第53話:実地調査の強行、剣も魔法も使わない(後編)
その刹那。
視界の端で、巨岩のような影が掻き消えた。
ブルークだ。
身長190センチを超える巨躯。ベストのボタンを弾き飛ばさんばかりに膨れ上がった胸板と、丸太のような腕。
そんな筋肉の要塞が、床を蹴った瞬間、俺の動体視力は完全に置いてきぼりを食らった。
重力という物理法則の首輪を外したような加速。
俺の目には、翻るコートの残像しか追えなかった。
鼓膜を裂くような硬質な金属音が、部屋の空気を震わせた。
散った火花が残像となり、そのちらつきの中でようやく状況が脳に届く。
目前まで迫ったブルークに対し、仮面の女剣士が抜刀で応じていたのだ。
あの質量を一瞬で運んだブルークも異常だが、それに反応した彼女も人間業ではない。
ブルークが握るステッキ――その柄が引き抜かれ、鞘となっていた棒身から鋭利な輝きが露出していた。
仕込み杖だ。
執事のような礼装に隠された、暗殺者の凶器。
その重たい刺突を、女剣士は刀の腹で受け止めている。
体重差は倍以上あるはずだ。
ブルークの太い首から肩にかけての盛り上がりは、服の上からでも分かるほど凄まじい。
対して、女剣士の腕は細身だが、無駄がなく筋がしなやかに張っている。
太さでは比べものにならないのに、脆さは一切ない。
彼女は微動だにしない。まるで地面に根が生えているかのような安定感。
柔よく剛を制す、というやつだろうか。素人の俺には、物理法則がバグを起こしているようにしか見えない。
拮抗は一瞬。
ブルークが刃を引かせると、女剣士の手首が返り、銀色の軌跡がブルークの巨体を薙ぎ払った。
横薙ぎの一閃。
まともに食らえば、あの分厚い筋肉の鎧ごと胴体が両断されてもおかしくない――そう直感させるほどの、鋭い一撃だ。
だが、ブルークは引かなかった。
仕込み杖の柄を巧みに操り、迫りくる刃を『弾いた』のだ。
まともに受け止めるのではなく、切っ先を滑らせるようにして軌道を逸らす。
受け流された反動で、女剣士の体勢がわずかに揺らぐのが見えた。
隙だ。
素人の俺ですら認識できるほどの、致命的な硬直。
ブルークが踏み込み、刺突を放とうとした、その瞬間だった。
突然、女剣士の周囲の何もない空間が、鋭く鳴いた。
風を切るなどという生易しい音ではない。
空気が悲鳴を上げるような、高周波の風切り音が三度、立て続けに鼓膜を叩く。
呼応して、ブルークの細剣が虚空を三度、斬り払った。
何もない空間で火花が散り、何かを叩き落とす硬い音がした。
不可視の刃。
それが三連撃となって襲いかかったのだと、遅れて理解が追いつく。
魔法か、鎌鼬か。理屈は分からないが、そこには純粋な殺意の塊だけがあった。
ブルークは下がりながら防御に徹し、攻めの手を止めた。
その間に、女剣士は体勢を立て直す。
だが、この場にいるのは剣士たちだけではない。
「穿て」
無機質で冷徹な少女の声が響いた。
フラッフルだ。
彼女が杖を向けた床から、空気がビリビリと震えるのを感じた。
女剣士の足元の床板が、一気に爆ぜた。
飛び出したのは、槍のように鋭く尖った『樹木』だった。
植物の魔法。
だが、それはのどかな自然の恵みなどではない。
生物を串刺しにするためだけに形を与えられた、巨大な『剣山』だ。
ぐちり、と肉を貫く音がした。
咄嗟に回避行動を取ろうとした女剣士の左脚――そのふくらはぎを、切っ先を天に向けた樹木の一本が、深々と貫通していた。
鮮血が飛散し、床を汚す。
だが、女剣士は悲鳴一つ上げない。
ただ一瞬、身体を強張らせて動きを止めただけだ。
そのタフネスに戦慄する暇もなく、フラッフルが杖を振るう。
「凍れ」
彼女が短く告げた瞬間、貫通した樹木が白く染まった。
傷口から溢れ出る血液ごと、一瞬にして凍りつく。
樹木は氷の楔へと変貌し、女剣士の脚を床に縫い付けた。
物理的な串刺しと、傷口からの凍結。
二重の苦痛を与えつつ、確実に敵の機動力を奪う。
幼い容姿に似合わぬ、熟練した処刑人のごとき手際だ。
凍り付いた自身の左脚を見下ろし、女剣士は動じない。
ただ無言のまま、刀を持たない左手で、奇妙な形を作った。
中指と薬指を親指に合わせ、人差し指と小指を立てる。
影絵の『狐』だ。
この世界にも、そのハンドサインがあるのか。
その瞬間、物理法則が悲鳴を上げた。
女剣士の脚が、燃え上がったのだ。
それは赤い炎ではなく、青みを帯びた炎だった。
燃焼なのか、魔法的な分解なのか、俺には分からない。
だが、女剣士の脚に纏わりつく氷と樹木が、蒼い炎に包まれて消えていく。
拘束が解けた女剣士は、一言も発することなく、滑るように後退して大きく距離を取った。
その背中は、ウルバノが消えた奥の扉へと吸い込まれていく。
逃げたか。
そう思った瞬間、前線のブルークが動いた。
だが、追撃ではない。
彼はフラッフルの小さな体をひっ掴むと、その巨体を軽々と操り、凄まじい勢いで『後ろへ』跳んだのだ。
「ユメリ!」
ブルークの叫び声。
彼は一足飛びに距離を稼ぎ、俺たちの元へと着地した。
呼応するように、前に立っていたユメリが、さらに前へと躍り出た。
紺碧の甲冑を纏ったその背中が、俺たちを完全に庇う位置に入る。
彼女が左腕を前に突き出す。
そこに握られているのは、小さな盾――バックラーだった。
防御面積は極小。物理的な壁としては心許ない。
だが、彼女の構えに迷いはなかった。
何が来る?
俺の目が、奥の暗闇から飛来する『それ』を捉えた。
『鳥』だ。
白い、小さな鳥。
だが、生き物ではない。
それは紙で折られた、折り鶴のような形状をしていた。
ひらひらと、頼りなげに飛んでくる紙の鳥。
子供の遊びのようなそれが、なぜこれほどまでの脅威として認識されるのか。
俺の思考が疑問符を浮かべるより早く、ユメリの盾が輝いた。
彼女のバックラーから黄金色の何かが溢れ出す。
それは瞬時に半透明のドームとなり、俺たち全員を完全に包み込んだ。
小さい盾は、物理的な壁ではなく、魔力障壁の『核』だったのだ。
直後。
紙の鳥が、部屋の中央で膨れ上がった。
強烈な閃光と共に、圧縮された空気が炸裂する。
紙の鳥が弾け飛び、その内側に封じ込められていた暴風が解き放たれたのだ。
それは単なる風ではない。
触れるもの全てを無慈悲に切り刻む、真空の竜巻だ。
空間そのものを削り取るかのような破壊の嵐が、一瞬にして室内を蹂躙する。
ドームの表面を、無数の斬撃で叩く音が響く。
まるで巨大な爪で引っ掻かれているようだ。
視界の端で、観葉植物が微塵に裂かれ、絵画が細片となり、受付カウンターが削り取られていくのが見えた。
石造りの壁に、深々と爪痕が刻まれていく。
これが、紙一枚の威力だと?
式神。呪符。
呼び名は何でもいいが、現代兵器で言えばクラスター爆弾を彷彿とさせる殺傷力だ。
嵐は、数秒で去った。
あとに残されたのは、廃墟のように荒れ果てたロビーと、無傷のドームの中にいる俺たちだけ。
静寂の中、切り裂かれた鳥の残骸――無数の白い紙片だけが、終わった雪のように静かに舞い落ちていた。
だが、それは平和な静けさではない。
死神が通り過ぎた後の、冷たい沈黙だ。
「……ふぅ。お怪我はありませんか?」
ユメリがバックラーを下ろし、緊張を解いた。
彼女の判断が少しでも遅れていれば、俺たちは挽肉になっていただろう。
「あ、ああ……なンとかな。ありがとよ」
ガンドが青ざめた顔で頷く。
俺は自身の体を確認し、服の裾すら切れていないことに安堵の息を吐いた。
「フラッフルの感知通り、奥にもう一人いましたね。警戒しておいて良かったです」
「獣人は本気でやる気はなかったみたいだけど、最後のは不思議な魔法だったの」
「あの一羽で、景色が削り取られました。相当の使い手ですね」
「そうだね。ワタシの方がすごいけど」
これが、この世界の『達人たちの戦い』か。
俺が使える『魔力干渉』――相手の魔力に介入し、制御する技術。
そんな小細工を挟む余地など、微塵もなかった。
見てから反応するのでは遅すぎる。
予備動作なしの斬撃、高速の詠唱、そして初見殺しのギミック。
殺すか、殺されるか。
そこにプロセスを楽しむ余裕などない。
あるのは結果だけだ。
床に散らばった紙片――かつて鳥の形をしていた残骸を見下ろしながら、俺は改めて認識する。
ここは異世界だ。
法も倫理も、圧倒的な暴力の前では紙切れ同然に無力化される、野蛮で残酷な世界。
そして同時に、完全に理解した。
俺の戦場は、ここではない。
あんな化け物たちと正面から殴り合えば、俺は1秒で死ぬ。
ならば、俺は何をするべきか。
俺の武器は、剣でも魔法でもない。
社畜時代に培った『仕組み化』『段取り』『改善』――『業務改革』のノウハウだ。
彼らが血を流して道を切り開くなら、俺はその道の先にある『勝利条件』を確定させなければならない。
俺は、微かに震える手を握りしめ、荒れ果てたロビーの奥を見据えた。
恐怖はある。
だが、ここで足を止めるわけにはいかない。
この残業を、終わらせる。
仕事を終わらせて家に帰るためには、この理不尽なデスマーチを乗り越えるしかないのだからな。




