駄目よ……」
「へへへ、すんまへん、つい嬉しゅうて……へへへ……」
「もう……」
河童の言葉を聞いて、翔子が苦笑いしていると、
「ついでに……」と、河童が翔子の胸へと手を伸ばす。
翔子の形の良い胸を、河童が優しく揉んでいると、
「……あんたね……」翔子の眉がぴくぴくと釣りあがる。
「へへへ……役得……でんが……」
言い終わらないうちに、翔子の胸を揉んでいた河童の手が、だらりと力無く垂れ下がる。
「!」翔子は、河童の力が抜けた事を背中で感じて、全身に戦慄が走る。
そして、立ち止まった翔子の背中から、河童は笑顔を浮かべながら塵となって崩れ落ちた。
急に背中から重さが消えて、茫然と立ち尽くす翔子。
「あっ……」
崩れ落ちた河童を見て、邦彦と亜美も茫然と立ち尽くす。
時間が止まった様に、重い沈黙に固まった空間で、
「いあぁぁぁぁ!」と、翔子が急に叫び声を上げて、崩れる様に膝を付いた。
「三輪……」
手で顔を覆い、大声で泣いている翔子の後姿を見て、邦彦には掛ける言葉が無かった。
---◇---
「申し上げます」
部屋の入り口で、膝を付いて頭を下げている青年に向って、
「なんじゃ」一睡も出来ずに憔悴して、長椅子に身を預ける笹百合の前で楓が尋ねた。
「はっ、吉野の者からの報告にございます」
「入れ」それを訊いて楓が若者を部屋へと入れる。
若者の言葉を聞いて、笹百合がゆっくりと長椅子から身を起こし座り直すと、
「申してみよ」と、横に控える菖蒲が尋ねた。
青年は、入り口より三歩入って再び膝を付いて頭を下げ、
「はっ、吉野の者からの報告によりますれば、伊予の軍勢、およそ一千」と、報告し始めた。
「一千……」攻め込むには、少ない数を聞いて笹百合が眉を顰める。
「その軍勢、昨日夕刻に、生駒の方角へと飛び去ったとの事」
「何故、生駒に向ったか、分かるか?」
若者に振向き、楓が尋ねると、
「詳しくは分かりませぬが……」と、若者が言葉を詰まらせる。
それを聞いて、楓が、
「分からぬが何じゃ」と、少しきつい口調で問い質した。
「はっ……生駒の方角へ向った姫様の……葵様の姿を見たと言う者が……」
言い難そうに報告する若者の言葉を聞いて、
「なんじゃと!」と、急に笹百合が立ち上がり声を上げた。
「それは、誠か!」
きつい口調で問い質す楓に、
「はっ!」と、若者は力強く返事をして、大きく頭を下げる。
「何故じゃ……葵は何をしようとして居るのじゃ……」
不安そうに唇を振るわせる笹百合を見て、
「母上様……」と、心配そうに菖蒲が声を掛ける。
「詳しい事は分からんのか」
楓が若者に問い掛けると、
「不確かでは有りますが、何人かの証言によりますれば、姫様は伊予の手の者に、追われていたとの事にございます」
「追われていた?」再び三人が顔を見合わせる。
「直ぐに軍勢を集められるだけ集めよ!」
手を振りかざし、若者に命令する笹百合に、
「お待ち下さい!」と、菖蒲が慌てて諌める。
「何故じゃ!あの子が、葵が伊予の者達に追われているんじゃぞ!直ぐに助けねば!」
諌める菖蒲に、大声で食って掛かる笹百合に、
「集められるだけの軍勢とは、どの様な数を思って居られるかは存じませぬが、その様な大軍、動かすとなれば、付近の神々が黙っては居られませぬぞ!」負けじと菖蒲も大声を上げる。
「しかし……」
「ここは一つ、落ち着いて下され」
笹百合の肩を掴んで宥める菖蒲に、
「お前は、葵が心配では無いのか?葵が愛しくは無いのか?」と、笹百合も菖蒲の肩を右手だけで掴んで訴える。
「その様な事、愛しく無い訳がございませぬ。歳の離れた妹……我が子同様に、可愛ゆうございます」
「ならば……」
「されど、それと、これとは話は違います。我らは一族を束ねる者。一時の感情での勝手は許されませぬ」
菖蒲の言葉を聞いて、笹百合が黙って俯いてしまう。
「葵を思う気持ちは、妾も同じにござります……」
「分かった……」笹百合は、そう小さく呟いて、長椅子に座った。
「では、こうしては如何でしょう」
笹百合の居る場所から一段下がった所に控える楓が、笹百合に向って言うと、
「どうするのじゃ」と、笹百合の隣に座る菖蒲が尋ねた。
「はい、生駒と言えば、石切劔箭神社が御鎮座まします。
その御祭神で有らせられます、饒速日尊様と可美真手命様に詣でると言う事で有らば……我らの格式から言って、國作りの神に詣でるのであらば、千の行列を仕立てるは必定……」
「されど、大祭でもあるまいし、その様な事……」
少し呆れた様な笑みを浮かべて菖蒲が尋ねると、
「それこそ、大儀あらば、後は如何様にも出来ます。例えば、母上様の古傷が急に痛み出したとでも……」と、楓が得意そうに答えた。
「なるほど……されど相手も一千の軍勢……石切詣でと言う大儀では、十分な戦装束が出来まい……」
柔らかく微笑みながら更に尋ねる菖蒲に、
「得物は輿にでも隠せば良いでしょう。そして、出来るだけ剛の者を集めれれば、伊予の者になど引けは取りますまい」と、自信たっぷりに答えた。
楓の作戦を聞いて、
「ふっ……若いの……」笹百合が鼻で笑う。
「い、如何な意味にござりまするか……」
笹百合の、馬鹿にした様な態度を見て、不機嫌そうに唇を尖らせて楓が問い返すと、
「その様な事で、道すがらの神々が謀れるものか……」と、笹百合が静かに答え、
「されど、世には裏と表がある……表向きはあくまでも石切詣で、一千程度の行列ならば何とか目溢しされよう……此度はそれで、言い切るか……事が済めば、後に詫びを入れれば良かろう……どんな事でも、如何に綺麗に仕舞えるかが大事……出来るな」と、菖蒲に向かって言った。
「御意……可愛い妹の為……必ずや」
菖蒲は、笹百合の言葉に頷き、楓に振向くと、
「楓、一千の軍勢を動かす手は幾らでもある。じゃがな、我らの悩みは、動かした後の事なんじゃ」と、静かに言った。
「後の事……」菖蒲の言葉に、怪訝そうに眉を顰める楓。
「そうじゃ……軍勢を動かすとはそう言う事なんじゃ……近隣に対する事、身内に対する事……後始末の方が大変なんじゃ……」
「戦を経験すれば、お前にも分かるであろう……」
二人に子ども扱いされて、楓は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「では、急ぎ仕度をさせまする」
そう言って菖蒲が立ち上がると、
「頼む……」と、言って笹百合は静かに目を閉じた。