42.再び海へ
それは段々と雪が溶け始め、気温も徐々に上がり始めた冬の終わりの頃。
ティセとチーリと一緒になって私は今日の夕飯を作っていると、隣で食材を切っていたティセが、譫言のように何かを呟いている。
「おさ……かな……たい」
「ちょ、ティセ、どうしたの?」
「こわいです、ティセママの目が死んでいるのです」
それでも手の動きを止めずに機械的に食材を切っているティセ。しかしその瞳には光が宿っておらずなんとも恐ろしく見える。
というかチーリが怖がってるじゃないの、意識を取り戻させないと。
「ティセ、さっきから何ぶつぶつと呟いているの? そんな胡乱な状態で包丁使うのは危ないと思う」
ティセにそれとなく注意をしてみたけれど一向に改善する兆しが見えないまま相変わらず手だけを動かしている。
思わず途方に暮れてしまいそうだ。
「よし、決めたわ!」
とか思っていたら突然ティセが大声をあげた。
「ちょ、ティセ今度は何?」
「二人とも、明日は北の海まで行って魚を釣るわよ」
「あ、魚が食べたかっただけなんだね」
どうやらティセは魚を食べたかっただけのようだ。どうやら定期的に魚を食べたい衝動に駆られるらしい。なんなの、魚って定期的に摂取しないといけないタイプの食物なの?
「チーリもお魚さん食べるの好きですのでチーリも食べたいです」
横にいたチーリもほっぺたを押さえながらうっとりとした表情をしている。どうやらチーリも魚が食べたかったようだ。
というわけで、私たちは明日急遽北へ魚釣りをすることとなったのであった。
あ、でもそれなら……私はティセにあの提案をしてみた。
「ねぇティセ、折角だからこないだ見つけた自転車使ってみない? もう雪も大分溶けてるから乗れると思うよ」
「それもそうね。それじゃ明日は自転車で行くわよー」
初めて乗る自転車。私もちょっとだけ楽しみなのだった。
……そういえば、北の海といえば近くにある森には私と同じバンシーの少女が隠れ住んでいるんだった。
まだあそこに一人で隠れているのかな。それも気になるからティセたちが釣りをしている間確認してみよう。
******
……その翌日、自転車の前後に設置された子供用の席に私とチーリを乗せた自転車は無事に海までたどり着く事ができたので、ティセたちが魚釣りをしている間、私は前と同じように森の中に分け入ってバーシアに会いに行ってみることにした。
「というわけで、また来てみたんだけれど……どうしたのバーシア」
相変わらず森の中にバーシアは潜んでいた。だけれど当のバーシアはどこか疲れた顔をしている。
なんというか、私を含めてバンシーという妖精は基本的に顔色が悪いのだけれど、それでも今私の目の前にいるバーシアは同じバンシーである私から見ても顔色が一層悪かった。
流石に何かあったのではと思わざるを得ないわけで。
私が不思議にバーシアを窺っていると、その理由をポツリポツリとバーシアは語り始めた。
「えぇと、言っても意味がわからないと思うけれど……なんだか最近、近くの村から女の子がやってくるのよ。あたしと結婚したいとわめき立てる女の子が……」
「えーっと……」
おっと……何故だかイヤな汗が流れてきた。ここ最近の出来事で、どうも思い当たる節があったのだ。
それはリタキリアに住む、私に告白してきた茶髪の女の子。
もしかして、私が余計な助言をした事であの子がここまで……?
私がちょっと困りながら黙っていると、バーシアは言葉をつづけた。
「あたしね、シィには前に死ぬはずだった所を運良く生かしてもらったって言ったわよね。
あれね、正確に言うとあたしを討伐する為にやってきた聖女に向かって、バンシーとしての力を使って聖女を殺そうとしていたのよ。
だけど聖女には全くあたしの力が通じなくてあたしはもう打つ手がなくなってただ死ぬしかなかった。なのにその聖女は見逃してくれたの。
……普通、自分を殺そうとした相手なんて見逃すわけないわよね。だけどあの時の聖女は見逃してくれた」
そのバーシアの話を聞いたら、何故かティセの顔が浮かんだ。そういえば前に、私じゃないバンシーを討てなくて見逃したみたいな事を言ってたような……。
あれ、そうするともしかしてバーシアを見逃した聖女って……。いやいや、多分ただの偶然だろうし今はその事は関係ないはず。
では、何で急にその話を?
「そうだったんだ……でも、バーシアと結婚したいとわめきたてる女の子とその話に一体何の関係が?」
そう、大事なのはそこなのだ。
「それはね……その女の子、バンシーとしての力が全っ然通じないのよ。何あの子怖い……。まるであの時の聖女みたいで、だからその事が急に思い出されちゃったの」
「私としてはそう容易くバンシーの力を使おうとするバーシアの方が怖いよ」
もう誰とも関わりたくないと言いながら簡単にバンシーの力を使おうとするのは、これはもう討ってくれと言ってるようなものでは……。
そんな風に思えてしまう私だったけれど、それよりも今バーシアが話した聖女であるティセと同じくバンシーの力が通じない少女……もしかしてその少女にも聖女の力があるのでは……?
私が頭の中で逡巡をしているその時だった。突如バーシアの背後から大きな声が聞こえてきたのだ。
「バーシアちゃーん! どこー!」
「ひぃ、チハルの声がする」
その声を聞いた途端、バーシアは慌てふためき、すぐさまここから逃げようとしたけれど時すでに遅し。
そのチハルと呼ばれた少女は姿を現すとあっという間にバーシアを背後から抱きしめたのだ。
「バーシアちゃんみーーーつけたっ!! ぐへへ……」
「ひぃぃ……」
私の予想通り、その少女はリタキリアで私に告白してきた10歳ぐらいの茶髪の少女だった。
そして表情が変わりにくい事もあって普通ならば滅多に見られないはずのバンシーという種族の怯え顔も間近で見られた。なんだ、意外と表情豊かなんだバンシーって。自分じゃわかりづらかったけれどバーシアを見て初めて気がついたよ。
「あ! シィさま!」
しまった、私の存在もチハルに気づかれてしまった。
「えへへぇ、見てください。シィさまのお言葉通り、私の理想のバンシーを見つけられました。これからこのバーシアちゃんを調きょ……仲良しになりたいと思います!!!」
けしかけたのが私だと気がつくと、恨みがましく私を見つめるバーシア。
「チハルをけしかけたのはシィ、あなただったのね……恨むわ」
「ごめん、恨まないで」
いや、ほんとにごめん。でも私そんなつもりで言ったんじゃないから。そしてさっきチハルの口から『調教』という不穏な語句が出たような気がしたのは多分気のせい。私は何も聞いていない。
「でもほら、子供のすることだから……きっとそのうち飽きると……」
とりあえず私はこれ以上荒波を立てないように、場を執りなすようなことを言ってみたのだけれど……。
「あ! ちなみにですけど私16歳なのでもう子供じゃないですー!!」
「え、チハル16なの? 子供じゃないの? うそ……16……これで……?」
おそらく私と同じく10歳ぐらいの少女だと思っていたらしいバーシアは、チハルが16歳だと聞くや否や驚いたような顔をしてチハルの言葉を反芻していた。
……何故だろう、年齢と見た目が合っていないチハルからティセと同じ気配がする。
「さぁバーシアちゃん、私と一緒にいいことしようねぇ」
「いやぁぁあ、私は今を生かしてもらっただけで充分幸せだからほっといてぇええ」
「私と素敵な思い出づくりしようよぉおおお!!!」
良くない顔色をさらに悪くしたバーシアはチハルを振りほどくや否や、バンシーとは思えない早さで駆け出していった。そしてチハルも逃げるバーシアを追いかけていき、あっという間に2人の姿は見えなくなってしまった。
「……まるで嵐が起きたみたいだったね」
絶叫しながらいなくなってしまったバーシアだったけれど、同じバンシーだから私にはわかる。
いやいや言っていたバーシアが、実は内心チハルに想われて少しだけ嬉しく思っているって事が。
だって、さっきの光景はまるで私が今世で初めてティセと出逢った頃と重なって見えたもの。ちょっとチハルの愛情表現はティセ以上に過剰だとは思うけどね。
「あ、そろそろティセとチーリの所に戻らないと。心配してるかも」
ティセの事を考えた私は、既に長い間森の中にいた事に漸く気がつき、慌ててティセとチーリがいるはずの浜辺へと戻ったのだった。
******
「あ、シィちゃん戻ってきた!」
「おかえりなのですよシィおねぇちゃん」
「ただいまティセ、チーリ。ごめん、遅くなっちゃった」
私が森から2人が釣りをしていた浜辺まで戻ってくると、既に大量の魚を2人で釣り上げた後だった。そして、見慣れない物もその傍らに……。
「あれ、ティセ、その舟どうしたの?」
「あ、この舟はね、さっき海岸に打ち上げられていたのを見つけたのよ。壊れている様子もないから、今度この舟を使って舟釣りでもしてみようかなーって。
沖合だと釣れる魚も変わるからやってみたいなぁ……あ、でもあまり沖まで行っちゃうとすぐ国境だからそんなに遠くまでは行けないけれど」
「お舟に乗るの、チーリも楽しみです」
そんな風に話しながら顔を綻ばせ、まだ見ぬ未知の魚に想いを馳せるティセと舟に乗ること自体が楽しみなチーリ。
そんなティセとチーリを見ながら私はふと思った。
バンシーである私を好きになってしまった為に、少女の姿をした怪物を討てない役立たず聖女という扱いをされ、最終的には城から逃げる羽目になってしまったティセが見逃したチーリの母親であるリッチや私じゃないバンシーであるバーシア。
それが結果として私は、妹となるチーリと巡り会い、バーシアも生き存えられた事によって、チハルに出会えた。
……まぁ、まだバーシアとチハルの関係はまだまだではあるとは思うけれど、それでも、ティセ……いや、チセちゃんと前世の私が孤児院で出逢えたからこそ、この今があるんだと。
そんな風に考えていくと私は……。
前世でチセちゃんと出逢えてよかったって思えるようになったんだ。
そう思ってしまうと、私は自然と笑みがこぼれてしまうのであった。