第35話:深夜の個別面談、提案は静寂の中で
ふと、目が覚めた。
枕元の懐中時計を確認すると、時刻は午前2時を回ったところだった。
夕食で酒が進みすぎたのか、慣れない枕が合わなかったのか。あるいはその両方か。いずれにせよ、無視できない生理現象が主張している。俺は静かにベッドから這い出した。
静まり返った廊下に出る。
足元の板張りが、歩くたびに微かに軋む音を立てた。
窓の外からは、虫の音すら聞こえない。山奥の夜は、都会のそれとは比べ物にならないほど深く、重い静寂に満ちている。
まるで世界そのものがシャットダウンしたような静けさだ。
用を足し、人心地ついた帰り道。
俺は明日の――いや、今日の予定について思考を巡らせた。小旅行だけあって、完全な空き時間だ。
近くに渓流があるらしいから、釣り糸を垂れるのも悪くない。あるいは、ただ木陰で昼寝というのも贅沢な時間の使い方だ。
『何もしない』をする。それもまた、休暇における重要なタスクの一つだからな。
そんなことを考えながらロビーを通りかかると、隅にあるソファに、小さな人影があるのに気づいた。
月明かりを浴びて煌めく、紫色の髪。
フラッフルだ。
膝を抱えて座り込み、愛用の杖をじっと見つめている。視線が刺さるほど固定されていて、目の前の杖以外を世界から切り離しているように見えた。
こんな時間に何をしているんだ?
俺は少し迷ったが、そのまま素通りするのも気が引け、声をかけることにした。
「……こんな時間に、夜更かしか?」
声を落として近づくと、フラッフルは弾かれたように顔を上げた。
「……オジサン」
「カツラギだ」
即座に訂正しつつ、俺は彼女の向かいのソファに腰を下ろした。
フラッフルは簡素なワンピース姿で、トレードマークの帽子も被っていない。彼女の体にはサイズが少し大きすぎるのか、肩口が緩く、裾も足元まで余っている。
無防備なその姿は、昼間の不敵な魔導師というよりは、布に着られている子供、あるいは夜中に目が覚めて心細くなった迷子そのものだ。
彼女は口を開きかけ、何かを言い淀むように視線を彷徨わせた。
何か言いたげだが、言葉が出てこない。そんな顔だ。
「目が覚めてしまってな。……まあ、君が眠れない理由は察しがつくが」
「……んー?」
「昼間、あれだけ俺の背中で爆睡していればな。目が冴えるのも当然だろう」
俺が指摘すると、フラッフルは顔を背けた。
図星だったらしい。昼夜逆転による睡眠サイクルの乱れ。子供にはよくある――と言いたいが、彼女は『中身は18歳』を自称している。自称は自由だが、身体は正直だ。
「ハイキングは楽しかったか?」
「まあ……普段はあまり家から出ないからね」
「魔法の研究か」
「そんなところ」
短いやりとりの隙間に、彼女の日常が透ける。
周りへの影響が大きすぎて、ダンジョンのような隔離環境でないと魔法が使えない。
依頼内容が街中のクエストではこなせそうにないから、基本的に家で過ごしているのだろうか。
理由としては筋が通る。通るが、それはつまり、選択肢が少ないということだ。閉塞は、本人が慣れたふりをしても、積み上がっていく。
「この拠点は蔵書が多いから……退屈はしなさそうなの」
フラッフルは強がるように言ったが、その視線は手元の杖に向けられたままだ。
山奥で読書か。
たまには『思考週間』ならぬ『思考日』も悪くないのかもしれないが、彼女の表情は晴れない。
普段から家に籠もって本ばかり読んでいるのなら、旅先に来てまで活字を追うのは、休暇というより日常の延長でしかないのだろう。
彼女が求めているのは、もっと能動的な変化のはずだ。
一つ、思いついたことがあった。
明日の俺の暇つぶしと、彼女にとっての新鮮な体験。
利害が一致する案件だ。こういう時だけ、人生は合理的になる。
「何か言いたそうな顔してるね」
「……まあな」
俺は居住まいを正した。
「フラッフル、君は魔法については優秀だが、出力の制御ができないという問題がある。これは君も自覚していることだが」
「そうだね」
「それは君が『適正な出力』の感覚を、身体で理解していないから、だったか」
ダンジョンで聞いた内容からすれば、原因はそこにあるはずだ。
理論値は分かっているのに、実測値が伴わない状態。設計書は正しいのに、現物が暴れる。
「……ワタシは少しだけのつもりでも、常に全開になるの。おそらくは成長が早い部分と遅い部分のバランスが悪いから、だと思ってるけど」
彼女は杖の先を指で弾く。軽い音が、静かなロビーに妙に響いた。
「頭では分かってる。でも、溢れちゃうんだよね」
高性能すぎるエンジンに、未熟なボディ。
アンバランスな成長が、制御不全を引き起こしている、という可能性が高いわけか。
制御できない出力など、現場ではリスク要因でしかない。宝の持ち腐れどころか、ただの『歩く労働災害』になってしまうのだ。
「では、身体にその感覚を『強制的に』理解させられれば。どうだ」
「……感覚を、理解させる?」
フラッフルは小首を傾げる。疑いと警戒が混じった顔だ。
健全な反応ではある。夜中にオジサンと認識する相手が近づいてきて『覚えさせる』などと言い出す世界は、だいたい碌でもない。
「そうだ。君ができないなら、俺がやればいい」
俺は自分の左手を、彼女に見えるように掲げた。
「俺の能力の話はしただろう? 魔力の流れを見て、干渉できると」
「うん。エリンの魔力を消しちゃったやつ……でしょ?」
「あれの応用だ。消すんじゃなく、絞るんだ」
俺は握り拳を作り、ゆっくりと開いて見せた。
固着した弁を、慎重に回して開放するイメージだ。
「君はいつも通り、手加減なしで魔法を使っていい。俺が横から干渉して、その出力を強制的に抑え込む。そうすれば、結果として『小さな魔法』が発動することになる」
外部リミッターによる強制制御。
本人の感覚に頼らず、システム側で出力を制限してしまうアプローチだ。
成功体験を無理やり作り出し、そこから逆算して感覚を掴ませる。自転車の補助輪みたいなものだ。格好はつかないが、転ぶよりはいい。
「その時、君の身体には『小さな魔法』を使っている時の魔力の流れ……その『抑えた出力』の感覚が残るはずだ。それを体に覚え込ませるんだ」
言い終えても、フラッフルはすぐに答えなかった。
半信半疑。期待して裏切られるのが怖い時、人は疑いを盾にする。
「……そんなこと、できるの?」
「アトナ相手に試したが、成功した。君の魔法でも通用するかは分からないがな」
あえて突き放すように言ってみた。万能感を与えても、後で折れる。折れると面倒だ。面倒なのは俺も嫌だし、本人はもっと嫌だろう。
フラッフルは、じっと俺の目を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……ふーん。まあ、試してみても、いいかな。どうせ暇だし」
相変わらず素直ではない。だが、こういう言い方をする時ほど、本気だったりするものだ。プライドの逃げ道を作りながら、前へ進む。手慣れた自己防衛だな。
「よし。ではまた明日……いや今日か。エリンのクエストの残りを片付けにダンジョンへ行くだろう? ホールなら、多少派手にやっても誰の迷惑にもならないからな」
俺が言い終えると、彼女は口の端を吊り上げる。
「わかった。じゃあオジサンの暇つぶしに、付き合ってあげるね」
あくまで上から目線だ。
中身は18歳だと言い張るだけあって、プライドの高さだけは一丁前らしい。
「ああ、頼むよ。……じゃあ、ちゃんと寝て起きろよ」
「子供扱いしないでよね」
フラッフルは不満げに言い捨てながら、大事そうに杖を抱えて立ち上がった。
その足取りは、先ほどまでの沈んだものより、幾分か軽くなっているように見える。
本人は年相応の大人として振る舞っているつもりなのだろう。
だが、その言動の節々には隠しきれない子供っぽさが滲み出ていて、虚勢を張れば張るほど、中身の未熟さが浮き彫りになっている。
――それでも。
背伸びをするということは、届きたい場所があるということだ。
そこについては、評価していい。少なくとも、放っておくよりはずっと、な。




