第94話:リスキリングの開始、仮面はもう必要ない
第9支部に併設された酒場の裏手には、表通りの喧騒から切り離された静かなカフェテラスがある。
頭上を覆う厚手のキャンバス地が初夏の日差しを遮り、吹き抜ける風が心地よい涼しさを運んでくる。
この世界の夏は、俺が元いた世界のそれに比べれば随分と穏やかだ。あのアスファルトが溶けるような灼熱の通勤路を思えば、木陰の涼風が肌を撫でるだけで済むこの気候は、それだけで異世界転移の恩恵と言えるかもしれない。
手元のコーヒーカップからは、ゆるやかに湯気が立ち上っていた。この酒場のコーヒーは、豆の焙煎が浅めで、酸味よりも穀物に近い素朴な香ばしさがある。普段はルティアが淹れてくれる深煎りのコーヒーを飲んでいるから、たまの味変としては悪くない。
俺の現在の居住空間は、ギルド本館の屋根裏部屋だ。家賃や通勤時間という概念が存在しない反面、職場とプライベートな空間が物理的に連結している状態は、労働衛生の観点から言えば決して褒められた環境ではない。常に業務の気配が床下から這い上がってくるような錯覚に陥るためだ。
この世界に来た頃は、休日という概念すら頭から抜け落ちていた。目の前に片付けるべき業務が積み上がっている以上、手を止める理由がなかったからだ。社畜の悲しい習性とでも言うべきか。
当初はこのカフェテラスも、人目を避けて書類仕事を片付けるための第二の執務室と化していたが、休日に仕事を持ち込む悪癖は完全に封印している。今、手元にあるのは本とコーヒーだけだ。それでいい。
本はレナンセムから借りている。何か面白いものはないかと聞いたら、毎回違うジャンルのものを押し付けてくる。歴史書、冒険譚、異種族間の文化比較論。節操がないが、『言語理解』のおかげでどんな言語で書かれていても読めるため、暇つぶしの選択肢には事欠かない。
今日の一冊は、獣人の生活様式について書かれた民俗学の書物だった。キャット族は柔軟な体躯と優れた平衡感覚を持ち、高所を好む。性格は好奇心旺盛で社交的な個体が多く、明るくよく響く声を持つ者が多いとされている。
「カツラギ様ー!」
そう、こんな感じの声だな……?
声のした方へ視線を向けると、酒場の裏口に、見覚えのある猫耳の女性が立っていた。
栗色のツインテールに、黒と白のメイド服。小柄な体躯に不釣り合いなほどの元気を全身から発散させながら、ぴんと立てた猫耳を揺らしている。
イルデイン家の使用人、セリウだった。
「こんにちはー!」
「セリウさん? どうしてここに──」
言いかけた俺の目が、彼女の背後に立つもう一人の姿を捉えた。
ピンクブロンドの髪が、風の中で淡く揺れている。黒の乗馬服のような装いはそのままに、あの重厚なギルド長のコートだけがない。
肩書きという鎧を脱いだその姿は、以前よりどこか身軽に見えた。
「お疲れ様です、カツラギさん」
ラテリスは、丁寧に頭を下げた。
「こちらは、表の酒場とは随分と趣が異なりますね」
彼女は周囲を見回しながら、興味深そうに呟く。
「酒場は冒険者たちの領域ですからね。こちらは裏手なので、比較的静かに過ごせるんです。どうぞ、おかけください」
向かいの椅子を勧めると、ラテリスが椅子に腰を下ろし、セリウは自然な所作でその背後に控えた。
主と同じ席にはつかない。イルデイン家の使用人としての振る舞いが、こういう場面にも表れているのだろう。俺には主従関係の事情は分からないので、何も言わずにおいた。
「その書物は、古代エルフ語のものですか」
「はい。同僚のエルフに借りた、獣人の生活様式に関する民俗学の書物です。古い本なので、現代語では書かれていないようですね」
「カツラギさんは、古代エルフ語を理解されているのですか?」
ラテリスの目が、かすかに見開かれた気がした。
「まあ、読む分には何とか」
嘘ではない。『言語理解』能力のおかげで、何とかどころか完璧に読めているし書くこともできるのだが、その辺りは曖昧にしておこう。
「獣人の民俗学……」
ラテリスの視線が、背後のセリウへと向けられた。
「私のことが書いてあるんですか?」
「キャット族の項目を読んでいたところです。好奇心旺盛で社交的、と書いてありましたが、まさにその通りですね」
「えへへ、当たってます?」
嬉しそうに尻尾を揺らすセリウの手前で、ラテリスは口を開きかけては閉じるという動作を、二度ほど繰り返していた。本題を切り出すタイミングを計っているのだろうか。
セリウがそれに気づいたのか、背後からそっとラテリスの両肩に手を置いた。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
「ええ。分かっています」
ラテリスは一つ息を吸い込むと、その金色の瞳で俺を見据えた。
「先月末をもって、第7支部のギルド長を正式に辞任いたしました。引き継ぎは滞りなく完了して、前ギルド長が復帰しています」
「予定通り、完全に辞められたのですね」
「はい。その後は領地に戻るという選択肢もございましたが、ギルド長としての経験で見えた自分の未熟さを、このまま放置するわけには参りません。本部とも相談した結果、現場の実務を通じて組織の運用を学ぶことになりました」
組織の運用を学ぶ、か。
第7支部を数値の上では完璧に統制していた手腕は本物だった。問題は、その完璧さが人間の感情を計算に入れていなかったことにある。彼女自身がそれを自覚し、ギルド長の椅子を降りた。そして今、学び直すために現場に戻ろうとしているということか。壊す力は証明済みだ。次は、回す力を身につけようというわけだ。
「──と、いうわけですので、今後ともよろしくお願いいたします」
……ん?
「あの、ラテリスさん。一つ確認なのですが、『現場の実務を学ぶ』というのは、ここで、ですか?」
「はい。カツラギさんの下で学ばせていただきます」
俺は口を開いたまま、数秒ほど固まった。
「いや、その……聞いてない、話、ですね」
「オルガさんからは、お話は通っていると伺っておりました」
そんな話は聞いていない。
聞いたことは、本部が組織改編を始めたこと。『支援課』と『救助課』ができること。そして、『総務課』ができるかもしれないことだ。
ということは……俺とラテリスが『総務課』に配属されるということなのか?
「具体的な配属先や職務内容については、まだ正式には決まっていないとのことですが、オルガさんからは、ひとまずこちらに来てくれて構わないと伝えられていました」
決まっていない?
単純に、ラテリスの研修先として、俺が常駐している第9支部が選ばれただけということなのか。
「そうだったんですね。第9区は王都でも郊外にありますし、急な話で大変だったのではないですか。この辺りで貴族の方は見かけませんし」
第9区は、冒険者ギルドの支部を中心に発展した、いわば労働者の街だ。酒場と宿屋と武器屋が軒を連ね、朝から冒険者たちが往来している。貴族が馬車で乗りつけるような街並みではないのだ。
「住居の問題はございません。近隣に屋敷を用意いたしました」
ラテリスは事も無げに答えた。
用意したというのはこの場合、おそらく購入したということだろう。王都の不動産事情に詳しいわけではないが、戸建ての物件を即座に買い上げるだけの初期費用を、彼女は息を吐くように決済したらしい。貴族のスケール感は相変わらず俺の理解の範疇を超えているものだな。
「お嬢様、一人では何もできませんから」
セリウがあっけらかんと言い放った。
「セリウ?」
「だって事実ですからねー。お料理も、お洗濯も、お掃除も──」
「それは、これから学ぶと言っているでしょう」
「そうでしたね。昨日も、お料理の本を読んでいらっしゃいましたねー」
「予習として必要な工程を確認していただけです」
「お掃除のやり方も、ノートにまとめていらっしゃいましたしー」
「作業の効率化には、事前の工程分析が不可欠です」
ラテリスの声が、心なしか早口になっている。
セリウはその反応を見届けると、口元がにんまりと弧を描いた。主人のこういう姿を引き出すのが、この使用人の密かな楽しみなのかもしれない。
「今までは貴族の家に生まれた以上、身の回りのことは使用人に任せるのが当然だと考えておりました。ですが、組織の運用を学ぶ前に、まずは自分自身の運用から始めるべきだと考えています」
ラテリスらしい言い回しだが、言っていることは至極真っ当だ。足りないものを認識し、基礎から積み上げる。第7支部の改革でも、彼女はまず現状の把握から始めていた。そのアプローチが、今度は自分自身に向いているわけか。
「そうですね。地盤の固まっていない建物は、いずれ倒壊しますから」
「ですので、カツラギさん」
彼女は静かに椅子から立ち上がると、居住まいを正し、深く頭を下げた。
「未熟な身ではございますが、今後ともご指導のほど、よろしくお願いいたします」
ラテリスの口元が、不器用に弧を描いている。
第7支部で最後に見た、あのわずかな口元の緩みではない。まだ表情筋が慣れていないのは丸分かりだが、そこには確かに人の温度があった。
かつてラテリスは、嫌われることを厭わず、冷徹な悪役を一人で引き受けていた。
だが今、目の前にいるのは、鉄仮面のギルド長ではない。ぎこちない笑顔を精一杯作る一人の女性だ。
彼女はもう、悪役令嬢ではないのだ。
吹き抜ける初夏の風が、テラス席の空気を心地よく揺らす。
俺は椅子から立ち上がり、ラテリスに向かって右手を差し出した。
「こちらこそ。よろしくお願いします、ラテリスさん」
彼女は俺の手を握り返すと、もう片方の手をそっと添えた。
ぎこちなかった口元の形が、ゆっくりとほどけていく。
ラテリスは笑っていた。
俺は、その美しさの前に、一切の思考を呑み込まれそうになった。
……これは、まずいな。
以前、シヴィリオがわずかに微笑んだだけで貴族の令嬢方を虜にしたという話を聞いた時は、大げさな話だと思ったものだが。ラテリスのこの笑顔を解禁されたら、被害はシヴィリオの比ではないかもしれない。
ルティアの笑顔は周囲を和ませる日差しのようなものだが、ラテリスのそれは直視した者の思考を停止させる兵器となるだろう。
笑うべきだと指摘しておいてなんだが、この威力のものを無制限に使わせるわけにはいかない。段階的な運用制限が必要だ。
さっそく新たな業務改善項目が、一つ追加されてしまったらしい。
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第6章 内部統制編 完




