第24話:人月の神話、遅れる現場に人は要らない(前編)
スタンピード、最盛日。
窓の外からは、祭りのような喧騒が微かに聞こえてくるが、屋根裏部屋の中は静寂に包まれていた。
俺はベッドに寝転がっている。
身に付けているのはいつものスーツではなく、ラフな部屋着だ。
スーツは今、洗面所にある『魔導洗濯機』の中にある。
水流と風の魔法を組み合わせたそれは、洗浄から乾燥、さらにはプレスまでを全自動で行う優れものだ。
衣類の種類を問わず、スイッチひとつで仕上がるから、機能だけで言えば、現代のドラム式洗濯乾燥機を余裕で上回っている。
この世界の魔導具は、極端に未発達な分野がある一方で、局所的には現代科学を凌駕する性能を持つものがあり、その不均衡具合がまた面白いと思った。
「……カツラギさん?」
椅子に座っていたルティアが、心配そうに声をかけてきた。
今日の彼女は、俺の『見張り』だ。
今日一日は、絶対に仕事をさせるな。
それが、オルガとルティアが決めた鉄の掟だった。
「ああ、トイレに行きたいだけだ。仕事はしないよ」
「……隠れてメモを取ったりしませんよね?」
「しないしない」
俺は苦笑して手を上げた。
このギルドは辺境ということもあってか、冒険者登録所とクエスト依頼所が併設されていない。
さらにスタンピード認定されると、ポータルの貸し出し業務も停止する。
つまり、今日の受付業務は『受注』と『精算』の二つだけ。単純作業の繰り返しだ。
俺が出る幕はない。人手だけで解決できるフェーズだ。
トイレを済ませ、再びベッドに戻った。
この部屋には簡素な机とベッドしかない。
正直、暇だ。仕事をするなと言われると、手持ち無沙汰で落ち着かない。これがワーカーホリックの禁断症状か。
「……そうだ」
俺はサイドテーブルに置いてあった本を手に取った。
暇つぶしにレナンセムから借りてきた、金のツタのような装飾が施された特徴的な一冊だ。
「ルティア、君も読むか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
受け取った彼女はパラパラとページをめくると、困ったように眉を下げた。
「カツラギさん……これ、私には読めません。古代エルフ語です」
「……あ」
しまった。気が利かなかった。
俺の『言語理解』スキルは、この世界のあらゆる言語を日本語感覚で翻訳してしまうため、失念していた。一般人には読めない代物だったか。
「悪い。じゃあ、せっかくだから読み聞かせでもするよ」
俺は咳払いをし、冒頭のページを開いた。
どうやら、勇者の冒険を描いた童話のようだ。
……なんだこの文体は。
いちいち大げさな表現が入っている、古典的な叙事詩だ。
ルティアが目を輝かせて待っている。
俺は少し芝居がかった調子で読み上げ始めた。
『──夜明け前の空には、まだ星々がくすぶるように瞬いていた。
勇者は荷を肩にかけ、静かに息を整える。
──おお、まだ知らぬだろう。遠く離れた魔王城で、闇が目を覚ましたことを。
草原を渡る風が、旅の始まりを祝福するように吹き抜ける。
──ああ、その胸のざわめきは運命の前触れか。
そして、勇者と魔王の物語は、誰にも告げられぬまま動き始める』
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――天が裂け、地がうねり、世界が低く唸りを上げた。
それは、人々がこう呼ぶ災厄――『スタンピード』。
──ああ、押し寄せるのは魔物ではない。欲望と闘志をまとった冒険者の群れ。
彼らは獲物を求め、金貨を求め、ひとつの場へ収束し、熱を帯びていく。
──おお、見よ。人の波こそ、時に魔物より恐ろしき奔流となる。
そして今、その奔流は、ただ前へと進むことだけを望んでいた。
今回、この災厄の直撃を受けるのは、隣接する第8支部と、ここ第9支部になる。
だが、その明暗は残酷なまでに分かれていた。
──隣接する第8支部。そこで響き渡るは、統率なき者たちの欲望と絶望。
そこにあるのは『混沌』だ。
査定所には怒号が飛び交い、殺気立った冒険者がカウンターを叩く。
許容量を超えた素材は床にぶちまけられ、どれが誰の荷物かすら判別できない。
職員同士が責任を押し付け合い、連携は寸断され、システムは崩壊していた。
それは、敗北した軍隊の姿に等しい。
──翻って、第9支部。そこに君臨するは、冷徹なまでの『静寂』と『秩序』。
査定結果の通知は、全て後日に回されていた。
『受け取りは全部明日でもいい』。ある男の言葉を現場が実践したのだ。
この判断は、査定所のみならず本館をも救った。当日達成されたクエストの換金業務が消滅したことで、本館カウンターへの人の流入が抑制されたのだ。
──ギルド前の大通り。そこで築かれるは、鋼の規律による生きた防壁。
王都から派遣された兵士たちが、無慈悲なまでの交通整理を行っていた。
彼らは剣を振るう英雄ではない。人の流れを制御する『動く壁』だ。
殺気立つ冒険者を物理的に整列させ、負傷者を淡々と診療所へ移送する。
その完璧な動線確保が、ギルドへの過剰負荷を防いでいる。
──倉庫で繰り広げられるは、色と数字による高速の謎解き。
──おお、迷える野獣マウロ。
かつての彼は、孤立していた。
頼れるのは己の鼻のみ。
その脳内に広がる鮮明な嗅覚の地図は、決して他人には共有されない。
人間には理解できぬ感覚。証明できぬ正解。
彼は『野蛮』というレッテルを貼られ、言葉の通じない異邦人のように、倉庫という檻の中で立ち尽くすしかなかったのだ。
──ああ、忠実なる番犬マウロ。
だが、今は違う。
彼に与えられたのは『色』という共通言語。
目の前には『赤』の箱。ならば、行くべき場所は『赤』の棚だ。
迷いがない。判断がいらない。ゆえに、速い。
獣人の強靭な肉体は、物流という名の暴力装置となり、次々と荷物を貪り食っていく。
彼はもう、ただの倉庫番ではない。高度に最適化された物流のプロフェッショナルだ。
──査定所。そこで支配するは、可視化された時間という名の秩序。
──おお、嘆きの乙女ヴェリサ。
以前の彼女は、己の真面目さに殺されかけていた。
終わりなき行列。突き刺さる視線。
待たせてはいけないという焦燥が視野を塞ぎ、彼女の心を摩耗させていく。
色付きの魔導眼鏡は、鑑定のための道具ではない。悪意ある視線から、等身大の自分を守るための悲しい盾だったのだ。
──ああ、賢明なる女神ヴェリサ。
だが、今の彼女は違う。
掲示板に表示された『時間』と『整理番号』が、彼女を救った。
その情報が、冒険者たちに『待つ』以外の選択肢を与え、ロビーから人口密度を奪い去った。
目の前に殺気立った群衆はいない。怒鳴り声もない。
あるのは、山積みの魔石だけ。
彼女は、色付きの眼鏡を外した。
今の彼女に、世界を遮断する盾は必要ない。
露わになった素顔。それは、見る者を思わず跪かせるような、美しい知性の結晶だった。
──その最奥。静寂の中で下されるは、紙片に記された絶対的な価値の審判。
──おお、憤る職人ガンド。
かつての彼は、絶望していた。
道具への愛ゆえに、未熟な若者へ説いた教え。
その親切心は『老害の説教』として切り捨てられ、彼のプライドは『安く買い叩くための詭弁』だと嘲笑された。
伝わらないもどかしさは怒りへと変わり、職人の心を石に変えた。
彼は口を閉ざした。言葉など、値札の前では無力だと悟ったからだ。
──ああ、沈黙の巨匠ガンド。
だが、今は違う。
彼に与えられたのは『チェックリスト』という代弁者。
彼は一言も発さない。ただ鋭い眼光で獲物を射抜き、手元の紙にチェックを入れるのみ。
本来なら怒号と共に叩き返されるはずの不良品は、冷徹な『不合格通知』と共に、静かに処理されていく。
言葉はいらない。紙一枚あればいい。
かつて彼が伝えたかった『道具への愛』は、減点という痛みを通じて、ようやく冒険者たちに届いたのだ。
職人の矜持は、システムによって守られた。
──人間も、獣人も、魔導師も、職人も。
種族の壁を超え、言葉の壁を超え、一つの巨大な機構として噛み合っている。
ある男が描いた図面の上で、彼らは踊る。
順調だった。
あまりにも、順調すぎた。
皆が自分の仕事を全うし、他の者の手助けをし、各々の力を最大限に発揮した。
──そして訪れる、魔の一瞬。完璧な歯車が生み出した、善意の真空地帯。
その過剰なまでの献身と、一瞬の油断が、あだとなった。
15時を過ぎた頃。
第一波が去り、ロビーから冒険者の姿が消えた、奇跡的な静寂の時間。
本館の受付には、三人の男たちがいた。
普段は一つの窓口だが、この日は増設し、三人体制で波状攻撃を凌いでいたのだ。
一人目は、古株の倉庫係。
彼は時計を見て、交代の時間が過ぎていることに気づいた。残りの二人は、そろそろ来るだろうから行って大丈夫だと言ってくれた。それを信じて、本来の持ち場である倉庫へと走った。
二人目は、気の利く若手の倉庫係。
彼はロビーが空になった隙に、表の通りの様子を見に行った。そこで、土地勘のない冒険者が、傷ついた仲間を抱えて右往左往しているのを見つけてしまう。中には助っ人の彼が残っている、すぐに戻れば大丈夫だ。そう信じて、彼は診療所への案内を買って出た。
三人目は、他支部から来た助っ人職員。
彼は真面目だった。手元の伝票に不明な点を見つけ、独断で処理することを恐れた。表に出たはずの先輩職員が見当たらない。ならば、隣の査定所に聞きに行くべきだ。彼もまた、すぐに戻れると信じて、ロビーを離れた。
全員が『良かれ』と思って動き、全員が『誰かがカウンターにいるはずだ』と信じた。
だが、その瞬間。
世界が唸りを上げた。
──おお、見よ。水平線を埋め尽くす人、人、人。
冒険者の『第二波』が到来したのだ。
外に出た職員たちは、瞬く間に人の波に飲まれた。
戻ろうと焦る彼らの前には、皮肉にも『鉄壁の規律』が立ちはだかる。
王都の兵士たちだ。
彼らは完璧な交通整理を行っていた。
人の流れを一方向に固定し、逆流を物理的に阻止する。
あまりに強固な統制が、職員たちの帰還を阻んだのだ。
その奇跡的なタイミングの不一致が、致命的な『空白地帯』を生んだ。
本館の受付カウンターが、無人になった。
そこに、運悪く気の短い冒険者たちが現れる。
誰もいない受付窓口。
呼び鈴が幾度鳴らされても、応える声はない。
彼らは身を乗り出し、やがてその表情を険しくさせた。
無視されたという事実は、彼らの矜持を逆撫でするに十分だった。
無人の窓口に集まる冒険者たち。
ロビーの空気は、言葉ひとつ落ちるだけで弾けそうなほど張りつめている。
苛立ちがじわりと積み重なり、怒気へと形を成し始めていた。
このままでは、築き上げた秩序にヒビが入る。誰かが対応しなければならない。
だが、誰もいない。誰も、戻ってくることができない。
それを呆然と見るのは、屋根裏部屋を除けば本館に残ったただ一人。
レナンセムであった。
『──その時、ひとつの光が差した。
伝説に語られることのない、しかし、誰よりも気高き魔導の使い手。
彼女は知っていた。真の力とは、誰かのために振るうものであると』
古き物語の一節が重なる。
しかし、現実の彼女は、英雄ではない。
ただの、面倒くさがりな事務員だ。
──おお、孤高の賢者レナンセムよ。
お前は、どうする。




