福-②
サクラは気にしていなかったかも知れない。小学二年から三年に上がって、クラス替えをしてからの話だ。
クラスの男子の視線のほとんどはサクラに集中していた。大袈裟ではなく僕たちの世代の男子は、みんな一度はサクラを好きになったことがあるに違いない。そのぐらいにサクラは可愛かったし、誰に対しても優しかったし、見ているだけでこっちが元気になれるぐらい、活発で利発で素直さが滲み出た女の子だった。
クラス替え直後に、サクラの隣にいた鬼松の机が余りに小さく、自分の方が大きい机に座っていることに気付いたサクラが、先生に「机を交換して良いですか?」と質問したことがあった。
あの時男子の多くが二人の仲をはやし立てたが、それは単に羨ましかったんだ。サクラが座っていた机に座れる鬼松を心から妬んだ。僕は恥ずかしくて二人を茶化したりできなかったが、内心羨ましくてしょうがなかった。
鬼松の顔がいつも以上に赤く染まっていたのは、みんなの視線が集中したからではなく、サクラに惚れたからだろうと僕は確信的に分っていた。
それは僕と鬼松は似た者同士だったし、実は僕にも同じようなことがあったからだ。
「龍海君、襟がまがっとるよ」
ある朝、教室の前で擦れ違いざまに挨拶を交わした後に付け加えられたその一言に、僕の心臓は一気に強く鼓動し始めた。手際よく僕の襟を直してくれている間、サクラの髪の香りが漂ってくる。僕が赤面したのは言うまでもない。顔そのものが心臓になったと錯覚するぐらい顔の血管が熱く脈打っていた。
「はい、大丈夫」
サクラは襟を直すと、名残惜しさも余韻もなく、そのまま僕から離れて行った。
僕は遠ざかるサクラに聞こえるか聞こえないかぐらいの声で「あ、あ、ありがとう」とギリギリ気持ちを伝えられた。
サクラにしてみれば、単なる親切心だったのだろう。でも当時の僕は女の子とほとんど話していなかったので『もしかして俺の事好きなのかな?』と本気で思っていた。後で分かる事だが、クラスの大半の男子がそう思っていた。何でそう思うに至ったかというサクラとのエピソードをみんな競って話したがった。それを聞いて分かる事は、サクラが誰に対しても優しく接していたという事実だった。
その後、鬼松とは自然と話すようになっていった。
サクラが近所の納屋塾に通っていると風の噂で聞いた時、僕と鬼松はすぐその塾に通おうと二人して決断した。今でも親に話せない秘密の一つだ。