第8話:車椅子を降りて走った男
走ったとき、風が、あまりに自由すぎて、泣いた。
でも、それは“罪”だった。
——
俺が車椅子に乗ったのは、二十九のときだった。
職場で転倒して、腰を強打した。もともと腰椎が弱っていたこともあり、医者の診断は「長期的な歩行困難の可能性」。
復職は難しく、俺は労災と傷病手当金を経て、障害者認定を受け、生活保護の申請を通した。
以降、俺の生活は“保護される”側になった。
最初のうちは罪悪感もあった。だが、毎月の給付金、減免される公共料金、住宅扶助、医療費の無料化。それらは、日々を“穏やかにする毒”だった。
いつしか、俺は思った。
「こんな暮らし、悪くないな」と。
——
本当は、歩けた。
正確に言えば、“努力すれば歩ける程度”だった。
だが、リハビリの中で、ある瞬間、気づいてしまった。
「あれ、もしかして……立てるかもしれない」と。
けれど、それを言ったら、すべてを失う。
傷病年金も、障害者手当も、生活保護も。
家賃補助も、医療費も。
「今の暮らし」が、全部“過去”になる。
だから俺は、黙った。
担当ケースワーカーにだけは「まだ痛くて……」と訴え、主治医にも「無理すると悪化する」と装った。
実際に立ち上がれるのは、自宅の夜中、誰も見ていないときだけ。
照明を落としたキッチンで、そっと立ち上がる。
そのときだけ、俺は“嘘”の外にいた。
——
一度だけ、深夜のコンビニに歩いて行ったことがある。
車椅子を玄関に置き、フードを被って、姿勢をやや低めにして。
外の風が、あまりにも久しぶりで、胸が震えた。
信号を渡るとき、「俺は今、罪を歩いてる」と思った。
でも、止まれなかった。
「このままどこまでも行けるんじゃないか」
そう錯覚するほど、身体は軽かった。
だが、帰り道。車椅子を前にして、ふと思った。
——
この生活、ずっと続けるつもりか?
——
それでも俺は、その夜だけで終わらせた。
次の日には、また車椅子に戻った。
生活保護の更新も、淡々と通した。
ただ、あの“歩いた夜”は、今も夢に出てくる。
誰かに見られていた気がして、
いつか「嘘だろ」と告発される気がして、
玄関のインターフォンが鳴るたびに、少しだけ心臓が跳ねる。
——
本当は、働きたかった。
“ちゃんと”生きてるって思いたかった。
でも、一度味わった“守られる暮らし”は、
あまりにも静かで、優しかった。
誰にも期待されず、
誰にも責められず、
ただ「障害者」として、ゆっくり腐っていける。
それが、今の俺の選んだ“地獄”だった。
——
あなたなら、
「歩けるのに歩かない人間」を、責められる?
「立ち直れるのに、立ち上がらない人間」に、怒れる?
それとも、
理解する?
“一度でも倒れた人間”が、再び立ち上がる怖さを――。
——
【懺悔投稿番号:#008】
【罪の種類:生活保護不正受給、医療詐欺、自立回避、自己欺瞞】
【実話度:76%(推定)】