『生と死の端境期』
作中でフォルテが読んだとされる書物の中身を書いてみました。
設定情報…に近いでしょうか?
女神とは、即ち、死の女神の事である。
それ以外に『女神』は存在しない。
お伽噺に唯一その存在が確認されている神である。
巷間に曰く、其は生の女神で有るとも伝えられている。
だが、その女神を祀る神殿は存在しない。
現在存在するのはこの世界の創造神と言われる男神のみである。
神殿に行くと、かの神のご尊顔に出会えるのはよくご存じの事と思う。
頑固そうな髭面の老爺である。
公には上記の男神しか神と認められていない。
神殿の対外向けの対応は一貫している。
曰く、この世界に於いて神と認められている存在には神殿が必要である。それは太古に神自らそう示されたからで、言い換えれば神殿がない存在は神ではない、と。
また、お伽噺はあくまでもお伽噺であり、真実など欠片も存在しない。
ただの作り話だ、と。
大多数の世間一般の善男善女はその話を素直に信じていることだろう。
お伽噺はただの子供染みた作り話だ、とまともに考えたことはないだろう。
故にここで改めて問おう。
本当にそうだろうか?
お伽噺だと。そう断じてそこで思考を停止して良いのだろうか?
考えて見てほしい。
他の童話や童歌にどのような解釈がついているか。
童歌が単純な歌だと、今や誰が信じようか?
為政者に弓引く事実を。
詳らかに出来ない真実を。
誤魔化したい現実を。
柔らかく言葉をすり替えて曖昧にして伝えられてきたのだと、私たちは知っているはずだ。
真実とはどんなに嘘で塗り固めたとしても、否。厚く厚く塗り固めたが故に、いずれ顕かになるという性質を持つようだ。
そう。雨垂れが石を穿つように。
秘されている情報がいずれ漏れ出すように。
いや。少し気が急いてしまったようだ。
ここで先ずは手持ちの情報を開示しよう。
それから、私が辿り着いた結論を書き連ねていこうと思う。
実は神殿の上層部のごく一部では、女神の存在を認めているのだ。
神殿は一環して『死の女神』とのみ呼んでいる。
そしてもうひとつ。
秘された神の存在がある。
万物の父神にして太古の昔にその存在の記憶を自ら消し去った名無しの神。
彼が全てを生み出した、と口伝は伝える。
長い年月を経て、この二つの情報が断片的に漏れてお伽噺に昇華したと考える事が自然の成り行きだろう。
だが、何故口伝と神殿の対外説明が違うのだろうか?
何故万物の父神は自らの記憶を消したのだろうか?
『獣』とは何を指してそう言うのだろうか?
イノチが自然発生することがあるかないかは寡聞にして知らないが、『獣』が文字通りの獣を表していないと考える。
『獣』とは、この世界に存在した我々とは別種族のことを指すのではないだろうか。
俗に言う先住民である。
現在の国家が形成される段階で淘汰された種族の総称ではないだろうか。
そして女神と父神は、彼らの神だったのではないだろうか。
そう考えると、色々と辻褄が合うように思える。
何故口伝と神殿の対外説明が違うのだろうか?
何故万物の父神は自らの記憶を消したのだろうか?
それは、父神が我々の神ではないからだ。
記憶を消したのは、父神ではなく我々の祖先であり、『獣の死』=種族の滅亡を表しているのではないだろうか。
つまり……