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第65話:オンボーディングの実施、空白期間は気にしない

 翌日。


 第8区のカジノでの騒動から一夜が明け、俺はツェイフを連れて第9区へと戻ってきていた。


 昼下がりの第9支部。

 ギルド長の執務室には、王都の喧騒が嘘のような静謐な時間が流れていた。

 窓枠で切り取られた四角い陽光が、磨き上げられた床板に長い影を落としている。

 部屋の隅に鎮座する、オルガが現役時代に使用していたという白銀の鎧も、今は主の静かな午後の思索を見守る調度品として空間に溶け込んでいた。


 革張りのソファに深く腰を下ろした俺は、淹れたてのコーヒーの香りを肺に流し込みながら、向かい側に座る決裁者の反応を待っている。


 今日、ツェイフはこの場にいない。

 いくら再起を誓ったとはいえ、極度の緊張から解放された直後である。その心身はすでに限界に近い状態だったはずだ。

 無能な経営者であれば『鉄は熱いうちに打て』と、決意の熱が冷めないうちに現場へ放り込むのだろうが、それは人材の使い捨てに他ならない。

 まずは安全な場所で十分な睡眠と食事をとらせ、底を打った体力を最低限のラインまで引き上げる。

 明日からのリハビリテーションに向けた、意図的な空白の一日だ。


「……なるほど。これが、あんたが進めようとしている『冒険者サポートシステム』か」


 ローテーブルの上に広げられた数枚の羊皮紙に目を通し終えると、オルガは顔を上げて俺を見た。


「はい。既存のギルドのシステムには、構造的な欠陥が存在します」


 俺はカップを置くと、淡々と説明を開始した。


「冒険者という職業は、参入障壁が限りなく低い割に、生存率が極めて低い。特に初期段階での脱落率が高いです。ベテランが新人の面倒を見るという風習は存在しますが、それはあくまで個人の善意や、偶発的な人間関係に依存したものです」


 いわゆる、オン(О)・ザ・ジョブ()トレーニング()の致命的な不備である。

 指導役の質が担保されておらず、体系立てられた教育カリキュラムも存在しない。

 『背中を見て覚えろ』か『死んで覚えろ』の二極化。新入社員を初日から地雷原に立たせ、生き残った者だけを正社員として登用するような、前近代的な生存バイアスに依存した組織運営だ。


「そこで、ギルド主導で正式な『教育係』を同行させる仕組みを構築します。現場での立ち回り、リスク管理、そして何より重要な『撤退の判断基準』。これらを実地で叩き込むシステムです」

「現役の冒険者を雇うにしても、腕の立つ奴は自分の稼ぎで忙しい。ギルドの報酬だけで優秀な教育係を確保するのは難しいぞ」

「おっしゃる通りです。ですから、私が提案するのは現役のトップ層の起用ではありません。引退者や、第一線を退いた者の再雇用です。今回連れ帰ったツェイフさんを、この試験運用の候補として考えています」


 オルガは片側の眉を微かにつり上げた。


「ツェイフ、か。彼が元冒険者だとは聞いているが、パーティの最高ランクはDだったか。才能の壁にぶつかって引退した男が、これからの若者を導けるのか?」

「ええ。むしろ、彼のような経歴の持ち主の方が適任です」


 俺は静かに首を縦に振った。


「全体の九割を占める凡人を救うために、一握りの天才の成功体験は不要です。彼らの武勇伝は再現性が著しく低く、真似をした若者を死地に追いやる劇薬になりかねない。本当に必要なのは『どこに致命的な落とし穴があるか』を知っている人間の、リアルな経験則です」


 その具体的な運用方法と説得材料については、俺の頭の中ですでに言語化が済んでいる。

 だが、それを今ここでオルガに披露する必要はない。その言葉は、彼自身に向けて放つべきものだからだ。


「彼がその役割に相応しい器かどうか。まずはリハビリの様子を見ながら、適性を判断しようと思います」

「なるほどな。あんたがそこまで言うなら、まずは裏方として様子を見てみるか」


 まずは第一段階クリアといったところか。

 内心で胸を撫で下ろしていると、オルガが視線を動かした。


「ちょうどいい。カツラギ、そこの木箱を開けてみな」


 オルガが顎で示した先の壁際に、見慣れない木箱が置かれていた。

 俺はソファから立ち上がって歩み寄り、留め具を外して蓋を開けた。

 中から漂ってきたのは、真新しい革の匂いと、微かな鉄の匂いだった。


 納められていたのは、鎧だ。

 一見すると、金属片を革紐で繋ぎ合わせたラメラーアーマーに見える。

 だが、その素材は不均一だった。

 胸部や腹部には鋼鉄が使われているが、脇腹や肩といった可動域には青銅と革が混在している。

 新品であるはずなのに、どこか使い込まれた野営道具のような、無骨で渋い存在感を放っていた。


「それは本部主導で開発が進められている試作品だ。名前は『エシカル防具』というらしい」

「エシカル、ですか」

「ああ。比較的安価でありながら、ギルドが定める安全基準をクリアした『認定防具』の普及を目指しているそうだ」


 開発が始まったきっかけは、もちろん先日の第8支部における事件だろう。

 見た目を重視し、中古防具を素材として大量生産された『ファスト防具』が市場に出回った結果、事件は起きた。

 あのファストファッションのような防具に対抗するためのアンサーが、この『エシカル防具』というわけだ。


「端材を流用して製作費を抑えつつ、破損した箇所だけを部分的に交換できる構造になってるそうだ。見た目の統一感は捨ててるらしい」

「なるほどですね」


 手に取って重さを確かめる。

 決して軽くはないが、無駄な装飾を一切削ぎ落とし、実用性だけに特化した合理的な造りなのだろう。

 機能性のある、ワークウェアのようなものか。


「本部からは、これを第9支部の誰かに着せて、実地での耐久性や使用感を報告するよう通達が来ている。ツェイフにサポートを任せるなら、この防具の着用テストも兼任させるってのはどうだ?」

「いい考えですね、賛成です」


 オルガの提案に、俺は同意の意を示した。

 ツェイフがかつて身につけていた仕立ての良いタキシードは、もう彼の居場所にはない。

 泥にまみれ、再び立ち上がろうとする男が纏う鎧として、これほど相応しいものはないだろう。


---


 10日後。


 ギルドの地下にある訓練場。

 相変わらず冒険者には利用されていないが、ここ数日は木剣を振るう鋭い呼気が響いている。

 今日もツェイフが汗で額を濡らしながら、ひたすらに素振りを繰り返していた。


 初日の動きは、目を覆いたくなるほど悲惨だった。

 足腰はふらつき、剣を数十回振っただけで膝に手をついて激しく咳き込んでいた。

 3年のブランクと不摂生は、確実に彼の肉体を蝕んでいたのだ。


 だが、3日目あたりから勘を取り戻し始めたのか、急激に動きが良くなった。

 失われた筋肉はすぐには戻らないが、身体の動かし方、重心の移動、呼吸の整え方といった『技術の記憶』が、彼の肉体を再び冒険者のそれへと最適化させつつあるのだろう。


「……おはようございます、カツラギさん」


 俺の視線に気づいたのか、ツェイフは木剣を下ろし、首に巻いたタオルで汗を拭いながら歩み寄ってきた。

 その顔に、かつての死人のような虚ろさはない。

 肌には血色が戻り、目には静かな光が宿っている。


「調子はどうですか?」

「ええ、順調です。さすがに衰えは感じますが、自分の身体がどこまで動くのか、限界の確認は済んだつもりです」

「無理は禁物ですよ。徐々に慣らしていけばいいんです」


 ツェイフは自身の手のひらを握り込み、その感触を確かめるように頷いた。


 彼にはこの10日間、身体の訓練と並行して、ギルドの受付窓口や裏方の事務作業も手伝わせている。

 そこでの働きぶりも、俺の予想を上回るものだった。


 冒険者という人種は、総じて気性が荒く、手続きの不備などで窓口に理不尽な要求を突きつけてくることも珍しくない。

 経験の浅い職員であれば萎縮してしまう場面でも、ツェイフは落ち着いて対応していた。彼自身がかつて冒険者として同じ不満を抱いた経験があり、相手の心理的構造を理解しているからだ。

 『どういう言い回しをすれば相手の怒りが収まるか』『どこまでがギルドとして譲歩できるラインか』。そうした現場の機微を、彼は理屈ではなく肌感覚で知っている。


 新卒採用と中途採用のバランス。

 まっさらな状態からギルドの理念を教え込める若い職員も必要だが、業界の泥水を啜ってきた中途採用者の存在は、組織の安定に不可欠だ。

 彼らは過剰な理想を抱いていない分、現実とのギャップで折れることがない。自らの現在地を正確に把握し、与えられた役割を粛々とこなす。

 元冒険者をギルドの職員として再雇用するというアプローチは、どうやら間違っていなかったようだ。


「カツラギさん。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 ツェイフが、少し戸惑うような口調で切り出した。


「ギルドでの仕事も、こうして体力作りの時間をもらえることも、本当にありがたく思っています。ですが、僕の本来の役割とは何なのでしょうか? ただのギルド職員として雇っていただくには、破格の待遇すぎる気がして」

「不安に思う必要はありません。まずはあなたの身体と精神の土台を固めることが先決です。具体的な業務内容については、然るべきタイミングで――」


 その時だった。


「ツェイフ。ちょっといいか?」


 訓練場の入り口から、オルガが姿を現した。


「今日、ギルドにあんた宛ての手紙が来てたんだ。第8支部からだ」

「僕に、ですか?」


 ツェイフは不思議そうにオルガから手紙を受け取った。

 送り主が誰であるか察したのだろう、彼の肩が小さく跳ねた。

 持っていた木剣を足元に置き、封を切って中身を開く。


 読んでいる間、ツェイフの背中は微かに震えていた。

 やがて、その場にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。


「……すみません」


 ツェイフの喉の奥から、くぐもった声が漏れた。

 感情の防波堤が決壊したように、指の隙間から透明な雫が地面にこぼれ落ちていく。


「どうしましたか」


 俺が歩み寄ると、彼は赤く腫れた目で俺を見上げ、無言のままその手紙を差し出してきた。

 受け取って、内容に目を通す。


 そこには、複数人による寄せ書きのようなメッセージが並んでいた。


『お父さん、ウチは元気にやってるよ。無理しないで頑張ってね』


『慣れない環境でご苦労も多いかと存じますが、お身体には十分にお気をつけください。私どもはいつでも、貴方様の新たな門出を応援しております』

 

『深き闇夜を往く旅人に、星々の導きがあらんことを。貴方の刻む新たな軌跡が、いつか暁の空を彩る詩となる日を信じています』


『また料理を作ってくれたら、食べてあげてもいいよ』


 名前は一切記されていない。だが、文字の筆致と紡がれた言葉の選び方を見れば、誰が書いたものかは痛いほどに伝わってきた。


 丸みを帯びた、元気な筆跡。娘であるアトナからの簡素だが真っ直ぐな応援。

 定規で引いたように整然とした、美しい文字。エリンの生真面目さと、深い思いやりが滲み出ている。

 流れるような筆記体は、相変わらず独特な言語野で生きているユメリのポエム。

 そして乱暴で、所々インクが飛び散っている文字。フラッフルの、素直になれない激励だ。


 俺は手紙から目を離し、小さく息を吐いた。

 これ以上の福利厚生も、モチベーションを高めるための社内研修も必要ないだろう。


「……情けないですね。娘や、その友人たちにまで心配をかけて」


 ツェイフは立ち上がり、粗い袖口で目元を強く拭った。


「ですが、迷いは完全に晴れました。僕は変わらなければならない。頑張らないといけないんです。娘に、もう二度とあんな無様な姿を晒さないためにも」


 その声には、確かな『芯』があった。

 泥底から這い上がろうとする執念に、完全に火が付いたようだ。


「ツェイフ。今からアタシはダンジョンの定期巡回に出る」


 静観していたオルガが、口を開いた。


「浅い階層の確認だ。散歩みたいなもんだが、魔物は出る。あんたのリハビリにはちょうどいいだろう。ついて来るか?」

「はい! 喜んで同行させていただきます!」


 ツェイフは背筋を伸ばし、即座に返答した。


「いい返事だ。ついでに渡したいものがある」


 その迷いのない挙動を見て、俺は木剣が転がる訓練場の隅へと視線を外した。


 身体のサビは落ち、心には確かな熱が宿った。

 彼が再び自分の足で歩き出せるかどうかの懸念は、完全に払拭されたと言っていい。

 これなら上手くいきそうだ。


 ツェイフが向かうべき新たな戦場と、その真の役割について――明日、正式なオファーを出すとしよう。


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