第38話:定期考課、星空の下で残業はしない
天頂から見下ろせば、地上は黒い海だ。
ビロードのように光を吸い込んでいる。
そこに散らばる命の灯火は、さながら星の投影に等しい。
強く瞬くもの、静かに燃えるもの、不規則に明滅するもの。
それらは互いに引力を持って引き合い、軌道を描き、時に衝突し、やがて離れていく。
第9区、山岳地帯。
深い森の海に停泊する、堅牢な石造りの箱舟――ギルド拠点に、いくつかの光が集っていた。
一つは、直進する青白い流星。
迷いなく闇を切り裂く切っ先のような鋭さを持ちながら、その軌道はあまりに真っ直ぐで、不器用なほどに実直だ。
一つは、不安定に膨張と収縮を繰り返す赤色巨星。
内包するエネルギーは計り知れないが、外殻は未成熟で脆い。爆発の危険を孕みながらも、そのコアには無垢な輝きが宿っている。
一つは、軽やかに周囲を周回する衛星。
おどけた軌道で本質をはぐらかすが、その光は主星を守る盾のように強固で、抜け目がない。
そして――外気で冷やされた夜のテラスには、二つの光が並んでいた。
一つは、地上を優しく照らす月光のような輝き。
決して目を焼くことはないが、闇夜にあって道を示す、清廉で柔らかな光。
もう一つは――光を持たない、暗黒の星。
あるいは、星々の間を埋める虚空そのものか。
自らは輝かず、熱も発さず。しかし、その重力だけで周囲の軌道をわずかに歪め、干渉し、あるべき場所へと星々を導く、異質な観測者。
光なき星と、月のような星。
二つの影が、満天の星空の下で静かに言葉を交わしていた。
「……明日はもう、出発ですね」
夜風に揺れるアッシュグレイの髪を押さえながら、ルティアが言った。
彼女の視線は、頭上に広がる星の海に向けられている。
「ああ。長いようで、あっという間だったな」
石の手すりに寄りかかったカツラギが、白い息を吐き出す。
その横顔は、穏やかだった。
「どうだ、楽しめたか?」
「はい。とても」
ルティアは深く頷いた。
「美味しいものを食べて、温泉に入って、皆さんとお話をして……。こんなにゆったりとした時間を過ごしたのは、久しぶりかもしれません」
「ああ。いいプレゼントをもらったな」
カツラギは短く笑い、夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「カツラギさん」
「うん?」
「カツラギさんは……どうでしたか?」
ルティアが、少しだけ体を向けて彼を見上げる。
その瞳には、頭上の星空よりも確かな信頼の光が宿っていた。
「自分のことではなく、フラッフルさんのことや、私のことばかり気にかけていましたよね。……ちゃんと、休まりましたか?」
問いかけられた男は、きょとんとした顔をして、それから夜空を見上げた。
「……そうだな。正直に言えば、仕事をしている時の方が落ち着く性分なのかもしれん。でも、悪くない休暇だったよ。予想外の対応も含めてな」
彼は言う。
規格外の力を持つ者たちが、不器用に悩み、足掻いている姿を見た。
その軌道修正に手を貸すことは、彼にとって決して苦痛な労働ではなかったのだ。
星は、自らの光だけでは輝きすぎる。
熱を持ちすぎれば焼き尽くし、速すぎれば軌道を外れる。
だからこそ、それを受け止め、整え、あるべき位置に留めるための『重力』が必要になる。
彼は自分が輝く星ではないことを知っている。
だが、星々が美しく輝くための『夜空』であることに、やり甲斐を持っているようだった。
「それに、ちゃんと休まないと、また怒られてしまうからな」
カツラギが苦笑交じりにこぼす。
かつて働きすぎを咎められ、強制的に休暇を取らされた苦い記憶がよぎったのだろう。
「そうですね。……無理をしたら、すぐに分かりますよ」
ルティアは悪戯っぽく、けれど真剣な瞳で彼を見つめた。
「私は、ちゃんと見ていますから」
月が微笑み、闇がそれを受け止める。
互いに異なる性質を持ちながら、二つの影は心地よい距離感を保っていた。
……いや、その距離が、不意に揺らぐ。
ふと、夜風が止んだ。
ルティアが、そっと手すりから体を離し、半歩だけ彼に近づいた気がした。
重力が、作用したのか。
互いの引力に導かれるように、二つの影がわずかに重なり合おうとする。
言葉以上の信頼で結ばれた静謐な時間は、今、それ以上の熱を帯びようとしていた。
だが――星の巡り合わせとは、常に予測不能なものだ。
「二人で何してるのー? ワタシも混ぜてー!」
静寂を引き裂く叫びと共に、飛び込んできたのは、小さな赤色巨星だ。
フラッフルは満面の笑みで、カツラギの腹部めがけて頭から突っ込んだ。
それは無邪気な抱擁に見えた。少なくとも、傍目には。
「ぐ、ふっ……!?」
鈍い音が響き、カツラギの身体がくの字に折れた。
肺の中の空気が一瞬で強制排出され、視界が白む。
子供の体当たりではない。小柄な砲弾による特攻を受けたような衝撃だった。
「カ、カツラギさん!?」
崩れ落ちるカツラギを見て、ルティアが悲鳴を上げる。
膝をついたカツラギの視界に、自分を見下ろす少女の顔が映った。
「ごめーん、オジサン大丈夫ぅ?」
声色は、心配する子供のそれだった。
だが、月明かりに照らされたその口元だけが、三日月のように愉悦に歪んでいた。
「こ、この……魔女ガキ……」
呻くようなカツラギの声を、再び吹き始めた夜風がかき消していった。
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「……行っちゃったねえ、フラッフル」
「そうだね……」
その様子を、少し離れた室内の窓辺から眺める影があった。
青白い流星と、気ままな衛星。エリンとアトナだ。
二人は手に、湯上がりの果実水を携えている。
「いい雰囲気だったのにー、空気読まないねえ」
「空気を読んだからこそ、じゃないかな。フラッフルなりの照れ隠しだよ」
「そうかなあ、邪魔したかっただけじゃないー?」
アトナはケラケラと笑い、窓の外で繰り広げられるドタバタ劇を楽しげに見つめた。
テラスでは、心配するルティアと、無邪気を装うフラッフル、そして腹を押さえて立ち上がろうとするカツラギの姿がある。
「フラッフルの説明が目的だったけど……予定外の収穫があったね」
「そだねい、あの子の魔法制御が良くなりそうだなんて、思ってもいなかったよー」
夜の闇に浮かぶ三つの影は、騒がしくも温かい。
それを見つめるエリンが、ぽつりと呟いた。
「カツラギさん……あの方は、他の大人の男たちとは違うね」
「……そう、だねー。なんだか出来る大人って感じはするねえ」
アトナもまた、同意した。
その評価は、単なる好意以上の意味を含んでいた。
これまでの冒険で出会ってきた大人たちとは違う。彼女たちの規格外な『質量』を預けても壊れない、稀有な『管理者』への信頼。
それは、迷える星々が初めて見つけた、確かな軌道のようなものかもしれない。
「フラッフルのためにも、第9支部……カツラギさんとは関わりやすいようにした方がいいかもしれないね」
「……んー、それは、そうかもねえ」
アトナは曖昧に頷き、視線を夜の森へと彷徨わせた。
「さすがに拠点を移すのは難しいかな」
「9区に? それはユメリの都合もあるし、ウチも……すぐには無理かな」
果実水のグラスを軽く揺らし、小さくため息をつく。
「それに、ウチらってもうAランクなんだし、ぼちぼち本部クラスのクエスト受けないといけないっしょ」
「ああ、そうだった……面倒だね」
本部や第2支部では、王族や貴族からの依頼が中心となり、必然的に高ランクのパーティが指名されることになる。
「まあ、嫌だったらウチとユメリで相手するからさー」
「……大丈夫、私が……リーダーだから」
エリンは静かに、しかし力強く言った。
不器用な流星は、自らの軌道を曲げないまま、仲間を守るための盾になる覚悟を決めている。
光なき暗黒星の周囲には、いつしか多くの星の引力が働き始めていた。
月のような癒やしの光。
規格外の三連星。
そして、昨夜の湯船で出会った古き巨星。
それらは互いに影響し合い、新たな軌道を描き始めている。
運命の歯車は、隣接する第8支部をも巻き込んで、大きく回り出そうとしていた。
天頂の星々は、何も語らない。
ただ、地上に生きる小さな命たちの営みを、静かに瞬きながら見守り続けているだけだった。
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第3章 福利厚生編 完




