1:そこはどこにでもあってどこにもない場所 上
今では遠い記憶の彼方へと消えた景色をふと思い出す。
缶コーヒーを片手に曇り空を眺めていたあの瞬間を。
「………」
瞼に重たくのしかかる鉛のような感覚がへばりつくのを感じる。
蘇りつつある記憶を探りながら現状を把握しようと試みる。
「…!!」
下から耐えもなく荒れ狂う風をかき分けつつも、必死に瞼だけは開け続けようとする。
「…あ、…ガッ……」
ダメだ、瞼の鉛が取れる気配すらしない。なんなら声すら…出ない。
声を出そうと考えがまとまった次の瞬間、頭の衝撃と共に意識が遠くへ吹き飛ばされる感覚が襲った。
ーーーーーーーーーーー
「……!」
いや、吹き飛ばされたかと思ったら戻ってきた…?
「な、なんだ…どうなってる…?」
あの瞬間、俺は死んだ。間違いなく。
高層ビルの28階の高さから落ちて…。必死に薄れゆく意識を…へばりつく煙を打ち払うように耐えていたはず…。
「どうなってる…とは、また面白いな。」
不意に後ろから声がして振り向くと、そこには黒い横長のソファに美女が座っていた。
曇り無き眼は長い足を組み、じっとこちらを見続けている。
「なに、警戒することは無い。警戒してもいいことはない。君は…いや、鳴上 徹。君は確かに今しがた死んだ。それは紛れもない事実だよ。」
「あ、あぁ…それは分かっている。死ぬ寸前まで意識はあった。恐らく頭から地面にぶつかった衝撃で即死したんだろう。それくらい分かる。」
「ふふ…。あの状態で意識を保っていられるとは流石だ。並々ならぬ強靭な精神力を持たねば、通常は高さ的に途中で意識を失っているはず。だが…惜しい。実際の死因は違う。」
「死に方がどうとか…今はどうでもいいさ。俺は死んだ。確かに死んだ。…でも、ここにいる。意識をもった状態で左腕に受けた傷が残った程度の軽傷でいる。…用件を言ってくれ。死んだのにも関わらず、この何も見えない空間に連れてきたんだ。何も無いわけじゃないんだろ?」
「どうやら、与太話は結構だと言いたいようだ。よろしい。
君をここに連れてきたのは、異世界というふざけた別の世界にそのまま行かせないためだ。」
異世界…いや、雑誌の特集などでちらっと見たぐらいではあるが、そういったものが流行っているとのことは聞いている。
生憎、その手の作品は読んでいない為よくわかっていないが…。
「…」
「むっ、その反応…。さては異世界転生とか、異世界転移とかそういったものをご所望「すまない、考えているのはそういうのじゃない…。」…なるほど、そもそも異世界に興味が無い、いや関心がないというべきか。」
その美しい女は、目を見開きつつ、驚くような表情もしない冷静な視線を男にぶつけていた。
「すまない、話を続けよう。
…君には本来であれば異世界転生をしてもらう算段だったようだ。
現に君が転生しようとしていた世界では、君を歓迎する準備をしていた。」
「…それで?その転生とやらができなかった理由はなんだ。」
「たった今”別の世界にそのまま行かせない”といっただろう?だから、行かせる前に世界を消したのだよ。」
世界を消した…?
規模がでかすぎて何を言っているのか…。
「ふむ、難しいことをしているわけではないよ、世界を管理する女神やら神やら…そう言った存在もろとも根こそぎ消し去ったにすぎない。すべては君を、我々の仲間として迎えるためにね。本来であれば寿命を全うした君を迎えるつもりだったんだが…。人生、アクシデントはつきものさ。早く来るなら、こちらも早く出迎えればいい。」
「なぜそこまでして俺を…?」
世界を消し去る…。いわれただけでは実感ができない規模のこと。ただ、間違いなくとんでもないことをしでかしているのは事実。
世界を消し去る規模の大層なことをして、なぜそこまで自分に加担するのかがわからない…。
「生前の君を見ればわかる。君は人を助ける能力に秀でているからだ。君が亡くなる少し前ですら、君は人を守りぬいた。
…先ほど君は地面に落下して即死したといっていたが、厳密には違う。爆発寸前の爆弾を…おそらくテロに使われたものだろうが、異音に気づいた君が外に放り投げた瞬間に爆発。爆風に巻き込まれた君は窓を突き破り…28階の高さから地面に落ちて死亡…。だが実際は爆発に巻き込まれた時点で君の生命活動はすでに臨死という形になっていた。」
「そうか…。あの時俺はすでに死んでいたのか…。」
「あぁ、割合で例えるなら8割。決定打は落下中に真空状態になったことによる窒息死だ。まさか真空状態による窒息死とは…。君の世界が、君自身を殺すとは思わなかった。
すまない、死んだときの事実確認はあとでいくらでもできる。今は話を続けよう。
…君の”人を守る力”が我々には非常に魅力的で。世界を傍観する側として、ぜひ仲間になってほしいだけのこと。まぁ…無に還るだけの君には選択肢はないと思うが。」
「無に還る?無に還ったら、俺はどうなる?」
「魂の終点である”無”は何も残らぬよ。思考というものが一つ消えるだけに過ぎない。転移するべき世界が無くなったのだ、こちらの提案に応じなければ消えるのみだよ。」
無と聞いた瞬間に体が身震いを起こした。何も残らなくなる、無。
そして自身の体が徐々に質量をなくし、透けていくのが目に見えてきた。
「おっと時間だ。このままでは君は消えてしまう。答えを聞こうか?」
「選択肢はないのだろ?なにが起こるのかわからないが、連れていけ。」
「ふふふ、そうだったな。…では私の手を取って一度目をつぶるんだ。5秒後に目を開いてごらん。」
言われるがまま、差し出してきた右手に触れて、目を閉じる。
1...2...3...4...
「5!あ、あれ…?ここは…」
目を開けた瞬間、俺は横たわっていた。見慣れた景色…腕に違和感が…これは点滴?
横たわっているところがベッドなのを見るに、病院…にいるようだ。
「事故にでも巻き込まれて、頭でも打ったか…。頭に包帯などしていないし、目立った怪我もない…。」
先ほど謎の場所にいた時はあった左腕の傷はなく、傷跡すらなかった。
それに今までいたところは夢…だったのだろうか…?
「いやしかし…。先ほどまで間違いなくあの場所に立っていたし、それにベッドに横になった覚えはないんだけどな…。」
目覚めたばかりで認識できていなかったが、時間が経つにつれて周囲の状況について理解ができ始めた。
俺は今、日本にある一般的な病院のベットに横たわっている。ベットの周りはカーテンでおおわれており周囲は見えない。天井は…無難に白い板材が張り巡らされている。
今気づいたが、微かに潮の香りがする。
…ここで自分は冷静になり、改めて左腕に刺さっているであろう点滴の針を見る。
「ん?なんだこれ…。点滴のようで点滴じゃない…?」
針が刺さっているであろう箇所には針が刺さっている感覚はなく、紫色の格子模様のようなものが小さく腕に転写されている。
それに、よく見れば管も無く、点滴の容器を支える器具などは一切ない。
「ん?兄ちゃん、この病室は初めてかい?」
目の前の現実を受け止められないでいると、カーテンの向こうから男性と思わしき声が聞こえた。
声色からして若い感じがするが…。
「まぁ…代表が連れてきたから、初めてではあるか…。目の前の邪魔な布掴んで開けてみ。今自分がどこで体を寝かせているかがわかるで。」
若い男性の声は発言と共にどこか遠くに行ったようだった。
言われるがままに、恐る恐るカーテンに手を差し伸べてベットの外をのぞいてみた。
「は?」
目が点になってしまった。
理由は明白。この寝ている場所…簡潔に言えば海の中だ。
色鮮やかなサンゴ礁に魚が無数に泳いでいる光景が目に入る。それも間近で…。
「気に入ったかい?ここ。」
「!?」
音もなく表れたその男は、自分がカーテンの外をのぞいた反対側のカーテンから顔だけをのぞいてこちらを凝視していた。よく見ると顔が整っていて、なかなかの美形だ。
「ここはね、怪我人を治療する場所だよ。君に説明するなら、病院といった方がよいかな?」
「でもこんな、海の中に病室が…あるなんておかしくないか…?」
「魂の濃度によって、病室の場所は違うんや。鳴上君を治療するには、ここほど安定していて安全な場所はないからな。
すまん、自己紹介が遅れたね。ここのトップを担ってる八重歯ってんだ。よろしく。」
そういうと八重歯という男は右手を差し出し握手を求めてきた。
それにこたえると、二カッと笑い「ノリええな」と一言。悪い人では今のところないようだ。
「あぁ、よろしく。あんたに…「あんたやない、八重歯や」すまん、八重歯さんに聞くのは野暮かもしれないが、俺を連れてきたであろう、長身で黒髪の女のこと知ってたりしないか?」
八重歯は握手していた手を放し、考えるかのような素振りを見せた。
直ぐに思い出したのか、そのまま言葉にしてきた。
「あぁ、兄ちゃんのいう長髪の黒髪の女ってのは…ここの代表のことやな。あの人以外に外部の者を連れ込むなんて考えにくい…。せや、直接会いに行くと良い。鳴上君が目覚めたってことは”修復”できたことと同義やからな。」
「それもそうか…。って修復ってなんのことだ?」
「気にすんな。今気にしても余計に混乱するだけやで。詳しいことは本人から聞くのが手っ取り早い。今から言うこと騙されたと思ってやってみ。その場で目を瞑り、2礼・3拍手した後、もう一度礼や。」
修復という発言の意図はわからないが、何かをしてくれたのは確かのようだ。
病院といっていたし、ここは礼を言いつついうことに従うまで。
鳴上は目を瞑りつつ、八重歯にお礼を言うと一言だけ
「またな。」
と、あちらも一言だけつぶやいた。
言われた通り、2礼・3拍手・1礼を行っていく。
周囲から見たらシュールな光景かもしれないが、郷に入っては郷に従えという言葉がある通り、今は言うことを聞いていくしかない…。
最後の1礼をした次の瞬間、俺はまたビックリすることになる。
現実離れした現実に頭を抱えつつも使命を託されるとは、この時の俺は思いもしなかった。