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車椅子が手に入り、令息はベッドの上以外の場所へと少しずつ行動範囲を広げた。自室から食堂の往復だけでも強い疲労を感じ、如何に自分の体力が落ちているかを思い知った。令息は、少しずつ体力をつけながら、行動範囲と行動時間を増やしていった。
その傍らにはいつも夫人がいた。
令息はようやく、夫人が令息の世話のために一切外出をしていないことに気付いた。今の夫人は本当に、令息のために人生を使っているのだと実感した。
憎んでいる相手に何故そのようなことができるのか。繰り返し沸き起こる疑問を声に出せば、使用人達が許さない予感がした。
その後も、2人の心の距離は大して縮まることもなく、令息は夫人のことが分からないままだった。
その日は晴天だった。
車椅子の扱いにも慣れ、体力も少しずつ回復した令息は、屋敷の庭園を散歩することにした。屋敷の外に出るのは、保養地に引っ越してから初めてのことである。
夫人にゆっくりと車椅子を押されながら庭園に入った令息は、その鮮やかな景色に目がくらんだ。
華やかな社交界にいた頃は、もっときらびやかなものや景色を当たり前の光景として目に映していたにも関わらず、令息は今色鮮やかな花々の世界がひどく遠いものに感じた。
保養が名目の地であるため、屋敷の内装は派手さとは無縁のものだった。下半身が動かなくなってから、生きることへの虚しさを感じていた令息も、身の回りを飾り立てようなどという気は起きなかった。夫人もまたそれらに関心がなく、誰かに命じられることもなかったため、ただ屋敷の整備を使用人達に行わさせていただけだった。
令息は花壇から目を逸らすために、上を向いた。下を向いたら、余計に惨めな気分になりそうだったからだ。
必然的に目に入った、どこまでも広がる青く澄み渡った晴天の空が、令息の視界を心を支配した。
「……空とは、こんなに綺麗だったのか……」
美しいものとは、宝石、花、着飾った令嬢。それが令息の認識だった。
いつかパーティーで言葉を交わした令嬢の1人が、星空が好きだと話していたことを令息は思い出した。その時の令息は、自分のものにならないものに思いを馳せたところで何の意味があるのかと令嬢の趣向を理解できなかった。
今、重要なことは手に入るかどうかではないのだと令息は理解した。
かの令嬢が何を思って星空を好きだと言ったのかは分からない。確かなことは、青い空がそこに在るというだけで、令息の心は感動で打ち震えているということだ。
このような感動を経験できたことも、令息は心から嬉しく思った。自分の罪も罰も全て洗い流せるようなそんな気持ちにさえなった。
「ブラン」
「…!」
「僕の側に居てくれてありがとう」
心が澄んだ気持ちになった令息は、生まれ変わったつもりで穏やかな言葉を紡ぐことにした。それが、今の自分に必要なことだと感じたのだ。
夫人は、令息に名前を呼ばれたこと、感謝を告げられたことに驚き、足が止まる。
「たぶん、ブランが側に居てくれたら、僕の人生はそれで素晴らしいものになる気がする。…嫌な思いは、これまでも、これからも、色々させてしまうと思うが、僕もできることを少しずつ増やして、ブランに返せるように努力をするから、これからも…よろしくお願いします」
令息は自分にしては優しい言葉を発することができたのではないかと安堵した。
けれども、夫人からの反応がすぐに返ってこないことに不安になり、上半身をどうにかひねり、夫人の顔を見上げた。
「っ!、す、すまない…泣かせるつもりはなかったんだ…」
令息は夫人が涙を浮かべていたことに戸惑った。慌てて謝罪をするも、夫人からの返事はまたもない。
ただ、夫人の瞳から涙が零れだした時、令息は強固に固まっていた夫人の中の何かが解けていくのを感じた。
やがて夫人は、何も言わないまま、涙を流しながら、その場で座り崩れた。脚に力が入らなくなったのだ。
車椅子を掴んだままの夫人の手に、令息はなんとか自分の手を重ねた。夫人の手は冷たく、令息は先程夫人が花瓶を洗っていたことを思い出した。
力が抜けて車椅子から落ちかける夫人の手を、令息はそのまま掴んだ。夫人は弱々しい力で少しだけ令息の手を握り返した。
夫婦を見守っていた使用人達も涙を流していた。
令息の目にも涙が滲んでいた。
自分達夫婦は今生まれて、これから生きていくのだと、そう思えたのだった。