鬼-③
塾において僕と福家は優等生だった。それは授業形式の集団授業ではなく、個々にテキストを解いて、理解できないところだけを先生に質問する補習型のスタイルだったことが大きい。誰ともコンタクトを取らなくて済むし、先生に指名されて人前で発言することがなかったので、僕と福家は安心して勉強に集中できた。
その日のノルマをこなして一番に帰ってもいいという許可をもらうのは、決まって僕か福家だった。ただ僕たちは家に帰ったところで特にやることがなく、遊び相手もいないことから、塾に残って学校の宿題をしたり、本を読んだりすることが多かった。
そうしていると三島さんから「他の子たちに教えてやって」と言われるようになった。他の生徒は「ゆっきょちゃんサボらんと教えてよ」と言っていたが、僕も福家もそれを喜んで引き受けた。理由は教える対象の中にサクラが居たからだ。
サクラは勉強ができる子だったので、滅多に先生や三島さんに質問したり、僕たちに聞いて来たりすることはなかった。ただ僕たちは直接サクラに教える機会がなくても、少しでも長い時間サクラを見ていられるだけで幸せだった。そのぐらい病的に好きだった。
それに三島さんから『サクラのことをよく観察しておく』ようにと言われていた事もあった。
「ちょっと危ない気がする」
三島さんのその言葉を僕たちは全く理解できないでいた。
「なんかあったんですか?」
福家が聞くと「なんとなく」と三島さんは答えた。
「なんとなく? 直感?」
僕が首を捻って聞くと「直感と経験則」と三島さんは答えた。
「モスキート音って知っとる?」
三島さんに言われ僕たちは顔を見合わせた後、首を振った。
「若者には聞こえて、高齢になってくると段々聞こえなくなってくる領域の音のこと」
僕たちは分かったような分からないような感じで首を捻ると「ほんだら可視光線は? 赤外線と紫外線」と聞かれ、その問い掛けにも僕たちはゆっくり頭を倒した。
「太陽の光も見える範囲と見えん範囲があって、見える範囲の波長を可視光線って言うて、赤、橙、黄色、緑、青、藍色、紫までざっくり色分けされとる」
「虹ですね」僕と福家が同時に言うと、三島は「そう」と頷いて続けた。
「それより外の波長は人の目では見えない範囲で、それぞれ赤より外の線で赤外線、紫より外の線で紫外線て言わとる」
三島さんの説明が何となく分かり、僕たちは何度も頷いた。
「実際音が鳴っとるけど聞こえる人と聞こえん人がおったり、光が降り注いどるけど見える範囲と見えん範囲があったりするように、人の感情を読み取れる人と読み取れん人がおって、偶々俺は感情の読み取りが出来ただけ。百パー当たる訳ではないけど」
僕たちが揃って「ほ」の口をして感心していると「だけんおまえら二人に声かけたんやで」と三島さんは笑った。
「俺の感覚やと、おまえら以上にサクラはいろいろ抱えとんやなぁ」
「ホンマですか?」「何をですか?」
僕と福家はすぐ三島さんの言葉に反応した。
三島さんは「うーん」と唸ってから続けた。
「あいつ基本的に真面目やし、委員長とかしとるけん先生からも親からもしっかりした子やと思われとるやろ。それって結構なストレスなんや。弱音を吐ける逃げ場がない。みんなに心配かけたらいかんって、一人で抱え込みやすいんやなぁ」
三島さんはそこで一端話を切って、僕と福家の顔を覗いた。
「それにあいつ可愛いやろ。ハーフっぽい顔立ちで、体つきも性格も早熟やし」
その問い掛けには僕も福家も顔を赤くする反応を見せ「イエス」の意思表示をした。
「良くも悪くも飛び抜けとるもんって標的になりやすいんよ。暴力的なことなら分かりやすいけど、陰湿なイジメは本人が言わんと分からん。サクラは人には言わんタイプや。イジめられてる自分が恥ずかしいと思う気持ちがあったり、人に心配かけたくないと思ったりしてな」
僕は黙って頷き、福家は「木村さん虐めらとるん?」と心配そうに聞いた。
三島さんは首を左右に振りながら「それは分からん。分からんけんよーく観察しとくんや」と言った。
「観察?」「観察?」
二人同時に発して首を捻ると、三島さんは「そう観察」と言ってこめかみを掻いた。「よーく観察して、少しでも普段と違うなと思ったらたら、すぐ声かけするようにしよう」。
それから僕と福家は、今まで以上にサクラの言動を注視するようになった。
サクラが女子の集団に混じり、普通にみんなで話している時、みんなが顔の前で大きく手を叩き爆笑する中、サクラも一応は笑っているが、笑い終わると急に冷めた表情を見せる時があった。
サクラは委員長をしていたし、そんな肩書きがなくてもクラスの中心人物だったので、サクラの周りには自然と人が集まったが、どうもサクラはそれを望んでいないようにも見えた。と言うのはサクラから誰かに話し掛けることがほとんどなかったからだ。サクラは常にみんなの聞き手で、みんなの木村さんだった。そしてサクラは周りに人がいなくなると、ひっそりと深い溜め息を吐いていた。そんな姿を確認するたび僕は福家と目を合わせ、勝手に苦しい気持ちになっていた。
三島さんが心配していた通り、サクラが本当に心を許して、安心して、ホッとした笑顔を見たことは恐らくあの時期ほとんどなかったと思う。