第25話:人月の神話、遅れる現場に人は要らない(後編)
『──その時、ひとつの光が差した。
伝説に語られることのない、しかし、誰よりも気高き魔導の使い手。
彼女は知っていた。真の力とは、誰かのために振るうものであると』
──おお、孤高の賢者レナンセムよ。
お前は、どうする。
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レナンセムは、無人の、そして殺気が充満する受付を見ていた。
――誰も居ない。
理解はできていた。
それは決して、職場放棄ではないことを。
全員が善意で動き、不運にもタイミングが重なっただけの、致命的な空白。
運命の悪戯。神の気まぐれ。
だが、現実は冷徹だ。
入り口からは、第二波の冒険者が雪崩れ込んでくる。
このままだと、ロビーは物理的にパンクし、統制を失った群衆は暴徒と化すだろう。
秩序の崩壊は、目前に迫っている。
――私が、受付を?
かつて、受付窓口に座った時の記憶が蘇る。
誰一人の申請も受領できず、困惑と怒りを買った苦い記憶。
彼女は、敢えて難しい言葉を使っているわけではない。
脳内にある膨大な知識データベースから、状況に合致する、最も解像度の高い単語を抽出しているに過ぎない。
決して知識をひけらかしているわけでも、相手を愚弄しているわけでもない。
だが、通じない。
言語の不一致。
それは彼女にとって、越えられない断絶の壁だった。
――私には不可能だ。
執務室に引き返したレナンセムは思考する。
受付に誰もいないのは一時的なことだ。待っていれば、誰かが戻ってくる。
それまで私は、ここで待機していればいい。
冒険者の怒号をBGMに、優雅なアフタヌーンティー。
そんなもの、楽しめるわけがない。
――ルティアを、呼ぼうか?
少しだけなら、彼女に任せればいい。
彼女が行けば、あの怒号もすぐに止むだろう。
そして、その間、私は何をする?
友人に泥臭い戦場を押し付け、自分は呑気に、読書をして過ごすというのだろうか。
カツラギの見守りという、彼女にとって一番大切な任務を中断させてまで。
ルティア。
ふと、彼女の机に置いてあるものが、視界の端に引っかかった。
簡素な手製装丁の、羊皮紙の束。
その『表題』は、レナンセムに関係あるものだった。
――これは、なんだ?
彼女は吸い寄せられるように、その手製の冊子を手に取った。
ページを捲る。
そこに記されていた『文字』を目にした瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
――これは。
彼女が息を呑んだ、その時だ。
ロビーから、一体どうなっているのかと、限界を超えた怒声が響く。
硝煙の匂いがするほどの、一触即発の空気。
瞬間。
弾かれたように、身体が動いていた。
レナンセムは執務室を飛び出し、カウンター裏を滑るように移動し、中央の席に座った。
殺気立つ冒険者たちの視線が一斉に集まる。
突き刺さる敵意。焦燥。圧力。
かつて対応を誤ってしまった、冒険者の声が聞こえる。
こいつはダメだ。
何を言っているのかわからない。
されど、彼女は口を開く。
ルティアの笑顔を脳内で再生しながら、言葉を紡いだ。
「……大変、お待たせ、いたしました」
ロビーの空気が、一瞬止まった。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。お気軽に、ご用件を……お申しつけください」
精一杯の、ぎこちない笑顔を作り、彼女は言った。
冒険者たちが毒気を抜かれたように口を閉じる。
そして、先頭にいる男が、クエスト申請の依頼を始めた。
通じた。
言葉が、届いたのだ。
彼女の手元にある羊皮紙の冊子――その表紙には、少し歪な、しかし丁寧な文字でこう書かれていた。
『レナンさん言葉選びマニュアル』。
中には、『レナンセムが話す単語』に対応した『一般的な単語』や、想定される質問への『答え方』が、びっしりと書き込まれていた。
それは、レナンセムが受付に失敗したあの日から、ルティアが密かに書き溜めていたものだった。『いつかまた、受付に立つ時のために』。そんな、祈りにも似たプロジェクト。
ルティアが作った『マニュアル』は、レナンセムの言葉を、大衆の言語へと変換する『翻訳機』だったのだ。
言葉は通じる。
だが、問題は速度だ。
いちいちマニュアルを参照していたら、会話のテンポが遅くなる?
思考が追いつかない?
――愚問だね。
一度に一つのことしか考えられないなら、思考の領域を増やせばいい。
手が足りないのなら、使える手を増やせばいい。
レナンセムにはそれができる。
彼女は、長命種エルフの中でも、異端の天才なのだから。
――魔力展開。
――拡張魔力使用。
――魔力上限解放。
――魔法詠唱省略。
――多重魔法術式展開。
――思考領域、多重分割。
――『並列思考』。
彼女の脳内領域が五つに分割され、独立したタスクを同時に走らせる。
一つは会話。一つは金銭計算。一つはマニュアルの参照。一つは書類の確認。そして一つは、全体統括。
――『幻影多手』。
背中から伸びた不可視の魔力の手が、10本、20本と実体を持ってうごめく。
――『共鳴検索』。
マニュアルのページがパラパラと高速でめくれ、発すべき言葉が光って浮かび上がる。
前を見ていてはマニュアルが見えない?
ならば、見える眼を増やせばいい。
――『天眼』。
空中に展開した魔力の眼球が、マニュアルを凝視し、脳内へ映像を直接転送する。
頭脳を、眼を、腕を。
必要な数だけ作り出し、必要な数だけ使えばいい。
冒険者証の確認、魔導照合器による真偽判定、申請書の内容確認、清書、受領札の作成、魔導刻印の押印、受領台帳への記入、受領札の手渡し――。
これら全てが、コンマ数秒の同時並行処理で完結する。
古代魔法を駆使して、リアルタイム翻訳のような速さで言葉を選択し、口に出す。
複数の思考、複数の眼、複数の手による、神業的な事務処理。
それはもはや接客ではない。芸術的な演舞だ。
「これで、クエスト申請完了です。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
その対応の速さに、冒険者があっけに取られる。
だが、列はまだ長い。
窓口一つでは捌ききれない。
それならば。
「次の方、どうぞ」
彼女の声が重なった。
一つではない。三つの声が、同時に響いたのだ。
――窓口は三つに分けられていた。
――では、私もそうすればいい。
「「「お待ちの方、こちらへどうぞ」」」
レナンセムの左右に、陽炎のように揺らめく人影が現れる。
――『多重分身』。
魔力で構成された分身が、左右の空いた席に着席していた。
さすがに分身の造形クオリティは僅かに落ちている。
しかし、手は動く。声は出る。
笑顔が見せられれば、業務が遂行できれば、それでいい。
中央の本体と、左右の分身。
三つの窓口が、同時に稼働を始めた。
古代魔法の多重並列起動。
これだけの超級魔法を同時に維持し、かつ慣れぬ言葉を紡ぎながら笑顔で接客を行う。
その脳内負荷は、常人ならば即座に焼き切れるレベルに達しているはずだ。
しかし、何故だろう。
その重い負荷が、心地よく感じられるのは。
不沈を誇った受付システム。鉄壁を謳われた受付システム。
だが、そこに改善点を見つけ、実際に形にしたのは、他ならぬルティアだった。
――ありがとう、ルティア。
君は本当に優しい子だ。
怠惰な私に、こんな素敵なプレゼントを用意してくれるだなんて。
――どうだろう、カツラギ君。
私も、君の歯車になれただろうか。
彼女は舞うように書類を捌き、歌うようにマニュアルを読み上げる。
その姿は、このスタンピードにおける、最も美しい光景だった。
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『──猛き牙は、荒野を切り開き道を拓く。
賢き瞳は、混沌を見通し安らぎを与える。
頑なな鉄槌は、真実を打ち鳴らし価値を定めん。
そして、最後に残された叡智の光は、孤独を恐れず、万軍の前に立ちはだかる。
全ては、眠れる勇者が目覚める、その時を繋ぐために』
──ああ、美しき歯車レナンセムよ。
お前もまた、この戦場における英雄なのだ。




