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第1話:未処理案件の山、社畜プロトコルは削除できない

 意識が泥の底から浮上するように、ゆっくりと覚醒していく。


 重いまぶたをこじ開ける。

 視界がぼやける中、目の前に誰かが立っているのが見えた。


 カンテラの淡い灯かり。若い女性だ。

 色素の薄いアッシュグレイの髪を低い位置で二つ結びにしており、毛先が肩を伝うように流れている。

 瞳はどこか困ったように垂れ目がちで、その下には微かな(くま)が影を落とし、疲労の色が刻まれているにも関わらず、顔立ちは驚くほど端正だ。


 身にまとうのは、ギルドの制服だろうか。襟の立った清潔な白シャツに、膝丈のタイトスカート。だが、シャツのラインを押し上げる豊かな胸元のボタンが、物理的な限界を訴えるように張り詰めている。

 腰回りから伸びるスカートの生地も、彼女の柔らかな曲線を隠しきれていない。


「……う……」


 声が出ない。喉がカラカラに乾いている。

 俺は起き上がろうとしたが、力が入らず、ベンチからずり落ちそうになった。


「あ、無理しないでください!」


 彼女が慌てて支えてくれる。

 柔らかい感触と、インクと古紙の混じった匂いが鼻をくすぐった。

 彼女は俺の顔色と、よれたスーツ姿を見て、何かを察したように頷いた。


「……えっと、道に迷われてしまったんですか?」


 否定する気力もなかった。俺は曖昧に頷くことしかできない。


「……すみません。気づいたら、ここに倒れていて……」

「お顔が真っ青ですよ。雨にも濡れていますし、ここで寝ていたら、凍えてしまいます」


 雨は強くなる一方だ。

 冷たい滴が容赦なく体温を奪っていく。


 彼女は心配そうに俺の顔を覗き込むと、背後の建物の勝手口を指差した。


「……中で雨宿りしていかれますか? 少し休憩するくらいでしたら、大丈夫ですよ」


 今の俺には、それが天使の福音のように聞こえた。

 俺は心の中で、地面に額がつくほどの土下座をした。


「……ありがとうございます。恩に着ます」

「私はルティアといいます。こちらの冒険者ギルドで職員をしています。……えっと」


 ルティア。それが天使の名前。

 俺は彼女の顔を真っ直ぐ見て、頭を下げた。


「……ああ、申し遅れました」


 俺は反射的に、スーツの内ポケットに手を伸ばしかけた。

 染みついた社畜の悲しい条件反射だ。相手が取引先だろうが、異世界の美女だろうが、名乗る時は名刺を出す――そんな社畜プロトコルが、体に深くインストールされていた。

 何もないポケットに内心苦笑しつつ、手を下ろして改めて彼女に向き直った。


「私はカツラギといいます」

「カツラギさん、ですね」


---


 雨が激しく地面を叩く音が響く。

 壁一枚隔てた向こう側からは、ドンドンという床を踏み鳴らす音や、下品な笑い声が聞こえてくる。

 併設された酒場の喧騒だ。

 対してこちらの路地は、不気味なほど静まり返っている。


「……あの、帰らないのですか? もう夜ですが」


 俺が尋ねると、ルティアは困ったように眉を下げた。


「はい。お仕事が……終わらなくて。他の皆さんは、お酒を飲みに行かれましたけど。私がやらないと、明日、また大変ですので」

「あなた一人で?」

「えっと、もうすぐオルガさん……ギルド長が帰ってこられるので、二人で、ですね……」


 その言葉に、俺の思考が止まる。

 他の人間が仕事を放り出して飲み歩く中、責任感の強い人間だけがバカを見て、深夜まで残業をする。

 ああ、知っている。よく知っている光景だ。

 それは、かつての職場で、誰もいない事務所で一人、蛍光灯の明かりの下で決算書と向き合っていた『俺自身』の姿と重なった。


 世界が変わっても、社畜の居場所は変わらないのか。

 だが、不思議と安堵した自分がいた。

 わけのわからない文字や、魔法や、三つの月よりも、『理不尽な残業』の方が、俺にとっては馴染み深い敵だったからだ。


「さあ、こちらへ。濡れてしまいます」


 彼女に案内され、勝手口から建物の中へ。

 廊下を抜け、執務室へ足を踏み入れる。


「あ、タオル使ってください」

「ありがとうございます」


 渡された清潔なタオルで雨を拭う。ゴワゴワとした感触が、逆に現実味があって心地よかった。

 ふと顔を上げ、ランプの明かりに照らされたデスク上の光景を目撃する。

 暗がりでよく見えていなかったが、そこに鎮座していたのは、物理的な『絶望』だった。


 書類、書類、そして書類。

 ざらついた羊皮紙の束が、今にも雪崩を起こしそうな歪な塔となって、彼女の席を埋め尽くしている。

 一番下の書類なんて、重みで圧縮されて紙とインクの地層になりかけているんじゃないか。

 それは単なる未処理の山ではない。労働者の魂を磨り潰す、巨大な墓標そのものだった。


「……これでも、昼間に少し減らしたんですけど……」


 ルティアは力なく笑い、その書類の山の前に座った。

 俺は呆然とその光景を見上げた。


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