第一話『異世界ギルド再生計画(ギルド・リビルド)』
深夜2時。東京、西新宿。
静寂に包まれたオフィスで、ノートPCのモニターだけが煌々と光を放っていた。 椎名康介、36歳。彼の指だけが、巨大なスプレッドシートの上を滑るように動いている。
彼が向き合っているのは、国家規模の公共建築プロジェクト、その膨大な見積書データだ。数万行に及ぶセルの海の中から、彼は下請け業者が巧妙に隠した、わずか0.05%のコスト水増しを、狩人のような目で発見した。
「…見つけた」
修正を入力し、プロジェクト全体のコストが数千万円単位で圧縮されるのを確認すると、彼は満足のため息をついた。慢性的な過労とストレスが、自らの命を蝕んでいることにも気づかない。ただ、仕事の達成感だけが、彼の心を支配していた。 彼は、深く椅子に身を沈める。
(…少なくとも、数字だけは、常に正しくあるべきだ…)
それが、建築コスト管理士・椎名圭介の、この世界での最後の思考となった。
◇
カビと、腐った木の匂いで、康介は目を覚ました。 軋むベッド。ひび割れた壁。天井には、雨漏りの染みが醜い地図を描いている。
(なんだ、この現場は…アスベストは…?)
職業病ともいえる思考が頭をよぎるが、それよりも先に、経験したことのない激しい頭痛と倦怠感が彼を襲った。状況を把握しようと、震える手で壁に触れた瞬間──彼の右目に、世界が変貌した。
視界に、青みがかった半透明のウィンドウが重なる。目の前の壁が、ワイヤーフレームのような線で再構築され、横に無機質なテキストが浮かび上がった。
【対象:腐敗した木製の壁】
【構造的安定性:15%(要即時補強)】
【含有物質:不明な菌類(有害)】
【推定修繕費:金貨30枚】
「…なんだ、これは…」
驚きと共に、康介の脳裏に、この能力の使い方が流れ込んでくる。
【万物積算】。
それが、この世界で彼に与えられた、唯一の力らしい。
彼は、恐る恐る視線を部屋の隅にある、脚の折れた椅子に向ける。
【対象:壊れた椅子】
【現在価値:銅貨1枚(薪としての価値)】
(なるほど、まずはモノの価値か…コスト管理士の基本だな)
彼が、さらに意識を集中させると、ウィンドウの情報が更新された。
【構造分析:第三脚部に致命的な亀裂。接合部に緩み多数】
【修繕プラン:木材0.5kg、鉄釘3本にて補強。推定作業時間0.5時間】
【改修後の潜在的価値:銅貨15枚(椅子として)】
「…!」
康介は息を呑んだ。
これは、ただの鑑定スキルではない。問題点を分析し、改善策を提示し、さらには未来の価値まで予測する。原価管理、品質管理、工程管理…まさしく、建築プロジェクトの全てを内包した、究極のツールだった。
彼はよろめきながら立ち上がり、部屋に唯一あった割れた鏡を覗き込む。そこに映っていたのは、見知らぬ青年の顔。年は二十代前半だろうか、栄養失調気味で、目の下には深い隈が刻まれていた。そして、その顔にもまた、冷徹な情報がARのように表示された。
【対象:コウスケ・アーデン】 (魂:椎名 康介)
【健康状態:極度の疲労、栄養失調】
【職業:冒険者ギルドマスター】
【保有資産:銅貨12枚】
【保有負債:金貨500枚】
「コウスケ・アーデン…?」
鏡の中の青年が、かすれた声で呟く。名前まで違うのか。
(…そうか。椎名康介は、本当に死んだんだな)
彼は、自らの死と、新しい人生の始まりを、その見知らぬ名前によって静かに受け入れた。彼が向き合うべき現実は、このコウスケ・アーデンという男が遺した、金貨500枚の負債だった。
バンッ!と、まるでタイミングを計ったかのように、ギルドの扉が乱暴に開け放たれた。 入ってきたのは、肥満気味の男と、背の低い屈強なドワーフだった。肥満気味の男──商業ギルドの債権回収人バレットが、軽蔑の目でコウスケを見下す。
「よぉ、新マスター。前の奴の葬式はもう済んだか?で、借金はどうするんだ?」
バレットが、赤インクで満たされた帳簿をテーブルに叩きつける。
「お前らのギルドハウスだがな、ウチの鑑定士に見てもらった。どうだ?」
ドワーフは、腕を組んで建物を一瞥し、吐き捨てるように言った。
「こいつはもう家じゃねえ、ただの瓦礫の山だ。解体費用を差し引いたら、資産価値はゼロだぜ」
バレットは、勝ち誇ったように笑う。
「…というわけだ。一ヶ月やる。一ヶ月以内に、せめて滞納している利子の金貨100枚を返済しろ。できなければ、このギルドは我々が差し押さえ、解体する。分かったな?」
彼らが去った後、ギルドには死のような静寂が訪れた。 そこへ、クエスト帰りだろうか、薄汚れた革鎧を着た若い男女が入ってきた。やる気だけが空回りしているような剣士のレオと、現実的で少しシニカルな弓使いのクララ。このギルドに唯一残った冒険者パーティだった。
「…マスター、今の話、聞いちまったぜ。もう終わりだよな…俺たち、別の街に行くよ」
レオの言葉に、クララも静かに頷く。絶望的な状況。誰が見ても、詰んでいた。 だが、コウスケだけは違った。彼の目は、絶望ではなく、途方もない「やりがい」に輝いていた。 彼は、呆然とする二人の前に、一枚の羊皮紙を広げる。
「絶望するのは早い。俺の『積算』によれば、このギルドはまだ死んでいない。むしろ、莫大な利益を生む可能性を秘めている」
彼の右目には、鑑定結果がはっきりと見えていた。
【対象:礎の谷の冒険者ギルド】
【現在資産価値:マイナス】
【潜在的資産価値(改修後):金貨1500枚】
彼は、二人に、まるでクライアントにプレゼンするかのように語り始めた。
「これは、俺たちが挑む最初の『プロジェクト』だ。依頼主は、俺たち自身。プロジェクト名は『ギルドハウス再生計画』」
コウスケは、近くにあった木炭を手に取り、羊皮紙に図面を描き始める。それは、建築士としての知識を活かした、効率的で、機能的で、そして何より「儲かる」ためのギルドハウスの新しいレイアウトだった。
「一階の受付はもっと小さくして、空いたスペースに酒場を拡張する。クエストの成功報酬より、冒険者が落とす酒代の方が、安定した収益になるからだ」
次に彼は、もう一枚の羊皮紙に、驚くほど詳細な見積書を作成していく。
「壁の補強材は、高価な木材ではなく、ゴブリンの集落跡から取れる粘土と藁を混ぜた強化煉瓦を使う。コストは10分の1だ。お前たちへの報酬は、日当と、このプロジェクトが成功した際の利益分配だ。文句はあるか?」
レオとクララは、コウスケの熱量と、あまりにも具体的で緻密な計画に、ただ圧倒される。彼らは、希望ではなく「事業計画の実現可能性」に賭けることを決意した。
コウスケは、完成したばかりの「ギルドハウス改修工事・工程表」を、傾いた壁に貼り出す。そして、彼の新しい「従業員」たちに、こう告げた。
「よし。プロジェクト『ギルド・リビルド』、始動だ。工程表によれば、最初のタスクは『既存構造物の解体及び、廃材の仕分け作業』。レオは壁の解体、クララは資材の再利用価値の査定を頼む。作業開始は、明日の日の出と同時。質問は?」
それは、英雄の第一声ではなかった。
だが、辺境の街で最も頼りになるプロジェクトマネージャーが、産声を上げた瞬間だった。