第三夢十夜 穴倉(第二十七夜)
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私は変な町を歩いていた。建物の並びや通りの様子は別段何も怪しいものではなかったが、変に周囲が暗い。だが夕暮後の夜の暗さに覆われ始めたといった感じではない。それではないのだ。うまく表現出来ないのだが、何というのか町全体が霧で覆われていて太陽の光がまるで届かない、しかもその程度が甚だしい、恰もそんな印象を受けた。しかし霧にしては少し向こうの建物の輪郭が判然とし過ぎている。これは空気中に何らかの不透明な粒子が多くある所為ではない。明らかに明るさが足りない事に拠る薄暗さだった。その原因が何であるのかが全く判らない、その点だけが私に小さな不安を感じさせた。しかしそれ以外には何の謎も無く、私はてくてくと歩いていた。
けれどもそれなりに大きな町であるのに私以外人が居ない。全くその姿を見ない。これは一体どうした事か。若しかしたら今は深夜で私一人が何故かそんな夜も更けた中を独歩しているのかも知れない。しかし私ならそんな事もしそうだ。そうだったとしてもそれ程不可思議に思う事も無い。実際私はこれまでに夜中の町を歩いた事もある。勿論面白半分にだ。だが歩き続けるに連れて私の胸には何ともいえない怖れが浸み出してきた。それは暗い町の様子に拠るものではない。それとは違う要素に拠ってだ。だがそれが何であるのかがまた判らない。私の歩く速度は増した。
ところが町の或る区画に辿り着いた私は出し抜けに足が止まってしまった。その区画だけが時代に取り残された様に建物が古びていて、この私であっても気味が悪いと感じる程だったからだ。数軒並ぶ家屋は悉くぼろ屋で壁が剥がれ中の板木が剥き出しになっている。それに外見が昔のアパートそのままの古いもので、道路側外壁の二階から下に真っ直ぐ下りている円柱形の膨らみは汲取式の便所の穴である事を容易に推測させた。
「これは古い。もう疾うにこんな家屋は無くなってしまったと思っていたが……」
その外僅かな面積の空地には雑草が茂っており、その草叢の中に土管が埋もれて頭だけ見せている。空地、この今の時代に放置された空地。そんなものが本当にまだ残って……。
だが真実に私の両目が開き短い時間とはいえ息を呑んで全身硬直してしまったのは、色褪せて変色し所々欠け剥がれたコンクリート製の『入口』だった。その空地の隅に何だか昔のポリスボックスの如き小さな構築物があった。その正面に立った時私は思わず竦んでしまう程に驚いたのだ。何故といってその、大人一人が漸く立って居られる程に狭いボックスの外に向かって開いている側からは、地下に向かって続く急な階段が見えていたからである。私は視線を動かすのに少し時間がかかった。だがやっとそれが出来て私がそのボックスの上を向いた時、其処に『入口』の二文字が書かれてあった。もう風雨に大分洗われている。書かれたのは随分昔なのだろう。
さて、どうしたものか。次第に冷静さを回復し自分の思考を信頼し始めた私は考えた。
「この階段を下に降りていくべきだろうか。それともそんな非常識で危険な真似は断固慎むべきだろうか」
ところがここからなのだ。ここからが真実に忌まわしい話なのである。言っておく。私は冷静になればなる程私を取り巻く状況が忌まわしくなるのだ。汚らわしく恐ろしいものの中に自分が居る事に気が付くのである。私は何れの道を選んだものかと考えていた訳だが、実は私の中に最初からもう答えはあったのだ。
「これは行くしかない」
私の行動を抑える力というのは予測される危険の有無またその度合ではない。私がそれをすべきであるとの何らかの『命令』が既に私の中に存在しているかどうかなのだ。そう、私は行く行かない或いはするしないを均等に量りにかけて考察していたのではない。恐ろしい事に私は私の中にそういう命令をもっているかもっていないか、そこだけをしか判断の材料にもっていなかったのである。これは何といっても悲劇的で破滅的な話ではないだろうか。寧ろ危険であるかそうでないかこそが最も考量されなければならない尺度である筈だ。ところがどういう訳か私がその行動基準を採用すると私の心の奥の方から何者かが私を嘲笑うのである。
「そりゃそうだろう。そこを視なくては話にならない。御前はまだ死んではいけない人間なのだから。そうだろう? その覚悟はまだ出来ていないんだよな? だったらそこを第一番に考えなければならない。決まっている。議論の余地のある事じゃないぞ」
いや、これだけではない。これだけだったらまだ私は嘲笑う事をされていない。
「分かったか。御前とはそういう人間なのだ。物事の真価を量る事など、御前には到底出来ない。御前は今回の事に限らずいつも何でも、それが御前の命を脅かすものかどうかを一番に視る。そこにしか物事の本質、御前自身にとっての関心が無い。結局御前は世の俗人共と同じではないか。御前は自分の安全が保証された時にだけ一歩を踏み出す訳だ。今後は人に向かって『安全かどうかなんて二の次だ、御前が大切だと思ったものに向かって飛びかかれ』などと口にするなよ。分かったな。この口だけの小心者めが」
まだだ、まだある。自身の安全を第一に考えた私を一度徹底的に侮辱した後で、今度は反対の側から私に向かって諭す様に語り掛ける声が聞こえ始めるのだ。
「そう、御前はこういう謎を前にして黙ってはいられない人間なのだよ。それはそれで勇気があって男らしくていいじゃないか。でもな、ここにもう一つの視点がある。それはお前を他の奴らと区別する非常に重要な一点なのだ。よく覚えておけよ。では言うぞ。こういう正体の知れないもの、そして世の中の殆どの人間がろくろく顧みず見捨てて立ち去っていく気色の悪いものにこそ目を付けるのが御前ではないのか? だからこそ御前は他人と違うと自覚してここまで生きてくる事が出来たのではないのか? 余人が目を留めずにすたすたと素通りしてしまうものにこそ、御前は立ち止まらなければならない。そしてそれを熟視しなければならんのだ。それをしなかったら、御前は他の奴らと同じだ。何が違う? 何も違わんだろう? 御前はそんな人間で構わないのか? え?」
もう私は中が真っ暗な階段を降り始めていた。
外から見た時はその中は真っ暗で真実の闇だった。ところが目が慣れてくると少しは見える様になった。狭い狭い人一人分幅のコンクリートの階段は短く続き、直ぐに小さな踊り場になって其処で途絶えていた。私が歩いて降りてきた階段以外の三方と床天井、全て完全な行き止まりで塞がれている。これは何の為に掘られ作られた地下空間なのだろう。或いはまだ工事中の段階で、この見捨てられ具合と放置された様子は工事が途中で中断しただけなのかも知れなかった。だが何にせよこれでは何も出来ない。だがよくよく見ると私が降りて来た階段の前方に当たる側の壁面、その地面から一尺程が少し凹んでいる。それも何かがぶつかった様な凹み方ではなくその一尺四方が整って平面として少し奥まっている。私は足の爪先でその平面を蹴ってみた。しかし別に普通の壁だった。蹴ったらバタンと向こう側に穴が開いたというものでもなかった。だが念の為私はその狭い踊り場で苦労して屈み、有るか無き光量の中でその凹んでいる部分を確認してみた。矢張何の不可解な事情も無い。単にそういう風に作られている、ただそれだけの事だとしか思えなかった。
ところがこの時、私にとんでもない自覚が舞い降りてきたのである。そう、とんでもない自覚、それはそうとしか表現出来ない。
「私は一体何をしているのだ。面白半分にこんな穴倉の中に降りてきて、それでもまだ足りずにごそごそと全く意味の無い事を非常識に調べている。私は馬鹿ではないのか。こんな場所に一体何があるというのか。何も無いに決まっているではないか。どうして御前はそんな奇態な行動をとるのか。今直ぐやめろ、この馬鹿者が」
いや、面白半分ではない。誓って私は面白半分にこんな真似をしているのではない。そんな気持ちではなかった。それはもう言った通りだ。だがこの話を人前で開陳する際には面白半分としか言えないではないか。他の表現があったらどうか私に教えてほしい。
「他人と違う事を御前は求めているのだな。それはそれで良い。だがな、こんな幼稚でそれだけでなく馬鹿らしく、完全に頭がおかしくなっている人間の行動を御前がとるからといって、そんな事を根拠として『私は他人と違う』などと言うのではないぞ。御前は殆ど馬鹿丸出しではないか。こんなみっともない話を、一体いつ誰に向かって説明する心算なのか。誰に対してだって出来るものか。御前はな、馬鹿でなければ極端に幼稚なのだ。あまりこういう思い切って馬鹿気た御前のそんな性向を御前の純粋さや独自性に結び付けない方が良い。恥ずかしいではないか。馬鹿らしくて、一寸表現に困る」
これは苛烈過ぎはせぬか。容赦が無いと謂うよりも悪意があるとさえ見做せるものではないか。あんまりな言い様ではないか。しかしこれは私が私自身に向けた言葉だ。他の誰かから言われた言葉ではない。だって私の心の中の問答で私に浮かんできた科白なのだから。
そう、あんまりな言葉だ。しかし間違っているとは言えない。言えないのだ。私は斯くその非道い言葉を記憶しており且つ間違い無くそれに怯えているのであるから。それはそこに一定の説得力を見出しているからではないか。
此処で目が覚めた。
こんな夢など見たらその朝から始まる一日を如何に過ごしたらいいのだろう。私にはその具体的手順が思い付かない。別に私はこの夢を見たから即破滅した訳ではない。もうその日から生きる力を失った訳ではない。しかしこういうのはその後永い年月に亘って私の中に留まり、忘れた頃にまた記憶の表面に浮かび上がり、結局私の生涯を通じて私に嫌らしい悪夢を運んでくる。もう本当に勘弁してほしい。
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