快速ランナー――超足が速い人――
帰省の際の出来事だ。
俺は妻の運転する車の助手席に座っていた。
妻とは何気ない日常の会話を交わしていた。
ほとんど何の意識もなく。
既婚男性なら難なくこなせることを、そのときもやっていた。
そうしてぼんやりと窓の外を眺めていた。
不可思議なものが目に入ったのはその瞬間だ。
最初は目を疑ったさ。
とても信じられるようなことじゃない。
男が隣を走っていた。
車に乗っているわけじゃない。
文字通り、走っていた。
二本の足を交互に出して、地面を蹴っていた。
「おい」「何よ」「隣の車線、見てみろよ」「何だっていうの? 運転中に」
妻は運転には神経を使う、と常日頃口にしていた。
その割に口が回るものだとは思うが。
「ほら」「……何、あれ」「男だろ」「そりゃそうだけど……」
向けられる視線に気がついたのか、男はこちらへ顔を向けた。
ごく普通の男性だ。毎日の電車通勤中、何人もすれ違うような。
にこやかに笑顔を見せ、軽く手を振ってきた。
不気味なところは感じない。
これは怪談の類とも違うらしい。
高速道路で追っかけてくるおばあさんの話のような。
俺は窓を開けた。
妻が、え、と声をあげるのが聞こえた。
高速走行中だ。
当然、風の音が凄まじかった。
「やあ」と手をあげて俺が言う。
無論大声でだ。
「こんにちは」と相手が答えた。
話も通じる。
向こうも大声だ。
「だいぶ速いね」「そうなんですよ。自分でも驚いているぐらいで」「どうなってるの、それ」「実は、その……詳しくはいえないんです」
そこで会話がいったん止まる。
俺たちの車と男、しばらくの間、併走していた。
やがて俺たちのいる、追い越し車線を猛烈な勢いで迫る車があった。
妻がウィンカーを出し、速度を下げる。
男の後ろにつくような形になった。
男の足の動きは凄まじい。
ストライドは普通だ。
だが、回転が並じゃない。
というか、異様だ。
当然だ。百十キロは出ているのだから。
「おい」と俺は妻に言う。
すでに先ほどの車は男を追い越し、先へといっていた。
「もう一回並んでくれ」「どうしてよ。気味が悪い」「いいや、どうも悪い人じゃなさそうだ」
再び、追い越し車線へ戻る。
少し速度をあげ、男の隣へ。
「なあ、あんた」「やあ、何度も」「その秘密、教えてくれないか?」「いやあ……」「俺も足、早くなりたいんだ。夢なんだよ」
俺の足は遅かった。
あんな風に走れたら気持ちいいだろうと、何度も想像したことがある。
男が逡巡する。
やがて、口を開きかけた。
だが、「危ない!」。妻のその声が突然響く。
俺の視界にも入ってくる。
よそ見をしていた男の目の前に、大型トラックの後部コンテナがあった。
いつの間にやら追いついていたのだ。
男はバランスを崩した。
足をもつれさせるように、路肩の草むらの中へ飛び込んでいく姿が見えた。
「…………」「…………」「あの人、大丈夫かしら」「お前も、よそ見運転には気をつけろよ」
後で新聞等を確かめた。
その高速道路で、事故があったというものはなかった。
男は無事だったらしい。
転倒の原因を作ったも同然な俺は、それでほっとした。
しかし、やや残念だ。
あれほど速く走れる秘密が、もうすこしで聞くことが出来たのに。
惜しいことをした。