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婚約破棄を巡る騒動の結果、侯爵令嬢と侯爵令息の結婚式は中止になったが、2人の婚姻手続きは予定通り行われた。
当事者達の責任者の話し合いの結果、傷害事件の被害者と加害者は正式な夫婦となったのだ。
今回の事件は当事者達がお互いに否があるため、それぞれに責任を持たせる形で手打ちにしようと当主達が決断したのであった。
事件のきっかけは侯爵令息の不貞。侯爵令息を愛していた侯爵令嬢は激怒し凶行に及んだ。侯爵令息が怪我により下半身不随となって二度と不貞を働けなくなったことも踏まえて、侯爵令嬢は侯爵令息に生涯尽くすことを贖罪とする。それが両家が公に発表した事件の顛末だ。
身体が不自由となった侯爵令息は、どの爵位も継ぐことなく、ストリクト侯爵領の保養地で生活することが決まった。もちろん、侯爵令息夫人となった侯爵令嬢も共に保養地に向かった。
得られるはずの幸福を全て失った侯爵令息は、保養地に着いた途端、屋敷に入る時間も待てずに激怒した。
「お前のせいだ!!よくもこんな非道なことができたな!!つまらないだけの女だと思っていたら、まさかこんなに嫉妬深いとは!!僕と結婚できて満足か!?」
侯爵令息夫人は、感情が抜け落ちた表情で冷たく言い返した。
「私は、何が起こってもあんたと男爵令嬢は愛し合って結婚するっていうあんたの言葉を信じて行動したのよ。宛が外れたのは私の方よ。あれがあんたの言う誠実で純粋な子なのね」
夫人の言葉に令息はたじろいだ。
愛する人を失った。心優しい人だと思っていた相手は、傷を負って倒れる恋人を心配する素振りすら見せず、歩けなくなった青年に役立たずの烙印を押して、風のように去っていったのだ。
「……彼女は、そんな人では」
「刺し傷が痛くて、男爵令嬢の言葉が聞こえてなかった?誠実な人間なら愛する人が倒れてたら、すぐさま駆けよるんじゃないの?それは私が人間という存在に高望みをしてるに過ぎないのかしら?」
信じていたものが崩れ去り、令息は心が闇に落ちてしまいそうで恐ろしかった。
己の心を光ある場所に踏みとどめるには、夫人への憎しみが必要だった。己が夫人に刺されて歩けなくなったことは紛れもない事実。余計なことを考えてしまえば心が死んでしまいそうだったのだ。
それをきちんと言葉で説明できるほどに、令息自身が己の感情を理解していたかどうかは別の話である。
「余計なことは言うな!!お前が今も生きていられるのは、僕の世話係が必要だからなんだ!!僕が生きているおかげだからな!!僕に感謝しろよ!!」
自分の怒鳴り声に言い返してこないことから、侯爵令息は夫人を言い負かすことができたのだと思い、少しだけ心を覆う暗い雲がどこかへ消えてくれた気がした。
しかし、夫人は悔しそうな顔など1つもしていない。令息の言葉を受けても表情は無のままだった。
「……これは、私の望んだ結果じゃないから感謝はしない。けど、罪を償えという思し召しだとは思っているから、私ができる限りのことはする」
何の感情も伝わってこない表情と声で夫人に淡々と告げられた令息は、戸惑いで何も言い返すことができなかった。どう答えたらいいのかが分からなかった。
そんな令息の様子をさして気に留めず、夫人は屋敷内の様子を確認すると言って先に歩みを再開した。令息は、夫人の背中を呆然と見つめることしかできなかった。
妻となった女性が何を考えているのか分からない。
つまらない女だと評価し、全てを理解したつもりでいた相手のことを、自分は何も理解してなかったのではないか。令息はこの時初めて、夫人のことで心をざわめかせたのだった。