第15話:母を看取らず、彼女と温泉に行った男
扉が軋む音を立てて閉まり、男はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
スーツの襟元は乱れ、ネクタイは雑に緩められている。目の下には深いクマが沈み、手にはどこか震えがあった。
「……罪を告白します。俺は、自分の母親が死ぬ間際、病院には行かず、温泉旅行に行っていました。彼女と、です」
部屋に沈黙が満ちる。壁の奥にあるスピーカーからは、無機質な声が返ってくる。
『どうして、ですか』
男は苦笑した。それは自嘲と後悔と、少しばかりの諦めが混じった苦笑だった。
「母は肺癌でした。ステージ4。……余命半年と告げられたのは、ちょうど去年の今頃だったと思います」
語る声は乾いていたが、時折、喉の奥が詰まるように震えた。
「最初の頃は、毎週のように見舞いに行ってたんです。母は俺が子どもの頃に父と離婚して、女手一つで育ててくれた。学費も、進学費用も、全部自分で稼いで……。俺は、本当に感謝してた。でも……母は弱っていくばかりで、話もできなくなって……ある日、ベッドの横で、ただ息をする姿を見ているだけで、怖くなったんです。逃げたくなった」
『それで、温泉に?』
「彼女は……当時、付き合ってた子で、正直、そこまで真剣な交際じゃなかった。ただ、タイミングが悪かったんです。彼女が、『どこか行きたい』って言ってきて……。俺は、断れなかった。罪悪感を薄めたかったんでしょう。現実から目を逸らしたくて。母の死を、“予定通り”と思いたくて」
男は小さく息を吐いた。深く、長く、後悔の余韻を噛みしめるように。
「結果、俺が温泉宿で彼女と他愛ない話をしていた時、病院から電話がありました。『お母様の容態が急変しました。至急お戻りください』と」
『……戻ったのですか』
「……ええ、すぐに。彼女に理由も告げず、急いで病院へ向かいました。でも、間に合わなかった。ナースに『さっき息を引き取りました』と告げられた時、俺は、立ったまま泣き崩れました。……あの時、死に目に会えていたら、俺は、少しは自分を許せたのかもしれない。でも、母は俺を待ってたはずなんです。俺が、最後に何を選ぶのか」
部屋の空気が重くなる。男の吐く息が、懺悔と共に虚空に消える。
「……葬儀のとき、親戚から言われました。『あんた、最後まで来なかったな』と。何も言えませんでした。全部、俺の責任です」
沈黙が落ちる。
『あなたの罪は――“自分の弱さに負けたこと”ですか?』
「はい。母の死より、目先の快楽と逃避を優先したこと。俺は一生、この後悔を抱えて生きていきます」
スピーカーは沈黙したまま、やがて機械音が低く鳴り響いた。
部屋の扉が、再び開く。
男は立ち上がり、深々と頭を下げて、出て行った。
誰かに、何かに、許しを乞うように。