桜-①
「おお、サクラ。大変だったな。うんこぶつけられたんやって」
あの日、ゆっきょちゃんがその一言を言ってくれなかったら、私の心はどうなっていたか分からない。ゆっきょちゃんは何のためらいもなく、悪意もなく、みんなの視線を気にすることもなく、その言葉を私に届けてくれた。
人前で泣いたのはあれが初めてだった。小さい頃から「あなたは長女なんだからしっかりしなさい」と言われ、近所の人からも「しっかりしてるわね」と言われ、先生からも友達からもしっかり者だと思われていた私は、もうそういう木村サクラを演じるしかなかった。何でもできて、誰にでも優しくて、我が儘も言わないし、泣いたりしないしっかり者。みんなからの期待を裏切らないよう、信用を失わないよう、誰よりも人の目を気にして恐る恐る生きてきた。
だからあの事件以前から、自分が煙たがられているのは気付いていた。でも今まで演じてきた自分をどう変えればいいのか分からなかった。そんな時にあの事件が起きて、私が演じていた木村サクラへの不満が爆発した。悲惨だった。あんなに残酷な仕打ちはもうないだろう。それでも私は両親にも言わなかったし、誰にも泣き言は言わなかった。枕だけが私の愚痴を受け止めて、涙を拭ってくれた。
心を許して話せる人がいなかった。良い所だけを見せようとしていたばかりに、誰にも本心を見せられない人間になっていた。本当は疲れていたのに。やりたくない事もあったのに。無理をしてでも、嫌な顔一つ見せずにやるのが自分なんだ。それでいいんだ。私がそうやる方がみんなに迷惑が掛からないんだと。
でも本当のところ、本音を吐露すること怖かったんだと思う。嫌われたらどうしよう。怒らせたらどうしよう。独りになったらどうしよう。
そんな私の不安も、私の回りに蔓延っていた重苦しい空気も、ゆっきょちゃんはあの一言で吹き飛ばしてくれた。
優等生だと言われていても、自分がやっている事が周りにどう見られているのだろうと不安に思う事ばかりだった。何をやっても「木村サクラなら当然だろう」と誰も褒めてくれなかったし、言葉にして感謝されることも、認めてくれることもなかった。
『おまえは正しいことをした』
その瞬間、自分の中にあったもやもやとしたモノが弾け飛んだ。そして『ハッピーバースディトゥーユー』が頭の中で流れた。「何で?」分からない。「変だよね?」変だね。
ただその時は、分かってくれている人がいたという安堵と喜びと、もうこれからは無理しなくて良いんだ、という強迫観念からの解放で、自分でも驚くほど数珠繋ぎの涙が勢いよく零れ出てきた。




