第57話:会食接待の享受、美女と美食の波状攻撃(前編)
給仕に椅子を引かれ、俺はようやくその座面に腰を落ち着けた。
これでやっと、両腕にかかっていた物理的かつ精神的な『重圧』から解放されたわけだ。
通された個室は、6人は優に座れそうな円卓が鎮座する落ち着きのある空間だった。
テーブルには純白のクロスが掛けられ、頭上では無数のクリスタルを纏ったシャンデリアが光を乱反射させている。
3人で使うには少し持て余すほどの広さだ。通常の店舗設計なら、この床面積があれば倍の客席を詰め込むだろう。
俺は慣れないタキシードの襟元を指先で探りながら、目の前のグラスに注がれる赤ワインを眺めた。
「空間の余白を贅沢に使っているね。これこそが、富裕層が対価を払ってでも求める『余裕』というものかな」
レナンセムの所作は洗練されており、ただグラスを傾けるだけで一枚の絵画のようだ。
「そうだな。直近の業務で高級店には慣れたつもりだったが、ここは別格だ」
俺が苦笑すると、隣に座るルティアが安心したように息を吐いた。
「私は緊張してしまって……。カツラギさんが堂々としていらっしゃるのを見て、ホッとしました」
そう言いながらも、ルティアの視線は、整然と並ぶカトラリーに吸い寄せられていた。
この旺盛な食欲も、彼女の美徳の一つだろう。
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最初に運ばれてきたのは、籠に盛られた焼きたてのブリオッシュと、漆黒の粒が点在する発酵バターだった。
『小麦パンと黒トリュフのバター』。
パンから立ち上る熱気が、バターに閉じ込められていた香りを強引に解き放っている。
ただ練り込んであるだけじゃない。この香りをバターの隅々にまで行き渡らせるために、一体どれほどの手間と時間を費やしたのか。想像するだけで、その裏側にある執念のような仕事量が透けて見える。
最初の一口を運ぶ前から、鼻腔を支配しにくる圧倒的な情報の密度。挨拶代わりにしては、あまりに重厚な先制攻撃だ。
「素晴らしい芳香だね。パンの熱量が触媒となり、芳醇な油脂に封じられていた香りの原質が口腔から鼻腔へと一気に突き抜けていく。最初の一口で嗅覚の閾値を越え、脳の深層へ多幸感を刻み込む。実に見事な、感覚器官の掌握だよ」
レナンセムは、指先に残る香りを愛しむように目を細めた。
美食がどうとか言っていただけあって、今日の彼女はいつもより饒舌だ。
「この茸の収穫には、獣人の鋭敏な嗅覚が欠かせない。土の下、数層にも重なった地層の隙間から『芳醇な予兆』を嗅ぎ分ける彼らの労働こそが、この一皿の価値を担保しているのさ」
彼女の解説を聞き流しながら、バターナイフを手に取る。
「いい香り……美味しいですねっ」
ルティアの素直な感嘆を聞きながら、俺もたっぷりと黒い粒の混じったバターをパンに乗せて口に放り込んだ。
バターの濃厚な脂質を、黒トリュフの複雑な香りが完全に支配している。
職人が注ぎ込んだ膨大な労力の結晶が弾け、俺の『分相応』という名の防衛線を、圧倒的な資本の暴力が粉砕していった。
鼻に残る余韻を堪能しながら、向かいで優雅にナプキンで指先を拭うレナンセムに視線を向けた。
「そういえば、エルフは人間より鼻が利くんだったか。これほど濃密な情報量だと、人間より香りを楽しめていそうだな」
「うん。私にとって、この香りは単一の刺激ではなく、多層的な情報の集積なんだ。君たちが『面』で捉える芳香を、私は深度で享受していると言い換えてもいい。地層の湿度、獣人の吐息、そして調理師の執念。それらが折り重なる時間軸を読み解くのは、知的で極めて贅沢な愉しみだよ」
要するに『すごく良い香りを楽しめている』ということか。
俺には到底到達できない領域の話だが、彼女が満足しているなら何よりだ。
「それは良かった。獣人は獲物の匂い以外を遮断する性質を持つらしいが、こういう良い香りはどうなんだろうな」
「獣人たちにとって、この香りは純粋な情報索引でしかないだろうね。土の中に埋もれた『価値』を探り当てるための、生存本能に直結した信号だ。だけども、その鋭敏さゆえに、この香りが『騒々しすぎる』のかもしれない。我々が静寂の中で旋律を愉しむように、獣人たちも余計な刺激を遮断することで自らの専門性を守っているのさ」
同じ考えだ。『仕事として嗅いでいるだけで、楽しむ余裕はない』ということだろう。
頷きながら、俺は卓上に用意された上質なナプキンで指先の脂を拭った。
まだアミューズを口にしただけだというのに、胃も心も妙な充足感に満たされそうになった。
このまま席を立っても『良い食事だった』と納得してしまいそうな自分を、必死に現実に引き留める。
フルコースは、まだ始まったばかりなのだ。
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空いた皿が手際よく下げられ、代わりに見るからに熱そうな小さな陶器の小鍋――ココットが運ばれてきた。
『雉の卵のココット、黒トリュフ添え』。
蓋が取られた瞬間、目に飛び込んできたのは、眩いばかりの黄金色と、その表面を覆い隠す漆黒のスライスの対比だった。
雉の卵。その力強い黄身が、絶妙な火入れによって、今にも溢れ出しそうな半熟の状態で震えている。そこに黒トリュフが重なることで、単なる卵料理が、まるで完成された芸術品のような威圧感を放っていた。
一切の誤魔化しが効かない、素材の地力だけで勝負する一皿だ。
「素晴らしいね。この視覚的なコントラストがもたらす心理的効果は絶大だ。黄金と黒――この対比が脳に与える刺激は、舌が感じる知覚を補完し、喜びを幾倍にも増幅させている。美食とは、優れた知覚の設計図でもあるわけだね」
レナンセムは小さなスプーンでそっと黄身を崩しながら、恍惚とした表情で語を継いだ。
「野生の力強さを秘めた雉の卵を、徹底した飼育管理と正確な火入れで、ここまで純粋なコクへと昇華させる。これは文明による自然の最適化、その一つの到達点だよ」
要するに『見た目が完璧だから、余計に美味しく感じる』ということか。
俺にはそこまで高尚な理屈は分からないが、この目の前にある『完璧に制御された黄金色』には、逃げ場のない説得力があることだけは理解できた。
「とろとろで、美味しいですねっ」
隣ではルティアが幸せそうに頬を緩めていた。
その無防備な表情を見ていると、この一皿に込められた職人の温度管理の苦労も、すべては正しく報われているのだと感じる。
俺もスプーンを入れ、一口分を慎重に口へ運ぶ。
濃厚な黄身の甘みが、トリュフの土着的な香りを包み込み、喉の奥へと滑り落ちていく。
シンプルな素材を、最高の状態で供する。その『当たり前』を成し遂げるために、どれほどの選別と、どれほどの手数が費やされたのか。そんな計算をするのさえ馬鹿らしくなるような、圧倒的な正解がそこにはあった。
「トリュフで料理されてるとはいえ、雉の卵がこんなに美味くなるんだな」
「そうだね。だけども、この一皿においては、あくまでトリュフという主役を輝かせるための伴奏者に過ぎない。卵そのものの可能性を追求するなら、他にも好奇心をそそる選択肢はあるよ。例えば、コカトリスの卵などだね」
「コカトリスって、あの魔物のか?」
「うん。君は魔物の食材を口にしたことはあるのかな?」
「いや、ないな」
この世界においても、食肉は豚や鶏といった家畜によって支えられている。
得られる肉量と味の均質性を考えれば、それらが市場を席巻するのは当然の帰結だ。
コカトリス。
鶏と蛇が混ざり合ったような姿をした魔物で、その吐息には対象を石化させる効果を持つという。
生物としての生存戦略において、捕食者から身を守るために毒を持つ種は多い。
だが、相手を石に変えるなどという過剰防衛は、明らかに自然界のルールを逸脱している。
遭遇した冒険者を次々と石像に変える、ダンジョンにおける『歩くオブジェ製造機』だ。
「というか、コカトリスは相手を石にする能力を持っているんだろう? そんなものの卵を食べて、体は大丈夫なのか」
「コカトリスの石化毒素は、吐息と共に散布されるものだね。生殖細胞である卵に毒性はないよ。もし卵そのものが石化能力を持っていたら、産卵した瞬間に親鳥が石になってしまうだろう?」
「なるほど。言われてみればその通りだ」
排泄と産卵を同じ器官で行う鳥類の構造上、卵自体が危険物なら種の保存が成り立たない。
「魔物の食材は高価なんだったな」
「純粋な美味の追求だけでなく、採取に伴う『危険』が価格に含まれているのが理由かな。コカトリスの場合、石化の吐息が満ちる場所から卵を運び出すには、それ相応の腕利きを揃えなければならないからね」
「希少性という付加価値を食べているようなものか」
俺の納得に、レナンセムは悪戯っぽく笑って指を立てた。
「万が一君が石になったとしても、私のコレクションに加えてあげるから安心するといい。鑑賞に飽きたら石化を解除してあげようじゃないか」
「それは何十年ぐらい先の話になるんだ? 石にならないよう祈りながらの食事なんて、味が分からなくなりそうだな」
俺は冗談に付き合いつつ、残った黄金色の黄身を掬い取るべくスプーンを動かす。
隣のルティアは「もし石になっても私がすぐ解きますからね」と言ってくれて、その真っ直ぐな言葉に俺は思わず頬を緩めそうになった。
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会話が途切れる絶妙な間合いで、次の皿が音もなく差し出された。
『森の茸のコンソメ、黒トリュフの泡』。
表面には、淡雪のような白い泡が薄く浮かんでいる。
驚くべきはその透明度で、茸の旨味を凝縮したスープでありながら、一切の澱みがない。
一口啜れば、水のように澄んだ見た目に反して、味の密度が凄まじかった。
不純物を徹底して排除することで、香りの純度を極限まで高めている。
この『透明度』と『味の濃さ』を両立させるために、一体どれほどの手間と材料が費やされたのか。そのコストパフォーマンスという概念をあざ笑うような非効率の極みにこそ、この料理の価値があるのだと思い知らされる。
「……見事な蒸留だね。あらゆる雑味を排除して本質のみを残すという、執念にも似た引き算の営みだ。表面の気泡が弾けるたびに、感覚そのものが茸の深淵へと沈殿していくような錯覚に陥るよ」
レナンセムは、器から立ち上る微細な飛沫を愉しむように目を細めた。
「足し算の贅沢は誰にでもできる。だけども、これほどまでに純粋な『無』を構築するのは至難の業だ。ここの調理師たちは無駄を愛でることでしか到達できない高みに、このスープを置いたというわけだね」
極限まで磨き上げることで価値を高める。料理人の偏執的なまでのこだわりだ。
「ぎゅっとしてて、美味しいですっ」
隣ではルティアが、その濃厚な旨味を味わっていた。
彼女の言う通り、喉を通る瞬間に鼻へ抜ける香りは鮮烈だ。
まるで秋の味覚の最も良い部分だけを、そのまま液体に閉じ込めたかのような力強さがあった。
表面の泡が解けるたびに、トリュフの香りが重層的に広がっていく。
この徹底して磨き上げられた美味を前に、俺の思考は心地よく麻痺し始めていた。
「茸は森の恵みなんて言うが。エルフは森に住んでいるだけあって、やはり茸が好きなのか?」
ふとした疑問を投げかけると、レナンセムは優雅にスプーンを置き、口元をナプキンで抑えた。
「そうだね。トリュフやマツタケ、それにポルチーニといった芳醇な種は好ましく思うかな」
「見事に高級食材ばかりだな」
「ふふ、これらは森が数十年、あるいは数百年をかけて育む『香りの記憶』だからね。それを解するだけの感性を持ち合わせているのは、長命種として最低限の嗜みだよ」
森の住人だからといって、その辺に生えている雑多な茸で満足するわけではないらしい。
彼女の徹底した選別眼――というか、その傲慢とも言える味覚の由来に、俺は苦笑交じりに納得するしかなかった。
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卓上の景色が、一転して白に染まる。
目の前に置かれたのは、しっとりと潤いを湛えた真鯛の蒸し焼きだった。
『真鯛のヴァプール、白トリュフのソース』。
意外だったのは、魚料理の定番である『皮目をパリッと焼き上げた香ばしさ』がどこにもないことだ。
ただ瑞々しく真っ白に仕上げられたその身に、淡いクリーム色のソースが添えられている。
その上を覆っているのは、先ほどまでとは違う、白磁のような色調のトリュフだった。
白トリュフ。
黒トリュフ以上の希少価値を持ち、その香りはより繊細で、より気高いとされている。
「白トリュフを、これほど贅沢に。あえて『焼き』の工程を省いたのは、この繊細な芳香を一切遮らないための判断だろうね。素材の主張を抑え、香りの伝達を最優先する。徹底した最適化だよ」
レナンセムは、まるで宝石の鑑定でもするかのような鋭い視線を皿に向けている。
「なるほど。焼き色の香ばしささえ、白トリュフの前では『雑音』に過ぎないということか」
俺は、魚料理としての王道をあえて捨てた、料理人の冷徹なまでの判断に舌を巻いた。
目的を達成するために、あえて手数を絞り最高の結果を導き出す。
そのストイックなまでの姿勢は、どこか俺が理想とする仕事の進め方にも通じる美学を感じさせた。
「ふわふわー……美味しいですねー」
隣ではルティアが、実に満足そうな顔をしていた。
その幸福感に誘われるように、俺も真っ白な身を切り分け、白トリュフのソースと共に鯛を口に入れる。
これは驚いた。
噛む必要がないほど柔らかな身がソースと溶け合い、白トリュフの気高い香りが一点の曇りもなく喉の奥へと運ばれていく。
香りを食べるための料理。その贅沢な矛盾を完璧な正解として提示され、俺はもはや、心地よい敗北感を抱き始めていた。
「溜息が出るな。これほど美味いものを立て続けに食わされると、明日からの食事が味気なくならないか心配になってきた」
俺が呟くと、レナンセムはワインを口に含み、愉しげに目を細めた。
「ふふ、知覚の昇華かな。一度高い視座を得てしまえば、もはや二度と低地には戻れない。それは美食も同じで、君の感覚は今この瞬間も塗り替えられているのかもしれないね」
彼女の不敵な予言に、俺は少しだけ背筋が寒くなる。
贅沢という名の『毒』に、じわじわと侵されているような感覚だ。
「私は明日になっても、何でも美味しく食べられますよ」
ルティアは、確信に満ちた笑顔で言い切った。
「もちろん、このお料理はびっくりするくらい美味しいです。でも、みなさんで食べるお食事なら、私はいつでも『美味しい』って言えると思いますっ」
あまりに迷いのない、その言葉。
その通りだ。何を食べたのかと同じくらい、誰と、どう食べたのかが重要なのだ。
「そうだな。俺の心配もただの取り越し苦労ってわけだ」
「そもそも、たった一度の経験で価値観が根底から覆るようなことはないよ。もっとも、この界隈に日参するような富裕層なら話は別だろうけどね」
レナンセムの追撃に「そいつは御免だな」と苦笑いで返した。
どれほど贅沢な経験を積み上げても、ルティアのような『芯』があれば元の場所に戻れなくなることなんてない。
俺は彼女の頼もしい言葉を頼りに、この場に漂う気高い芳香を、心ゆくまで楽しむことに決めた。
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給仕の纏う空気が、一段と厳粛なものに変わる。
恭しくテーブルに置かれたのは、このコースの最高潮を飾る一皿だった。
『熟成霜降り肉のロースト、黒トリュフのペリグーソース』。
厚切りにされた熟成肉。その断面は、完璧な火入れによって艶やかなルビー色に輝いている。
上から注がれているのは、細かく刻んだ黒トリュフを贅沢に使った、漆黒のペリグーソース。
さらにその上から、追い打ちをかけるように大粒のトリュフがスライスされていた。
肉の焼ける脂の匂いと、黒トリュフの土着的な香りが混ざり合い、逃げ場のない密度で嗅覚を支配してくる。
「ついに真打の登場だね。繊細な『引き算』や洗練された『最適化』を経て、最後に待ち構えているのがこの圧倒的な生命の熱量と相乗効果というわけだ。高温による火の洗礼と、熟成によって極限まで引き出された滋味の原質。そこに黒トリュフの重層的な芳香を叩き込む。これはもはや、美食という名の『感覚の極み』だよ」
レナンセムは、満足げにナイフとフォークを手に取った。
要するに『これまでの料理は、この一撃で脳を揺らすための前振りに過ぎなかった』ということだ。
ナイフを入れると驚くほど抵抗なく刃が通り、肉の繊維が解けていく。
一切れを口に運んだ瞬間、脳が情報の処理を拒否したくなるほどの旨味が爆発した。
濃厚なソースが肉の甘みを引き出し、噛みしめるたびにトリュフの香りが鼻を突き抜ける。
複雑な技巧も、高尚な理屈も、この圧倒的な『正解』の前では瑣末なことに思えてくる。
ただひたすらに、美味い。その事実だけが、胃の腑から全身へと染み渡っていった。
「んふっ……お肉が、溶けますっ」
ルティアは目を丸くし、頬を赤らめながらその『味の暴力』に翻弄されていた。これまでの料理を「美味しい」と喜んでいた彼女でさえ、このメインディッシュの凄味には言葉を失い、ただ幸せそうに咀嚼を繰り返している。
「どうだい。トリュフが導き出した、肉という素材の『最終形態』は」
レナンセムが、試すような、それでいてどこか誇らしげな視線を向けてくる。
俺は溢れ出しそうな多幸感を飲み込み、短く答えた。
「言葉にするのが野暮に思えるな。この一皿を完食することだけに集中させてくれ」
俺はもう一度ナイフを動かす。
この贅沢な正解を前に、余計な思考を巡らせる必要などどこにもなかった。
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最後の一片を惜しむように飲み込み、俺は重厚な余韻を反芻しながら息をついた。
皿の上にはもう、漆黒のソースの跡しか残っていない。
「トリュフは五感を刺激すると言うが、充分すぎるほど堪能させてもらったな」
「うん。五感のすべてが収束した今、君はもう『支払いの恐怖』なんて忘れているはずだよ」
レナンセムは、俺の顔を見て勝ち誇ったように微笑む。
「いや。おかげで思い出したよ」
事前に予約を確認し、その目もくらむような金額は頭に入っていたはずだった。
だが、実際にこの『料理たちの執念の結晶』を胃に収めた後では、その数字が持つ生々しい重みが違って感じられる。
あの支払額は『知覚の蹂躙』に対する正当な対価だったわけだ。
「予約した時に見た数字が、今ようやく実感を伴って俺の懐を刺しにきたところだ」
「ふふ、野暮だね。今はただ、次に運ばれてくる『余韻の整理』を待つといい」
俺の至極真っ当な反応に、レナンセムは可笑しそうに肩を揺らした。
隣では、ルティアがまだ多幸感の中にいるのか、とろんとした目で空になった皿を見つめている。
彼女の無垢な満足感だけが、この高価な食卓における唯一の、そして最大の救いだった。
「ルティア。君には物足りなかったかな?」
「えっ、いえ、そんな……とても美味しかったですよ」
「いや、質の話ではなく、量の話だね。こういう場所は一皿の分量をあえて少なく設定しているんだ。一品の純度を極限まで高め、その微細な変化を多くの皿に渡って楽しませるのが調理師の流儀なのさ。いつものルティアの健やかな食欲から考えると、足りているか気になったんだよ」
レナンセムの言葉に、俺も頷いた。
「ああ、そういえばいつもは一番食べてるか」
「えっと、カツラギさん?」
「ルティアが俺を見てくれてるように、俺もルティアのことはよく見ているつもりだからな。いつもどれぐらい食べてるかも、ちゃんと把握して――」
「そんなところは見なくていいですよっ!」
ルティアは見る間に顔を真っ赤に染め、両手を振って抗議の姿勢を見せた。
「私も、ちゃーんとお腹いっぱいですっ!」
彼女は必死に満足感をアピールする。
その懸命な様子に、俺は思わず口元を緩めた。
「はは、ごめんよ。少し冗談が過ぎたな」
俺が謝罪を口にすると、それを見ていたレナンセムが堪えきれないといった風に吹き出した。
その様子につられ、俺も思わず頬を緩めてしまう。
最後にはルティアも、顔を赤くしたまま一緒になって笑った。
焼き色の香ばしささえ『雑音』として排されたこのストイックな空間で、俺たちのとり留めのない笑い声が、何よりも調和しているように聞こえたのは皮肉なものだ。
美食という名の洗練された毒を浴び、理性を麻痺させられ、最後にはこうして毒気を抜かれる。
徹底した最適化が導き出した答えがこの『安らぎ』なのだとしたら、俺はもう全面的に降伏するしかなさそうだった。




