エピローグ
香川県総合運動公園は北に瀬戸内海、南に五色台を臨む、自然の美しい場所にあった。瀬戸内海にはポツンポツンと小さな漁船が浮かび、古めかしいエンジン音を鳴り響かせながらゆっくりと進んでいた。穏やかな水面の輝きと共に映し出される漁船の風景は、見る人の心をも穏やかにして、ノスタルジックな世界に誘ってくれた。
総合運動公園内には野球場やサッカー場、テニスコートの他に、一般解放されている芝生の広場と遊具場が何面かある。それらを繋ぐ幅十メートルほどの大きな通りは、両サイドに桜の木が植えられ、花壇には様々な植物がプロフィールの書かれた看板と共に植えられてあった。
あと十二時間あまりで二〇〇八年が終わろうという時に、サクラは一人でその公園を歩いていた。大晦日の上、香川県では珍しい積雪で、白銀の世界にはサクラ以外誰の姿もなかった。五色台も白一色に染まり、粉雪のスモークで、頂上は空に溶けていくようにぼやけて見えた。
誰も汚していない真っ白な雪の絨毯は、一歩踏みしめるごとに『ギシッ、ギシッ』と音を出した。サクラは約束していた管理塔のすぐ横にある大きな屋根付の休憩所に着くと、寒さを確認するかのように何度か白い息を吐き出した。振り返って見ると、自分の足跡だけが真っ白なキャンバスに模様を残している。
あの日、サクラと三島が揃って塾を出ると、塾の玄関から少し離れた場所に鬼松と福家は座り込んで待っていた。二人はサクラと三島に気付くと静かに近寄ってきて、一言目を発する前にしゃくり上げて泣き始めた。それからどうにか声を絞り出し、とても聞き取れない「ごめんなさい」の言葉を何度も繰り返した。
サクラの中ではもう解決していたことだったので、「別にええよ」と言ったが、三島は違った。
「涙が出るかどうかで悲しさや反省の度合いは測れん。泣いたから許される、なんてことはない。サクラはもっと辛い思いをして、それを全部飲み込んどったんや」
「ゆっきょちゃん、もうええって」と、サクラは手を振ったが、三島は「いや、いかん」と、更に厳しい言葉を浴びせた。
「友達を見殺しにしてたんや。何回も。それを泣いて謝っただけで許してもらおうなんて、虫がええ話や」
鬼松と福家の呼吸は益々荒くなり、粘性のある鼻水が大量に出たり入ったりした。
「俺とサクラの信用を取り戻すために何をするんや?」
三島の問い掛けに鬼松が「もうしません」と言った。三島が「何をせんのや?」と聞くと鬼松は「見捨てません」と言い直した。しかしその言葉を「そんなもん当然じゃ」と三島はあっさり切り捨て、「おまえはどうするつもりなんや?」と福家に聞いた。
何も答えられない福家は泣き続け、振り絞って言った言葉をばっさり切られた鬼松も更に泣き、二人の鼻には見事な鼻風船ができていた。
二人の呼吸に合わせ、割れずに膨らんだり縮んだりする鼻風船を見て、サクラは思わず笑ってしまっていた。それに釣られて三島も吹き出した。鬼松も福家も無様な顔のまま泣きながら笑うと、鼻風船がパチンと割れた。
それで閃いたのか三島は、「じゃあ俺から提案がある」と言ってその日は解散になり、次の塾の時に段ボール箱を四つ持って三島は現れた。
「俺が勉強したお笑いのビデオ」
三島はそう言って、そのダンボール箱を鬼松と福家に分配した。
「これで二五十本ぐらい。まだこの倍ある。ほとんど三倍録画しとるけん、五百本見るとしたら、一本六時間の三千時間。CMと余白除いても二千五百時間はあるな。計算めんどいけん二千四百時間としたら、百日ぶっとおしで見たら大丈夫」
三島はそう言って箱を開け、中のビデオテープを何本か取り出して「懐かしいなぁ」と言って、一つ一つ収録内容が丁寧に書かれている背表紙を見ていった。
「勉強したってどういう意味?」
サクラが首を傾げて言うと、三島は「あっ、サクラも見た方がええかも」と言った。
「俺が生徒会長しとった時に足らんかったもんは、遊び心とかユーモアのセンスやって気付いたんや。人が集まる輪の中心には笑いがある。場の雰囲気が悪い時にみんなを笑わすぐらいの余裕や発想がなかったら、到底リーダーとしては認めてもらえんて分かった。その時からいろんなお笑い番組を録画して、何回も繰り返し見るようになった。テープが伸びたり拠れたりして画像が悪いんもあるし、デッキにテープが挟まって、そこだけハサミで切ってセロテープで無理やりに繋げとるやつもあるけど、捨てんと置いとって良かった」
三島はそう言って人差し指を立てた。
「これ見て勉強して一日一回はサクラを笑わせろ。サクラが泣いとっても悩んどっても怒っとっても。一日一善みたいなもんや。一日一笑!」
それが鬼松と福家が信頼を取り戻すために突きつけられた三島からのミッションだった。鬼松と福家が自信なさげにモジモジシテいると「出来るか出来んかはどうでもええ。やるんや」と三島が声を張った。
「まずやろうとすることが大事なんや。今日明日完璧にやれ言うとる訳ではない。誰かと比べる必要もないし、点数がつけられる訳でもない。そりゃダダ滑りして『さむっ!』ってなる時もあるよ、絶対。何回も失敗して、もう何がオモロいんか分からなくなって、それでも諦めずに続けて初めて得られるもんがあるんや。そうやってめちゃくちゃな苦労や努力の先にしか得られん自信というモノもあるんや。それは自分の奥底から湧き出てくる、人生を楽しく、逞しく生きていくために必要な、生きる核になるもんや。ある意味数学よりも難しいけん、分からんかったら何でも聞きに来い」
三島にしてみればそれが許しの言葉だったのだろう。以降鬼松と福家は三島の顔色を伺いながら、少しずつ関係を修復していった。
そして嘘偽りなく意識を変え、すぐ行動にも移した。
その日からビデオを分けて持ち帰り、面白いと思ったギャグやフレーズを記憶し、毎日サクラを笑わそうと試みた。サクラは愛想も含めて毎回一応は笑っていた。一方三島は「間が悪い」「それはもう見飽きとる」「そんなんでは笑わん」と全く認めない日々が続いた。
それでは駄目だと、二人は三島から借りたビデオだけでなく、リアルタイムでやっていたバラエティ番組も見て研究し始めた。更に三島に見せる前に、どのぐらい通用するかを積極的にサクラで試すようになった。それは単なる一発ギャグの真似事もあったし、漫才やコントのコピーもあった。
最初のうちは放課後、サクラだけに見てもらっていたが、昼休みにもサクラと仲のいい数人の女子も交えてネタを披露するようになり、授業と授業の十分間しかない休憩にまでそれをするようになっていった。何か思いついたことがあると休み時間まで待てずに、授業中にノートの切れ端にメモしてやり取りをして、しばしば教師から注意されたりもした。
六年生になると、教室後方のスペースを利用して二人がネタを披露するのは、もはや昼休みの定番になっていた。見物する生徒が二重三重に鬼松と福家を囲んだ。他のクラスから遅れて見にくる生徒から「前の人座ってよ」という声まであがりはじめた。真面目な二人は、それで益々中途半端なネタは見せられないと朝練もはじめた。
そうやって笑いに没頭していけばいくほど、人前で緊張する二人の体質は改善されていった。笑いを提供する側が照れていたり恥ずかしがったりしていては、伝わるものも伝わらなくなるし、見ている方が冷めてしまうこともある。という理屈よりも、緊張する自分とは全く違う人間を真面目に演じていたら、緊張する人間を演じない限り緊張しなくなった、というのが真理だった。
勿論その原動力にはサクラを見殺しにしていたことへの償いと、もう三島に幻滅されたくないという決意があったが、人を笑わせることへの快感も芽生えつつあった。
いずれにしても、二人が見違えるように変わっていったのは、二人とも本質的に真面目だったからに他ならない。二人はお笑い以外でも人をよく観察していた。いいところは盗み、真似しようと、常に学ぶ姿勢を持っていたし、同じ失敗は繰り返さないように考察と改善を入念に行っていた。
「元々原始的な笑いとは、緊張からの緩和、緩和から安堵への流れです」
小学六年時の夏の自由研究で「笑い」について調べたことが、二人の生真面目さを物語る格好のエピソードかも知れない。
「エサを捕獲する前は息を潜め、捕獲する時は格闘し、捕獲し終わると一息つく。そしてみんなで食べる時はリラックスしている。それが原始的な笑いであり、ベタですが絶対的でもあります。その手法はチャップリンやミスタービーンの映画でも使われています。危なっかしい主人公。『そんな所でそんなことして大丈夫?』と言う見る側の不安をあおり、緊張させる。そして意外な行動や発言、突発的な事故でその状況を乗り切り、見る者を安心させて笑わせるんです。『初めてのおつかい』とか『動物モノ』のテレビ番組がこれに分類されます」
その自由研究は校内で特別賞をもらった。全校生徒の前で発表する機会があり、二人はそれを三島に見せたいと、塾でも発表した。
「その王道の流れを汲んで解り易いのが『動き』とか『リアクション』とか『一芸』といった笑いになります。ドリフや吉本新喜劇で壁に衝突したり、イスや机が派手に壊れたりすると、それだけで客が湧きます。言葉はほとんど必要ないので、日本語が通じない人にもウケます。ただ文化が違うと引かれたりもします。そして次がオーソドックスな『しゃべくり』になる訳です。動きだけの笑いより、観る側も頭を使います。『漫才』や『コント』がそうです。当然原始的な緊張から緩和の要素も入ってます。それが更に進化し、観ている側にも『想像力』が求められる笑いへと移ります。これは年代とか好きなカルチャーとか察しの良さとか個人差があるので、一般受けしないこともあります。でも大袈裟かも知れませんが、この想像させる笑いによって、笑いは限りない自由を手に入れたのです」
福家が文章を読み、鬼松がその内容に沿った動きを見せ、聴いている人たちの笑いを誘った。時折福家が突っ込みを入れると、その笑いは二倍三倍に膨れ上がった。その笑い声こそが、二人がお笑いを研究した結果の正しさを証明した。
その後三島は大学卒業と同時に上京した。鬼松と福家とサクラが小学校を卒業し、中学に上がった二〇〇三年のことだった。ただ三島との別れ際、誰も涙は見せなかった。
「俺まだ一回も笑わせてもらってないで」
挑発的な笑みを浮かべそう言った三島に、涙でさようならを言うのは余りに悔しすぎた。むしろ、いつか絶対に笑わせてやると、鬼松と福家は引き続き笑いを追求しようと決意した。サクラもそんな二人の性格が分かっていたので、三島とはまた会うことになるだろうと、確信的に思っていたから涙は見せなかった。
それから二人は、宿泊学習や修学旅行の出し物、文化祭のフリーステージでオリジナルの漫才やコントを披露するのに加え、休日には町に出て商店街の広場や駅前で営業し、ちょっとした小遣い稼ぎをするまでになっていた。
その二人がネタ合わせしていたのが、総合運動公園にある屋根付きの休憩所だった。サクラも家から近い場所にあったので散歩がてら立ち寄ることがあったが、何の連絡なしに行っても鬼松と福家はまず間違いなくその場でお笑いの話をしていた。
「まだちょっと早いかな」
サクラが目を奪われていた足跡から視線をあげると、変わらない大きなシルエットが雪の中を歩いて来ていた。黒く大きな傘に、黒のニット帽、黒のロングコート、黒のブーツ、黒のサングラスに黒のヒゲ。人殺しのようなだが…。
「何でマフラーだけ赤なんですか?」
サクラが突っ込むと三島は「よく映えるだろ」とマフラーを摘んで笑った。確かに三島の黒は雪景色によく映えていたし、そのワンポイントの赤は更に目立った。
「元気やった?」
傘をたたみながら三島が聞くと、サクラは「それなりに」と答えた。三島は「ふ~ん」と頷いた。サクラは三島とは対照的に白のふわふわとしたセーターを着て、白いボンボンのついたニット帽を最も可愛く見える角度で頭に被せていた。
三島は化粧しているサクラに気づき「老けた?」と言うと、サクラは思いっきり眉をしかめて三島の肩を張り上げた。
びくともしない三島に「ゆっきょちゃんも老けたやん!」と続けて腹に正拳突きを喰らわせた。
「俺は髭が伸びただけや」
三島は右手で正拳突きを喰らったお腹をさすり、左手で伸びた髭を撫でながら答えた。その流れで左手にしていた腕時計を見ると、「そろそろ始まる」と言って、休憩所の椅子に腰掛けた。
サクラは首を傾げて「何が?」と言った。
「二人ならまだ来てないで」
そう言うサクラの言葉に笑顔で頷き、三島は黙って自分の横の席を叩いた。そして「あっそうや」と、サングラズを取って胸ポケットにしまった。
サクラが不思議そうにそこに腰掛けると、ちょうど正午を知らせるサイレンが鳴った。
近所の犬が一斉に遠吠えを始めた。
三島が小さな声で「わお~」とふざけて真似をした。
それにサクラは少しだけ笑った。
徐々にサイレンの音が細くなり、犬の声も遠くなった。
「何?」と聞こうと、息を吸ったサクラを三島が手を挙げて制し、指をパチンと鳴らした。
休憩所の屋根を支えている大きな支柱の影から、お揃いのグレーのスーツを着た男が二人、離陸する飛行機のように低姿勢からせり上がって二人の前に現れた。
その演出に、サクラは仰け反って驚いたが、すぐに笑顔になって拍手した。三島は腕を組み、髭を撫でて二人を見つめた。
「どうも~、ファイブカラーズです」
人前で赤面して話すらできなかった二人が、六年十一カ月試行錯誤したネタが始まった。
〈了〉




