第33話:社外人脈の構築、その対話は想定外
拠点に戻った俺たちは、迷うことなく浴場へと直行した。
男湯の入り口に掛かるタペストリーをくぐる。剣の紋章が織り込まれているあたり、思想が一貫している。男は剣、女は花――みたいな、古典的な振り分けだ。異世界でも、雑な分類は残るらしい。
最初に足を踏み入れたのは、板敷きの広々とした空間だった。
ここは『洗濯兼休憩室』となっており、壁際には長椅子と、魔導洗濯機がずらりと並んでいる。
浴場の前室に洗濯機を置くという発想がすでに合理的だ。湯上がりの冷えを防げるし、洗濯と入浴が一本化できる。生活導線として優秀すぎる。
そして何より、入浴中に乾燥まで仕上がる。着替えを持ってこなくても、常に清潔な服に戻れる。現代日本の温浴施設がやっと辿り着いた便利さを、この世界は平然と標準搭載している。
俺は煤けた服を脱ぎ捨て、洗濯機の槽へと放り込んだ。
側面の物理スイッチをカチリと押し込むと、淡い光とともに静かな駆動音が響き始める。
水、風、熱といったエネルギーを魔法で賄える生活魔導具は、現代日本以上にシンプルで洗練されていた。
一糸纏わぬ姿となった俺は、奥の脱衣所へと進む。
本来は服を脱いで籠に入れる場所だが、俺にとってはタオルを回収するだけの通過点だ。
壁や天井には太い梁が剥き出しになっており、歴史を感じさせる重厚な造りが心地よい。
タオル一枚を引っ提げて浴室の重い木戸を開けると、熱気とともに、白濁した湯の匂いが鼻孔をくすぐった。
広々とした内湯を抜け、まずは洗い場へ。
そこには、石造りの壁に埋め込まれた『魔導シャワー』が並んでいた。
椅子に腰を下ろし、真鍮のノズルをひねる。
途端に、温かい湯が柔らかな雨のように降り注いだ。
水圧、温度ともに完璧だ。中世風の石造りの空間で、現代以上の快適なシャワーを浴びる。この奇妙なギャップこそが、異世界生活の醍醐味かもしれない。
髪や肌にこびりついた煤を洗い流し、石鹸で丁寧に汗を落としていく。
さっぱりとしたところで、俺はいよいよ露天風呂へと足を踏み出した。
――そこは、絶景だった。
眼下には雲海が広がり、頭上には既にいくつかの星が瞬いている。
岩で組まれた湯船には、源泉かけ流しの湯がなみなみと注がれていた。
日本にいた頃も、スパの大浴場は数少ない楽しみだったが、天然の温泉は別格だ。
湯の成分が肌に吸い付くような、独特の重量感がある。軽くない。だから効く。理屈は知らないが、身体がそう言っている。
「良い月ですな」
不意に、穏やかな声が響いた。
湯気で霞んでいて気づかなかったが、広い岩風呂の奥、岩陰になった場所に先客がいたらしい。
「ええ、本当に」
俺は会釈をして、邪魔にならない程度の距離に腰を下ろした。
相手は、豊かな白髪と白い髭を蓄えた、老紳士だった。
頭に畳んだ白いタオルを乗せ、目を閉じて夜空を仰いでいる。
「風の音、湯の香り、そしてこの月明かり。こうして湯に浸かっていると、俗世の喧騒が嘘のようです」
「ええ。旅の疲れも吹き飛ぶようです」
「それは重畳。お見受けしたところ、お若い方々の引率、といったところでしょうか?」
老紳士は目を開け、柔和な笑みをこちらに向けた。
こちらを値踏みしている感じがない。自然体の礼儀というのは、意外と希少だ。
物腰は柔らかく、言葉遣いも丁寧。
どこかの貴族の隠居か、あるいは学のある商家の主だろうか。そう思わせる余白があった。人は余白があると、勝手に上品さを投影する。
「まあ、そんなところです。職場の仲間たちとの、慰安旅行でして」
「ほう、慰安旅行。結構ですね。若いうちは心身を削って働き、たまにこうして骨を休める。そのメリハリこそが、良い仕事を生む秘訣でしょう」
彼は湯を掌ですくい、愛おしむように眺めてから、静かにこぼした。
「私などは既に第一線を退き、隠居した身なのですが……どうも、いけませんな。毎日が休日というのは、逆に心身が錆びついていくようで」
「……優雅な生活に見えますが、退屈なものですか」
「ええ。庭木を愛でるのも、書を読むのも、早々に飽きてしまいました。やはり人間、仕事という負荷がなければ、生の輝きを得られない生き物なのかもしれません」
老紳士は困ったように眉を下げ、上品に笑う。
その瞳の奥には、現役時代への未練……いや、燻り続ける情熱のようなものが垣間見えた気がした。
以前の職場でも、定年退職した後に『相談役』という肩書きで会社に残りたがる重役たちを何人も見てきた。
仕事という戦場でしか、生を実感できない人種。
どうやら、ワーカーホリックという業は、異世界だろうが現代だろうが変わらない、男の不治の病らしい。
「貴方も、働けるうちに精一杯働いておくといい。老後の手持ち無沙汰を嘆くのは、私のような年寄りだけで十分ですから」
「肝に銘じておきます」
俺は苦笑いで返した。
老後はまだまだ先の話だが、経験に裏打ちされた彼の言葉には不思議な重みがあった。
「おや、いけませんな。初対面の方に、つい講釈を垂れてしまいました。年寄りの悪い癖です」
「いえ、貴重なお言葉として受け取らせていただきます」
「はは、そう言っていただけると助かりますよ」
どこからどう見ても、品の良い穏やかな隠居人。
……そう、見える。
「……長湯が過ぎたようです。少々、のぼせてしまいました」
老紳士は頭のタオルを手に取ると、ゆっくりと腰を上げた。
「では、お先に失礼しますよ。ごゆっくり」
「あ、はい。お疲れ様でした」
彼が湯船から上がり、月明かりの下にその全身を晒した――その瞬間。
俺は我が目を疑った。
湯に浸かっている時は分からなかったが、立ち上がったその体躯が、老人のそれとはかけ離れている。
首の付け根から肩にかけて、小山のように盛り上がった筋肉。丸太のような腕。背中には幾重にも重なる鎧のような、肉の壁。
ボディビルダー――いや、もっと実用の方向に極振りした肉体だ。
飾りの筋肉じゃない。凶器の筋肉。
丁寧で風流な言葉遣いからは想像もつかない、暴力的なまでの質量がそこにあった。
老紳士は、俺の視線に気づいたのか、去り際にちらりと振り返る。
その瞳が一瞬だけ、鋭い光を帯びたように見えたのは、気のせいだっただろうか。
濡れた岩場をものともせず、足音ひとつ立てずに脱衣所へと消えていく。
あの身のこなし、ただの筋肉自慢の老人ではない。
素人の俺でもわかる、相当な手練れだろう。
「……とんでもない御仁だな」
俺は大きく息を吐き、誰もいなくなった夜空を見上げる。
静寂が戻った露天風呂に、自分の心臓の音だけが少し大きく響いていた。
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湯気の向こう、女性用の露天側から、声が運ばれてくる。
山の夜は静かだ。静かすぎて、人の声だけがやけに通るのだ。
聞く気がなくても、耳に入ってくる。これは俺の責任ではない。たぶんな。
…………。
……。
「もういいでしょー? 温泉入るよぉー!」
「あっ、フラッフルさん!」
「いええぇーいい!」
「フラッフル、飛び込んだらダメだよ」
「あはは、他に誰もいなくてよかったねえ」
…………。
……。
「……星空、すごく綺麗」
「そうですね……とても胸が静かになります」
「温泉入ってるとさあ、余計に沁みる感じしないー?」
「わかるよ……ただ見てるだけなのにね」
「うん。……ちょっと、ときめくねえ」
…………。
……。
「どひゃーっ! 見てエリン! 浮いてる! ルティアさんの浮いてるよぉ!」
「フラッフル、失礼だよ」
「ふふーん、ウチの方も見てみなさーい」
「うひゃーっ! アトナも浮いてる! すごいすごーい!」
「フラッフルもそのうち成長するでしょー」
「するかなー、するかなー」
…………。
……。
「エリンはまた鍛え上がってきたよねー、ウチもスタイルには気をつけてるけど、さすがだねい」
「おなか、われてるねー」
「身体が資本だからね」
「すごいです、私も見習わないといけません……」
「ルティアさんはそのままがいいですよお」
「むっちむちー」
…………。
……。
「……はあー。温泉気持ちーねー。ユメリも来れたら良かったのにねえ」
「ユメリさん……もう一人のパーティの方ですか?」
「そですよお。ユメリは服や装備のモデルをやってましてー、魔導写真機の予約の関係ですねえ」
「写真機は数が限られていますから、都合が合わなかったんです」
「あれねー、もっとコンパクトなサイズになれば持ち運びできて、みんなで旅の写真とか撮れるのにねい」
「えーやだー、たましい抜かれちゃうよー」
…………。
……。
「フラッフル、泳いだらダメだよ」
「ずっと子供状態だねえ」
「フラッフルさんはこのことを覚えてらっしゃるんですか?」
「全部覚えてまーす、だから後でのぼせたのか恥ずかしいのか判別できない姿になると思いまーす」
…………。
……。
「星って、落っこちてこないのかなー」
「そーゆー魔法の話……じゃなさそうだねい」
「だって、あんなにいっぱいー、こぼれ落ちそーだもーん」
「……落ちてこないよ。私たちが見上げる星は、目印だから」
「めじるしー?」
「迷った時に、上を見るための。進んでいい方向を、忘れないための」
「だから、あんなにいっぱいあるのー?」
「星は、ずっとそこに在る。変わらず在り続けるものがあるから、人は立てる」
「……だから、ウチらも星を、見失わなければねえ」
「うん。辿り着けなくても、見上げていられるなら――それで、まだ進めるんだよ」
…………。
……。
「ウチも自信あったけどお、ルティアさんと比べたらAクラスってとこかなー」
「えっと……?」
「エリンはB……いや、ユメリがBか。エリンはC……」
「何の話?」
「フラッフルはFー、今後の成長に期待だねえ」
「ワタシも大人の身体になったら凄いからね」
「素に戻ってるねーい」
「のぼせたのか恥ずかしいのかわかんないの……」
…………。
……。
「そういえばルティアさんって、カツラギさんとはどういう関係なんですかあ? 二人で旅行とか、気になっちゃうなー」
「えっと、それは……功労者待遇、だそうです……」
「第9支部はスタンピードを難なく切り抜けたそうだよ」
「はいっ、カツラギさんのおかげなんです!」
「高評価ですねい」
「口だけじゃないんだね、あのオジサン」
…………。
……。
「でもでもー、ただの同僚ってわけじゃないんですよねえ?」
「呼吸が合っていたね」
「そうなの? ルティアさん」
「えっと、それは……えっと……」
…………。
……。
そろそろ、潮時か。
これ以上ここに留まるのは、精神衛生上も、社会的信用のためにもよろしくない。
俺は音を立てないよう慎重に湯船から上がると、速やかに脱衣所へと向かった。
今日一日、色々とありはしたが……この心地よい脱力感があれば、全てチャラだ。
ダンジョンでこびりついた煤汚れも、険しい山道を歩き通した足腰の疲れも、綺麗さっぱり湯と共に流れ落ちたらしい。
異世界だろうが現代だろうが、温泉の偉大さだけは変わらないというわけだ。
さて、風呂の次は飯だ。
宿の売り文句にあった『極上の山の幸』――冬の脂が乗り切った猪鍋か、冷たい土の中で甘みを増した根菜の煮込みか。あるいは、まだ見ぬこの世界特有の珍味か。
空腹という最高のスパイスも整った。今はもう、理屈抜きでその響きに身を委ね、心ゆくまで堪能させてもらうとしよう。




