第61話:利害関係の調整、昨日の敵は今日の他人でしかない
上質な革張りのソファに、深く腰を沈める。
身体の芯に残っていた緊張が、その物理的な柔らかさに包まれて少しだけ和らいだ気がした。
対面に座る紫のドレスの女性――かつてノウス商会で対峙した『仮面の女剣士』は、組んだ足を優雅に揺らしながら、目を細めている。
俺の両隣に座った2人も、この場が即座に戦場になるとは考えていないだろう。
ここはカジノのラウンジだ。衆人環視の中、突発的な殺し合いが起きる確率は低い。
だが、警戒を解く理由にはならない。
エリンは腰から外したショートソードを膝の上に置き、いつでも抜剣できる態勢で背筋を伸ばしていた。
アトナもまた、太腿のナイフには手を触れていないものの、いつでも動けるよう重心を安定させている。
俺も努めて冷静を装いながら、テーブル越しに彼女と対峙した。
「そう固くならんといて。わたいはフェリコ。見ての通りのフォックス族や」
「フェリコ、か」
「フェリコちゃんて呼んでええよ?」
そう言って流し目を送り、艶然と微笑んだ。
かつて殺し合った相手に対する態度ではない。
だが、この軽薄さこそが彼女の処世術なのだろう。
親しげな態度で相手の懐に入り込み、敵対心を削ぐ。営業職や、あるいは手練れの詐欺師がよく使う手口だ。
ならば、こちらもその土俵に乗るしかない。
「わかった。フェリコちゃんだな。俺はカツラギだ」
「くふふ、ノリええな。カツラギさん、よろしゅうな」
フェリコは嬉しそうに目を細めた。
まるで旧知の飲み友達のような空気感だ。
そこには、裏で何かを企むような陰湿さは感じられない。
ただ純粋に、仕事以外の時間は楽しもうという、徹底したドライさが漂っている。
「それで、さっき言っていた『もう関係ない』というのは、どういうことだ?」
「言葉通りの意味やね。あの人とは、あの夜だけの契約やったし」
「あの日だけ、か。随分と割り切った関係なんだな」
「腐れ縁なんてもんは、邪魔なだけやし」
彼女はカクテルグラスを揺らし、氷の音を鳴らした。
「わたいらは旧10区――あんたら風に言えば『王都外郭群』から来てるんよ」
王都外郭群。通称、旧10区。
王都の拡張計画が頓挫し、管理区域から外された元予定地。
インフラは整備されているものの、行政サービスは届かず、憲兵の巡回もない。
結果として、王都からあぶれた貧困層や、脛に傷を持つ者たちが集まるスラム同然のエリアとなっている場所だ。
行政上のブラックボックス。あるいは、都市機能の盲腸。
そこそこの文明レベルを維持しながら、法だけが存在しない。犯罪組織にとっては最高の人材供給源だろう。
「なるほど。治安の悪い場所だと聞いているが」
「住めば都やけどね。水道も魔導灯も、昔の遺産が生きてるし。他の泥臭い街よりはずっとマシやわ」
フェリコは遠い街を懐かしむように言った。
「わたいはそこの『冒険者』やね。王都のギルドみたいな立派な組織やないけど、仲介屋さんに仕事を紹介してもろて……王都でいうクエストみたいなもんやね。それで生活する。気楽なもんや」
ギルドという正規の派遣会社を通さない、日雇いの非正規労働者のようなものか。
足がつかない鉄砲玉としては、うってつけなのだろう。
「今回は8区に来るついでに護衛の仕事を受けただけやし。ウルバノさんの素性なんて興味あらへんし、聞いてもないわ」
「ついでに受けた仕事にしては、ずいぶんと派手にやってくれたな。おかげで俺は死にかけた」
俺が皮肉を込めて言うと、フェリコは「くふふ」と笑い飛ばした。
「それは死地に来た、あんたが悪いわ」
「そうなのか?」
「せやで。ああせな、わたいがあのおじいさんとおチビちゃんに詰められてたんや」
暴論だが一理ある。
工事現場に勝手に入り込んで怪我をした人間が、現場監督を訴えるようなものか。
彼女にとって、あそこは『業務遂行中』の現場であり、俺たちは招かれざる障害物だった。
「あのおじいさんが本気で殺りに来てたら、わたいも危なかったしなぁ。あのおチビちゃんの魔法も、背筋凍ったわぁ。いや、ほんまに凍らされたんやった。くふふっ」
どこまで本気なのか。
ブルークの剛剣とフラッフルの拘束魔法を単独で捌ききった実力者が言うには、あまりに白々しい。
「……で、あんたや」
不意に、フェリコの目がすぅと細められ、俺を射抜いた。
先ほどまでの愛想の良さが消え、値踏みするような視線が突き刺さる。
「あんた、何もんなん?」
「ただのギルド職員だが」
「嘘言いな。あのおじいさんとおチビちゃん、それと鎧の子は、強いのは分かったんよ。けど、あんたは分からへん」
彼女は右手を頬に添えた。
「魔力を完全に消してはるやろ? 漏れ出る魔力がゼロなんてありえへん。底知れん不気味さがあるわ」
なるほど、そういうことか。
俺には魔力がない。ゼロだ。
だが、魔力感知が当たり前のこの世界の住人、特に手練れにとっては『魔力が全くない』という状態は『魔力を完璧に隠蔽している』と誤認されるわけか。
深淵を覗いているつもりで、ただの空っぽの穴を見ているだけだ。
だが、この誤解は利用できるな。
「想像に任せるよ」
「こわいなぁ。まあええわ、深入りはせん主義やし」
フェリコは興味を失ったように視線を外し、再びグラスに口をつけた。
警戒されているうちは、軽率な手出しはされないだろう。
このハッタリが効いている間に、話をまとめる必要がある。
「ウルバノとの関係が切れているなら、これ以上敵対する理由はないな」
「せやね。わたいはカジノを楽しみに来ただけやし。飽きてもうたけど」
「だが一応、ギルドには君のことを報告させてもらうが、いいか?」
これは牽制だ。
王都の冒険者ギルドが動けば、彼女のような『モグリ』は排除の対象になるかもしれない。
だが、フェリコは動じなかった。
「ええよ。別に困ることあらへん」
「随分と余裕だな。指名手配されるかもしれないぞ」
「わたいらを詰めても無駄やからね。言うたやろ? ウルバノさんのことは、なーんも知らん」
彼女は顔の横で、ヒラヒラと4本の指を遊ばせてみせた。
「それに、今回は4人みんなで来とるんよ。わたい以外の3人も、なかなかの偏屈もん揃いや」
「仲間がいるのか?」
「くふふ。もし冒険者が捕まえに来るんやったら、それはそれでかまへんよ」
フェリコは妖艶に唇を歪め、悪戯を企む子供のような、純粋な好奇心を覗かせた。
「でもなぁ、4人で相手せなあかんやろから……死人はぎょうさん出るやろなぁ」
その瞬間、場が固まった。
だが、フェリコはすぐに表情を崩す。
「まあ、すぐ逃げるやろうけどな、わたいらが。割に合わん喧嘩はせんのが、長生きの秘訣やし」
掴みどころがない。
だが、その言葉の端々には、自信と生存本能が同居している。
「そうか。まあ、何もないならそれにこしたことはない」
「賢明やね。カツラギさん、あんたとは美味しいお酒が飲めそうや」
フェリコは胸の谷間から、まとわりつくような手つきで扇子を取り出すと、パチリと音を立てて開き口元を隠した。
これ以上、彼女からウルバノの情報を引き出すのは不可能だろう。
本当に知らないのか、それとも知っていてとぼけているのか。
いずれにせよ、口を割らせるには相応の対価か、暴力が必要になる。
今の俺たちには、そのどちらのリソースも不足している。
その時だった。
「おや。お友達かな?」
凛とした、よく通る声が頭上から降ってきた。
フェリコが視線を巡らせる。
「ああ、お帰りやす。旦那様」
旦那様?
振り返った俺の視界に入ってきたのは、カジノの照明を一身に浴びるような、華やかな人物だった。
黒のシルクハットに、仕立ての良い燕尾服。
ショートボブに切り揃えられた青い髪が、歩くたびにサラサラと揺れる。
切れ長のアーモンドアイは目尻が水平に伸びており、意志の強さを感じさせる。
歌劇の舞台からそのまま抜け出してきたような、男装の麗人だ。
年齢は10代後半といったところか。
だが、その立ち居振る舞いには、年齢不相応な洗練されたキザっぽさがあった。
「はじめまして、皆さん。ボクの連れがお世話になっていたようで」
彼女――いや、外見上は美少年にも見えるその人物は、優雅にシルクハットのブリムに手を当てて一礼した。
その動作一つ一つが、計算された芝居のように美しい。
「この子はミュッテちゃん。見ての通り、頭の先から爪先まで『嘘』で塗り固められたような子やけど、腕だけは確かやね」
フェリコの紹介に、ミュッテは大げさな溜息をついてみせた。
「人聞きが悪いな。ボクはただ、退屈な現実に『物語』という彩りを添えているだけですよ」
「……連れの方とは、随分と雰囲気が違うな」
俺が警戒心を隠さずに言うと、ミュッテは甘い微笑を浮かべた。
「彼女は少し粗野ですからね。ボクが手綱を握っていないと、すぐに誰かに噛み付いてしまいます。迷惑をかけませんでしたか?」
「ちょうど休戦協定を結んだところだ」
「それは良かった。ボクも無益な争いは好みません。愛と平和こそが、この世の真理ですからね」
三流芝居の台本のような台詞を、恥ずかしげもなく口にする。
フェリコが『毒花』なら、こっちは『造花』だ。美しくはあるが、どこか現実感がない。
アトナが、俺の膝に手を置いた。
「ねえ、そろそろお父さんを探さないと……」
その通りだ。ここで油を売っている場合ではない。
フェリコたちとの会話は、あくまで不測の事態を避けるための政治的な調整に過ぎない。
本来の目的は、アトナの父親の捜索だ。
「そうだな。長居は無用だ」
俺は頷き、ソファから腰を浮かせた。
だが、ふと思い直す。
この広いカジノフロアを、あてもなく彷徨うのは非効率だ。
目の前には、今しがたフロアから戻ってきたばかりの人物がいる。
俺はミュッテに向き直った。
「一つ、聞いてもいいか?」
「はい、何でしょう?」
「人を探しているんだ。君は今、フロアを見て回っていたんだろう? 心当たりがないか聞きたくてな」
俺の問いかけに、ミュッテはシルクハットのブリムをなぞりながら頷いた。
「構いませんよ。どんな人物ですか?」
彼女が聞く姿勢を見せたことで、アトナが身を乗り出した。
「えっとー、髪は茶色でえ、長さは普通くらいでー、年齢は41歳です。背はちょっと高いかなあ」
特徴を聞いていて気付いたが、情報があまりに一般的すぎるな。
茶髪の中年男性など、このフロアには掃いて捨てるほどいるだろう。
ましてやここはドレスコードのあるカジノだ。
誰もが似たようなタキシードを着ているため、遠目には量産された駒のように区別がつかない。
「聞いておいてなんだが、ありふれた特徴だから分からないよな」
俺が諦め半分で言うと、ミュッテは意外にも顎に手を当てて考え込んだ。
「そうですね。でも一人だけ、心当たりがあるかな」
「分かるのか?」
「その特徴に合致する男性が、『21』のエリアにいましたよ。記憶に残っていた理由は、彼がちょうどディーラーに『決闘』を申し込んでいたからです」
決闘。
物騒な単語に、エリンが僅かに反応する。
だが、俺の理解は違った。
この店のルールガイドには、通常のゲームとは異なる特殊な賭け方が記載されていた。
通常、カジノにおける勝負は『客と店』で行われる。
だが、客が希望し、ディーラーが受諾した場合に限り、目の前のディーラー個人との私的な賭けに変更することができる。
それが『決闘』だ。
客が勝てば、ディーラー個人の資産から支払いが行われる。
逆に客が負ければ、賭け金はそのままディーラーの懐に入る。
店側は場所を提供する対価として、賭け金の数パーセントを『場代』として徴収するだけだ。
胴元は『場代』という固定収入を確保しつつ、ギャンブルのリスクを従業員に丸投げする。
究極のフランチャイズモデルだ。
勝てばディーラーの懐が潤い、負ければ店は痛まない。射幸心を煽って従業員を酷使する、実に悪辣で合理的なシステムだと言える。
店にとっては、リスクを負わずに確実に利益が出るシステム。
ディーラーにとっては、腕次第で給料以上の大金を稼げるチャンス。
そして客にとっては――。
「あんな無謀なこと、まともな神経やったら、やりまへんわ」
フェリコが口を挟んだ。
彼女も呆れているようだ。
「ディーラーは毎日何百回もカードを配ってはるプロやで? そんな相手に自分の全財産賭けてサシ勝負を挑むやなんて、自殺志願者か、よっぽど追い詰められた人間だけや」
その通りだ。
確率論で言えば、プロ相手の短期決戦など不利でしかない。
だが、負けが込んだ人間特有の『一発逆転をしたい』という心理が、その無謀な選択を魅力的に見せてしまうのだろう。
「その男性は、目が死んでいましたね。『死んだ魚のような目』とでも言いますか。破滅に向かう人間の目ですよ」
死んだ魚のような目。
その言葉に、かつて通勤電車で見た、疲れ切った同僚たちの目を思い出す。
だが、あれとは決定的に違う。
社畜の目は、明日への絶望と共に『責任』を背負っていた。
対して、ギャンブル中毒者の目は、責任も未来も放棄し、ただ『刹那の快楽』に焦がれる亡者のそれだ。
労働の対価として魂を削るのと、快楽の代償として魂を売り渡すのとでは、同じ『死んだ目』でも意味が違う。
「ありがとー! 行ってみますねい!」
駆け出そうとするアトナの背中に、ミュッテが声を投げかける。
「気をつけてくださいね。深追いは火傷のもとですよ。破滅の淵にいる人間は、時として魔物よりもタチが悪いですから」
「忠告、痛み入るよ」
「くふふ、高い利子がつくかもしれんで?」
「法外な金利なら、踏み倒させてもらうさ」
軽口を残し、俺たちは『21』のテーブルが並ぶエリアへと急いだ。
華やかなカジノの喧騒が、今は不快なノイズにしか聞こえない。
チップのぶつかる音、ディーラーの無機質な声、そしてプレイヤーたちの歓声と悲鳴。
欲望の渦の中心で、一人の男が沈もうとしている。




