表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/16

第15話:母を看取らず、彼女と温泉に行った男

 扉が軋む音を立てて閉まり、男はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 スーツの襟元は乱れ、ネクタイは雑に緩められている。目の下には深いクマが沈み、手にはどこか震えがあった。


「……罪を告白します。俺は、自分の母親が死ぬ間際、病院には行かず、温泉旅行に行っていました。彼女と、です」


 部屋に沈黙が満ちる。壁の奥にあるスピーカーからは、無機質な声が返ってくる。


『どうして、ですか』


 男は苦笑した。それは自嘲と後悔と、少しばかりの諦めが混じった苦笑だった。


「母は肺癌でした。ステージ4。……余命半年と告げられたのは、ちょうど去年の今頃だったと思います」


 語る声は乾いていたが、時折、喉の奥が詰まるように震えた。


「最初の頃は、毎週のように見舞いに行ってたんです。母は俺が子どもの頃に父と離婚して、女手一つで育ててくれた。学費も、進学費用も、全部自分で稼いで……。俺は、本当に感謝してた。でも……母は弱っていくばかりで、話もできなくなって……ある日、ベッドの横で、ただ息をする姿を見ているだけで、怖くなったんです。逃げたくなった」


『それで、温泉に?』


「彼女は……当時、付き合ってた子で、正直、そこまで真剣な交際じゃなかった。ただ、タイミングが悪かったんです。彼女が、『どこか行きたい』って言ってきて……。俺は、断れなかった。罪悪感を薄めたかったんでしょう。現実から目を逸らしたくて。母の死を、“予定通り”と思いたくて」


 男は小さく息を吐いた。深く、長く、後悔の余韻を噛みしめるように。


「結果、俺が温泉宿で彼女と他愛ない話をしていた時、病院から電話がありました。『お母様の容態が急変しました。至急お戻りください』と」


『……戻ったのですか』


「……ええ、すぐに。彼女に理由も告げず、急いで病院へ向かいました。でも、間に合わなかった。ナースに『さっき息を引き取りました』と告げられた時、俺は、立ったまま泣き崩れました。……あの時、死に目に会えていたら、俺は、少しは自分を許せたのかもしれない。でも、母は俺を待ってたはずなんです。俺が、最後に何を選ぶのか」


 部屋の空気が重くなる。男の吐く息が、懺悔と共に虚空に消える。


「……葬儀のとき、親戚から言われました。『あんた、最後まで来なかったな』と。何も言えませんでした。全部、俺の責任です」


 沈黙が落ちる。


『あなたの罪は――“自分の弱さに負けたこと”ですか?』


「はい。母の死より、目先の快楽と逃避を優先したこと。俺は一生、この後悔を抱えて生きていきます」


 スピーカーは沈黙したまま、やがて機械音が低く鳴り響いた。


 部屋の扉が、再び開く。


 男は立ち上がり、深々と頭を下げて、出て行った。


 誰かに、何かに、許しを乞うように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ