03/タイトルコール
着物姿の少女は、こんな世の中でもさすがに奇妙に映るのか、道行く人達の視線を一身に集めていたが、当人は微塵も興味がないようで、どこまでも堂々とした歩みをみせていた。
代わりに、彼女の保護者? なのかどうかはわからないが、八咫の方は凄く苛々している様子で、今にも暴言を吐きそうな空気である。
その刺々しさのおかげで、下手に声を掛けられたりする事もなかったが、トラブルがいつ発生するか気が気じゃない状況というのはそれだけで疲れるものだ。
「……あ、あの、異界に行くのはわかりましたけど、そこで何をするんですか?」
他人の眼が消え、訪れた沈黙の痛さに耐えられなくなったところで、春は躊躇いがちに訪ねた。
もちろん、訪ねた相手はまだ名前も知らない少女の方だ。
だが、言葉を返してきたのは意外な事に八咫だった。
「貴様は、今の世界をどの程度理解している?」
「どの程度って、まあ、学校の教科書に載ってる程度には、だと思いますけど」
「学校? …………あぁ、有象無象の溜まり場で使われているやつか。それで?」
具体的にどんな内容が記載されているのかと、八咫は冷たい眼差しで訊いてくる。
どうやら彼女は学校に通った事がないらしい。義務教育制度はまだ多くの場所で機能している筈なのだが、それが失われた場所で生活していたのか、或いは、義務なんて知った事かと拒絶していたのか。
(そっちの方があり得そ――)
そこで、思考が息切れする。
さっさと話せと、八咫の視線が人を刺せそうなくらいに研ぎ澄まされていたからだ。
「あー、ええと、あたしが知ってるのは、二十年前にこの世界が融けてしまったという事くらいです。異なる世界との間にあった境界が失われて、それぞれの世界にあった普遍的な常識……あたしたちの場合は科学とかなのかな、が崩壊して、わりかしなんでもありな世界になったとか、ならなかったとか」
我ながら酷い説明だと思うけれど、実際教科書にもこんな風にしか書かれていなかったはずだった。
要は、原因は殆どわかっていないけれど、とにかくそうなった、という結果だけが記載されていたのである。
「……座礁以外ありえないような浅さだな。携わっている者でこれか。五百の犠牲も納得だな」
いっそ憐れむように、八咫は言う。
その眼差しは今まで以上に蔑みに満ちていて、気持ちが悪いくらいの居心地の悪さをこちらに提供してくれていた。
「五百の犠牲? それって、どういう意味ですか?」
「ニュースも見ないのか?」
さすがに、そこまで言われたら春だって気付く。
というか今朝それに関する話題が出たばかりなのだから、気付かない方がどうかしていた。
「まさか、栃未の事を言っているんですか?」
五百人程度が暮らしていた栃未があった場所は今、灰色の大地になってしまっていた。
別の世界のどこかの土地が、栃未という孔を埋め合わせたのだ。
この世界ではよくあること。よくある、大きすぎる理不尽だ。それを回避する術なんて人類にはない。
ないと、春は思っていた。
だが、八咫は棘のついた声で断言する。
「あれは事前に回避できた。だが、貴様たちがそれを怠った」
「そんな事――」
「五年前まで、ここには公園があった」
春の声を遮って、足を止めた八咫が突然言った。
彼女の視線の先には、二十メートルはある高さで覆われた金属の柱のようなものがあった。
ここからでは見えないが、頭上にも蓋がされていて、ちょうどこの辺りの家一軒分が完全に隔離されている空間。
近場に住んでいる人間なら誰もが知っている、ある種の有名スポットだ。
八咫の言葉通り、そこには五年前まで公園があった。滑り台とブランコくらいしかない、さびれた公園だ。
遊び場として使っていた過去があるから、春は今でも当時の事を覚えていた。
「だが、今はもうどこにもない。別の世界の断片が挟まれてしまったからな。そして、そこで遊んでいた子供たちもまた、二度とここに戻ってくる事はない」
優しささえ滲ませた冷酷さで、八咫は言う。
「栃未の件では、たまたま居場所が特定できたようだが、失った土地は帰ってこない。別たれた者達も同様だろう。投票などと戯言を並べてはいるが、そんな予算が出るはずもないしな。それに、仮に出たとしても、実行までには時間がかかる。それまで帰還ルートが残っている保証もない。刻一刻と変化を遂げていく世界においてなお、地図すら買わない莫迦共にとっては、なおさらにな」
「地図……?」
……あぁ、そういうことかと、ここでようやく春は八咫の仕事を理解した。
この女は地図売りだ。
十年ほど前からちらほらと名前を聞くようになった稀有な職業。
大抵は風水紛いのぼったくり屋とも呼ばれているが、トラブルを起こすなという上の指示から見るに彼女は本物なんだろう。
まあ、本物と偽物の違いがなんなのかすら、春には判らないわけだが……。
「……だったら、どうして貴女はそれをしなかったんですか? それってつまり、貴女だったら栃未の人を助けられたってことでしょう?」
「私が行う理由がどこにある?」
嘲るように、八咫は答えた。
「理由って、そんなの――」
「市民を守るのは貴様らの義務だろう? 私は商品を売るだけだ。どのタイミングで何が起きるのか、どこから浸食が始まるのか、そういった予兆も載せた地図をな」
ポケットから煙草を取り出して、八咫は不機嫌そうに一服を済ませる。
それからこちらを見据えて、
「そもそも、警告はしていた。最低でも一月毎に地図は買っておけと。世界の変貌はそれほどまでに早いと。にも拘らず、それを無視し安全を蔑ろにしたクズ共が、今度は責任転嫁か? ……契約を続ける意向で来た狗だとばかり思っていたが、見当はずれだったか。もういい。消えろゴミ虫。目障りだ」
口にしていたタバコを春の足元に放り捨て、背を向けた。
不味い展開。このまま帰られたら、仕事は大失敗である。それに、そもそも彼女を非難する資格が自分にあっただろうか?
「……ごめんなさい。無責任な発言でした。私も、知らない他人の為にリスクなんて犯せないし、親身にもなれない。貴女に偉そうな事は言えるような人間じゃなかったです」
今朝のニュースの時、栃未の人たちに抱いた感情なんかを思い出しながら、春は頭を下げた。
そこに誠意を感じ取ってくれたかどうかは知らないが、立ち去ろうと踏み出しかけた八咫の足が止まる。
「……七百だ」
「え?」
「前任のクズが出した迷惑料込みで七百万」
振り返り、八咫は乾いた口調で言った。
唐突に思えた言葉に春は戸惑いしか返せない。
それを侮蔑するように、嫌味たらしくため息を一つついて、
「脳味噌が壊死でもしてるのか? 自分で判断できないならさっさと上にでも問い合わせろ。そんな知性すらないのか? 貴様は」
と、罵詈雑言を並べてきた。
さすがに苛立ちは湧いたが、ここで蒸し返すほど自分も莫迦じゃないと、春はいそいそと携帯を取り出して、八咫に背中を向けて上司である幹夫に掛けた。
三度ほどのコールを待って、電話が繋がる。
『まさかトラブルかぁ?』
開口一番、凄く嫌そうなトーンだった。
肯定するべきか否定するべきか少し迷いつつ、とりあえず春は小声で八咫の言葉を伝える。
すると幹夫は、安堵するような息を吐いて、
『あぁ、そうか、わかった。それでいいと伝えてくれ』
と、八咫の条件をあっさりと呑んだ。
「え? 本当にいいんですか? 七百万ですよ?」
春の年収の実に約二倍である。
『ドルじゃないんだろう? というか、円だよね?』
やや不安そうな、幹夫の声。
春は振り返り、躊躇いがちに八咫に訪ねた。
「え、ええと、円ですか?」
「ここは日本じゃなかったのか?」
よかった。どうやら円のようだ。
春は再び八咫に背中を向けて、小声で幹夫にその事実を伝えた。
『そうか、円か。なら、なんの問題もない。年間で八千四百万。それで市全体の安全がある程度保障されるんだ。安いもんだろう? というか、本当よくやってくれた。いやぁ、前任者はよっぽど顰蹙を買ったのか、一億支払えって言われていたからねぇ。――っと、さらに好都合な事に上司様が重役出勤してきたみたいだ。俺はその報告をするから、くれぐれもこのあともトラブルのないように頼むぞ。では、幸運を祈る』
携帯が切れる。
なんか色々と凄いお金の話が出たが、まあ、新人職員には縁遠い話である。
「その条件で構わないとの事です」
「当然だ」
吐き捨てるように言って、八咫は再び歩き出す。
着物の少女もその隣に並び、その少し後ろを春は追いかけた。
そして五分ほどの沈黙ののち、
「ここだな」
という呟きと共に、八咫は足を止めた。
彼女の視線の先にあったのは、なんの変哲もないただの一軒家――
「よく視てみろ」
「――え?」
その言葉を聞いた瞬間、二階建てのただの家だったはずのものは、この場にまったくそぐわない洋館へと姿を変えていた。
周りの家々もそうだ。塀に囲まれた洋館の庭に様変わりしている。
まるで白昼夢に襲われたような感覚。
「これって、どういう……」
「擬態していただけだ。こんなくだらないことでいちいち驚くな」
言って、八咫は正門の扉に手を伸ばした。
抵抗なく門が開かれる。
と同時に、クラシックな音楽が洋館の中から流れてきた。
「どうやら歓迎してくれるみたいだな、この世界は。……行くぞ、銃はすぐに撃てるようにしておけ」
初めて触れる、緊張感を湛えた八咫の声。
それだけでこの先がどれだけヤバいのか嫌というくらいに感じ取りながらも、春は表情を引き締め、二人に続いて館の中に足を踏み入れた。