第52話:実地調査の強行、剣も魔法も使わない(前編)
夜の帳が下りた第8区、物流街。
石畳を叩く馬の蹄音が止み、俺たちはその入り口にある停留所で馬車を降りた。
冷たい夜風が吹き抜ける大通りを、ブルークを先頭に無言で歩く。
周囲には似たような倉庫や事務所が並んでいるが、人気はない。
夜の物流街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、積み上げられた樽や木箱が墓標のように並んでいるだけだ。
街灯の明かりすら届かない通りの奥に、赤黒い巨大な建物が鎮座していた。
ノウス商会。
窓が極端に少なく、壁面は堅牢な赤レンガで覆われている。
それは商いの場というよりは、何かを隠匿するための要塞、あるいは監獄を連想させた。
重厚な鉄扉の脇には、申し訳程度に来客用の小さな入口が口を開けている。
地面には、重荷に耐えかねた荷馬車の轍が深く刻まれていた。
昼夜を問わず、ここから大量の『何か』が運び出され、そして運び込まれていた痕跡だ。
その場所は、第8支部の倉庫から徒歩でわずか5分。
俺たちの足元を掬おうとしていた『毒』の発生源は、皮肉にも『すぐ近く』にあった。
現代日本で言えば、本社の裏口の向かいに、横領のためのペーパーカンパニーが堂々と看板を掲げているようなものである。
「近っ。目と鼻の先ってやつ?」
「瞳に近いものほど、かえって視界には映らないものですが……大胆ですね」
フラッフルとユメリも同じ感想のようだ。
これは、灯台下暗しという言葉ですら生温い寄生行為だな。
「フラッフル。内部の魔力感知をお願いします」
「向こうにもバレちゃうけど、大丈夫?」
「ええ、構いません」
ブルークが頷くと、フラッフルは杖を握り直し、静かに瞼を閉じた。
普段の能天気な雰囲気とは違う、張り詰めた空気が彼女の周りに漂う。
「んー、小さいのが3つ。でもこの感じ、抑え込んでるの」
この世界の人間は、多かれ少なかれ魔力を有している。
フラッフルのような実力のある魔導師だと、その魔力をビーコンのように感知できるらしい。
それは暗闇でライトを照らすようなもので、こちらが見たということはバレてしまうようだが。
反応が『小さい』ということは、本当に弱いか、巨大な力を技術で隠蔽しているかの二択になるだろう。
この要塞に、ただの弱者がいるとは思えない。
「参りましょう」
ブルークが短く告げ、社屋へ向かって歩き出す。
俺たちもそれに続いた。
近づくにつれ、建物から漂う異質な気配が肌を刺す。
人の営みを感じさせない、無機質な静寂だ。
俺たちは正面入口へと足を踏み入れた。
その後ろにフラッフル。ユメリは俺とガンドを背に庇うように位置取り、油断なく周囲を警戒している。
護衛対象である俺たちは、ただ守られるだけの荷物ではないが、戦闘になれば足手まといだ。
己の役割を弁え、呼吸を殺して続く。
ブルークが扉を押し開けると、来客を告げる鐘が乾いた音色を奏でた。
一歩足を踏み入れた先。
そこには、奇妙なほど清潔な空間が広がっていた。
磨き上げられた床。木目が美しい受付カウンター。
壁には高価そうな絵画が飾られ、観葉植物が青々と葉を茂らせている。
ギルドの受付を模したような、あるいは銀行のロビーのような、信頼と誠実さを演出する空間。
だが、そこには決定的に何かが欠けていた。
夜間だから無人なのは分かる。しかし、それにしても生活感がなさすぎる。
カウンターの奥には書類の一枚も見当たらない。
棚には台帳の一冊もなく、インクすら置かれていない。
整理整頓されているというよりは、撤収作業を終えた後のオフィスのようだ。
重要書類、帳簿、金目のもの。
それらが既に持ち出された後の、『もぬけの殻』。
やはり、彼らは逃げる準備を整えている。ここはもう、ただの張りぼてだ。
舞台セットのような空虚さが、俺の神経を逆撫でする。
唐突に、奥の重厚な扉が開かれた。
「いらっしゃいませぇ……と言いたいところですがぁ、少々時間が悪いですねぇ」
現れたのは、男女2人。
一人は、恰幅の良い男だった。
上質な生地で仕立てられた衣服は、彼の膨らんだ腹を包み込むのに苦労しているように見える。
油で撫でつけたような髪、細められた目。
いかにも『悪徳商人です』と顔に書いてあるような、絵に描いたような外見。
俺は生理的な嫌悪感とともに、奇妙な違和感を覚えた。
作り物めいているのだ。
表情筋の動きが大げさで、まるで三流芝居の舞台役者が、道化を演じているかのような不自然さ。
だが、その細められた眼光だけは笑っていなかった。
そして、もう一人。
男の斜め後ろに控える人影に、俺の視線は吸い寄せられた。
獣人だ。
頭頂部には銀色の狐耳。背後には、ゆらりと揺れる豊かな尻尾。
同じ色をした髪は肩まで届く長さで、その毛先は刃物のように鋭く外側へと広がっている。
フォックス族と呼ばれる種族だろうか。
顔は、目の穴が二つあるだけの白い無地の仮面に覆われていて、表情を窺い知ることはできない。
だが、何よりも異質なのは、彼女が纏っている衣装だった。
着物――いや、丈の短い浴衣のような意匠だ。
藍色を基調とした生地に、金糸で植物の紋様が刺繍されている。
太ももが露わになるほど大胆に切り詰められた裾からは、しなやかで強靭な筋肉を宿した脚が伸びていた。
帯には長細い刀剣が差されている。反りのある片刃の剣。刀だ。
この世界に来て初めて見る『和』の装い。
日本のような文化圏がこの世界のどこかに存在するのか、それとも彼女が特殊な出自を持つのか。
豊満な胸元と、細身だが獣人特有の筋肉質な四肢。
扇情的にすら見えるその姿だが、俺の危機管理能力は、彼女を『女』ではなく『凶器』として認識していた。
ブルークが片手を上げ、俺たちの歩みを制した。
まだ相手とは10メートル以上の距離がある。室内での会話としては遠すぎる距離だ。
だが、ブルークの背中からは、強烈な警戒心が立ち昇っていた。
「……決して、これ以上近づいてはなりません」
「カッチーさん、ガンドさん。私の後ろから一歩も出ないでください」
ユメリが小声で告げる。
彼女の左手は、すでに小盾を構えていた。
あの仮面の女剣士。
ただ立っているだけで、達人たちがこれほど警戒する。
抜けば、この距離など一瞬でゼロにされるということか。
それに、魔力を感知したフラッフルは『小さいのが3つ』と言っていた。
奥にまだ、強者が隠れている可能性は高い。
「これはこれはぁ。第8支部のギルド長様、自らお出ましというわけですかぁ」
商人の男が、芝居がかった仕草で両手を広げた。
その声には驚きの色はなく、むしろ待ち構えていたような余裕すら滲んでいる。
語尾を不快に伸ばす喋り方。人を食ったような態度。
それらすべてが、相手の神経を逆撫でするための演技に見える。
「貴方が、この商会の代表。ウルバノですね?」
ブルークが静かに問う。
男――ウルバノは、口元の肉を歪めて笑った。
「そうですねぇ。今は、そう名乗っていましたねぇ」
今は、そう名乗っていた。
その言い回しだけで、彼にとって名前など商売のためのラベルに過ぎないことが分かる。
詐欺師特有の、実体のなさだ。
「単刀直入に伺いましょう。『ファスト防具』。あれは貴方が主導したものですね?」
「ええ、我が商会の主力商品ですともぉ。安くて早い、庶民の味方ですよねぇ」
「その中身が、廃棄寸前の不良品であってもですか?」
ブルークの非難に対し、ウルバノは大げさに両手で頭を抱えて天を仰いで見せた。
「なんてことだ」とでも言いたげな、古典喜劇のような嘆きのポーズ。
もちろん、微塵も困ってなどいないだろう。
腕の隙間から覗く瞳は、爬虫類のように冷たく、感情のない光で俺たちを観察している。
やはり、こいつは舞台上の道化だ。困惑も、反省も、すべてが台本通りの安っぽい演技に見える。
「それについては、誤解しないでいただきたいですねぇ。あれは『想定外』だったのですよぉ」
ウルバノは、わざとらしく溜息をついた。
「私はねぇ、ビジネスをしていたのですよぉ。あなた方の倉庫からぁ、まだ使える素材を安く仕入れぇ、リペアして市場に流す。ウィンウィンの関係ですよねぇ? それを、現場のゴミどもがねぇ」
仰々しく手を広げながら続ける。
「数が足りないからといって、本物のゴミを混ぜるとはねぇ。ゴミがゴミを……ククク。おかげで計画が台無しですよぉ。不良品を流通させて評判を落とすなんて、商売人としては三流のやることですからねぇ」
俺の推測は外れてはいなかった。
目的は分からないが、商会側としても、あくまで『バレないギリギリの詐欺』を続けるつもりだったらしい。
それが、チェックリストの導入と現場の暴走によって、『バレる詐欺』に変質してしまった。
彼にとっての誤算は、倫理的な問題ではなく、ビジネスモデルの崩壊にあるわけだ。
「意図したものではなかった、そう仰るのですか」
「ええ、全くもってその通りですねぇ。私は持続可能な利益を求めていたのですよぉ。粗悪品で一度きりの小銭を稼ぐようなやり方は、私の美学に反しますからねぇ――」
そこで不意に、ウルバノの言葉が途切れた。
彼は視線を落とし、ぼそりと独り言のように呟いた。
「――美学。ククク、美学か。そうだ、美学ってことで頼むよ」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
今の一瞬。
彼の纏っていた『道化の商人』という皮が剥がれ、その下にある空虚な素顔が覗いた気がした。
美学などという高尚な信念があるわけではない。
彼はただ、その場その場で都合の良い『設定』を口にしているだけだろう。
まるで、即興劇の脚本をその場で書き換えるように。
こいつは、商売人ですらないのかもしれない。
もっと得体の知れない、『虚無的な何か』だ。
「……貴方の美学など関知しません。見るべきは事実のみです」
ブルークが一歩、踏み出す。
それに呼応するように、仮面の女剣士が、帯の刀に親指をかけた。
チャリ、と鍔が鳴る音が、静寂なロビーに不気味に響く。
「意図の有無など、些末なこと。貴方はギルドの廃棄素材を貪り、職員を唆し、あまつさえ粗悪品という『毒』を市場にばら撒いた。これは、断じて許されることではありません」
ブルークの言葉は、宣告だった。
ギルド長としての権限を行使し、この場を制圧するという最後通告。
ウルバノは、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。
そして、口元を大きく歪ませて笑う。
おそろしく不自然な笑い顔に見えた。
まるで、笑い方という概念をマニュアルで学習したかのような、魂のない笑顔。
「そうですねぇ。法に照らせば、私は罪に問われてしまうでしょうねぇ。詐欺、贈賄、横領の教唆。捕まれば、ただでは済みそうにないですねぇ」
彼はゆっくりと後退し、女剣士の後ろへと姿を隠した。
「しかし、それは困りますよぉ。私はまだ、やりたいことが沢山あるのでねぇ」
それが、交渉決裂の合図だった。
ウルバノの姿が闇に溶けるのと入れ替わりに、仮面の女剣士が動いた。
トン、と。
静かに、一歩だけ前に出る。
ただそれだけの動作。
だが、その一歩が、場の空気を凍らせた。
距離は詰まっていないのに、喉元に切っ先を当てられたような圧だけが、先に触れてくる。
ブルークがステッキを左腰に引き寄せ、柄に手を掛けた。
それに呼応して、フラッフルが杖を前に構える。
脳内で、危険を告げるアラートだけが先に鳴った。




