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第64話:人的資本の再構築、失敗は成功よりも雄弁だ

 静寂が、喧騒を食い尽くしていた。

 狂騒の只中にありながら、このテーブルだけが真空に閉ざされている。


 ディーラーの男は、石像のように硬直していた。

 その視線は、自身の破滅を宣告する『聖女(10)』のカードに縫い付けられている。

 思考の処理落ち。あるいは、現実という名の猛毒が全身に回り、脳髄を麻痺させているのだろう。

 無理もない。彼は今、自身の人生と、店の金と、数多の敗者から奪い取った戦利品のすべてを、たった一枚の紙切れによって溶かしたのだ。


 事前のブリーフィングで取り決めた手順は、至ってシンプルだった。

 俺が『魔力干渉』でイカサマを確実に潰せることを確認できたら合図を出す。

 それを受け、ミュッテが勝負所で全額ベットの『決闘』を仕掛ける。

 対価が足りないと突っぱねられた際、フェリコ自身を盤面に乗せたのは彼女の独断(アドリブ)だが――あの絶対的な自信と色香は、見事にディーラーの欲望を煽り、退路を断つ極上の撒き餌となった。


「状況の理解は追いつきましたか? では、清算といきましょう」


 ミュッテの声が、氷の刃となって静寂を切り裂いた。


 彼女は、慣れた手つきでテーブル上の金貨の山を自らの陣地へと引き寄せていく。

 その動作には、勝利の歓喜も、敗者への侮蔑もない。

 ただ事務的に帳簿の数字を書き換えるような、冷徹な実務だけがあった。


 続いて、ミュッテの指先が戦利品の山へと伸びる。

 宝石のついたブローチ、懐中時計。そして――銀色の結婚指輪。

 それらを無造作に、まるでスーパーマーケットで根菜でも選ぶかのように革袋へと放り込んでいく。


 その光景が、石像に再び生を与えたらしい。

 ディーラーの喉から、空気が漏れるような音がした。


「……イカサマだ」


 それは、絞り出すような怨嗟の声だった。


「イカサマだ! ありえない! 俺は確かに書き換えた! てめえ、何をした! どんな手品を使いやがった!」


 男が吠えた。

 充血した両目が眼窩から飛び出さんばかりに見開かれ、唾を撒き散らしながらテーブルに駆け上がる。


 典型的な、敗北の受容拒否だ。

 自身の不正を棚に上げ、結果の不条理を喚き散らす。

 監査で横領が発覚した経理担当者が、逆ギレして証拠書類を破り捨てる姿と重なった。

 見苦しいことこの上ない。


 ディーラーの手がミュッテの襟首にかかろうとした、その瞬間。


「危ないですよ」


 ミュッテは、カード1枚をディーラーの首筋にぴたりと押し当てていた。

 皮膚が薄く切れ、一筋の赤い線が浮かび上がる。

 魔力を帯びたであろうそれは、剃刀(カミソリ)のような鋭利な凶器と化していた。


「首が胴体とお別れしますが、どうしますか? ボクはどちらでも構いませんよ」

「ひィッ……」


 男は喉を震わせ、腰を抜かしたようにその場へ崩れ落ちた。

 恐怖による支配。首筋に突きつけられた冷たい死の予感。

 それは、どんな言葉よりも雄弁に現状を理解させる。


 背後に控えていた憲兵たちは動かなかった。

 暴れるディーラーを取り押さえるわけでも、客であるミュッテを守るわけでもない。

 喚き散らしてテーブルに乗る程度では、彼らにとって『排除対象』ではないらしい。

 剣を抜くか、あるいは実際に他者を害する物理的な暴力を振るうまでは静観する構えか。


 効率的だ。

 実害が出る直前までは、個人の自由意志すら放置する。

 資産を失った人間に人権はないが、暴力を振るわない限りは罪人でもない。

 このカジノにおいて、唯一にして絶対の公平性がそこにあった。


 ミュッテはカードを収めると、戦利品の入った革袋を拾い上げ、こちらへと歩み寄ってきた。


「どうぞ。これですよね」


 差し出された掌には、あの銀色の指輪が乗せられていた。

 俺は無言でそれを受け取る。


 ひんやりとした金属の冷たさ。

 だがそこには、一人の男の人生と、亡き妻への想いが、重力以上の重さとなって宿っていた。


「カードのインクを魔力で操作していたようですね。その繊細な魔力制御……『裏方(スタッフ)』としては一流の腕前でした」


 その才能を真っ当な道に使っていれば、こんな破滅を迎えることもなかっただろうに。

 皮肉な話だ。


「それをねじ伏せた貴方の『即興(アドリブ)』は、彼を遥かに凌駕していましたね」


 ミュッテはシルクハットのブリム(つば)を左手でなぞり、右手の拳を突き出してきた。


「お見事です。スリル満点の、極上のエンターテイメントでしたよ」

「それはお互い様だな」


 俺は拳を軽く合わせた。


 利害の一致だけで結成された、即興の業務提携。

 だが、互いの持ち札を正確に切り合った結果、傲慢な搾取システムを完全に機能不全に陥らせることができた。

 極上のエンターテイメントという彼女の評価も、あながち誇張ではないな。


---


 喧騒から切り離されたラウンジ。


 ソファではツェイフが項垂れ、アトナが寄り添っているのが見える。

 俺が近づくと、アトナが不安げな瞳で見上げてきた。


「アトナ」

「……うん」

「エリンと外で待っていてくれ。少し、大人同士の話がある」


 俺の言葉に、彼女は一瞬だけ父親の顔を見た。


「うん。……お父さんをお願いねい」


 アトナは、エリンに促されてラウンジを出て行った。

 彼女は聡い子だ。自分が席を外すべき空気を感じ取ったのだろう。

 ここから先、親の威厳が地に落ちる瞬間を、子供の記憶に焼き付ける必要はないからな。


 2人が去ったのを確認し、俺はツェイフの前に立った。

 彼はまだ、現実から逃避するように虚空を見つめている。

 俺は掌の中にある指輪を、彼の膝の上に落とした。


 カラン、と乾いた音が鳴る。


 ツェイフの視線がゆっくりと下がり、その銀色の輝きを捉えた。

 瞬間、彼の中で何かが決壊した。


「あ……あぁ……」


 彼は震える手で指輪を掴み、胸に抱きしめると、子供のように身を折り曲げて泣き崩れた。

 嗚咽が漏れる。

 安堵か、後悔か、あるいは自己嫌悪か。

 おそらくその全てだろう。


 俺はかける言葉を持たなかった。

 今の彼に必要なのは慰めではなく、自身の愚かさを直視する時間だ。


「ええもん見せてもろたわ」


 背後から、パチリと扇子を開く音がした。


 フェリコだ。

 彼女は扇子で口元を隠しながら、興味深そうに泣き崩れる中年男を観察している。

 その横には、シルクハットを被り直したミュッテが立っていた。


「はい、これ。今回のあがり。50枚ちょうどやわ」


 フェリコが、じゃらりと音を立てて革袋を俺に押し付けた。

 金貨50枚。

 ツェイフが今日この場所で失った金額と同額だ。


「これは受け取れない。俺たちは指輪さえ戻ればそれでいい」

「ええから持っときや。そのおじさん、大負けしたんやろ? これで片付けてやりいな」


 彼女はそう言って、右目を細めた。


「……ありがとう。恩に着るよ」


 俺は素直に受け取った。

 プライドで飯は食えないし、借金も返せない。

 まずは、今日の負けを精算しなければならない。

 ツェイフの現状を考えれば、この金は命綱そのものだ。


「ところでだが」


 俺は一つ、気になっていたことを口にした。


「もし俺がイカサマを破れず、あのまま負けていたらどうするつもりだったんだ? 金貨100枚と、君の身柄がかかっていたわけだが」


 フェリコは一瞬きょとんとしたが、すぐに扇子の影で艶然(えんぜん)と笑った。


「そんなん、逃げるに決まってるやないの」

「逃げる?」

「当たり前やん。まともに払うわけないやろ。隙見てトンズラや」


 あっけらかんと言い放つ。

 倫理観の欠如ここに極まれり、といったところか。

 最初からリスクなど負っていなかったわけだ。カジノ側からすれば、とんだ疫病神である。


「それにしても、カツラギさん。すごかったわ」


 フェリコが扇子を閉じ、距離を詰めてくる。


「どないしてイカサマを潰したんか、いっこもわからんかったわ。あのディーラー、最後は訳わからんって顔してはったなぁ」

「タネも仕掛けもない。見たものが全てだな」

「いけずやなぁ。まあええわ、謎がある男のほうが魅力的やし」


 つま先立ちになったフェリコに顎先をすくわれ、顔が引き寄せられた。

 次の瞬間、右頬に柔らかな熱が落ちる。

 息を呑む間もなく、彼女はもう元の距離へ戻っていた。


「今夜は楽しかったわ。もし旧10区に来ることあったら、声かけてな。歓迎しますえ」

「ああ、機会があればな」


 社交辞令を返すと、ミュッテが帽子を傾けて一礼した。


「ボクたちは『死量の騎士(リーサルドーズナイツ)』。以後、お見知りおきを」

「長いやろ? 『リドナ』でええよ」

「略すのはやめようよ。せっかく考えたのに」

「覚えにくいし言いにくいやろ」


 2人は笑い合いながら、去っていった。

 嵐のような連中だ。

 だが、毒と薬は紙一重という言葉があるように、彼女たちの猛毒が、今回はツェイフという患者を救う劇薬となった。


 頬に残る感触を拭おうと右手を上げたが、それより先に、白い布が視界を覆った。


 エリンだ。

 いつの間にか戻ってきていた彼女は、無言のままハンカチで俺の右頬を拭き始めた。


「……エリン?」

「…………」


 彼女は何も言わない。

 いつもの(まぶた)が半分ほど下りた眼で、まるで汚染物質を除去するかのような執拗さで、フェリコのキスマークを拭い去ろうとしている。


 俺は賢明な判断として、抵抗せずにされるがままにしておいた。


---


 メインストリートから離れた、路地裏にある酒場。


 薄暗い店内に、富裕層の姿はない。

 仕事終わりの労働者や帰る途中のギャンブラーたちが静かにグラスを傾ける、吹き溜まりのような場所だ。


 テーブルの上には、冷めかけた羊肉の煮込みと黒パン。そして安ワインのボトル。

 傷だらけの木製テーブルを挟んで、ツェイフは目の前の食事に手をつけることもなく、ただグラスの縁を指でなぞり続けていた。


 アトナとエリンは、先に帰らせている。

 ここから先は男同士の泥臭い反省会だ。


「……情けない話です」


 ぽつりと、独り言のように彼が呟く。

 アルコールが回ったのか、それとも極度の緊張から解放された反動か、彼の口は少しずつ重い封印を解き始めていた。


「僕は、もともとは冒険者だったんです。パーティはDランク止まりでした」


 ツェイフの独白が始まる。

 それは、ありふれた転落の物語だった。


 3年前。彼は冒険者を引退し、妻と共に飲食店を開業した。

 銀行からの融資と、冒険者時代に貯めたなけなしの貯金を元手に。


 だが、それは希望に満ちた第二の人生のスタートではなかった。

 妻は体が弱く、長生きできないだろうということは、2人とも覚悟していたことだった。

 残された時間はそう長くはない。

 だからこそ、料理好きだった夫婦で、共に厨房に立つ夢を叶えてやりたかったのだという。


「経営は順調でした。味の評判が良くて。借金の返済も滞りなく進んでいたんです」


 だが、1年前に妻は旅立った。

 立ち行かなくなり、彼は失意の中で店を閉じた。


 銀行に相談し、借金返済の1年間の猶予と、再起のための生活費としての追加融資を取り付けた。

 その総額、金貨48枚。

 店舗の残債28枚と、生活費20枚。

 決して返せない額ではない。地道に働けば十分に完済できる数字だ。


「ですが、駄目でした。体が……心が動かなかった」


 喪失感。

 妻を失う覚悟はしていたつもりだった。

 だが、実際に隣にいた温もりが消失したとき、彼の心には巨大な空洞が開いた。

 仕事をしようとはしたものの、肉体労働をするには気力が枯渇していたし、知人に紹介された商店の手伝いも結局は自分から断ってしまったという。

 社会が彼を拒絶したのではない。彼自身が、社会と関わるエネルギーを失っていたのだ。


 そんな時だ。

 ふと、『息抜き』のつもりでカジノへ足を踏み入れたのは。


「最初は勝てたんです。驚くほど簡単に」


 撒き餌だ。

 カジノ側は、初心者を逃さないよう、最初は適度に甘い蜜を吸わせる。

 ビギナーズラックという名の麻薬。脳内物質が分泌され、喪失感で冷え切った心が、一時的に熱を取り戻す。

 『これなら苦労せずに返済できるかもしれない』。

 そんな錯覚と、勝利の快感が、彼を泥沼へと引きずり込んだ。


 そして、約束の1年後が迫る。

 焦りが判断力を奪い、負けが負けを呼ぶ悪循環。

 地道に返しても間に合わない。ならば、手元の金をすべて突っ込んで一発逆転を――。

 典型的な、破滅へのロジックだ。


「結果は、あなたが見た通りです。金も、誇りも、妻との思い出も、すべて失いかけました」


 ツェイフは両手で顔を覆った。


「娘にも……アトナにも、あんな情けない姿を見せてしまった。父親失格です。本当に、情けない……」


 涙声が漏れる。

 俺は黙ってワインを煽った。

 彼の弱さを責めることは簡単だ。だが、システムの構造的な搾取と、個人的な喪失が重なったとき、正気を保てる人間がどれだけいるだろうか。

 彼は悪人ではない。ただ、弱かっただけだ。そして運が悪かった。


「……まだ、やり直せると思いますか?」


 ツェイフが、縋るような目で俺を見た。

 俺は空になったグラスをテーブルに置いた。


「やり直せますよ。あなたがそれを望むならね」

「望みますとも……。やり直したいんです。アトナのためにも、もう一度。まっとうな父親に……戻りたい」

「では、提案があります」


 俺は懐から、一枚の封筒を取り出した。

 第9支部のギルド長代行として、あらかじめ用意しておいた紹介状だ。


「ツェイフさん。第9支部のギルドで働きませんか」

「第9支部? あの辺境の……」

「だからいいんですよ。王都の中心にいればカジノの誘惑がちらつきますが、第9区なら物理的な距離がある。アトナとも会う頻度が減るでしょうが、今のあなたが娘に顔向けするには、冷却期間が必要でしょう?」


 ツェイフは封筒を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。


「僕で、いいんですか? こんな駄目な男で」

「地道に働いて、借金を返済していけばいいんです。生活の保証はしますよ」


 彼は震える手で封筒を手に取った。

 その目には先ほどまでの死人のような虚ろさはなく、微かな生気が宿り始めているようだ。


「ありがとうございます……」


 ツェイフは何度も頭を下げた。


 美談だな。

 落ちぶれた男の更生を助ける、慈悲深いギルド職員。

 だが、俺の狙いはそれだけではない。


「ギルド職員として普通に働いてもらうのもいいんですが」


 ここからが本題だ。

 彼をただの職員として雇うつもりはない。

 元冒険者であり、元飲食店経営者であり、数字の管理ができ、そして地獄を見た人間。

 その経歴は、俺がこれから第9支部で進めようとしている『ある計画』にとって、得難い人材となる可能性を秘めている。


「実はツェイフさん。あなたには、別の役割も期待しているんです」


 俺はテーブルの上で指を組んだ。

 善良な支援者の仮面を外し、冷徹な管理者の顔で、新たな駒に指示を下す。


「毒を食らわば皿まで、と言いましてね。カジノで学んだ『教訓』を、今度は別の形で活かしてもらいましょうか」


 失敗の経験は、時として成功の経験よりも雄弁な教科書となる。

 システムに食い物にされた男は、システムの裂け目を知る最良の案内人になり得るからだ。


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