第62話:サンクコストの呪縛、今日の他人もリソースになる
『21』のテーブルが並ぶエリアは、カジノの中でも異質な熱気を孕んでいた。
聞こえてくるのは、カードがフェルトの上を滑る乾いた摩擦音に、金貨が積み上げられる硬質な音。
そして、人生を切り売りする人間たちが吐き出す、湿った溜息だ。
その一角、人だかりができているテーブルの脇で、一人の男が崩れ落ちていた。
「お父さん!」
アトナが悲痛な声を上げて駆け寄る。
男――アトナの父、ツェイフは、娘の声が届いていないかのように、虚ろな視線を床の絨毯に落としていた。
身なりは整っている。仕立ての良いタキシードに、磨かれた革靴。
だが、その背中は重力に負けたように折れ曲がり、中身がごっそりと抜け落ちているかのように見えた。
大規模プロジェクトが頓挫し、全ての責任を背負わされて懲戒解雇を言い渡された直後のサラリーマン。
そんな、社会的に抹殺された人間に特有の『負のオーラ』が漂っている。
魂が抜け落ちた抜け殻。これでは、リセットボタンを押す気力さえ残っていないだろう。
「……ア、アトナ……」
ようやく焦点の合わない瞳が娘を捉えたが、その声は掠れ、覇気のかけらもない。
「帰ろ? もう十分でしょー?」
「はは……金が……全部、なくなった」
ツェイフは自身の両手を呆然と見つめた。
震える指先は、もう何も掴めないと言わんばかりだ。
周囲の野次馬たちの囁きが、状況を補完してくれる。
どうやら彼は、ディーラー個人に対する『決闘』を挑み、そして完膚なきまでに叩きのめされたらしい。
負債額は金貨50枚。日本円にしておよそ500万円。
一般市民の年収を優に超える金額が、わずか数十分のカード遊びで蒸発した計算になる。
「……エリン。手持ちはいくらある?」
「金貨10枚ほどですね。アトナも同じぐらいでしょう」
足りない。圧倒的にショートしている。
もちろん、銀行へ行けば口座から引き出すことは可能だろう。
だが、カジノのルール上、ツケの精算を済ませずに店を出ることは許されない。
となれば、後日支払う旨を伝え、借用書を書くのが現実的な落とし所か。
「とりあえず、場所を変えよう。ここにいても見世物になるだけだ」
俺がツェイフの肩に手を回し、立たせようとした時だった。
「おやおや。もう退席ですか? リベンジは歓迎しますよ」
粘着質な声。
視線を向けると、テーブルの向こう側で一人の男が薄ら笑いを浮かべていた。
このテーブルを担当するディーラーだ。
オールバックの金髪に、細い目。
制服の着こなしは完璧だが、その表情には客をもてなすサービス精神など微塵もなく、獲物をいたぶる捕食者の嗜虐性が滲んでいる。
彼が手元で何かを弄んでいるのに気づいた。
金貨ではない。銀色の、古びた意匠の指輪だ。
「あっ!」
アトナも、指輪に気づいたようだった。
その顔から血の気が引いていく。
「お父さん、あれ……お母さんとの……」
ツェイフが弾かれたように肩を震わせ、深く俯いた。
肯定だ。
あれは、ツェイフが妻と交わした婚約指輪だったものだろう。
金が尽き、それでも勝負を続けようとした結果、現金の代わりにあの指輪を賭けたのだ。
判断能力の欠如。理性の崩壊。サンクコストに縛られ、破滅まで突っ走るギャンブル依存の末期症状と言える。
「いい輝きですねえ。貴金属としての価値は大したことありませんが、そこに込められた『想い』の重さが、私にとって極上の勝利のスパイスになる」
「返してよお! それは、大事なっ……」
アトナがテーブルに詰め寄るが、ディーラーは動じない。
「お嬢さん。これは正当な勝負の結果、私が手に入れた戦利品です。店への支払いは別途請求しますが、この指輪は私の個人的な所有物になりました」
ディーラーは指輪をコインのように親指で弾き、空中でキャッチした。
その手つきには、商品に対する敬意も、敗者への礼儀もない。ただのサディズムだ。悪質な取り立て屋ですら、もう少し効率と体裁を気にする。
顧客満足度など端から無視した、独占企業の傲慢な窓口担当者を見ているようで虫唾が走る。
「返してほしければ、もう一度『決闘』で取り返すしかありませんねえ」
ディーラーの背後には、屈強な憲兵が控えている。
力ずくで奪い返せば、その時点で俺たちは強盗犯として処理され、カジノはおろか王都の地を踏めなくなるだろう。
テーブルの上には、他にも懐中時計や宝石のついたブローチなどが、無造作に置かれている。
すべて、彼が敗者たちから巻き上げた『戦利品』なのだろう。
ここは、ただの賭場ではない。
貧者が人生を賭けて足掻き絶望する様を、貴族や富豪が安全圏から眺めて楽しむためのコロッセオだ。
ディーラーもまた、ただの従業員ではない。
客を破滅させることで自身の報酬を得る、一種の剣闘士。
弱いディーラーは淘汰され、より残忍で、より強い者だけが生き残るシステム。
資本主義の暗部を煮詰めたような光景に、俺は軽い吐き気を覚えた。
「行くぞ、アトナ」
俺はアトナの腕を引いた。
今は何を言っても無駄だ。相手はこちらの感情が昂るのを楽しんでいる。
挑発に乗れば、さらなる深みに嵌るだけだ。
「でもお、指輪っ……」
「わかってる。しかし、今のツェイフさんの状態じゃ話にならない。まずは頭を冷やすのが先決だ」
俺たちは半ば強引にツェイフを引きずり、人だかりを離れた。
感情に任せて突っ込んでも負債が増えるだけだ。
まずは落ち着ける場所に移動し、指輪を奪還するための具体的な『対策』を練らなければならない。
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ラウンジにある休憩用のソファに、ツェイフを座らせた。
彼は糸の切れた操り人形のように、ただ呆然と虚空を見つめている。
「どうしよ、カッチー。お金は銀行に行けばなんとかなるけどお。あの指輪は……」
アトナが涙目で訴える。
金貨50枚の借金は、痛手だが致命傷ではない。
彼女の冒険者としての稼ぎなら返済できる額だ。
だが、あの指輪は違う。
プライスレスな感情的価値が付加された資産だ。
そして、それを奪われたという事実は、ツェイフの心を永久に破壊しかねない。
彼を立ち直らせるには、あの指輪を取り戻す必要がある。
問題は、その方法だ。
金で買い戻そうにも、あのディーラーが素直に応じるとは思えない。
『21』による『決闘』で奪い返すしか道はないだろう。
だが、それは相手の土俵に丸腰で飛び込むようなものだ。
「えらい難儀やねえ」
不意に、背後から声が掛かった。
振り返ると、いつの間にかフェリコとミュッテがそこに立っていた。
「見てたのか」
「ええ。悲劇の舞台は、観客がいてこそ成立しますから」
ミュッテは芝居がかった口調で言いながら、ツェイフに憐れみの視線を向けた。
「あのディーラーは『蜘蛛』ですよ。一度巣に掛かった獲物は、骨までしゃぶり尽くします」
「それだけ腕が立つようだな」
「腕? あはは、違いますね」
彼女は小さく首を横に振った。嘲笑の響きが混じる。
「あのディーラーはイカサマをしていますよ」
アトナが反射的にミュッテを見た。
「イカサマって……そっか、カッチーが言ってた……」
「バレなければ、イカサマではないですからね」
ミュッテは自身の青い髪を指先で弄びながら、声を潜めた。
「ボクも観察しましたが、決定的な証拠は見つけられませんでした。シャッフルの手際、カードを配る指の動き……技術としては二流です。ボクの目なら、袖の中にカードを隠すような動きなら見抜けます。ですが、そういった痕跡がないんです」
つまり、物理的な細工ではないということか。
「なのに、ここぞという勝負所での『引き』が異常に強いんですよ。確率論では説明がつかないほどにね。となれば、答えは一つ」
「魔法か」
「おそらくは」
ミュッテは右手をパチンと鳴らした。
すると、フェリコの足元から突風が吹き、ドレスのスカートが舞台装置のように跳ね上がった。
「このように、微弱な魔力を使ってカードを操作しているのでしょう。見た目に変化がないので、絵柄をどうにかしているのでしょうね」
俺は溜息をつきたくなるのを堪えた。
物理的なイカサマ――例えば鏡を使うとか、カードに傷をつけるといった『目に見える証拠』なら、その場で指摘して失格にできる。
だが、魔法となると話は別だ。
この世界において、目に見えない魔力による干渉は、証拠の残らない横領のようなものだ。
店側に抗議したところで『運が良かっただけだ』と一蹴されるのがオチだろう。
万人が持っているエネルギーである以上、いくらでも言い訳が立つ。
胴元がルールを握っている以上、ユーザーであるプレイヤーは常に不利な立場に置かれる。
「ちょっとミュッテちゃん、何してんの?」
「視覚的なデモンストレーションだよ。サービス込みのね」
ゴガギッ、と硬質な音が鳴った。
見れば、フェリコの細腕がミュッテの首に深く食い込み、万力のように締め上げている。
「サービスは要らんやろ」
「ぐえっ……ギブ、ギブ……」
命懸けの漫才を演じる2人をよそに、イカサマについて考えた。
内容が『魔力による操作』であるなら、打つ手はある。
『魔力干渉』だ。
ディーラーが魔力でカードを操っているのなら、その供給ラインを遮断してやればいい。
「魔力を使っているなら、何とかできるか」
声に出ていたのか、ミュッテの首を締め上げているフェリコが反応した。
「何とかできるって、イカサマのことなん?」
「ああ、そうだ。しかし――」
イカサマの芽を摘むことはできる。だが、それだけでは不十分だ。
不正を封じたところで『21』――ブラックジャックというゲーム自体に勝てる保証はない。
俺はギャンブルのプロではないし、運に愛されている自信もない。
公平な環境に戻したとして、最後にモノを言うのは現場の経験と技術だ。
「俺ならイカサマは潰せるだろうが、ゲームに勝てる気がしないな」
フェリコが締め上げていたミュッテの首をパッと離した。
「ほな、この子を使たらええよ」
「うげほっ、ごほっ……」
咳き込む相棒を放置し、フェリコは俺に向き直った。
その表情は、先ほどまでのふざけたものではなく、商談を持ちかけるプロの顔だ。
「ミュッテを?」
「そや。この前は仕事や言うても、カツラギさんにはえらい迷惑かけてしもたし。お詫びみたいなもんやと思うてな」
フェリコは胸の谷間から扇子を取り出し、パチリと開いた。
「この子は性格ねじくれとるけど、腕は確かやし。カツラギさんはイカサマを潰す、ミュッテちゃんは勝負に勝つ。ウィンウィンの関係ちゅうやつやないの?」
「首がねじ切れかけたけどね」
「それはあんたのせいやろ」
彼女なりの筋の通し方というわけか。
『ウィンウィン』なんて胡散臭いコンサルタントが好んで使う言葉だが、今回に限っては正確な表現だ。
「でも、面白そうだね」
呼吸を整えたミュッテは左手でシルクハットを直すと、右手を差し出した。
「どうですか? ボクたちで『共演』といきませんか」
正規の手続きや正論が通じない相手には、こちらもグレーな手段で対抗するしかない。
理不尽な要求を突きつけてくる取引先を、ルールの隙間を突いて黙らせる。
それは前職で散々やってきた、俺の得意分野でもある。
俺は、ソファで項垂れるツェイフを見た。
金を失うのは自己責任の結果だ。同情はしない。
だが、敗者の尊厳まで奪い、再起不能になるまで追い込むやり口は、健全な運営とは言えない。
アトナが不安げに俺を見ている。
ここで背を向ければ、彼女の笑顔は損なわれてしまうな。
「わかった。乗ろう」
俺は、差し出されたその手を握り返した。
一時的な業務提携の成立だ。
「アトナ、ツェイフさんを見ててくれ」
「えっ、カッチー?」
「指輪を取り戻してくるよ」
これはギャンブルではない。
不正会計によって隠蔽された資産を、正規の簿記に戻すための『監査業務』だ。
感情はいらない。熱くなる必要もない。
淡々と、粛々と、不正の証拠を積み上げ、是正勧告を叩きつけてやるだけだ。
「まずは打ち合わせをしよう」
声を潜め、臨時のプロジェクトチームに向けてブリーフィングを開始した。
俺は達人の剣を止められない。
だが、仕掛けられたイカサマなら止められる。




