表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

プロトタイプシリーズ

狭間の人

作者: 雲野蜻蛉


 かろやかな鳥のさえずりに誘われて、ニコラレッティ・カノップスは天を仰いだ。ぽこぽこと浮かぶ雲がおだやかな風にのって、じつにのんきな風情で丘のむこうへと流れていく。

 季節は芽吹きの春。ややのんびりとではあるが、大地には若き草花が背をきそうように顔をのぞかせはじめている。じきにこのあたりも、匂いたつような緑でいっぱいになるはずだ。

 地面にしいた敷物のうえで、水筒の水をひと口に含んだ。

 こうして独りになるのはいつ以来だろう。騎士隊の面々と知り合ってからは、ずっと孤独を感じる暇もなかった。おもな連中と知遇をえたのは、連合将士大学の聴講(ちょうこう)生だった頃だから、みじかくとも六年の歳月が流れたことになる。こうして思うとなかなかに長いものだなと、彼は感慨ぶかく微笑を浮かべた。

 ──アミュレット騎士隊。俗にアミュレ騎士隊と呼ばれることもあるその騎士隊は、まったくおかしな集まりだ。

 とくに仕える国はもたず、依頼さえあれば国から個人までの仕事をうけることを信条としているが、世間にとおっているほど剣呑な仕事ばかりというわけでもなく、物騒なものとは無縁な任務もこなしてきた。

 そのほとんどが貴族の出身だが、おかしな組織にはかわった輩が集まるらしい。みずからの身分とやらには無頓着なものしかおらず、学生時代からのノリでやっている。その雰囲気のおかげか、近頃では平民出身の隊員もくわわり、だいぶ賑やかになってきた。

 そんな騎士隊の、いまや心臓部といってもよい彼が、こうしてひとり旅に遊んでいることには、もちろん理由があった。


 現在、隊は強制的な一時休息期間にはいっていた。理由はいくつかあるのだが、その第一は、つぎの任務のための政治的ごたごたの調整だ。

 アミュレット騎士隊には様々な国の人間が参加していて、それこそ、各々の出自をたどれば大陸六国にもれるところがない。それらが一団として好き勝手に暴れるものだから、入国される国がよい顔をしないのは当然であった。いつぞやの、ミリニア国軍からの正式依頼のような場合のほうが稀なのである。

 そんなわけで現在、隊長ラシャと、大支援者の娘であるジュリエッタが不在となった隊は機能を停止していた。

 そのままただ待っているというのもなんなので、このさい、すこし長めの休養をとろうということになった。じっさい、今度の調整はながくかかりそうであり、そう提案をすると、みな諸手をあげて賛成した。

 知るかぎりでは、サクはマウルとつれだって、マウルの故国ケシュカガで最近噂となっている宿場街へ観光に。

 ボナパルトとソロはおのれの機械欲を満たすべくティルゾームの工場見学に。コーネルは修行のため故郷ドーヴァーリへと帰るといっていた。

 誰の影響か、さいきん刀剣鑑賞に熱心なユティには、セレスフィアにいくと聞いたので、いちばん動向が気になる国でもあることだし、観光がてらの調査をおしつけた。

 どうも二、三の国でやらかして、とくにゆくアテもないドルマは、いまごろ酒場で呑んだくれているだろう。いちおう連絡係ということにしてはいるが、役に立つかどうかは怪しいものだ。


 そして自分はいま、こうして、ここにひとりでいる。

「さて、ではそろそろ行きますかね」

 ニコルは深呼吸をひとつすませると、蓋をしめた水筒を下におき、まるめた敷物とともに荷袋のなかへと押しこんだ。

 このまま丘をくだればつぎの町が見えてくるだろう。そこにもちいさな修道院があるとは、行き逢いになった牧童からきいた話だ。今度はそこで世話になろう。

 身支度をおえたニコルは、頭の上で帽子をちょいとなおすと、樫の杖を手に歩きはじめた。





 ネダの町。大陸の南。ミリニアの国境ぞいにあるちいさな山間の町である。ふるくは砦町として築かれ、もっぱら農耕や牧畜で細々と生計をたてていたが、のちに炭鉱の町として再開発され、発展をとげた。

 もっともいまは、無限にも思われたその採掘量もゆるやかな下降線をたどる一途であり、往時の面影をしのぶばかり、といった具合だった。


 教会まえの通りを、ひとりの老夫が、まだまだしっかりとした足取りでやってくる。

 目的地の教会は、郊外の高台にぽつんとあった。鐘楼(しょうろう)つきのその建物は背もたかく、通りのさきにつづく町屋とくらべても抜きん出ているため、遠目にはまるで、煉瓦(れんが)屋根の原に独りたつ老木のようにもみえた。

 きしむ鉄柵の門をあけ、荒れ放題の前庭に足をふみ入れたちょうどそのとき、灰色の空から堪えかねたように雨がふりだした。

 春もちかいとはいえ、大気がその暖かな恩恵をうけるのは先のことで、雨粒もまだまだおもく冷たい。己のめぐりあわせの悪さに愚痴のひとつもこぼしながら、老夫は時代を感じさせるその教会の扉をあけた。

 いまにも朽ちおちそうなみすぼらしい建物のなかは、シンと静まりかえっている。質素ながら頑丈な木造の内部はひろく、おごそかな荘厳さをかもす空気が、いまもなお満ちているようだった。

 不思議なもので、雨天の、光源のとぼしいなか、遺跡といってもいい建物のうちにいるというのに、重苦しさはまったく感じない。それこそ、この場所をまだ神がお見捨てになっていない証だと老夫は考えていた。

 祭壇のうえにちいさな灯火がふたつ、赤々と輝いていた。その前に人影がうずくまっている。木の床にひざまづいて頭をたれ、熱心な祈りの最中にあるらしい。きちんとした修道女の身なりである長丈の上下をきたその肩の線は、まだほそく幼い。

「やあ、ベルチェシカ。来ていたのかい」

そう話しかけながら、老夫は帽子をとって祭壇に一礼すると、しずかに人影にあゆみ寄った。

 ベルチェシカとよばれた少女は、きっちりと最後までお祈りを終えてから、やっとたち上がり、口許をやわらげた。

「こんにちは、管理人さん。お邪魔しています」

「なに言うんだい。ここはもともとお前さんがたの家も同然じゃあないか。そんなこと口にするもんじゃないよ」

「······ハイ」

ベルチェシカはすこしはにかむように答えて、頭から目深にかぶったフードをそっとあげた。

 年頃の少女にしてはみじかい、すこしハネっ気のある栗色の髪に、芯の強さをたたえた水色の瞳が印象的だ。鼻のあたりにほのかに散ったソバカスが、その落ち着いた印象の顔立ちにちょっぴりの茶目っ気をそえている。

「お爺さん、これ···」

 そういって、ベルチェシカは懐から小袋をとりだし、掌にのせてさし出した。巾着につつまれた硬そうな中身が、わずかにカチャリと音をたてた。老夫はすこしこまったように微笑を浮かべてから、しばらくして、それをそっと彼女のほうへもどした。

「もういいんだよ。それはお前さんのために使いな。神様だって、きっと、そう仰るはずさね」

 だがベルチェシカは首を横にふると、静かにまたそれをさし出す。そのまま固まったように動かない。老管理人はとうとう折れて、その小袋をうけ取った。

「ありがとうよ。これは必ず、この教会のために使わせてもらうからな。ここへ祈りに来る人達も、さぞ喜んでくれることだろうよ」

 老夫は知っていた。もちろん彼女自身もわかっているのだろう。この教会に人の足が絶えて久しいことを。だが、それでも彼女は、時おりこうして小金をもってくることを止めようとはしなかった。そうすることで、この場所を護れると信じていたいのだろう。

 小袋を手渡すと、ベルチェシカはやっと、歳相応の笑顔をみせて言った。

「大丈夫よ。これでも最近はすこしやれるようになったのよ、私。前みたいに、食べる分まで削ったりしてないから安心して」

 そうかい、と笑ってこたえてから、管理人の老爺は、祭壇でしずかに燃える灯火を見つめてつぶやいた。

「もう何年になるかねェ。ここが子供たちの声でにぎやかだったのは······」

ベルチェシカの瞳に、わずかな陰がさした。



 まだこの町が炭鉱の熱ではなやいでいた頃、この場所も人々のやすらぎでみちていた。

 かつて、ここにはひとりの高僧が起居しており、その名を慕って、おおくのわかい僧が集まってきた。くわえて、その僧侶たちの熱意をささえたのが、炭鉱というこの町の特徴だった。

 炭鉱の仕事にはつねに危険がつきまとう。事故もおおく、医者などあろうはずのない山間に住まいする人々は皆、僧侶たちの癒しの奇蹟だけが頼りだったのだ。

 そんなわけだから、不幸にも親を失ってしまう子供達も少なくなく、その受け入れ先としても修道院は力をつくした。当時は孤児院さながら、子供達のたくましい笑い声があふれていたものだ。ここでおおくの子供が若者となって巣立ち、なかには僧への道をえらぶ者もでた。

 ベルチェシカもまた、そうした子供たちのひとりであった。もっとも、彼女の記憶にふた親の姿はない。物心がつくまえに死に別れたらしく、彼女はここで育った。歳の離れた兄がひとりいる、とは人づてに聞いたことがあるが、町を離れてしまったのか、いまもって会えずじまいである。ただうっすらと、ここの中庭でわかい僧に遊んでもらった記憶がのこるのみだ。

 彼女が五歳になる頃には、この町の産業も斜陽(しゃよう)にむかっていた。なんとか産出量をたもとうと無理な採掘がくりかえされ、結果、大崩落が頻発した。

 悪いことは重なるもので、その年、この修道院の主であった高僧が天へと召された。なかなか後任のものはあらわれず、わかい僧らも奮闘したが、まだまだ修行不足の彼らにとってその荷はおもく、いかんともしがたいものであった。

 そうして、この町の勢いが衰えるのとおなじくして、この教会の温かな日々もまた、彩りを失っていった。僧達はおのれの無力さを嘆きつつ、ひとり、またひとりと町を去り、子供達もまた、はやめの旅立ちを余儀なくされて、それぞれの引きとり先へと散っていったのだった。

 この教会の子供。そういう表現をするのならば、ベルチェシカは、もっとも年少の末娘ということになるのだろう。

 老管理人は、自分の懐古の念によって彼女の表情が曇ったことにきづき、あわてていった。

「悪い悪い。寂しい思いをさせちまったかね。歳をとると、どうも昔のことばかりよくみえていけねえや」

 ベルチェシカは、すこしだけ笑むと、首を横にふった。

「いいのよ。お爺さんにとっても、ここは思いでの場所だもんね」

 ベルチェシカは、もういちど祭壇に礼をすると、奥の部屋へときえた。しばらくして、先程までとはまったく違ったいでたちで、仕度室のドアを開けてでてきた。

 長袖服のうえから無袖のベストのようなものをはおり、下は太股も露になった短めのパンツに、足首がしっかりと固定された革のブーツを履いている。仕上げに大きめのスカーフを首元に巻きながら、彼女は言った。

「じゃ、お爺さん、行ってきます」

 老管理人はその姿を痛ましくおもいながら、はいよ、とこたえて彼女を送りだした。そうして、いちども祭壇のほうをふり向かぬまま去っていく彼女の背中が、閉めた扉のむこうにきえるまで見送っていた。

 なにをやっているかはうすうす知っている。運わるく、彼女のひき受け先の工場が店をたたみ、まだ幼かった彼女は、そうでもしなければ生き残れなかったであろうことも。

 音沙汰も絶えて数年がたち、つい二年前、ひょっこり戻ってきてからずっと、彼女はこうして教会にかよってくるようになった。

 老管理人は哀しげに頭をふって、彼女ののこしていった燭台の灯を消そうとして───扉のひらく重たげな音でその手をとめてふり返った。

 最初は彼女が戻ってきたのかと思った。が、どうやら違うようだ。暗がりに浮かぶその人影はあきらかに少女のものではなく、また、背も高い。肩には簡素な荷をかつぎ、片手には杖を、もう片方の手には聖堂に入るさいにとった帽子が抱えられている。

 ひと目で僧とわかるその人影は、雨に濡れたすそから滴る雨粒で床をぬらすことを気にしているのか、扉口にたったまま、少しだけ声をはって尋ねた。

「失礼。こちらがこの町唯一の修道院とうかがってやってきたのですが」

 この建物に僧が訪ねてくるなんて、いったいいつ以来だろう。老管理人はそうおもいながら、灯火はそのままに、彼を迎えにでた。扉口にたっていた僧は歳もわかく、茶色の髪に茶色の瞳。柔和そうな笑みをうかべた好青年といった印象である。

 彼は懐から一冊の革手帳をとりだしてみせた。だが、老管理人はその手帳をみずとも、彼がきた目的を、そのいでたちから察していた。みるも懐かしき、古い古いしきたりだ。

「これはこれは。千日一歩の修行僧様でございますか」

 ご(けい)眼、おそれいります。そういって、ニコルは柔らかく笑みをかえした。



 千日一歩修行とは、大陸でもっともおおい信者をほこるミロス神教の修行形態のひとつである。この教の僧侶は出家して修道院で修行を積んだあと、一人前の神父となるために、ふたつの道を選択することができる。

 ひとつは神学校をへて神父となる道。そしてもうひとつが、この千日一歩修行であった。

 従事する修道院の院長から免状をえたのち、修行者は一着の着替えと、水筒やわずかの食糧、敷物や寝袋といったかんたんな荷を背にし、三年の間を旅のなかで過ごす。

 修行僧の証である帽子と樫の杖を手に町々を渡りあるき、各地の修道院で世話になりながら、教えを説き、怪我人を診たりして修行をつむ。おなじ土地にいられるのは長くて一ヶ月。そこで修行の成果が認められれば、その証として、手持ちの手帳に院長から証書と印が与えられ、修行者は、またつぎの町をめざす。

 そうして、三年を過ごしたのち、やはり試験をうけ、晴れて正式な神父となることができるのである。 

 そのさい、どこでどういう修行を積んできたのかがひと目でわかる手帳の中身が、採点におおきく影響することは言うまでもないだろう。前者を知識優先とするならば、この千日一歩はより実践にそくした修行道といえる。

 かつては、こういった志のたかい道をえらぶ若い僧もおおくいた。が、いかんせん、いまは戦乱の世である。さすがに表立って僧をおそう不埒(ふらち)な輩はすくないものの、皆無ではなく、血の匂いに荒ぶる戦獣もおおきな脅威であった。

 門外不出で、唯一の癒しの秘術をもつ僧侶は戦場でもひく手あまたである。そこいらを歩いていた修行僧が、強引に戦場へとかりだされ、敗戦のまきぞえで殉教した、という話も、あながちたとえ話や冗談のたぐいとはいえなかった。乱世のなかでは熱意ある僧ほど戦場へ魅かれやすいのだ。

 家を捨ててまで僧となったのに、無益な戦にかりだされては、なんのための修行か。最近ではそう考える若い僧がふえていた。

 彼らの言い分ももっともで、彼らの術は、愚にもつかぬ戦をくり返す者達よりも、より貧しく弱い人々を救うためにあるのだ。

 だが、このニコラレッティ・カノップスの考えは、すこし違っていた。



 祈りを終えてたちあがったニコルに、管理人とおぼしき老人から拭き物が手渡された。彼は礼をいって、ありがたくそれを借りうけた。老管理人は、じつに懐かしそうな口ぶりでいった。

「千日一歩のご修行とは懐かしいですなぁ。修行僧の方が当院によられるのも、いったいいつ以来のことか······」

「ご老人、なかなか趣のある院ですね。私が知るかぎりではもっとも古風な造りといい、この見事な木組みの妙といい、ぜひゆっくりと見学させていただきたいものです。よろしけれぱ、神父様にもご挨拶もうしあげたいのですが」

 管理人の表情が申し訳なさそうに曇った。

「それなのですが、悪いことは言わんから、他所へ行かれたほうがよろしいように思います。なぜなら当院には、もう随分ながいこと神父様は着任なされておられませんでな」

「それは───ほぅ、そうですか。では、ここの責任者は貴方ということでよろしいですか?」

「いやいや、とんでもない。私ゃただ、この院のお世話をしとるだけで、僧というわけでもないですし。土地はいちおう町役あずかりとはなっておりますが、そういった権限があるとまでは······」

 そもそもこの修道院じたいも、当時の貴族の私財によって建てられたもので、その家もいまやすでにない。ただどうしてもというのなら、神父不在の院に、ながれてきた僧をむかえいれて功徳をほどこしてもらうというのはよくあることでもあるし、証書の最後に町役が名をつらねれば、この若い僧の役にたてるかもしれない。

 そう告げると、しかしその若い僧はちょっと考えこむような仕草をみせた。

「なるほど。まあ、無人というのなら仕方ないのかもしれません。とはいえ我をはるようで心苦しいのですが、私としましては、貴方はもちろんのこと、この院に関係のあられる皆様にきちんとお許しをいただいてから修行をはじめたいのです。ほんとうにそういった方はおられませんか?」

 本格的できっちりとしたお方のようだ。しかもこの修行にかけておられる。管理人はうなずいてこたえた。

「そうですな。そういうことであれば、この教会で育った末の娘がおりますがな」

 総本山から派遣される神父が不在のいま、この場所で学び育った、その「弟子」が第一ということになるだろう。

「よかった。では、その娘さんにお会いできますか? ここに住んでおられるのですか?」

 管理人は首をふった。

「そういうわけでもないのです。名をベルチェシカと申しまして、弟子といっても、正式な出家をしとるわけではございません。本人はその意向があったようですが、なんせここが傾いてしまったのはあの娘が七歳の頃のことでして、僧の方々も道を決めさせるにはまだ忍びないと仰られましてな。みんなから愛されていた娘でしたわ」

「わかりました。では、その娘さんのお宅をお訪ねするといたしましょう」




 山間の雨は来るのも去るのもはやい。ニコルは雨がやむのを待って、修道院を辞し、教えてもらった場所へと足をむけた。

 そのベルチェシカという娘は現在十五歳ほど。茶の短めの髪に水色の瞳であるという。どうも町の中心部に寝起きしているらしいとのことであった。

 そこへと向かう途上のこと。町のなかをあるくニコルの胸中に、不思議なひっ掛かりのようなものが芽生えはじめていた。

 産業が傾いているというのは本当だろう。雨に濡れた町並みはどこか暗澹(あんたん)とした重い雰囲気をまとわりつかせているし、窓ガラスが割れたままになっている空き家もおおい。石畳の道も、不様に汚れているわけではないのだが、逆に、当然ついているであろう人々の生活感の匂い、といったものさえ希薄なような気がした。

 にもかかわらず、行き交ういくばくかの人はみな、妙に明るい表情をしている。

 これまでにもおおくの町をめぐってきたニコルは、つねづね、町とはそこに生きる人達の生活をうつす鏡だと実感させられてきた。

 生きる力にあふれ、貧しいながらも前向きにすすむ人達のすむ町は、雑然とはしていても活力に富んでいるし、礼を重んじる厳格な人々のすむ町は、毅然とした落ち着きがある。

 だが、そんな彼の目からすると、この町の様子から感じとられるものと、そこの住人の表情とが、どうしても結びつかなかった。なんというか、不思議な浮わつきが感じられるのだ。

 これが炭鉱町の住人の逞しさであるのだろうかと、心中で首をひねりながら、いつしか彼は町の中心部へとやってきた。

 ふるい造りの町によくあるように、町の中心には、そこそこな広さの空間がぽっかりと空いて広場となっていた。そのさらに中央には、地下水か湧水を利用した噴水が、チロチロと頼りない水音をたてている。すえてある古い女神の石像もどことなくうす寒そうだ。

建物はその広場から放射状にひろがっており、この水を頼りにして町が築かれていったことがうかがえる。

 そのささやかな噴水とはべつに、広場にはもうひとつ、彼の目をひくものがあった。

 空き家とおぼしきしっかりとした石積みづくりの建物の扉が開け放たれており、そこに五人ほどの行列ができていた。

 チラリとなかをうかがいみると、まだなん人も、長椅子に腰かけて待っている風情である。ニコルは、ちょうどそこから出てきた炭鉱夫風の男に声をかけてみた。

「もし、失礼。こちらの建物はなにをなさっておられる所でしょう?」

 中年のがっちりした男は、胡散臭そうな目つきでニコルをみると、びっこを引いた足をかるく抑えながらこたえた。

「なにって、怪我や病を診てもらってんだよ、ここでな。真人(しんじん)の使徒ってんだ。知らねェか?」

「怪我や病を···? はて、それはどうやって······」

「どうやってもこうやっても、奇蹟の術でに決まってんだろ、坊さんよ。アンタらがやるアレだよ」

 ニコルは眉根をよせた。それはいかにも妙な話だ。

「慈愛の奇蹟を···? ですか。我々の同門以外にそのようなことを行える者が······」

「まあ、民間の治療ってことでカネは取られるがな。それでも、ここを見捨てちまうようなどこかのお偉い方よりはずいぶんマシさ」

 男は皮肉めいた口調でくるりときびすを返すと、

「まったく真人様々だあ。いまにこの町は、治療をのぞむ連中であふれかえることになるぜ。そうすりゃあ、昔のような騒がしくも懐かしい日々が戻ってくるだろうよ!」

聞こえよがしにそう言いながら、びっこ引き引き、辻を曲がって姿を消した。

 それから半刻ほど、ニコルはそうして、治療院とでもいえる建物のまえに立ち、思案にふけっていた。

 あれから数人の患者達に治療した箇所をみせてもらった。たしかに、治癒の術を使ったと思われる魔力の痕跡がみてとれた。まごうことなく、この中には自分達とおなじ力をつかう者がいる。それはもはや疑いようがなかった。

 問題は、その手際がまちまちであるということだ。彼がみるに、そこそこの腕の者はせいぜいひとりかふたりで、のこりはみな初心者級の者ばかり、といったていどだ。術式後の処置もいい加減で、とても志のたかい者がやる仕事ではない。

 なかには、ニコルでさえも治療不可能な病の者にまで、よくなっていると信じこませている例さえあった。それほどの病であれば、数十年の実践修行をつんだ名僧でやっと治せるかどうかの領域である。おそらく、痛みどめの薬草と一時の活力をあたえてとりつくろっているのだろう。

 同門のおおくが、聞けばさぞや憤慨するであろう事例だが、ニコルはさして悪いことのようには感じていなかった。

 もちろん誉められたことではない。だが治らぬからあきらめろ、などと言うよりは、まだ親身であるともいえる。気持ちを前向きにもつことで、真の奇蹟がおこる場合もある。

 ただ、こういった事例はかならず本部に報せることになっていて、ここが思案のしどころだった。ニコルは悩んだ。

 そもそもミロス神教がおこなう慈愛の奇蹟は、秘中の秘である。

 それを学ぶことは、同教で洗礼をうけ、生涯を信仰と修行についやす誓いをたてたものにしか許されぬことであり、また教える側もおなじであった。もし還俗(げんぞく)した者や、道をはずした僧がそれをひろめていることが知られれば、鉄の掟によって裁かれることになる。それも国家が内々に執行し、教会の名が表にでることはけっしてないほどの徹底ぶりである。

 そうまでして教会が神経をとがらせる理由はふたつ。教会側が奇蹟と称しているこの術は、素養と情熱さえあれば学ぶことは誰にでも可能であるということと、この術の存在そのものが、教会への信仰へ直結するということであった。この技術の独占こそが、ミロス神教を大陸一の宗派におしあげたといっても過言ではないだろう。

 それは充分わかっている。わかっているのだが、ニコルはどうしても、この考えを好きにはなれなかった。

 とにかく、まずは人物を見てみるか。

 ここを経営する輩は「真人の使徒」なりを名乗っているから、どこかほかの教義の者である可能性もある。もしそうなれば、他の教義とのもめごとを嫌う宗派の者としては、ただ黙して去るのみだが、彼がみるに、どうもそういう風でもないようだ。おそらくは客集めのためのただの看板であろう。

「御免下さい」

 ニコルは帽子をとると、声をかけてなかへと入った。戸口をはいったすぐ手前には、長椅子が二列に三脚ほどならんでおいてあり、その奥にカウンターがすえてあった。どうやらもとは酒場だったらしい。そのカウンターの向こうに、ひとり、受付とみえる白いフードをかぶった男が座っていた。

「失礼。私はカノップスと申します。こちらの代表の方に御挨拶させていただきたいのですが」

 男はチラリとフードの下からニコルをみやると、かわいた声でひと言、お待ちを、といって席をたち、二階へとつづく階段をあがっていった。

 いわれたとおりニコルが待とうと、さらに建物の端々へ目をやっていたときだった。

 カウンターの奥の、診察室のものとおぼしき仕切り布が音をたててひらき、ひとりの僧がでてきた。修道服のようなものを着込んでフードをかぶってはいるが、そのシルエットは明らかに女性のものだ。みるかぎり、背も低く、まだかなり若いようだ。

 その尼僧はロビーにつっ立つニコルに気づくと、ギヨッとしたように一瞬固まったが、彼が礼をすると、気をとりなおしたようにぎこちない礼を返し、落ち着きはらって裏口のドアから出ていった。手に薬箱らしきものを持っていたから、薬草の補充にでもいくところだったのだろう。

 ニコルはふたたび思案にもどり、受付の男がもってくるであろう回答を待った。




 いつかはやってくるだろうと思ってはいたが、とうとう今日、その時がきた。

 裏口から外へとでたベルチェシカは、暗い路地のもと、家壁にそっと背をあずけた。抱えた薬箱が小刻みに音をたてているのがわかる。あの焦げ茶色の修道服、見間違えようはずもない。その姿は、彼女の幸せな記憶のなかにしっかりと残っている。

 きづかれただろうか。いや、そもそもむこうは自分のことを知っているわけがない。

 そういえば手には杖をもっていたし、荷物のようなものを負っていた気もする。とすれば、やっとこの教区の支部がおもい腰をあげてあらたに派遣してきた神父ではなく、旅の修行僧かもしれない。

 いずれにしても、確かめる必要はある。

 彼女は気をおちつかせると、ふたたび裏口のドアを開いてなかにもどり、つとめて音をころして二階の、これから会談がもたれるであろう部屋へと忍んでいった。

 どうやら取り次ぎはすんだようで、その部屋からはなにやら挨拶をかわすふたりの会話が漏れきこえている。

 ベルチェシカはそっとドアに近寄ると、ほんのわずかにあけて、なかの会話に耳を澄ませた。

「いやはや、ミロス教の方がこの町を訪れになるとは、懐かしいですな」

 やはり白いローブを着込んだ髭面の大男は、ニコルに席をすすめると、自分も前の椅子へ深々と腰かけた。ニコルを案内した男もそのままのこり、その後ろへとひかえる。

「おそれいります。お初にお目もじします、真人様。私はいまだ修行の半ばにあります未熟者で、ニコラレッティ・カノップスと申します」

「いやいや」男は礼を返しつつ、慌てたふうに訂正した。

「私などを真人様とお間違いになるとはお人が悪い。真人様は私なぞ足許にもおよばぬ立派な御方ですぞ。私は真人のお導きにより、ここの差配をつとめているだけにすぎません」

「では院長とお呼びしても?」

「それでよろしいと存じます」

 ふたりはあらためて座をさだめて向き合った。ニコルはいつもの微笑み顔を絶やさず、興味深そうにしてたずねた。

「さきほどのお言葉からさっするに、こちらの町にはもうずいぶんとお長いようですが、ひょっとしてこちらのご出身でいらっしゃいますか」

「ああ···まあ、当たらずとも遠からず、ですかな。ここではありませんが、近くの村で育ちました。それで? どういった御用向きで?」

 ニコルは本当になんでもなさそうに続けた。

「いえ。私は今日、この町に修行の途上で立ちよったもので、しばらくこの町で修養を積もうと思ったのですが、なにやら先達の方々がおられると耳にしましたので、御挨拶にと思いまして」

 あまりにニコルが自然体なために、院長を名乗る男はいささか毒気を抜かれたように、それはどうもご丁寧に、とだけ返した。そして、どこかさぐるような目つきでニコルを見つめた。それら一切をまったく介さずに受け流したニコルは、いよいよ核心にせまる質問を口にした。

「じつは先ほど、こっそりとお仕事をみせていただいたのですが、さすがのお手並みであらせられますな。ここの方は、さぞよき修養を積まれたのでしょう」

 院長の眼が一瞬ギラリと光ったように思われた。

「無論です。真人がお選びになった者数名に、勿体なくも御自らご教示下さったのです」

「なるほど、素晴らしい」

 ニコルはうなずいてから、帽子と杖を手にゆっくりと立ちあがった。

「貴重な御時間をいただき、感謝いたします。では私はこれにて」

「もうお帰りで」

 院長はまたしても意外そうな表情をみせた。当然ふかく詮索されるだろう。そう身構えていたものが、みごとに肩すかしを食った、という感じである。

「我らの術に、あまり興味がおありではないようですが···このことはそちらの本部に報告なさいますかな」

 いままで院長の背後にだまって立っていた男がわずかに身じろぎをするのをニコルは見逃さなかった。さも考えているかのような間をとってから、彼はこう応えた。

「私も修行の身ですから、旅先で得た経験を黙っておくわけにも参りません。ですが······そうですね。そのことについては、さして報告する必要も感じません。こう申してはなんですが、個人的には、こうした処がふえることは喜ばしいと思っておりますので。まあ···少々御布施のほうがお高いような気はしますが···あっ、いや、これは失礼」

 院長は余裕のある態度でかれの失言をゆるし、にやりと笑みを浮かべた。

「よいのですよ。確かにおっしゃるとおり。ですが、ここにはない薬草にしても、民への奉仕にしても、先立つものはどうしても必要です」

「ご苦労、お察しします。それでは私はこれにて失礼を。ともにか弱き人々のため尽くしてまいりましょう」

 ニコルはそういって帽子をかぶると、悠然とした足どりで建物を後にした。



 なんて奴なの。あんなのがミロス教会にいるなんて···。

 すばやくべつの部屋にうつってニコルをやり過ごしたベルチェシカは、その部屋の窓から、通りを歩み去る僧侶をにらみつけた。

 もちろん、こんな所にいる自分が言えたことではない。しかし、だからといって、あれが厳格さで誉れたかいミロス教の僧に許されることだろうか。

 どんな理由にしろ、ここではとても人々に言えぬような手段でえた人助けのための力を、貧民からカネをむしりとるために使っているのだ。だが彼はそれを見逃すばかりか、命惜しさに黙認するようなことまでいった。とても僧のすることとは思えない。

 ベルチェシカは、モヤモヤとした気分を溜息とともにはきだした。まあいい。あんな奴なら、たとえ見咎められたにしても、告訴されるまでにはいかないはずだ。



 町はずれの修道院まで帰ってきたニコルを、待っていた管理人が出迎えた。杖と帽子をあずかってくれる管理人に、ニコルは真人の使徒をなのる集団にあったことを話した。管理人はばつが悪そうにわびた。

「申しわけないです。ただ、私も、ミロス神教徒の端くれ。告げ口するような真似をするのは···」

「わかりました。いや、いいのです。そのことについてはお互い、もう申しますまい」

 ホッとしたような老管理人は、

「それで、ベルチェシカにはお会いになれましたか?」

ニコルはふくみ笑いをみせながら、祭壇にゆらめく灯火をみつめて答えた。

「ええ、多分ね」




 こうしてニコルの、ネダの町での修行がはじまった。日中は噂をききつけて訪れる怪我人病人を診察し、夜は布教のため、説法で得意の弁舌をふるった。

 最初は、何を今さらといった反応しかみせなかった町の衆だった。だが一方で、昔を知る老人たちなどは教会に人がもどってくれてきたことを喜んでくれ、

そういった人々や管理人が熱心に彼の腕のよさを吹聴してくれたため、しだいしだいに人足が増えていった。

 なにしろ、どんな重症であれ大病であれ熱心に診てくれ、しかも金は一切かからない。それがわかると人足はさらに伸びた。心あるミロス教徒はそれをさらに喜んで、自分たちの家で育てた野菜などを差し入れするようになった。





「いったいどういうつもりですか」

 開口いちばん、ベルチェシカは、湖色の瞳を怒りで輝かせながら、ニコルを睨めつけた。

「おや、いらっしゃい。やっとお目にかかれまして光栄です。もうすこし早くこられるとふんでいたのですが」

 ニコルはそらとぼけた調子で、この教会最後の養い子を部屋にまねきいれた。座をすすめたが、少女はそれを受けるでもなく、ただつっ立って、彼を怪訝な表情でにらみつけたままでいる。

「いったい誰の許可をえて、ここに居ついているの。貴方みたいな人に、この院はふさわしくないはずでしょう」

ニコルは、わざと大仰に驚いてみせた。

「おや、これは手厳しいですね。許可なら、ここの町役さん達からいただきましたよ? それにここはミロス教の修道院です。私の資質はともかく、修道士が仕事をしてなんの咎めがありましょう」

 ベルチェシカは、ぐっと言葉につまって立ちつくした。そんな彼女に、ニコルは微笑みかけ、つとめて優しい口調で、ふたたび椅子を勧めた。彼女がしぶしぶ席につくと、ポットからあたたかい飲み物を、彼女の分のカップに注いだ。

「これは信者の方がすすめてくれたミルク茶です。貴女もちいさい頃、よく飲まれていたのではないですか?」

 ベルチェシカは、だまって目のまえに置かれたカップのなかをみつめた。たしかに懐かしい香りだ。味はいわゆる薬草茶で、丈夫な体をつくるためだとよく飲まされた。まだ幼かった私が苦いと駄々をこねると、こっそりミルクをおおめにまぜてくれたっけ。

「あらためましてご挨拶を。私はニコラレッティ・カノップス。ご覧のとおりの修行僧で、ただいま千日一歩の修行行脚をしております」

 ベルチェシカはむすっとした表情を崩さぬまま、名乗ったニコルを上目遣いにみやった。

 千日一歩の修行中? それがどんなものかは知らないけれど、彼は一貫して、みずからを修行者だと名乗っている。ということは、教会から正式に派遣されてきた神父ではないのだろう。ならいずれ、ここを去る。にもかかわらずこんなことをして、人々に幻の希望を抱かせているのだ。そう思うと、また怒りがこみ上げてきた。

 彼女の心中を知ってか知らずか、ニコルはにこにこと笑んだまま、じっとこちらを見つめている。どうやら彼女の名乗りを聞くまで、先へとさすすむ気はないようなので、ベルチェシカはしぶしぶ口をひらいた。

「ベルチェシカ・シルバスタです」

「よろしくベルチェシカ。···ベルチェとお呼びしても?」

「は?」

 ベルチェシカの怪訝そうな視線をうけ、ニコルは愉快そうに笑った。

「失礼。いけませんね。どうやら友人の癖がうつってしまったようだ。お気にさわったのなら謝ります」

「いえ、べつに」

 どうもながい名前は苦手らしくて、勝手にちぢめてよぶヒトでしてね。まぁ、まだお子様ですし。そういってニコルはまた愉快そうにふくみ笑いをみせた。

 なんなのだろう、この人は。ベルチェシカほ完全に面食らっていた。これまで会った僧侶と名乗るものは、みな親切ではあったが、真面目でよけいな無駄口をきくことはなかった。話していて楽しいブラザーは何人かいたが、それも自分がまだ幼かったからそう感じていただけで、ここまでくだけた態度をとる人も皆無だった。これがひろい世間をわたり歩いてきた僧の在り様というものなのだろうか。いや、どうもそういったことでもないような···。この男には、まだなにか別のものがある。

 気をとり直してベルチェシカは話をきりだした。

「いったいどういうつもりですか。貴方はここを潰すつもりでか」

「おや、これは物騒な。貴女にはもっと喜んでもらえると思ったんですけどね」

「わからないの?」ベルチェは立ち上がっていった。「どんな連中を相手にしているか、貴方はわかっていないでしょ。どうせすぐ出ていくくせに、下手な希望でみんなを惑わせないで! アイツらは平気で人を殺す! ここを襲うくらいわけない連中なのよ?」

 ニコルは腹のうえで指をくみ、ふかぶかと椅子に背をあずけた。

「ふぅむ、なるほど。予想はしていましたが、ハッキリしたところがわかったのは幸いです。感謝しますよ」

「貴方······冗談のつもり?」

「そんなことよりも」ニコルはゆっくりと立ちあがって、衣掛けから帽子をとりあげ、頭にひょいと乗せた。

「貴女にはもっと心配することがありますよ。よければ──いえ、ぜひ私と来なさい」




 夜のとばりが降りるなか、ニコルがベルチェをともなって訪れたのは、町の中心にちかい二階建ての住居だった。小ぢんまりとした間口の戸を杖でノックするニコルの説明をきくまでもなく、彼女にはここがどこだかわかっていた。

 ふたりが訪れたのは、真人の使徒の院にかよってきていた、不治の病を患った元炭鉱夫の家だった。

 ながいあいだ、石のごく微少な粉末や暗くわるい空気のなかで過ごすことで眼球の表面に傷ができ、視界の焦点がぼやけたり、ゆがんで見えたりする病で、ここいらでは炭鉱がくれと呼ばれている症状だ。いまのままであれば、いずれ光を失う。

 ベルチェも何度か診察したが、痛み止めの薬草と活力回復くらいしか手がなかった。自分がもっと、ちゃんと癒しの術を学んでいたならばと思った症状のひとつである。

 そんな患者をベッドに座らせ、ニコルはてきぱきとなにかの準備を進めている。あれは回復効果をはやめる薬草だが、もうひとつのはなんだろう。見たこともない種類のものだ。それをさきの草と一緒に、院からもってきた器具のなかで煮出し、そのうえに置かれたふたの中央からしたたった蒸気の水を、真ん中につっった小瓶に溜めていく。

 やがて六分ほどになった頃、瓶のふたをとじると、患者の背にまわって活力上昇の術をかけた。その手腕も見事で、すらすらとよどみなく組まれた言霊(ことだま)に霊力が即座に反応し、つよく温かな光がひろがった。

 それが終わると、ニコルはベルチェに布を患者の目の下にあてがってもっておくよう頼み、小瓶から細心の注意をはらいつつ、わずかに患者の目におとし、合図するまでまぶたを閉じておくようにいった。ややあって合図があると、その眼からややとろみがある涙が流れだした。そんなことを二、三回繰り返す。

 ベルチェは目をみはってその光景を見守った。いったいこれは何なのだろう。いままで、治療の方法といえば、慈愛の奇蹟しか自分の頭になかった。それしか頼る術はないと思っていたからだ。だがこの男のとった手法はまるでちがう。これはいったいなに?

 すっかり楽になったようにベッドに仰向けになった患者の家族に、ニコルはまくっていた袖をもどしながらいった。

「これからできる限り、この薬草を煮出した蒸気で部屋を満たして生活してください。毎日二回はこの小瓶のなかのもので、いまのようにして目を洗うこと。薬草はおおめにおいていきますから、なくなったらまた報せてください」

 ではお大事に。そうあいさつしてニコルとベルチェは患者の宅を辞した。明かりもまばらな暗い石畳の道を歩きながら、ベルチェは思いきってたずねてみた。

「さっきの···あれはいったい」

「さっきの?」

ニコルはすこし考えるような素振りをみせた。

「ああ、あの薬草ですか。あれは蛍霜(けいそう)草というんです。こまかな水粒を多量にふくむ薬草で、熱してやるとたくわえた水粒を放出します。この水粒には草の薬草効果が凝縮されていて、それで眼の玉を洗浄したので、とりあえず彼の視界はととのってくると思いますよ。まあ、ついてしまった傷がふさがるまではまだしばらく──」

「そうではなくて」

 ベルチェは足をとめて、キッとニコルに真剣な瞳をむけた。

「私···あんな方法があるなんて知らなかった。もちろん、慈愛の奇蹟そのものもハンパなのはわかってます。でも私とちがって貴方は術を使いこなせるのに、それに頼ってはいない。なぜ?」

ニコルはなるほどと笑んだ。

「···さっき私がみせた施術ですか。あれは、医術、という手法を私なりに応用したものです」

「医術?」

 聞いたこともない言葉だ。いったいそれは何だろう。

「私の故郷で発展しつつあるものですが······まあ、ご存じなくても無理はありません。民間には、まず出回らないものですから。···カドヴァリスという国の名は知っていますか?」

 ベルチェはうなずいてみせた。地図のうえで名前くらいは見たことがある。たしか、なんらかの高度な技術を輸出したりしている、貴族や金持ち御用達の国だとか。その技術とやらが、彼のいう医術というものなのだろうか。

 ニコルはフッと、すこし寂しげな表情をみせた。

「そうですね。まぁ、話は修道院に帰ってからにしましょうか。だいぶ冷えてきましたしね」




 気をきかせた管理人が暖めておいてくれた台所で、ふたりはあらためて向かいあって座った。

「まず、貴女のところの院長にもいったのですが、私はなにも、貴女達のやっていることをすべて否定しようという気はありません。むしろ私の理想は、一家にひとり、慈愛の奇蹟をつかえる人がいるくらいの世界なのです」

 ベルチェは目を丸くした。とても現役の僧侶からでる言葉とは思えない。公の場でいおうものなら、ただちに異端審問の場へ連行されるほどのものである。というか、この人はほんとうに本物の僧侶なのだろうか。

「でも、それじゃ」

「教会への信仰が揺らぐ、ですか」

 言いよどんでいたことを当てられてベルチェはドキッとした。でも確かにそうなるのではないか。彼のいうそんな世界になれば、まず教会へ足をむける人は減るだろう。哀しいが、その事実はこの町のいまが如実に物語っている。

 ニコルはうなずいて続けた。

「確かに。教会を頼る人は減る···かもしれない。しかしそれでも、神への信仰と、人々の健康をまもる力はきり離されてあるべきだと、私は考えます。けっしてそれが、真の救いを求める人々から教会を奪うことにはなり得ません。貴女のようにね」

 ニコルはパチリと音をたてた暖炉の炎を眩しそうにみつめた。

「私がそう思うようになったのは、故国カドヴァリスで、医術というものの存在を知ってからでした···」



 私はもとの名をニコラレッティ・スレッジといい、医療技術を売りとするカドヴァリスの貴族の長男として生まれました。まぁ、貴族といっても、私の家は家格でいえば下の下。暮らしむきも下流の農家と同程度の暮らしぶりでした。

 そんな暮らしのなか、私は家の期待を背負っていました。これでも地元では、秀才といわれるほどではあったのですよ。

 私は医術をあつかう医師になりたかった。なに、理由はごく不純なものです。こまっている人々をたすけ、みなの尊敬を勝ちえて、しかも家のためにもなる。素晴らしい職業だ。そう思っていました、当時はね。

 だがすぐに現実を思い知らされました。貴女も知るとおり、この世界は身分の高低によって人生が左右される。カドヴァリスという国はたしかに優れた医術を獲得していました。しかしそれは、一部の特権貴族や大商人のみが受けられる恩恵で、とてもあまねく人を救う、というようなものではなかった。しかもその技術を、国は外交の武器としていた。つまりは、他国へ輸出する商品にしていたのです。

 とうぜん、その国の最重要学問をおさめられる者は限られてくる。そのおおくの席を代々医師をつとめてきた特権貴族たちが独占していた。貴族の末席にすぎない私がどれほど勉学ができたところで、しょせん開かれる道ではなかったのです。

 私は考えました。どうすれば苦しむ人々を救う道へ進めるだろうか、と。そう、いつの間にか、私の目的は偉くなることではなく、人を助けたいということに変わっていました。ひょっとすると、私を認めなかった上の連中にたいしての反発もあったかもしれません。

 私は決心し、家を出て僧になることにしました。家から僧侶が出たということは、これは浮世の権力にとらわれることのない名誉です。両親はとくに反対もしませんでしたし、幸いにも私には弟も妹もおりましたので、家督は彼らにまかせて、私は修道院に入り、ある高僧のもと、カノップスの名を授かったのです。

 それから三年、私は真摯(しんし)に修行にとりくみました。しかし励めば励むほど、私は目をそむけることが出来なくなっていった。教会も、我が母国とおなじ矛盾を抱えていた······。


「···それが、慈愛の奇蹟の独占」

 ニコルが喉の乾きを潤そうとミルク茶に口をつけたところで、ベルチェは息をつくように言葉をはさんだ。ニコルはうなずいた。

「いまもその考えは変わっていません。私はそのありようを善しとはしたくない。しかし、そういう自分もそんな矛盾のなかにいて、だからこそ人々への奉仕もできている。難しいものです」

 ベルチェは握った自分の拳をみつめた。よくわかる話だ。

「そんななか、セレスフィアの連合将士大学づき牧師のひとりに、私は抜擢された。元貴族ということで適任だと思われたようです。勉強もかねて、私はその任を拝領しました。まぁ、そこで思わぬ流れにひき込まれてしまい、いま現在もまきこまれっ放しなのですが······」

 なんだか繰り言みたいになってしまいましたね、すいません。ニコルは苦笑いして、夕食を煮込んでいる鍋の具合をみに席をたった。

「アイツらは」

 ベルチェはポツリと言葉をもらした。聴いているのかいないのか、ニコルはそのまま鍋のなかを木さじでかき回しはじめた。ベルチェはかまわず続けた。

「アイツらは真人の使徒と名乗っているけど、もとは···ううん、いまも盗賊です。数年前までは各地を荒らしまわっていた。でもお上の追及がきびしくなってきて一計を案じたんです。どこからか流れてきた元僧侶を称する男と結託して宗教団をたちあげ、それを隠れみのにして表では高利でもっともらしい治療をし、裏では盗みをつづけている。

 私はそんななかで育った。慈愛の奇蹟の基本は、こっそりここで学んでいたので、彼らにとって、私は都合のいい子供だったんです······」

 逃げたら殺される。そうでなくとも、盗賊の一味であったことが知られれば命はない。いつの間にか、ただ生き残ることだけしか頭になくなって、私は悪事に手を染めてきた。

 語っているうちに、なんだかひどく惨めな気持ちになってきて、ベルチェは知らず、涙をこぼしていた。ニコルはただ背をむけたまま、鍋に薬味をかるく利かせると、ふたたび中をかき混ぜた。

「よいのではないでしょうか」

ベルチェは頭をあげ、ニコルの後頭部をみつめた。

「誰だって死にたくはありません」

 ニコルはたち上がると、ふたり分の皿を用意して、できあがった料理を手早くよそいはじめた。

「さ、完成です。今日はここで、食べておいきなさい。私の料理は定評があるのですよ?」





 この日以来、しだいにベルチェシカの足が修道院にむく回数が多くなっていった。そのほとんどが祈りや、歳をとった管理人の手伝いにあてられたが、ときには強引にニコルの補助をさせられたり、混んでいるときなどは、どうかすると彼女自身が治療にあたらされたりした。

 なんだか妙に嬉々として患者を診るニコルを遠目にながめながら、ベルチェシカば溜め息をついた。

 これでも大人の顔色をみることには長けているつもりだか、そろそろ見知って半月になるこの人のことは、いまだにその素顔のほんの一部すらも読みとれていない気がする。それとも、ほんとうはずっと単純な人なんだろうか。

 ベルチェはちかくで拭き掃除をしていた管理人に、なんとはなしに問いかけた。

「ねえ、管理人さん。あのニコルって人、いったいどういう人なんだろう」

「はて、熱心ないい修道士さんじゃないかね」老爺は手をやすめ、腰を伸ばしながら答えた。

「それはわかってるんだけど······」ベルチェ自身にも、どう言い表したらいいのかわからないのだか。「そういうんじゃなくて···ええと、なんていうか底がみえないっていうか······そう、そもそもあんな腕のたつ人が、いまさらその──千日一歩? の修行なんて必要あるのかなって」

 管理人は笑っていった。

「難しいことは私にゃわからんがね。まぁ、私にゃ、必要のあるなしで修行をしてるんじゃないように見えるがね、あの人は」

「管理人さんはなにか聞いてない?」

「そうさなぁ·········たしかいまはナントカという騎士隊の顧問をしているとかっていってたなァ」

 なるほど。ベルチェのなかに、やっとすこし得心が生まれた。だからなのか。あの人に、血生臭いことにたいして必要以上に怯むところがないのは。

 癒しの術を施すものとして、流血を目にすることはままあることだ。が、内にこもって勉強やら修行やらに凝りかたまった者は、神父や修道士であっても、そういった現場を毛嫌いする。でも彼にはそれがない。むしろ志のままに、その厳しい現実にたち向かってきたのだろう。

「熱心すぎたんだね、あの人も」

 ベルチェシカはそうつぶやいて椅子から立ちあがった。

「その騎士隊? ってなんて名前? 有名なの?」

「さぁてね。私ゃそんな剣呑な話は御免こうむりたい性分だから。たしか···アモーレだかアミメとかそんな感じの」

「──アミュレット騎士隊」

 そうそうそんな感じだった。そううなずく管理人の返事をよそに、ベルチェシカはまじまじとニコルを見つめた。

 自分たち、闇家業にいきるものにとっては、そこそこ有名な名前だ。国そのものにとらわれないおかしな騎士隊で、確かこの国も贔屓(ひいき)にしているとか。

 国家から個人までの依頼で動き、軍資の運搬から野良戦獣の駆逐までする何でも屋の武闘派。対ならず者専用のならず者集団。

 以前ウチの頭目も口にしていたことがある。俺達を潰しにくる奴等がいるとしたら、第一がこの国の警察軍。そして第二が、それに雇われたアミュレット騎士隊だと。

 ベルチェシカの心に、くらい恐れの陰がしみ出した。

······まさか、私たちを捕まえるための下見にきた······?





 ネダの町は、先史時代の戦乱の世に築かれた砦町をはじまりとしている。町の外周はぐるり石塀にかこまれて──もっとも、今はその跡をのこすのみのごく低いものにすぎないが──おり、その奥、一段とたかいところに、砦の遺跡群が風雪のなかとりのこされている。

 いま、ベルチェシカの足はそこに向いていた。あたりはすっかり日がしずみまっ暗で、手にもつカンテラの灯りだけがたよりだ。春とはいえ、夜の外気は、まだ中途半端に寒い。

 むかう先には、彼女が囲われている盗賊団がたむろしている。

 真人の使徒を名乗っている彼らだが、夜はみな、この砦へとひきあげて、そこで寝起きしていた。万一、警軍に攻めこまれても、ここならあるていどは時間を稼ぐことができる。その隙に散り散りになって、あらかじめうちあわせた場所に合流する。これまでもそうやって、いくども当局をまいては、しぶとく娑婆(しゃば)に居座ってきたのだった。当然そのために砦跡にも手を入れてあり、今やちょっとしたものとなっている。

 急勾配の山道を黙々とあるくうちに、ベルチェは砦の前までたどり着いた。ヒュイと指笛をふくと、見た目は以前と変わらないようにしかみえない砦の崩れかけた門のむこうから、見張りの手下がふたり、あらわれた。カンテラをかかげ、彼女の顔をまじまじと照らし、いいぞ行け、とだけいって、また夢中になっていた賭け事にもどった。

 ベルチェシカが補修された砦のうちを進んでやってきたのは、食堂となっている大広間だった。派手にやっているのか、なかの騒ぎがもれ聞こえてくる。まけぬよう力をいれてドンドンとノックをすると、ギッと音がして少しだけ扉がひらき、髭面の幹部のひとりが顔をのぞかせた。そうして彼女の顔を確認すると、

「お頭ァ。ベルの野郎が帰ってきやしてぜェ!」と奥にむかって声を張り上げた。そして顎だけしゃくって入れとうながし、扉を開けた。

 院長こと盗賊団の頭目は、いちばん奥の席で、おおいに呑んで、すでに上機嫌だった。膝にはひとり、女を乗せている。ネダの妖しげな宿のもので、この地にきてから頭目が気に入って傍においている女だ。たいてい仲間を何人か連れてきては、したたかに小金を稼いで帰っていく。なかなか抜け目のなさそうな女で、ベルチェは本能的に彼女を避けていた。いまも、どこか値踏みするような視線をこちらにむけて、口許にふくみ笑いを浮かべている。

「おう、ベル、帰ったか。まァ、こっちに来い」

 頭目は大声でいい、ベルチェを自分のもとに呼びよせた。そうしてベルチェにも盃をもたせ、まずは一杯、と手ずからドバドバと葡萄(ぶどう)酒をそそいだ。

 こんな機嫌のいい頭目を前にもし断ったりしたなら、またひどい折檻(せっかん)をうけてしまう。ベルチェシカはそれを一気に飲みほした。頭目はそれをみて、さらに機嫌を良くして大声で笑った。

「それで? どんな奴だ、あの野郎は。なにかわかったか?」

 ベルチェは盃をテーブルに戻すと、ややうつむきがちに、それでいてまわりの喧騒に負けないくらいの声で語った。

「名前は、ニコラレッティ・カノップス。ミロス神教の修行僧で、千日一歩とかいう修行の最中とか···」

「何だァ? その、千日ナンタラってのは」

「ええと···聞いた話によると千日の間、あちこちまわって修行するそうです。なんでも同じところにいられるのは、せいぜい一ヶ月だとか」

「ほぅ、そうかい」

 頭目は凄みのある笑いを口元に残しながら、思案気な顔で顎をさすった。

「あら、悪いカオ。お坊さんに手を出しちゃあ」

女がクスクスと笑いながらいった。頭目はガハハ、と大笑いした。

「なーに、かまいやしねェ! どうせこちとら、この世だけが天国よ。坊主を片付けたのだって初めてじゃねえ!」

 それは本当だ。彼らがエセ教義の教祖としてうやまう真人様は、すでにこの世にいない。数人に慈愛の奇蹟をおしえおわると、用済みとばかりに殺されてしまった。

「まァ、まだ手は出さねェさ、今のうちはな」

 頭目はニヤニヤ嗤うと、オイと、女達を人払いしておいて、チョイチョイと人差し指を動かした。ベルチェが歩みよると、彼は懐から一本の短刀をとり出した。

「コイツは毒焼きのナイフだ。俺の故郷につたわる毒が、たっぷりと焼きつけてある。誰がみても自然にくたばったように見える逸品よ。······もしヤロウが外へ報せをやったり、おかしなことを企んだら···お前がこれでヤロウを殺れ」

 ベルチェシカはひきつった顔で頭目を見返した。彼女の怯えた表情をみて、頭目は急に恐ろしい顔になり、いきなりグイと彼女を抱き寄せると、酒臭い息のかかる距離で睨みつけながら、それでいていやに優しい手つきでその髪を撫でた。

「なんのためにおまえの里帰りを許してやってると思ってる? その気になりゃ、あのクソ教会も町ごと潰したってかまいやしねえんだぜ? お前が大事にしているから、俺も手を出さないでいてやってるんだ。俺達の親心に、そろそろ応えてもらわねェとなぁ」

 真っ青な顔で、すこし震えてきたベルチェシカの頭をポンポンと叩くと、ナイフをそっとそのかじかむ手につかませた。






 翌日。ベルチェシカが教会を訪れると、ニコルは地下室でなにやらごそごそとやっていた。彼女があけ放たれたドアをコンコンとノックすると、ベルチェですか、どうぞ降りてきてくださいという声が、薄暗がりから聞こえてきた。

 ベルチェが階段を下りていくと、ニコルは、おおきな樽をカンテラの灯りの前まで転がしてきて、ふぅと息をふいた。

「いやはや、この院はほんとうに興味が尽きませんね。期待したとおりだ。知っていましたか? この院の石材はむかし──」

「それより、なんですか? それ」

 ベルチェはニコルが汗だくになって転がしてきた重そうな樽をまじまじとみた。

「ああ、これですか」

ニコルは額の汗を拭いながら、無邪気な笑みをひろげた。

「どうですか、これ。まだまだ使えますよ、たいしたものです。これならビールも造れそうですね」

「ビール?」ベルチェは思わず訊きかえした。「つくるの? ここでお酒を? 何のために?」

「もちろん売るのです。町の酒屋に相談したうえでね。この教会の収入源にもなって、町の名物にもなる···かもしれません。一石二鳥です」

 ベルチェはなかば呆れてわらった。

「面白いことを考えるんですね。教会でお酒を造ろうだなんて」

「おや、そうですか? 私のいた修道院でも葡萄酒やビールを造っていましたよ? この教会でも造っておられたんではないですかね。なんせ施設がこうしてあるのですから」

 ニコルはおどけたように肩をすくめる。そうして顎に手をあてて思案をはじめた。

「そう···ここいらではヤギも多いようですから、ヤギ乳のチーズをつくるというのもいいかもしれません。中庭には畑もおこせますし、ハーブ類を植えてみるのも面白い。肌の薬くらいなら自前でまかなえるかもしれません」

 なにやら楽しげに算段しはじめた彼を、ベルチェはじっとみつめた。

「どうして···そこまでするんですか······?」

 その語調にどこか落ちこんだ気配を感じて、ニコルは問いたげな顔をむけた。

「だって、貴方はあと十日たらずでこの町を発たねばならない。なのに、そんな何年も先のことを考える必要があるの? またもとの木阿弥になるかもしれないのに······」

 ニコルはささやかに笑んだ。すこし困った、というよりは自嘲するように。ひと息ついて、わずかにうつむきがちなベルチェをみつめた。

「そう···ですね。あと十日もないから──でしょうかね」

 顔をあげたベルチェに、ニコルはイタズラめいた笑みをみせた。

「これは、いってみれば私の趣味みたいなもので、こうしてなにかを生み出したり、道筋をつけたりするのが好きなんですよ。私が去った後、どうなっていくのかな、なんて考えるのが楽しいのです」

 彼の答えに、ベルチェは思わずふきだしてしまった。

「なんですか? その無責任な趣味は。迷惑です」

「まあ、そうかもですね。ですが無駄にはならないと思いますよ? この教会はこれからも残っていくのですから」

 でもここは、といいかけたベルチェを、ニコルはやんわりと制した。

「たとえ神父や牧師がいなくとも、神を信ずる人々がいる。それだけで教会は教会たりえるのではないでしょうか。私はここが、そういった人たちが寄りそえる場所になってくれれば嬉しいと思います。なぁに、今度は大丈夫ですよ。皆さんがきっと、この場所を護っていってくれます。なによりも貴女がいるのですから」

 ハッとして、ベルチェはニコルをみつめかえした。なぜだろう、この人は私の心中をどこまでも見抜いているというのだろうか。

 ニコルはふたたび、幼子を安心させるときのような笑顔をみせた。

「そうしていれば、いつか、物好きな私のような輩がやってきて、居ついてしまうかもしれません」




 夜。うすい月の光がわずかに辺りを照らすなか、教会はひっそりと静まり返っている。ニコルもとっくに眠りについているだろう。ベルチェシカはただひとり、祭壇にむかって祈りつづけた。

 これから自分がなすべきことはなんなのか。己の心に問いつづけた。いや、もうそれは決まっているのだ。ただ、そうすることが恐ろしい。怖くてたまらないだけなのだ。もちろん死も恐ろしい。だがそれよりも恐ろしいのは、そうすることによって、今度こそ自分は、二度と許されぬところへおち込んで、光をあおぐこともできなくなる···。それは、唯一自分をささえ続けてくださった御方の御手を手放すことであり、また裏切りであった。

 つまるところ、この問いかけは、その恐怖と向きあうためのものであるのだ。

 そう気づいた時、彼女の心の(もや)は、冴え冴えとした冷たい空気にふき流されるようにして去った。彼女はゆっくりと(まぶた)をひらく。その瞳は暗く哀しいほどに澄んでいた。



 けたたましい物音が、静寂をうち破る。不覚にもベルチェシカが水差しを倒してしまったせいで、相手の目が覚めてしまった。薄暗がりのなか、ベルチェは荒い息のまま、ナイフを握りなおし、ジリッと間を一歩詰める。

 ベッドからころげ落ち、壁際へと追いつめられた男は、彼女の鬼気迫る雰囲気にただならぬ覚悟を感じとって声をうわずらせた。

「待てベル! なんのつもりだ! てめェ、この俺を()ろうってのか!」

 答えるかわりに、ベルチェシカはまた一歩、間合いをつめる。頭はクソッタレが、と荒々しく吐き捨てた。

「てめェ、俺を殺って無事ですむと思ってんのか! 手下どもが黙っちゃいねえ! なんせ俺の金稼ぎのオツムがなきゃ、その日の飯にも食いっぱぐれるようなカスどもだ。てめェもだベル! 俺の保護があったから。いまもこうしていられるんだぜ? でなきゃあとっくに、連中のオモチャにされてたんだ! 連中はさぞ喜ぶだろうぜ? てめェをくぴる前に、さんざん可愛がってくれるだろうよ!」

 いっさい言葉を発することなく、ベルチェは切りかかった。頭は苦しい体勢のまま、それでもなお、太った身体に似合わぬ敏捷性でその刃をかいくぐった。彼を部屋の隅におい詰めたベルチェシカは、たかだかとナイフを振りかざし、ねらいをさだめる。

「このクソアマ······! かりにも親代わりを買ってでた俺によくもッ!」

「!」

振り下ろしかけたベルチェシカのナイフが、一瞬ひるんで止まった。頭はその隙を逃さず、手近にあった酒壷を投げつける。あっといってその壺からベルチェが顔をかばったのと同時にたち上がり、またたく間に彼女の両腕を抑えこむ。

()めやがって···! ハナは貴重な薬箱だったが、いまとなっちゃあてめェの代わりくらいいくらでもいるんだ! ブッ殺してやる!」

 力比べではとうてい勝ち目はない。頭は熊のような巨体と力で、ベルチェシカをグイグイとおしこんでくる。

 たまらずにベルチェは、頭の股間をおもいきり蹴りあげると、もしもの時のために開けていた窓から身を踊らせた。

 ドサリ。

 三階ほどの高さもあるところから草地に着地したと同時、彼女の左足に強烈な痛みがはしった。とても耐えがたい苦痛にベルチェはうずくまった。上では、頭がなにやら大声でわめいている。さわぎをききつけた手下どもが起きだして、追手と早変わりするのも時間の問題だ。

 逃げなければ! 一刻もはやく! ───でも、どこに?

 考えている暇はなかった。ベルチェは痛む足に無理やり力をいれ、歯を食いしばりながら、ただ一心に最初におもい浮かんだ場所へと走った。





 もう大丈夫。とりあえず、休むくらいはできるだろう。ベルチェは、じめじめとした石壁の暗がりで膝をかかえた。

 あれからはしってはしって走りぬいて、なんとか盗賊の追手よりはやく、ここに駆けこむことができた。ほんとうはあの男を手にかけたあと、警軍へ自首して盗賊団ごと道づれにしてやるつもりだった。けれどこの足では、それももう無理だ。もっと悪いことに頭はまだ生きていて、いまも自分を探しまわっている。

 口惜しい。ベルチェシカは足の痛みに、崩れるように身体をふせた。横むきになった頬に涙がつうっと伝った。さんざん覚悟をきめて、死ぬつもりでまでいたのに、目的は果たせなかった。それなのに怖くて怖くて、けっきょくはここに逃げこんで、こうして黙って隠れてまでいる。なんと自分は罪深いのだろう。神様がお見放しになるのも当然だ。

 泣きながらベルチェシカは、いつしか、朦朧(もうろう)とうつろう意識の渦にのまれ、気を失っていた。



 夢の中で、なにやら人が騒いでいるような、そんな声をきいた気がした。そのあと、誰かの足音がゆっくりと近づいてきて、静かに自分の身体が宙にういた。

ああ、自分はとうとう死ぬんだ。こんな私を、はたして神様はお召しになるのだろうか。ベルチェシカは白い世界にただよいながら、ただ、そんなことを思った。





 うっすらと瞼の奥にさしてくる光をかんじ、ベルチェシカは目を覚ました。いつの間にかベッドに寝ている。視界には見慣れた天井があった。まいにち朝がくるたびに、いつもいちばん最初に目にしていた、ふるくて(すす)だらけの、けれど不思議な温かみのある天井だ。

 ひょっとして、いままでのことは夢だったんじゃないのかしら。ベルチェシカはそう思って、ゆっくりと手をもち上げてみた。けれど目にうつった自分の手は、おもっていた幼子のものではなかった。

 大人とはいえないけれど、それでももう子供ともいえない、ほっそりとした指をもつ手。

 その瞬間、彼女の脳裏に昨夜の出来事が怒涛のようにおしよせた。握ったナイフのおもさ、頭のおそろしい形相、まるで破れそうなほどはやく脈うつ心臓。

あっと言ってベルチェシカは跳ね起きようとしたが、左足にはしる強烈な激痛に叫び声をあげ、ベッドに横たわって必死に声をおし殺した。

 ギィと扉のひらく音がして、誰かが部屋に入ってきた。

「おや、目が覚めましたか」

 すこし安堵したような声を出しながら、ニコルがなにやら器具と薬草をトレイにのせて入ってきた。そうして彼女の床のそぱまでやってくると、トレイを脇のテーブルにおき、なんの遠慮もなしにかかっていたシーツをめくり上げた。そうして、ベルチェの白い足に当ててあるそえ木の具合をたしかめた。

「······だいぶ無茶をしたようですね」

 ニコルはそれだけ言うと、チラリとテーブルに視線をはしらせる。そこにはトレイと一緒に、彼女がつかんだまま持ってきていたあのナイフが置かれていた。

「触ら···ないでください。それには毒が···」

「そうですか。わかりました。注意しましょう」

 ニコルは彼女の足に巻きつけていた湿布をかえはじめた。うながされて仰向けになる。右腕で表情を隠したまま、ベルチェは口をひらいた。

「······ごめんなさい。私···結局、ここしか頼れるところがなくて」

 ニコルは手を休めず、そうですか、とだけこたえて()(ばち)からおろした青味豊かな薬草を、新たな布へ塗りたくった。ベルチェはキッと口を結んだ。

「いえ、すいません。すぐ出ていきます」

「それはやめておいた方がいいと思いますよ」ニコルは飄々と、でもどこかたしなめるように言った。「どうも左足は骨が折れているようです。その痛みのせいで全身も熱をもってしまっていますしね」

 注意されて気づいた。そういえば身体が熱い。でも、と抗いかけたベルチェの言葉にかぶせるように、ニコルは会話をつなぐ。

「彼らならすでに来ましたよ。なんでも貴女が教団の金をもち逃げしたしたとか。必死に隠していましたが、そうとう怒らせたようですね」

「···つき出さなかったんですか」我ながら、ずるく、甘えた言葉だとベルチェは思った。

「貴女がきていることを知りませんでしたからね。どうせ言いがかりなのだろうとふんで、では家捜しでも何でもどうぞと言ってやりました。彼らも頑張っていましたが、地下室のことはわからなかったようですね。それにその時は、たまたま町のお偉いさん達と商談の最中でした。私の態度に不審なところはなし、お偉いさん達はいるしで、彼らもそれ以上はふみこめなかったようです」

 その後、もしやと勘づいて地下室におりてみて、倒れている貴女をみつけましたと、ニコルは話を結んだ。

「さ、これでいいでしょう。つぎは解熱と鎮痛です。これをのこさず飲んでください」

 うけとった苦い飲みものをのみ終えると、ベルチェはどっと疲れがぶりかえし、床のなかに沈みこんだ。なんだかとても身体がおもい。彼女はただ、ごめんなさい、ごめんなさいと、朦朧としながらくり返した。

ニコルはそっとシーツをなおすと、濡れた布巾で彼女の額の汗を拭いてやった。

「とにかくいまは眠りなさい。あとのことは、それから考えればいいのです」

彼の声が、どこか遠くのほうできこえた。






 それから七日間が過ぎた。あれ以来、真人の使徒たちに動きはない。五日が過ぎる頃にはベルチェシカの熱もさがり、ニコルの治療と杖に頼りながらではあるが、あるきまわれるくらいには回復した。

 そうして、とうとうニコルがこの町に滞在する1ヶ月の期限が迫ってきた。この頃には、ニコルはきっちりと、町の商会や有力者たちと商談をまとめ、ビールやチーズといった、この教会の収入源となるであろう販路の確保に道筋をつけていた。秘伝の製造法や注意点などは、面倒をみたいと申し出てくれた信者たちにできるだけ教え、また覚え書きをつくって管理人にあずけた。

 気心のつうじた町人たちはみな、彼との別れを惜しみ、送別会を開きたいとまでいってくれた。いち修行僧でしかないニコルはとうぜん辞退したのだが、教会の庭をかりてお祭りがしたいのだと説かれ、またそれがよき前例になるのならとおもいなおし、ありがたく受けることにした。

 ひさしぶりの慶事に、町は浮きたち、華やぎを増していった。

 そして、とうとうニコルのネダ修道院最後の夜がやってきた。ニコルはいつものようにお休みをいって、早々に自室へとひっ込んだ。ベルチェシカは、いまや療養室となった昔なつかしい大部屋のベッドに身をあずけていた。

 実際、むかしも看護室であった部屋だが、自分たち孤児の寝起きをする部屋としても使われていた。そんな部屋にひとり眠るのは、すこし寂しさを感じる。

 明日にはニコルもこの町を離れる。自分はどうしよう。あれいらい頭たちはなにも動きをみせないが、あきらめたとはおもえない。自分はこの町にいるかぎり、いつさらわれて(なぶ)りものにされるかわからない。下手をすれば、彼がせっかくととのえてくれたこの教会再興の道筋を、すべてだいなしにしてしまうかもしれない。

 かといって、このまま警軍に出頭して、この身もろとも真人の使徒を滅ぼしてやろうという胆力も、いまさら起こらなかった。足を折ってしまったことで、すっかり気持ちが萎えてしまった。

 最初はこのまま、死んでもいいかなとおもった。この教会に帰ってこられただけで、もう充分だ。ここでさらわれるにせよ殺されるにせよ、一生を終えられるのなら、それも悪くないかな。そう思った。

 だが、それはやはり甘えでしかなかった。神様はそんなことを許さないだろうし、だいいち、みなし子となった自分を育ててくれた、かつてこの場につどった修道士や兄姉たちは許してくれないだろう。そういう思いが、一瞬頭をよぎり、彼女は考えをあらためた。

 とにかくどうなるにせよ、ここ以外のどこかでた。幸いまだ、肌身離さず持っている財布には路銀くらいはある。明日、ニコルが発つのを見送ったら、自分もここを去ろう。彼女はこっそりとつくった荷物のおかれたテーブルをみつめながら、いつしか眠りについていた。




 はじめ、ベルチェシカは異様な暑さで目を覚ました。起きてみると、そのためかシーツは床に落ちているし、全身もすこし汗ばんでいる。さっきまでうなされていた悪夢も、どうやら先行きの不安のせいだけではないようだ。なんだろう、この空気の熱さは。まるで夏のようだ。

 ベルチェシカは脇のテーブルに立てかけてあった杖をたぐりよせ、それをたよりに立ち上がった。

 ふと、なにか異質な音をきいたような気がした。だが音は小さく、あつい石壁にさえぎられてよくきき取れない。ただ、どうにも心がざわついた。

 彼女は壁際までヒョコヒョコ歩いていくと、外の物音を確かめるため壁に耳をつけようとして、その熱さにびっくりしてとびのき、あやうく転びそうになった。

 壁が熱い!

 手で触れられないほどではないにしろ、とにかく石の壁が熱をもつことじたいが異常だ。この向こうの中庭で、なにか異様なことがおこっているのは間違いない。

 不意にシュンと空気を裂くような音がして、なにか赤いものが明かりとりの窓から部屋のなかへとび込んできた。その赤いものは床におちたかと思うと、瞬く間にちかくちあったベッドに拡がっていくではないか。

 火だ! 彼女はようやく悟った。原因はいまみたとおりつけ火で、首謀者はいうまでもないだろう。

 考えをめぐらせる暇もなく、炎は尋常ではない速さでなけなしの家具やふるい絨毯(じゅうたん)へとひろがり、部屋は黒い煙と猛烈な熱につつまれた。

 ベルチェはあわてて杖をひろって扉を開け、部屋の外へと逃れた。だがそこもまた、すでに炎が支配するところとなっていた。床にはおなじく投げ込まれたのであろう、なにがしかのボロきれが火をまとっていくつも散乱している。壁からは、彼女自身が近所のお婆さんたちと一緒に準備した布飾りなどか、無惨にも途中からたち切られたまま、縁からゆっくりと炎に呑みこまれつつある。

 心臓がもの凄いはやさで脈うつのがわかる。ベルチェシカは無駄にぐるぐる急回転する頭で必死に考えをめぐらせた。

 逃げなければ! いや違う。ただちにニコルを起こさなければならない。それから鐘楼(しょうろう)にあがって鐘をつき、町の衆にこの危急を訴えるのだ!

 彼女が決心して二、三歩あるきだしたときだった。

 ゴ────ン、ゴ────ン、ゴ────ン。

 耳に心地よくひびく鐘の音が頭上からきこえた。ニコルだ。私よりはやくこの事態に気づき、おなじように動いたんだ。

 彼女は向かう先をかえ、鐘楼へとつづく階段へいそいだ。健康なときならなんでもない段差や傾斜も、いまのベルチェにはとても難儀な道であった。もう後のことなど考えてはいられない。ベルチェはかまわず杖をほうりだすと、片足とびで階段をのぼった。

 鐘楼のてっぺんについてすぐに、ざあっとした熱気が顔をうった。闇夜は一面赤くゆらめく炎に照らし出され、乱暴な熱と急な光によって、ベルチェは目を射られたようになった。涙がにじむ目をこすり、彼女は必死にニコルの姿をさがした。

 いた。鐘を突き終えたのか、めずらしく呆然としたように、眼下の惨状を見下ろしていた。

「なにやってるんです! 早く、はやく逃げないと···」

「···無駄です。すこしだけ気付くのが遅すぎました」悔しさのにじむ声が答えた。

「連中はご丁寧に油や焚き付けまで用意したようです」

「それだけじゃないわ! 療養室や廊下にも火を投げ込んでる!」

「牧師部屋もやられましたよ。もしかすると貴女を探しにきたあの折、なにか仕掛けていったか······いずれにせよ火の勢いが強すぎる。かりに炎をかいくぐれたとしても、おそらく犯人たちが周囲で見張っているでしょう。私ひとりでは、とても貴女をかついで逃げおおせることはできません」

「でも、じゃあ···!」

 ニコルは見上げてくるベルチェの瞳をまっすぐ見つめ、安心させるようにいつもの笑みをうかべた。

「耐えるしかない。さっき鐘を突きました。町の衆がこの大事に気づいて集まってくれれば連中も囲みをとくはずです」

 本当にそうだろうか。たとえ町の人々が集まってきてくれても、アイツらはひらきなおって人々を脅し、私たちが蒸し焼きになるまでうす笑いを浮かべて見物しているかもしれない。

「とにかく、このままここにいては、よくても窒息してしまいます。地下室へいきましょう。あそこなら熱がもっとも通りにくい」

失礼、とことわっておいて、ニコルはひょいとベルチェシカを背負うと、足早に地下室へとむかった。



 ベルチェシカを床に降ろすと、ニコルは階段にとってかえし、ドアを厳重に閉めた。

「ここなら火がおさまるまで時間が稼げるでしょう」

ベルチェを安心させるためにそうは言ったものの、彼には案ずるべきことがいくつもあった。

 この教会はとてもふるい建物で、おもな建材は石だ。石ゆえに焼失することはないだろうが、傷んだ箇所が熱でもろくなって崩落することはじゅうぶんにありえる。それに石というものは、いちど熱がはいってしまうと冷めにくい。出口の堅牢な金属扉が熱でゆがんでしまえばさらに脱出はむずかしくなり、言葉どおり蒸し殺されるか、熱せられた空気に喉を灼かれて窒息するはめになる。なにより酸素がもつかもわからないのだ。

「······賭けてみるしかないようだ」

 ニコルは地下室を歩きまわり、石の床に文字を描けそうなものを探した。鉄釘でもナイフでもいい。なにか石を傷つけてでも文字を描けるような物がなにかなければ···。

 幸運にも、かつて物品の勘定にでも使われていたのだろう、チョークのはいった箱が出てきた。ニコルはそこから二、三本とりだすと、地下室の床の、出来るだけ平らになった場所に長身の身をかがめて、なにやら描きはじめた。

「···なにやってるの」

 なかば覚悟し、死をうけいれはじめたベルチェシカは、ゆっくり瞼をひらいて、なにかを忙しく描きつけるニコルの様子をうかがった。

「──この教会は、とても歴史ある建築物だということは知っていましたか?」

「······ええ。先代様のころにそう聞いたわ」

ニコルはうなずく。

「では、その時代の教会の建材には、魔力をよく伝える特性のある石が使われていたのをご存じですか?」

「え」

 ベルチェはゆっくりと身を起こした。教会の建材に、よりによって魔力を伝えやすくする石をつかうなんて。そもそも、なぜそんなことをする理由があるのだろう。

「さあて。ひょっとしたら教会自体をトラップに、魔法で誘爆させる──なんて不埒な考えをした領主でもいたのかもしれませんか、おそらくはべつの理由です」

 まったくこの院は、もっと正当に評価されるべきです。ニコルは作業の手を休めることなく笑った。そうして床にそこそこの大きな円陣を描き上げると、額の汗をぬぐった。

「さ、これでいいでしょう。この方法は私だけでもできなくはないが、貴女にも手伝ってもらいますよ。事が収まったあと、貴女をおぶって歩けるだけの気力は残したいですからね」

「え···でも私はこの足じゃ」

「なぁに。ここににて私の背をささえてくれていればいいのです。いつもの治療をするときの要領でね。そうすれば私を伝ってこの──」

そういって彼は床に描いた円陣をさした。

「陣に貴女のぶんの魔力も伝わり、私の助けとなります」

「なっ!」

 ベルチェはおもわず前のめりになり、足の痛みに顔をゆがめた。

「なにを言っているの! 私に魔力なんて──そんなものがあるわけないじゃない!」

 そう、私たちがもちいているのは奇跡の術だ。神様から授かった神聖なものだ。そんな汚らわしいものとなんの関係がある。

 彼女の気持ちを察したニコルは、自分の配慮が足りなかったことに気づき、詫びた。

「すいません。すこし焦ってしまいましたね。···けっして、けっして貴女の信仰をおとしめようというのではないのですよ。言い方が悪かったですね。ただ、人は自分たちに都合のいいように言葉をおき換えがちです。私たちからすれば奇蹟だの霊力だのといったものは、魔導士たちにいわせれば簡単に回復魔法だと片付けられてしまう。ですがもとは同じ───」

そういってニコルは自分の胸のあたりに手をおいた。

「人の魂が導く力なのです」

 ベルチェは唖然として言葉を失くした。なんでこの人は、こんなもの凄い話をよりによってこんなときにさらりと話すのだろう。自分はすっかり、罰を受けいれ、天の裁きに甘んじようと覚悟していたというのに。

 ようは魂の在り様なのです。ニコルは蒸されはじめた空気に脂汗を浮かべながら、ゆっくりと言葉をつづけた。

「他者を助けたいと願えば聖人の行いとなり、人を害するために用いれば破壊者となる」

 ニコルはベルチェに背をむけると、円陣の前にひざまづいた。そうしてゆっくりと息をととのえ、祈るように集中した。

 ベルチェシカは見た。その身体から、うっすらと赤い光がたち昇っていく様を。まるで幻でもみているかのようだ。荘厳で美しい。

 ニコルは閉じていた瞼をあけていった。

「大切なのは、私たちの信じる神が、その御力を、人々を救う力として伝えてくださった、ということなのではないでしょうか。私はそう信じる! だから、私は神を信ずるのです」

 ベルチェシカはついに意を決して、ニコルのもとへ這っていき、なんとか座りなおして、その背に両の掌をそえた。ニコルはわずかに顔をかたむけてみせた。礼のつもりだろうか。

「···そうそう。我らが主がこの世界に御来臨なされた経緯についても、私なりの仮説があるのですが···ま、それはまたつぎの機会に」

 ベルチェシカは、すこし拗ねたように口元をゆがめ、とがめる目で彼をみた。これ以上、自分によけいなことを吹きこまないでほしい。ニコルはそんな様子にどこか満足げな笑みをみせ、また真顔となって前をむいた。

「いきますよ! 貴女は私を癒す要領で力をそそぎ続けてください。そうすればきっと大丈夫です!」

 ──そう、この教会にこめられた真の想い。戦火から逃れてきた人々を護りたいと願った先達が遺してくれた、その優しき知恵の結晶が、きっと私達をまもってくれるはずです!



 もしもこのとき、その光景を目の当たりにできる者がいたとしたら、さぞや心奪われたことだろう。

 はじめ、まるで蛍のように頼りのなかったその赤い光は、あとからあらわれた青い光とまざりあい、紫色へとうつろいながら徐々にその輝きと透明度をまし、まるで(かすみ)のように、あるいは水のように、床から柱から浸みだして、ゆったりとたゆたいながら教会内部を満たしていった。





 夜半、突然の鐘の音におどろき起きだした人々は、何事かと(ささや)きあった。そんななか、ひとりが教会のある方角の空が赤く染まっているのを発見し、みなにしらせた。

 しかも、異変はそれだけではない。地上のほうからも、なにやら紫色の茫洋とした光がたち昇り、まるでそれらがせめぎあってみえるのだと、彼はいった。

 町の衆は顔をみあわせ、これはなにかあったのだと、念のために手に手に武器になりそうなものをもって教会へとはせ参じた。そこで人々はみな、あっと目を見開き、そのままかたる言葉を失った。

 教会全体が紅い炎につつまれていた。

 中庭から屋根から鐘楼から、真っ赤に染まった焔が不気味にゆらめき、今しもいましも建物をのみ尽くさんとしている。

 そんななか、まるでそれに抗うように、教会そのものがなんともいえない優しげな紫色の光に包まれていた。地上から天へと昇る光の柱にもみえるそれは、あたりをつつむ炎とは対照的な、不思議なたゆたいで、人々の目を魅了した。

「おい、みろ! いたぞ!」

誰かが叫んだ。みんながその指さすほうをみると、なんとも間の抜けたことに、火をつけたとおぼしき犯人たちまでもが、この光景を唖然として眺めているではないか。

 みなわけがわからず混乱のうちに埋没したまま、捕まえる側も捕まる側も、ただ従属的にその使命にしたがった。そうしてまた、呆けたように炎と光のせめぎ合いを、ただ見つめた。

 完全に炎が鎮まるのに、それから一刻半ちかくかかった。いちはやく我にもどった誰かが消火すべきだと進言し、みなも、ただちに自分たちがなすべきことを思い出した。

 とりあえず、ひとりが地方警軍へしらせるためにとびだしていき、捕まえた犯人たちは縄でぐるぐる巻いて木にゆわえつけ、ふたりほどの見張りをおいた。そして後から集まってきた人々も手伝って、老若男女をとわず、必死のバケツリレーで、家畜用の水槽や噴水から桶にくんだ水をかけつづけた。

 それがどれほどの効果があったのかはわからない。だが、油やほかに糧となるものをあらかた食いつくした炎は、しだいにその勢いをおとろえさせ、ついに幾筋かの煙をのこして消えさった。その頃には、すでにうっすらと朝日がさしはじめていた。みんな、汗と煤にまみれてヘトヘトだった。

 ギィ──

 どこからともなく、ちいさく何かがきしむような音がきこえた。最初、空耳かとおもわれたそれは、二度三度とつづくうち、教会の正面の扉がなっているのだとわかった。人々は、まるで期待したなにかを待つように、ただじっと息を殺して、その扉をみつめていた。

 そのなかからひとりの少女を背負った修道僧が姿をあらわしたとき、観衆は歓喜の渦につつまれた。






 それから七日の後。

 町全体を見下ろせる丘に、ニコルの姿があった。かたわらには、ひとりの少女をともなっている。そよ風にゆれるフードの下からベルチェシカがからかうように言った。

「残念だったわね。送別会がおじゃんになって」

 あれから、ちょっと大変だった。やがて警軍が到着し、検証のために現場は封鎖された。

 町衆に捕らえられていた幾人かの盗賊団は、役所にしょっ引かれていった。頭やおもだった連中は、もう逃げ出しただろうが、これでインチキ教団まがいの悪事はもうできないだろう。

 町の人たちは、いったいどうやって助かったのかと興味津々であったが、それでもなにもきかず、ふたりをいたわってくれた。

 到着した警軍の指揮官もなかなかのおさめ上手とみえて、あえて町の衆のいるなかでふたりに聴きとり調査をし、一緒になって感嘆の声をあげた。

 ただひとつ、これだけはこっそりと、ニコルが伝えた。現場検証にたちあった際、彼は証拠のナイフをそっとさしだした。指揮官はそれを神妙な面持ちでうけとった。

「わかりました。亡くなってしまったのなら仕方ありませんな。できれば直接証言をききたかったところですが······。彼女が死に際にのこしたその証言とこのナイフは、証拠としてたしかに受けとりました。必ずや、この盗賊団を根絶やしにして御覧にいれます」

 ニコルは礼をいって別れた。



「この地方をぬけるまでは大人しくしていて下さいよ。なんせ貴女は殉教したことになっているのですから」

 ハァ。ベルチェシカは、もはや呆れつくした、といった気持ちをこめて溜め息をついてみせた。

「聖職者のくせに、とうとう嘘までついて、おまけに犯罪者までかばうなんて······とんだくされ坊主ね」

「嘘ではありませんよ。世俗の貴女、ベルチェシカ・シルバスタはたしかに死んだ。いまいるのは修道女のシスター・ベルチェシカですから」

 ベルチェはもう一度あきれたといったふうをよそおい、笑みを浮かべた。なにかが晴れたような、あたたかな微笑みだった。そうして、もう帰ってくることはないだろう故郷の町を、もういちど目にやきつけた。

 自首して、悪党として葬られることも考えた。けれど、そんな私を町の人たちは叱りつけて、止めてくれた。

 彼女が修道女となって、町を離れると決めたあと、警軍の許しをえて入った教会の聖堂で、管理人の老爺はそっと小袋を彼女にわたした。ベルチェはハッとしてそれをつき返そうとしたが、管理人はもううけとりはしなかった。

「いつかお前さんが旅立つときにわたそうと、ずっと思っとったんじゃ。なに、教会の修繕に必要ぶんは、ちゃーんといただいておる。幸いたいした被害じゃなかったし、それはそのあまりじゃ。持っていっとくれ」

「でも······」

「いいんじゃ。お前さんはじゅうぶん、ようやってくれた。本来はお前さんのぶんであるものを恩着せがましく手わたすのは情けないかぎりじゃが···それでもらワシも、町の衆も、せめてお前さんになにかしてやりたいのだよ。どうか持っていってくれんか。ニコル様にご迷惑をかけるわけにもいかんじゃろ?」

ベルチェシカは黙ったまま涙を浮かべた。それを大切につつむようにおしいただき、小さくうなずいた。


 のんきな様子で、ニコルは待ってくれている荷馬車のほうへ足をむけた。ベルチェシカも杖にすがりながら、もういちどだけ教会をみつめると、それにつづいた。

「それにかばうくらいは何でもありませんよ。なんせ貴女は、私のたいせつな一番弟子、ベルチェシカ・カノップスなのですからね」

「ハアッ?」

とたんベルチェは痛みに顔を引きつらせた。修道女になるとは決めたが、この人の弟子になるといったおぼえはない。

「だいいち、貴方···まだ神父じゃないじゃないの!」

「おや、言ってませんでしたかね?」

 ニコルは悪戯めいた笑みを背中ごしにみせると、懐から例の手帳をとりだして、最後のほうのページを開いた。そこにはネダ修道院の聖印と、ベルチェ自身の代筆による添え書きがある。

「私はすでに、神父を名乗るお許しじたいは得ているのですよ。試験はパスしていますし、実績はいわずもがなです。千日一歩の修行も今回で最後だったのです。こうしてホラ、しめくくりとなる御聖印もいただいたことですし」

そういってヒラヒラと、ベルチェの前で手帳をふってみせた。

「この······ッ!」

 ベルチェシカは真っ赤になって思わずニコルにつかみかかろうとしてよろめいた。それでもむくれっ面で彼を睨みつける。

 ニコルは珍しく、心底楽しいといった笑い声をあげた。そうして、ベルチェの後ろにまわり、その背中をせっつくようにやんわり押しだした。

「まあまあ。これから慈愛の奇蹟を、イチからキッチリと教えてさしあげますよ、実践形式でね。待遇は保証します」

そうして荷台に、まだ膨れている彼女を押しあげると、自分もその隅へよじのぼり、農夫に車を出してくれるよううながした。がたんと車がゆれて、ゆっくりと馬が歩を刻みだす。

 藁の車に埋もれながら、ニコルはおだやかな春霞の空をいく雲をながめた。

 自分が彼女をつれ帰ったら、隊長はどんな表情をみせてくれるだろう。どちらにせよ、効果的なちょっかいになることは間違いない。どんな反応をみせてくれるのか、いまからとても楽しみだ────





 蛇足を承知で、その後のことをすこし語ろう。

ニコルが連れかえったベルチェシカをみて、ラシャがはじめに放ったひと言はこれだった。

「なんなの! いったいなんなのキミは! こっちがさんざん神経けずってせっかく交渉をまとめてきたっていうのに、キミはなにやってくれてるの? 勝手に隊員増やしたうえに、その身分がもと盗賊? しかもなに籍まで入れちゃってるのさ!」

「いえ隊長。我々のカノップスという名は号であり、個人的な姓というわけではなく」

「知ってるよ! 知ってたよ! わかってるよね? 私がそんなことで怒ってるんじゃないことわかってるよね─────ッ!」

 悔しさのあまりわんわんと泣きだしたラシャを周囲の者がなだめ、ひとりニコルが満悦するといういつものくだりが繰りひろげられるなか、ベルチェシカは唖然としてこの光景を眺めていた。

「なんなのこのコ達。私はこの人についてきてホントに良かったの? というか、私はここにいて良いのかしら」

 おなじく、その様子を苦笑まじりに眺めていたドルマが、とくにこたえるでもなく言った。

「気にすんな。あのふたりはいつもあんなんだよ。まぁ、ようこそアミュレット騎士隊へ──ってことだろうぜ」

はぁとだけベルチェは答えて、ふたたびその光景に目をやった。

 いつのまにか、知らず知らず、彼女の口許に笑みがこぼれていた。

 なんでだろう。いまちょっとだけ、幼かった頃とおなじ香りをかいだような気がした。




 盗賊団の去ったネダの町は、あれからすこしずつ賑やかさを増しているらしい。

 ニコルとベルチェがおこなったあの守護の術は、ネダの奇蹟として神聖化され、敬虔な信徒のあいだで口伝えにひろまりつつある。それにつられ、かつてこの町を去った者や、隆盛に敏感な商人が集まりはじめているようた。

 焼き討ちに失敗した頭目たちは、あれからどこをどう逃げたのか、いまもって捕まってはいない。どうやら巧みに、当局の監視網をすり抜け続けているらしい。

 皮肉なことに、修繕された教会には、それを待っていたかのように後任の神父が派遣されてきた。歳の若い野心的なその神父は、この機を逃すまいと、教区の復興に積極的に動いているようだ。


 けれどもそれは、もうふたりにはまったく関係のない、べつの話である。


ここまでお読みいただき、まことにありがとうございました。

ということで、今回はニコル中心の話となりました。お楽しみいただけたなら幸いです。

もし、「よし、読んでみてやろう」という気になられましたなら、前出の「アミュレット騎士隊のニセモノ魔法剣士」ほかともあわせてご覧くださいませ。ポチポチとあがっておりますので。

それではかさねて、読んでくださって、まことにありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ