鬼-⑥
僕たちの学校は冬になると強制的にマラソンをさせられた。しかも体育の授業だけではなく、早朝と昼休みにも運動場に追いやられ、最低何週走らないと授業に出る資格はないという軍隊のような決まりがあった。
子供は風の子なんてのは大嘘だ。冬場風邪をひく生徒は山ほどいたし、体育の授業を見学する生徒も夏より冬の方が多かった。早朝から制服のままガンガン走って、そのまま着替えず一日過ごしたら馬鹿でも風邪を引くだろう。
「ただまーくんは風邪を引かなかった」、なんてブラックなことを言うと福家は笑って「いや、いつも鼻水垂らしとるけん、風邪は引くんちゃう? 風邪を引いとることに気付かんだけで」と返し、僕の笑いを誘った。
クソみたいな会話だと嫌悪する人がいるかも知れない。ただ子供でもそのぐらいのことは考えるし、子供だからそんなことを平気で口にして、腹を抱えて笑っていられる。そしてこれから話すのはそんなクソの話だ。
冬になるとまーくんも僕たちと同じように、ひたすらに運動場をぐるぐると走らされていた。
まーくんは内股で、腕を横に振り、クネクネと蛇行し、軸の定まらない走り方をした。ただ短距離走や球技などにおいては、明らかに運動能力の遅れを露呈してしまうまーくんだったが、マラソンという持久系の運動においては、多少崩れたフォームでも僕たちと変わらないスピードで走ることができていた。周りから「まーくん凄いね」と言われる数少ない機会だから、本人も随分無理して頑張っていたこともあったのだろう。
そんな冬のある日のことだった。その日は朝から格別に寒く、校庭の花壇にはしっかりとした霜柱が立っていた。
僕と福家は毎朝待ち合わせてグランドを並走した。特に何かを話すわけではなかったがノルマを達成したかどうか先生に調べられた時、証言してくれる人がいないと、もう一回走って来いと問答無用で教室を追い出されるので、お互いがアリバイ作りに必要だった。
その朝も僕たちはノルマだったグランド五周を走り終え、教室に戻った。
朝のホームルームまであと五分ぐらい時間があった。半分以上の生徒たちがすでに走り終えて教室に戻っていた。そのちょうど真ん中辺りにまーくんも立っていたのだが、何となく落ち着きがなく回りを気にしているようだった。
僕と福家が孤立していたまーくんに視線がいったのは、随分前に三島さんから言われたサクラに対する観察を他の人に対しても行っていたからだと思う。ただ、気付いただけで何も行動に起こさないのなら、それは気付いていないことに等しい。いや、自分では分かっているぶん、より罪深いかも知れない。
僕たち以外の誰がその異変に気付いて最初に声を挙げたのかは分からない。ただ僕か福家が最初に違う一声を挙げていれば、その後に起こった結果は随分と違っていただろう。
「まーくんうんこ漏らしてない!?」
教室全体に響き渡る声で誰かがそう叫んだ。鬼の首でも獲ったかのような嬉々とした響きは、残酷さなど考えない興味と本能だけが先行する子供たちの血を一気にたぎらせた。
まず女子の悲鳴が教室の壁を切り裂くように響き渡り、コンマ数秒遅れて男子の声が交じり飛んだ。
「くさっ!」「垂れてるよ!」「まじで!」「あほー!」「きたなっ!」「向こう行け!」「動くなボケ!」「出て行け」「帰れ!」「死ね!」
各々が思いつくままの言葉を遠慮なくまーくんに浴びせた。
まーくんはそれらの言葉と視線を一身に浴び、軽く蟹股の姿勢で微妙に震えながら固まっていた。排泄物は短パンの隙間を抜けて足を伝い、徐々に床へと向かっていた。まーくんの短パンとパンツも、その重みに耐え切れず少し下がっていた。
騒ぎ声は他のクラスにも響き渡り、廊下の窓と扉はあっという間に駆けつけた野次馬で埋め尽くされた。更にグランドを走り終わって帰ってきた生徒も徐々に増え、人数は倍増し、交錯する悲鳴や騒ぎ声は、固まって動けないまーくんに容赦なく浴びせられた。
その間、まーくんはずっと泣き喚いていたが、誰も助けに行かなかった。自分まで標的になるのがイヤなのか、臭くて汚いからイヤなのか、ただ騒ぎ立てることが楽しくて助けようなどとはこれっぽっちも思っていないのか、それは分からない。
まーくんの泣き声はマックスに達し、呼吸困難になりそうなぐらいしゃくり上げ、無様な蟹股のまま固まっていた。
それでも誰も救いの手を出さなかった。僕と福家は、どうすればいいのか目玉をぐるぐるさせて回りの様子を伺うだけだった。




